DIC川村記念美術館 200室 撮影:高橋マナミ
2025年3月31日、多くの人々に惜しまれながら、DIC川村記念美術館が千葉県佐倉市での35年余りの活動に終止符を打った。
同館が川村記念美術館として開館したのは、1990年5月2日。ゴールデンウィークの真っ只中だったからか、はたまた大手新聞の一面を使って派手に広告を出したからなのか、「1日100人くらい来ればいいよ」という、初代館長で大日本インキ化学工業株式会社(現・DIC株式会社)の相談役だった川村勝巳氏の思惑は大きく外れ、地元から700人超がつめかけた。物見遊山に来た人も多かったのだろう。なにせ、千葉市街から車で小一時間、田畑が一面に広がるなか、突如として世界に誇る20世紀西洋美術の名作が見られる美術館ができたのだから。ルノワールやモネ、ピカソ、シャガールなどが並ぶ最初の展示室で、「ここにある絵はすべて本物なのですか?」と真顔で聞かれることも1度や2度ではなかった。
振り返れば、開館当初は職員全員が“ずぶの素人”だった。美術館で働いた経験のある者はほぼゼロ。美術館の大義はおろか、現場がどういうものかもまったくわからぬまま、みなが目の前で起こる出来事に必死に、ただ誠実に対応するしかなかった。しかしだからこそ、既成概念に囚われることなく、まあやってみようじゃないかと、どんなことでも無謀な挑戦と厭わずに取り組めたのではないかと思う。
たとえば、開館以来、毎日欠かさず午後2時から行われてきた無料のガイドツアー。1989年の広島市現代美術館の開館に続き、90年代前半には水戸芸術館、東京都現代美術館、豊田市美術館などが次々にオープンして、現代美術に触れる機会は格段に増えたものの、毎日ガイドツアーを実施している美術館はほかにはなかった。後に、このガイドツアーはDIC川村記念美術館の顔のひとつになったが、戦略的に組み込まれて始まった教育プログラムではなく、開館直後に次々来訪する関係者を学芸員が案内しているとたちまち一般客に周りを取り囲まれてしまうという事態が起こり、そこから発案されて自然に定着したサービスだった。また同館は、キャプション以外の作品情報や解説をほとんど館内に掲示しないという方針を最後まで貫いたが、これもガイドツアーがあったからこそ。つまり、美術初心者には美術史の知識を得ながら作品を楽しむ糸口を掴めるようガイドツアーを用意しながら、基本姿勢としては、展示室から文字情報をできるだけ排除して、来館者が作品とじっくり向き合い対話できる鑑賞環境を整えておくことを重んじたのである。
他館と異なる点はほかにもあった。“西の大原、東の川村”と呼ばれるように美術館を育てていこうという思いから、コレクションによる常設展示を通年で行う方針で開館したことだ。一方、開館してみると、多くの人にとって美術館はイベント会場と同じで一度訪れられればじゅうぶん、同じ作品を何度も繰り返して見に行く習慣はなく、入館者数が徐々に減っていく事実にすぐに直面した。そこで翌春にフランク・ステラの日本初の回顧展を開催したのだが、これも特別展による集客を図ったというより、重要な収蔵作家のひとりであるステラについてもっと多くを知ってもらい、その上でコレクションへの理解を深め、特別展が終わっても“いつもそこにある”作品を繰り返し楽しんでもらいたいと考えたからに過ぎない。
その後、今年1月末まで行われた「西川勝人 静寂の響き」まで、収蔵作家の個展を中心にコレクションと関連する特別展を90本ほど開催してきたのも同様の理由による。そして、その大半が自主企画・単館開催だったのも、収蔵作家やコレクションのためにカスタマイズする必要があったからにほかならない。さらに館内では、コレクションを見た後で特別展を鑑賞できるように動線を作り、その後、エントランスホールに戻ってからもう一度、新たな眼でコレクションを見直すように促した。こうして、あらゆる手段でコレクションに原点回帰できる素晴らしさを懸命に訴え続けたのだ。佐倉での最後の2ヶ月間、全館を使ってコレクション展示が行われたのは、この基本方針に対する美術館の揺るがぬ自信と矜持に裏付けられてのことだろう。喜ばしきはそこに1000名以上が来館する日々が続いたこと。そうした意味では、独立独歩の35年をかけて、国内では稀有な「コレクションによって愛される美術館」に成長したといえよう。
美術館のコンセプトとして「作品」「建築」「自然」の調和を謳ってきたのは、オランダのクレラー=ミュラー美術館とデンマークのルイジアナ近代美術館を理想に掲げたからである。前者は広大な国立公園の中に、後者はエーレスンド海峡を挟んで対岸にスウェーデンを臨む海辺にある。どちらも、美術ファンなら誰しも1度は行ってみたいと憧れる美術館で、豊かな自然に囲まれた土地に、美術館の建物が主張しすぎずに佇み、作品を引き立てる空間を提供している。そして何より、充実した近現代美術のコレクションを持つ。しかし、ふたつの美術館に倣ってDIC川村記念美術館が真に目指したのは、美術館という存在が人々の日常に溶け込み、そこを訪れた人が作品と出会うことで、自分自身のうちに新しい発見をしたり、価値観を変化させたり、その生き方が変わったりするような場になることだったのではないだろうか。
個人的な話になるが、ここで、私が同館在職中に出会ったもっとも忘れがたい人について記しておきたい。1995年11月5日、日曜日の夕刻。この日は「マーク・ロスコ展」の最終日だった。ようやく静けさを取り戻した館内で閉館時の見回りをしながら2階の広い展示室に上がると、鮮やかなブルーと深い緑が印象的なロスコの絵の前で、若い女性がひとり、ぽつんとベンチに座っていた。真っ直ぐ画面を見つめたまま身じろぎひとつしない。申し訳ないような気持ちで「お客さま、あいにく閉館の時間となってしまいました」と恐る恐る声をかけると、はっと我に返ったかのように「ごめんなさい。この絵の前で動けなくなってしまって」と小さな声で答えがあった。根っからの美術好きという風にも見えず、茶髪でやや派手めの格好をした彼女の素直で少し困ったような表情に心を動かされ、「ちょっと待っててください。ロスコの絵は灯りを落とすと見え方が変わりますから」と部屋の隅に行って照明のヴォリュームを下げてみた。すると、みるみるうちに画面の色が沈み、反対にそれまで見えなかった絵肌のニュアンスが浮かび上がってきた。まるで呼吸しているように見える。その人は黙ってただうっとりとその様子を眺めた後、最後に丁寧に一礼をして足早に去って行った。
その後、彼女がどうなったのかはわからない。ロスコ・ルームに何度か足を運んでくれただろうか。ヒューストンのロスコ・チャペルにも行ってみたかもしれない。家族と庭でお弁当を食べたり子供と遊んだりしたこともあったかなあ。もしやキュレーターやアーティストになっていたりして……、などと気楽な妄想に耽るのみだ。だが、1枚の絵が人にもたらしうる力を実感できたあの日の出来事は、いまも私の心に深く刻み込まれている。
1990年から2025年までにDIC川村記念美術館を訪れた方々は、およそ300万人。ニューヨーク近代美術館ならたった1年で迎えてしまうような人数だ。だが、そのゆっくりした歩みに大きな賛辞を送ろう。あの場所で、あの作品との出会いによって、その人たちの人生に何らかの彩りが添えられたにちがいない、そう信じてやまない。