公開日:2024年6月2日

『マッドマックス:フュリオサ』レビュー。荒野に怒る女と、女たちの協働に至る物語(評:近藤銀河)

5月31日公開のジョージ・ミラー監督による映画『マッドマックス:フュリオサ』。アーティストの近藤銀河が本作をレビュー。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

フェミニズム・スペクタクルとしての「マッドマックス」

『マッドマックス 怒りのデスロード』(以下、『怒りのデスロード』)は女性たちが無言で助け合う映画だった。女性たちを取り囲むのは家父長制の象徴のような支配者イモータン・ジョー、そして不毛な大地だ。

そこから逃げ出し希望を叶えるため、巨大な戦闘車両"ウォーリグ"を操るフュリオサ、ジョーの奴隷である女性たち、彼女たちを世話していた老女、大地で生きる集団"鉄馬の女"、たくさんの女たちが命懸けでともに助け合い、戦う。

スクリーンで見たことがあまりなかったそんなフェミニズム・スペクタクルに、私は心を揺さぶられた。

5月31日から公開となった『マッドマックス:フュリオサ』(以下、『フュリオサ』)は『怒りのデスロード』の続編であり、前作の主人公のひとりフュリオサの過去を描く映画だ。

しかし女性を主人公に据えたはずのこの映画には、女性同士が助け合うような描写は序盤以外ほとんどみられない。映画がフォーカスするのは砂漠の荒野で暴れ回る父たちの軍団の愚かさだった。だからと言って『フュリオサ』が女性たちの映画ではないのかというと、そうではない。

むしろ、本作が全霊で訴えるのは女性同士が助け合うことの必要性だ。『フュリオサ』は支配する男性たちを見つめるフュリオサの視点を通して、なぜ不毛の大地で女性が女性を助けねばならないのかを描き出す。

それはどのようにしてフュリオサが、『マッドマックス 怒りのデスロード』で産むモノとして扱われる女性たちを助け出すに至ったのかを語る物語だ。

*以下、映画のあらすじに触れる箇所が多数あります。

楽園からの追放

映画の冒頭で、フュリオサは母である女性たちとともに緑豊かな地で生活をしている。「マッドマックス」シリーズらしからぬこの色鮮やかな場面は、本作とシリーズがファンタジーであることを思い起こさせる。ファンタジーの世界では、人のあり方に世界が全力で応えるのだ。良き人々の世界は良き空間となる。

しかしフュリオサは楽園に侵入した「マッドマックス」なバイカー集団を発見し、単独で追い払おうとするも捕まり、連れ去られてしまう。フュリオサの母は彼女を追跡し(この過程で彼女と親密な関係の女性との別れが描かれるが、これも素敵だった)、バイカー軍団の長であるディメンタスと対峙し激闘を繰り広げるも処刑され、フュリオサは囚われの身となる。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

本作はこのバイカー軍団を支配するディメンタスと、荒野の都市を支配するイモータン・ジョーの権力闘争を、その中で交換可能な資産として扱われていたフュリオサの目線から描き出す。

ディメンタスはイモータン・ジョーとは対照的なキャラクターだ。イモータン・ジョーがウォーボーイズと呼ばれる子供たちを洗脳し神話的な支配構造を作るのに対し、ディメンタスは自由と反抗を極めて表面的に謳いあげる。

たしかにディメンタスが指揮するバイク軍団は、イモータン・ジョーの車両軍団とは違い、操縦席が外に開かれていて、見た目からして大きく異なる。

しかしディメンタスとイモータン・ジョーに変わるところはほとんどない。自身の肉体を誇示し、暴力を用い、資源の分配をめぐって支配と略奪を行い、他者をモノとして交換し、女性を見下す。

両者の間で一方的に娘や子供を産む資産として扱われるフュリオサの視線からは、そのことが残酷なまでに浮かび上がる。ディメンタスは母を惨殺しながらフュリオサにリトルDという勝手な名前をつけて娘扱いし、イモータン・ジョーは健康な身体をした彼女をディメンタスから資産として貰い受ける。そのことに誰も異議を唱えてはくれない。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

フュリオサはイモータン・ジョーの子供を産む女性たちが押し込められる穴倉に連れてゆかれ、ジョーの子を無理やり出産させられ、病んだ子を産んだとして罰を受けさせられる女性と子供の姿を目撃する。

フュリオサにとって世界は地獄だ。彼女はなんとか穴倉からの逃走を果たし、雑役をこなす人々に紛れ込む。彼女は周囲がイモータン・ジョーを讃え「V8!」と聖句を叫ぶなか、何も言わず世界を睨みつける。マックスという異邦人を主人公にした前作ではイモータン・ジョーの作り上げた世界の異質さが強調されたが、そのなかで育っていくフュリオサの視点から描かれる本作ではその支配への怒りが示されていた(「V8!」と叫ぶシーンはここ以外ほとんどなく、前作を観た人々がやたらに「V8!」と真似ているのに不安を感じていた私は少しホッとした)。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

フェミニズム美術史としての『フュリオサ』

荒れ果てた大地を支配する男たちにとって人間とは交換可能な資源のひとつでしかなく、なかでも健常という規範に合致する女は貴重な資源である。

すでにTABでも記事が出ているが、本作でもっとも興味深いのはイモータン・ジョーの部下のひとりで、ガスタウンと呼ばれる街を治める領主が、自身の執務室にジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》(1896)の模写を描いている点は、やはりとても興味深かった。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス ヒュラスとニンフたち 1896

この引用はとても示唆的である。《ヒュラスとニンフたち》の主題は男性を破滅させる女性、いう典型的な「ファム・ファタル」で、ブラム・ダイクストラはその著作『倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪』(富士川義之訳、パピルス社、1994)のなかで男性作家たちによるファム・ファタールという主題と女性嫌悪の結びつきを暴き立てている。

女性の裸婦群像であるこの絵画は、映画のなかでは、イモータン・ジョーが支配する女性たちを想起させ、19世紀末の絵画とイモータン・ジョーの支配を重ねてみせるかのようだ。

それだけではない。マンチェスター美術館での現代美術作家のソニア・ボイスによる2018年のアートプロジェクトのなかで起きた、美術における女性裸体やジェンダー表象や、マスキュリニティとフェミニニティをめぐる一連の議論から、《ヒュラスとニンフたち》は常設展から一時的に撤去され、代わりにさらなる議論のためにポストイットによる掲示板が置かれ、大きな論争を引き起こしたこともある。

そんな《ヒュラスとニンフィア》が女性の搾取者たちを描く『フュリオサ』で引用されているのはとても示唆的だ。私はそこから、こうした女性に対する視線が歴史や古典の名の下に正当化され続けてきた過去と現在の社会が、結局、映画で描かれる荒野と何も変わりがないのではないか、という印象を受けた。私たちはフュリオサが暮らすのと同じ荒野に住んでいて、荒野とは現実の寓意だ。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

様々な男性たち

その後、ガスシティの支配を受け継いだディメンタスは絵画に出鱈目な落書きを施すが、そのようなディメンタスの反権力性も、支配からの解放にはなんらつながらない。

ディメンタスのそうしたあり方が抱える問題は、フュリオサを助ける男性たちとの対比のなかで明らかになっていく。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

映画にはフュリオサを助ける男性たちが登場する。ディメンタスに捕らえられつつ彼の演説を助けるヒストリー・マンがそうだし、手を失ったフュリオサのためにタイヤの欠けた車を用意する障害を抱えるメカニックや、フュリオサが出会うイモータン・ジョーの部下である大隊長のジャックがそうだ。

とくに映画で描かれるのはジャックだ。彼は故郷への帰還を目指すフュリオサに何ひとつ問うことなく協働する姿勢をみせ、フュリオサの相棒になっていく。彼らに共通するのは、弱い立場にあるフュリオサの意思に共鳴し、何かの希望を見出し助け合うことだ。

ディメンタスは彼らのように誰かを助けることはない。ディメンタスの言う解放は彼の筋肉やイモータン・ジョーの語る神話的な世界と同様に、男らしさを支えるための道具であることとその滑稽さが、様々な人物との対比の中で浮かび上がっていく。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

女同士の協働

だが、故郷への帰還まであと一歩というところで、フュリオサはジャックをディメンタスに殺され、自らも片手を失う。彼を失ったフュリオサは、イモータン・ジョーに彼女しか知らないディメンタスの思惑を告げる。

この場面のフュリオサを演じるアニャ・テイラー=ジョイの演技はとても見事だった。復讐と怒りのために、自身が怒りを向けている存在であるはずのイモータン・ジョーに利することを伝えてしまった、彼という暴力を利用してしまった、引き裂かれるような矛盾。何に怒るべきかの戸惑い。アニャのこの場面の演技にはすべてが詰まっていた。

映画の終盤、フュリオサはディメンタスを追い詰め、ついに自身の素性を明かして対峙する。ディメンタスはそんなフュリオサに、彼女は自身やイモータン・ジョーと同じ怪物だと呪いをかける。

フュリオサは確かに、怪物的な危険な人物だ。しかし、その力の使い方を選ぶことはできる。

やがて自身も大隊長となったフュリオサは、イモータン・ジョーの奴隷にされた女性たちの解放に動き出す。映画のラストで描かれるのは『怒りのデスロード』につながるその場面だ。

女性が女性を助ける世界はフュリオサの豊かな故郷にあり、終わりなき闘争が続く荒野にはないものだった。私たちが切望してやまないのもまたそれだろう。

前作より登場人物も上映時間も増え、より複雑なストーリーを提示する『フュリオサ』にはまだ語りきれないたくさんのフェミニズム的なテーマがある。フュリオサの労働者性、彼女のジェンダー表現、様々なキャラクターの男性性のあり方、男女の信頼、女性同士の協働、戦争や搾取、虐殺。観ればきっと何か、考えたくなることがあるはずだ。

そしてこの映画には理不尽な世界への深い怒りがある。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

ただ幾分か疑問が残る作品なのも確かだ。

義手などによって克服される障害のある身体と、病を克服できない身体の扱われ方の差異は、前作でも存在していたが、今作ではそれがより一層強いコントラストで描かれる。

世界と人間の強い結びつきファンタジー的な作品、と私は映画を評したが、そうしたヴィジュアルと人間性のつながりが危ういものになっている場面は前作以上に少なくなかった。

あるいはこうした感想はひとつの映画に多くを求めすぎなのかもしれない。

イモータン・ジョーの奴隷として扱われる女性たちにフュリオサが過度に無垢さを期待したように。

『マッドマックス:フュリオサ』 ©︎ 2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

『マッドマックス:フュリオサ』
5月31日より全国公開

監督:ジョージ・ミラー
出演:アニャ・テイラー=ジョイ、クリス・ヘムズワース
配給:ワーナー・ブラザース映画
公式サイト:https://wwws.warnerbros.co.jp/madmaxfuriosa/index.html
2024年 アメリカ映画/2024年 日本公開作品/原題:FURIOSA: A MAD MAX SAGA

©︎2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
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近藤銀河

近藤銀河

こんどう・ぎんが アーティスト、ライター、美術史研究。1992年岐阜県生まれ。中学時代に難病CFS/MEを発症、体力が衰弱し以降車いすで生活。2020年より東京芸術大学先端芸術表現科修士。フェミニズムとセクシュアリティの観点から美術や文学、サブカルチャーを研究しつつ、アーティストとして実践を行っている。特にレズビアンと美術の関わりを中心的な課題として各種メディアを使い展開。2020年個展「ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース」を開催。主なグループ展に「プンクトゥム:乱反射のフェミニズム」(東京、2020)、「Comfortable展」(東京、2021)など。映画やゲーム、アートなどに関する文筆活動も行い、『SFマガジン』(早川書房)、『ユリイカ』(青土社)などにも寄稿。共著に『『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く』(河出書房新社、2021)。単著に『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社、2024)。