『ウィキッド ふたりの魔女』 ©︎ Universal Studios. All Rights Reserved.
名作小説『オズの魔法使い』で少女ドロシーがオズの国に迷い込むずっと前に遡り、この国でもっとも嫌われた「悪い魔女」ともっとも愛された「善い魔女」の過去をふたりの視点から描いたミュージカル『ウィキッド』。これをジョン・M・チュウ監督が2部作で映画化した前編『ウィキッド ふたりの魔女』が現在公開中だ。「悪い魔女」ことエルファバをシンシア・エリヴォ、「善い魔女」ことグリンダをアリアナ・グランデが演じ、大きな話題となっている。本作について、現代魔女術を研究、アメリカやオーストラリアの魔女たちの世界をフィールドワークし、自身も現代魔女術を実践する筆者が論じる。【Tokyo Art Beat】
2025年3月7日、長く待ち望まれた映画『ウィキッド ふたりの魔女(Wicked)』が公開された。この作品は、グレゴリー・マグワイアの1995年の小説『ウィキッド 誰も知らない、もう一つのオズの物語』を原作とし、2003年に大ヒットしたブロードウェイミュージカルを映画化したものである。原作小説は、1900年に出版されたライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』の世界観を基に、「西の悪い魔女」とされるエルファバを主人公に据え、彼女の視点から物語を再構築する試みであった。
2003年10月30日にブロードウェイで初演されたミュージカル『ウィキッド』は、作曲家スティーヴン・シュワルツと脚本家ウィニー・ホルツマンによる共働から生まれた作品だ。「Defying Gravity(自由を求めて)」「I’m Not That Girl (私じゃない)」「For Good(あなたを忘れない)」といった心に残る楽曲の数々は、観客の心をとらえて離さない。このミュージカルは20年以上にわたり世界中の舞台で上演され続け、いまやブロードウェイを代表する作品のひとつとなっている。2024年の映画化にあたっては、オリジナルの脚本家ホルツマンも脚本に参加し、原作の世界観を大スクリーンに忠実に移し替えることに成功した。
この映画版『ウィキッド』では、エルファバをクィアを公表している実力派女優シンシア・エリヴォが、グリンダを10歳の頃から同役に憧れていたというアリアナ・グランデが演じている。さらに、ブロードウェイ版でグリンダとエルファバを演じたオリジナルキャストのクリスティン・チェノウェスとイディナ・メンゼルがカメオ出演するなど、ミュージカル『ウィキッド』のディープなファンを唸らせるスペシャルな共演も見どころだ。
映画の公開を楽しみにしていた私が劇場で目にしたのは、あの世界でもっとも有名な黒いとんがり帽子に長いマントをたなびかせ、箒にまたがって空を駆ける緑色の肌の魔女の姿。それはかつてない力強さで描かれ、涙が込み上げ、胸が熱くなる体験だった。魔女エルファバの孤高の力強さは、まさに圧巻としか言いようがない。
映画『ウィキッド』PART1を見終わった興奮冷め上がらない筆者とともに、19世紀から21世紀にかけての『オズの魔法使い』そして『ウィキッド』からみる魔女の表象の変化と歴史をひもとこう。
魔女のイメージは、時代とともに変容を遂げてきた。日本でも梨木香歩による『西の魔女が死んだ』や『魔女の宅急便』などの影響で「魔女に憧れていました!」なんていう人に出会ったりする。魔女はいつからか賢い女性のことを指すようになり、美しくなり、今日多くの女性をエンパワーメントするアイコンになった。「魔女」のほかに、このような強く独立した女性を表す言葉が存在しないからだろう。不思議ではないか? かつて、魔女であることは死刑につながるほど罪深いとされた時代があった。
この「憧れられる魔女」はいつどこからやって来たのか。この問いは本作のグリンダというキャラクターに深く関わっている。
「魔女」は歴史的には「他者」を定義し排除するための言葉だった。まさに、本作で描かれるエルファバのような人物に投げかけられる侮蔑的レッテルである。社会的規範から逸脱した女性たちに向けられた蔑称であり、害悪魔術(マレフィキウム)を行う者を元来指していた。中世後期から近世ヨーロッパにおいては、「悪魔学」という学問が発達し、悪魔や魔女がなんたるかを定義した。そもそも魔女はキリスト教圏以外の国にもいたし、古代からいたのだが、三角形の帽子をかぶった魔女が箒に乗って飛ぶイメージはこの時期に登場する。悪魔との契約やサバトといった悪魔崇拝と強固に結びつけられ、キリスト教文化圏ではいまなお邪悪な響きを持つ言葉だ。そして魔女というレッテルは当時の宗教的異端者、ユダヤ人やハンセン病の患者、身寄りのない孤独な物乞いの女性たちに貼られ、世界の終末を引き起こす反社会的存在として宣伝し、広められたいまでいうところの陰謀論である。魔女は「女性は罪深く、強欲で邪悪な存在」として数百年間広められ続けた女性恐怖のプロパガンダイメージでもあった。
だが、この言葉の意味は一枚岩的ではない。時代の流れとともに意味の転覆と再構築を経験してきた。19世紀のロマン主義における再解釈を経て、反抗精神を持ち、知恵と美しさを兼ね備えた女性という新たな意味合いが付与されたのである。魔女は逆さまの世界を志向する邪悪な存在から一転して、母性や自然との親和性を持つ存在としても考えられるようになった。またこの時代に「ファムファタール(運命の女)」という概念が台頭したことも注目に値する。この軌跡を辿るなら、現在開催中の「異端の奇才 ビアズリー展」に足を運ぶのも一考だろう。
魔女狩りによって無念にも残虐に火刑に処された無数の女性たちの姿に、19世紀以降の時代の人々の複雑な欲望が投影されていたのである。
大衆文化における魔女イメージの系譜を辿るうえで、1900年に出版され1939年に映画化された『オズの魔法使い』は避けては通れない作品である。この作品は「善い魔女」という概念をポップカルチャーにおそらく初めて登場させたエポックメイキング的作品だ。
「あなたは善い魔女? それとも悪い魔女?」
この問いかけに混乱するドロシーに対し、グリンダが「わたしも魔女なのよ」と応じる場面は、ポップカルチャーの中で「善い魔女」なる存在が初めて明示された瞬間である。
この革新的な魔女描写の背景には、原作者ライマン・フランク・ボームの義母であり、19世紀の急進的フェミニスト、マチルダ・ジョスリン・ゲイジの影響があると考えられている。
ゲイジは女性参政権運動の先駆者であり、スーザン・B・アンソニーやエリザベス・キャディ・スタントンとともに闘った活動家であった。彼女は政教分離、先住民の権利擁護、奴隷解放など様々な社会運動に関わり、現代の著名なフェミニストであるグロリア・スタイネムから「時代を先取りした女性たちを先取りした女性」と評された。
1893年にゲイジは『女性、教会、国家』を出版する。この中でゲイジは、キリスト教社会における女性の抑圧の歴史を検証し、魔女狩りに着目した。現在の最新の歴史学、魔女狩り研究から見れば、正確とは言い難い言説を少なからず含んでいるものの、女性として初めて教会と国家による女性の体系的な抑圧を鋭く批判した人物なのである。
1890年代、主流の女性参政権団体がより穏健な路線へと舵を切るなか、ゲイジはその急進性ゆえに歴史の陰に追いやられていった。女性参政権運動内部において、彼女はスーザン・B・アンソニーやエリザベス・キャディ・スタントンといったほかの著名な活動家たちと次第に相容れなくなってゆく。「教会と国家の結合は民主主義への脅威である」という信念を貫き、「教会による最大の組織的略奪は女性からの略奪である」という痛烈な批判は、当時あまりにも過激であり、結果として彼女の名は長らく主流の歴史叙述から排除されてきた。彼女の名前が残ったのは女性科学者・研究者の業績が過小評価され、その貢献が歴史から消去される現象を指す「マチルダ効果」である。この名称はゲイジからとられている。
ちなみに、彼女は神智学者でもあり、(神智学協会の設立者のひとりである)ヘレナ・P・ブラヴァツキーに共感を感じていたようだ。この時代、心霊主義や神智学に関わった女性たちのなかにはアニー・ベサントをはじめ、女性参政権運動に積極的に参加した人が少なくなかった。理由として、既存の一神教の宗教が男性中心であり、女性はつねに低い地位であったのに対し、神智学は女性の霊的指導者が創唱していたことがあげられる。霊媒や交霊術を楽しんでいた女性たちには男性と対等に会話する機会があり、この当時の流行自体が意識高揚グループのような役割を果たしていたのではないかと考えられている。彼女が霊的な実践にも関心があったことは興味深い。
なお、東京国立近代美術館で個展「ヒルマ・アフ・クリント展」が開催中のヒルマ・アフ・クリントも、19世紀末〜20世紀初頭当時、心霊主義と神智学に夢中になったアーティストである。5人でトランスワークを実践するグループを作り、ヴィジョンをスケッチするなど、その実践は意識高揚グループ的であり、今日の現代魔女術の実践にも通じるところがある。神智学や心霊主義が当時の女性たちや芸術に与えた影響を知るうえで、本展の鑑賞をおすすめしたい。
さて、『オズの魔法使い』の原作者ボームは義母であったゲイジの思想に影響を受け、『オズの魔法使い』に「善い魔女」を登場させたといわれている。さらに物語で重要な役割を果たす竜巻のアイデアも、ゲイジの提案から着想を得たとされている。ドロシー・ゲイルというキャラクターは、アメリカ文学においてもっとも初期の本格的な冒険をする女性キャラクターのひとりとして評価されているが、アメリカ文学史におけるこの新しい女性像の創出は、当時としては極めて革新的であった。ゲイジは娘のヘレン(原作者ライマン・フランク・ボームの妻)への手紙に「説教しようとすることなく、道徳を伴うフィクション」を作成するよう勧めたという逸話もある。
『オズの魔法使い』にはゲイジからボームが受け継いだ「『魔女』は邪悪なだけの存在ではない」というアイデアの断片が確かに埋め込まれていた。しかし皮肉なことに、この作品こそが緑の顔の三角帽子という、現代に至るまでもっとも強力な邪悪な魔女のステレオタイプ的イメージを世界中に広めることになったのである。
『ウィキッド』は、かつて名前が与えられなかった西の魔女にライマン・フランク・ボームの頭文字をとってエルファバという名前を与え、グリンダとの過去を描く。そのなかで次第に明かされていくエルファバの過去とグリンダとの友情。「あなたは善い魔女? それとも悪い魔女?」というかつてグリンダが放った問いに、より深みを与えられ、より複雑な魔女像を浮かび上がらせていく。
グレゴリー・マグワイアが『ウィキッド』を執筆するきっかけになったのは、1990年代初頭の湾岸戦争時の報道だった。彼はイギリスの新聞でサダム・フセイン大統領を「新たなヒトラー」と表現する見出しを目にし、この見出しに対する自分の感情的反応に気づいて、「ヒトラー」という言葉の使用がいかに強い影響力を持つか、「悪」のレッテルによって世論が操作される風潮に疑問を抱いた。
「人が本当に生まれつき悪いのかどうか」という問いに惹かれたマグワイアは、当初ヒトラー自身を題材に小説を書くことを検討したが、断念。代わりに着想を得たのが、『オズの魔法使い』の邪悪な西の魔女だった。誰もが彼女のことは知っていても、その背景は描かれていない——「見た目以上のものがあるはずだ」と考えたマグワイアは、この悪役に新たな人生を与える物語を書く決心をする。
マグワイア自身が「『ウィキッド』は『オズの魔法使い』のたんなる語り直しではなく、また、厳密には前日譚でもありません。それは、別の人生の別の物語です」と語るように、この作品は、『オズの魔法使い』とは別の作品であると考えたほうがよいだろう。原作の不可解な特徴—独裁的、操作的にも見える魔法使いへの抵抗の欠如、エメラルド・シティに対する違和感、魔女への関心の不在、「虹の彼方」への憧れを歌いながら危険な魔女や強力な暴君の支配する土地に流される少女の運命—にマグワイアは焦点を当て、アイデアを膨らませる。『オズの魔法使い』をまったく異なる視点から語ろうという動機から『ウィキッド』の種が生まれた。
『ウィキッド』の物語世界には様々な政治的寓話要素が織り込まれている。エルファバの「緑の肌」は「他者化」の寓話として読むことができ、マイノリティの孤独と疎外感を痛切に描く。
ウィキッドの世界では大干ばつに起因する社会不安が蔓延したという背景があり、言葉を話す動物たちが社会から排斥される様は、社会にとって都合の悪い少数者をスケープゴートに仕立て上げてきた歴史を寓話的に描いている。為政者が「公共の敵」を創り出し、彼らへの恐怖と敵意を煽ることで、支配層が統治の正当性を確立する様相は、現代社会における特定の属性の人々の排除のメカニズムを鋭く映し出すものだ。プロパガンダや弾圧、善悪が立場次第で反転しうる点を巧みに描き、この物語の鏡を通して、我々の生きる現実との対話を促している。
2020年のブロードウェイ・ワールドとのインタビューでマグワイアはこのように語っている。
「この戯曲と小説が問いかける道徳的問題は、1995年に出版されて以来、より切迫したものになった」「世界はより危険になり、専制政治はより明白になった。それは中東だけでなく、ヨーロッパ、そして我々の西半球においても同様だ。だから、この物語が25年前よりもいまの方がより切実になっていると考えると、私は衝撃を受け、悲しみを覚える。しかし、そうだと思うのだ」
『ウィキッド』は四半世紀を経て、今日においてより先鋭的な批評性を帯びている。
今回の『ウィキッド』PART1のクライマックスを飾る楽曲は「Defying Gravity(自由を求めて)」である。このシーンでエルファバが落下するなか、幼いころの自分の姿を一瞬見るシーンがあり、筆者は本当に胸が打たれたのだが、過去の自分の孤独や過去を受け入れるエルファバが遂に重力から解き放たれて飛行するシーンは深く感情を揺さぶられた。エルファバもグリンダも決して完璧でなく、不完全ながらも、お互いに出会ったことで友情、優しさ、自身の内側にある強さに気が付いて変化していく。この友情の物語に多くの人が勇気づけられるはずだ。
「魔女」という表象の歴史を辿ると、それはつねに政治的な意味合いを帯びてきたが、同時に女性たちをエンパワーメントしてきたシンボルでもあった。
1964年に放映を開始したドラマ『奥様は魔女』は本当は力を持った魔女であるサマンサが、人間と結婚し、家庭の中で力を隠しながらドタバタを演じるコメディであった。潜在的な女性の力と当時の家父長制的価値観との緊張関係を描き、当時の第二波フェミニズムの高まりと共振した。
1968年にウォール街に現れたラディカルフェミニストのパフォーマンス集団W.I.T.C.H. (Women's International Terrorist Conspiracy from Hell)は「魔女とは、グルーヴィーで、勇敢で、攻撃的で、知的で、型にはまらず、探求的で、好奇心旺盛で、自立し、性において解放され、革命的である女性たち。」だと宣言する。
日本のアーティスト、オノ・ヨーコも1974年に「Yes, I'm a Witch」を発表した先駆者のひとりであった。「そうよ、私は魔女、私は嫌な女、 あなたが何を言おうと気にしない、私の声は本物、私の声は真実、あなたのやり方には馴染まない、私はあなたのために死んだりしない、もう現実を受け入れたらどう?、私はここにいる。」当時、激しい嫌がらせを受けていたオノ・ヨーコもまた、ユーモラスに魔女だと宣言することで自己を肯定する。
この当時、アメリカ西海岸における現代魔女術の世界ではフェミニスト魔女たちがカヴン(魔女の集まり、グループ)を作ったり、儀式や魔術を行うことは意識高揚グループの実践であった。60年代のこうした実践は、閉じた少人数のグループ内で女性たちが自分たちについて言葉を述べるなかで「個人的なことは社会的なことである」と気づいたのである。この実践は女性たちを内側から変化させていった。
フェミニズムと魔女が邂逅する系譜は60年代後半に突然始まったものではなく、説明したように『オズの魔法使い』のグリンダのモデルとなった女性、マチルダ・ジョスリン・ゲイジから受け継がれ、グリンダという「善い魔女」が生まれ、1939年に映画として世に出たところがひとつのターニングポイントだった。この作品が不朽の名作として多くの人々に受け入れられ「魔女は邪悪なやつだけではない」というイメージが流布された影響はとても大きかったのでは無いかと筆者は考えている。筆者の研究する現代魔女文化の領域では、1950年代から自ら魔女を名乗ることによる「魔女=邪悪」というステレオタイプのイメージの書き換えが試みられてきたが、『オズの魔法使い』のグリンダのほうが10年以上も先であるし、60年代後半から出てくるフェミニスト魔女たちの問題意識はマチルダ・ジョスリン・ゲイジと共通している。『オズの魔法使い』は魔女のイメージに多大な変化をもたらした。そして本作『ウィキッド』はそれをさらに拡張する。
1980年代にエイズの蔓延に伴う同性愛者への差別に抗する動きが生じたとき、魔女たちの一部は連帯を表明した。また、冷戦の緊張が高まるなかでエコロジー思想や欧米の反核運動に関わった魔女たちもいた。この時代、魔女は、フェミニズムの象徴にとどまらない、より広い意味での抵抗の表象へと変容を遂げていったのだ。
本作『ウィキッド』はクィア・リーディングがよくされている作品だ。エルファバの「緑の肌」に、様々な少数者たちが感じている周りと違うことで馴染めない事への諦観、孤独が投影される。いつでも世界の隅っこで同じような経験をしたことがある人やつまはじきにされている人たちが、周縁に追いやられた「魔女」というアイコンに心を寄せて集まってくるのかもしれない。
エルファバのもうひとつの面白い設定は、人間の親に愛されず、動物の乳母に育てられたということだ。これが後に迫害されるヤギのディラモンド教授と心を通わせる展開につながるのだが、自分も差別されてるがゆえの、立場の弱い者たちへの共感力が彼女の後の行動を大きく左右することになる。
このように、魔女を抑圧に抗うレジスタンスに見立てたイメージは様々な領域で繰り返し表現された。
2010年代以降には『マレフィセント』『ホーカスポーカス2』といったヴィランを語りなおす作品たちが再び注目を浴びた。『ウィキッド』の原作も、90年代ヴィラン・ナラティヴの隆盛期に生まれた作品だったが、この作品がスクリーンで上映され、さらに人々の心の中の魔女のイメージを書き換えていくことは刺激的である。
『ウィキッド』は、善い魔女、悪い魔女といった単純な対立に陥らず、勧善懲悪ではない複雑な物語を描き出す。
エルファバは迷いや孤独、疎外感を抱えた複雑なアンチヒロインであり、その内面は怒りや葛藤に満ちている。「単純なバッドウィッチもグッドウィッチもいない」という本作のメッセージは、歴史が為政者によって語られるなかで消されていく声を反映している。『ウィキッド』は魔女という表象を通して、私たちに社会の複雑さに目を凝らすように、寓話を通して気が付く機会を提供しているのだ。それと同時に『ウィキッド』はそのままの自分を受け入れていく変容の物語でもある。まだ見てない人はぜひ劇場に行って世界の見え方を変えてくれるこのマジックを体験してみてほしい。
映画『ウィキッド ふたりの魔女』
3月7日より全国公開
監督:ジョン・M・チュウ
出演:シンシア・エリヴォ、アリアナ・グランデほか
2024年製作/161分/G/アメリカ
配給:東宝東和