公開日:2025年4月14日

「望月桂 自由を扶くひと」(原爆の図 丸木美術館)レポート。「日本現代アートの始祖」として卯城竜太や風間サチコらが敬意を寄せる芸術家の生涯とは?

大正~昭和時代に前衛的で多彩な表現活動を展開した望月桂の回顧展が原爆の図 丸木美術館で開催中。会期は4月5日~7月6日(撮影:編集部・ハイスありな)

会場風景、右は望月桂《遠眼鏡》(1920)

調査3年の成果 絵画など約120点が一堂に

日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる「黒耀会」を結成した芸術家で、アナーキスト、マンガ家、社会運動家など多面の顔を持つ望月桂(1886~1975)。その活動を総合的に紹介する初の展覧会「望月桂 自由を扶(たす)くひと」原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)で開催されている。会期は7月6日まで。

望月桂は、これまで大杉栄が主導した大正アナキズム運動の文脈の中でもっぱら知られ、美術評論家の故土方定一らが著作で言及したことはあったが、アーティストとしては長く埋もれた存在だった。2022年に美術史家の足立元・二松学舎大学准教授の呼びかけで学芸員や研究者、アーキビスト、ジャーナリストらによる望月桂調査団が結成され、遺族が保管していた作品と資料を3年間調査。その成果を反映した本展は、初出作品を含む望月の油彩画や水墨画、素描、仲間たちの作品など約120点を展示し、時系列順の7章構成で生涯をたどる。

プレス内覧会に出席した望月桂調査団のメンバー。左から岡村幸宣・原爆の図 丸木美術館学芸員、足立元・二松学舎大学准教授、アーティストの卯城竜太、安曇野市教育委員会の塩原理絵子、武井敏・碌山美術館学芸員

調査団には、望月に敬意と関心を寄せてきたアーティストの卯城竜太風間サチコ松田修も参加し、展覧会でも様々な役割を担った。風間は、アナキズムの原理のひとつ「相互扶助」から発した本展のタイトルとロゴを考案。対話集『公の時代』(2019)において望月を「日本現代アートの始祖」とした卯城と松田は、展示空間の監修(卯城)と映像制作(松田)を手がけた。

展覧会会場の入り口、中央は風間サチコ考案のロゴ

長年望月を研究してきた足立は、「望月と黒耀会の活動は、社会とかかわる『前衛芸術』、あるいは世界的な『アート』の文脈でとらえるべきだと考えてきた。望月は、アナキズムというくくりを超えて自由を獲得するために奮闘し、とくに他人の自由を扶けた人だと思う。自由を扶けることがどうアートと結びつくのか、様々な実例を本展でみつけていただければ」と説明。調査団に参加した丸木美術館の岡村幸宣学芸員は、「望月が100年前に掲げた問題意識は、閉塞した社会状況を生きる現在の私たちにも通じる」と話した。

本展に合わせ、主な出品作品の図版と解説、調査団参加者によるエッセー等を収録したZINE(小冊子)も刊行された。2000部限定で、会期中に来場者1人につき1部が無料配布されるので早めに入手したい。

本展に合わせ刊行されたZINE

一膳飯屋を営み 大杉栄と盟友に

それでは現代の一線の作家たちを魅了する望月桂はどんなアーティストだったのか、本展の見どころを紹介しよう。

望月桂は、現在の長野県安曇野市生まれ。生家は養蚕業も営む地主で、中学校時代に美術と出合い、当時ブームだった水彩画の制作に打ち込んだ。画家になる夢を抱いたが、家族の反対に遭って家出して上京し、1906年に東京美術学校西洋画科に入学した。

会場風景、右は望月桂《稔りの秋》(1940)

本展の冒頭は、望月が生まれ育ち、戦時中から死去まで過ごした安曇野地域にかかわる作品や自画像が並ぶ。北アルプスの山々と麓を描いた《稔りの秋》は温雅な風景画だが、度々氾濫した3つの川の合流点や地域の苦難の歴史が生んだ共有地の様子が見て取れる。東京美術学校の卒業制作《こたつ辺》は、貧しい農家で炬燵を囲む老人と女児がリアルに描かれ、若き日の望月の高い画力と貧困が残る郷里への思いがうかがえる。

会場風景より、左から望月桂《少女とランプ》(1911)、同《こたつ辺》(1910)

望月が美校を卒業した1910年に思想弾圧・冤罪事件の「大逆事件」が起き、翌年に幸徳秋水ら12人が絞首刑にされた。事件の端緒の爆弾は奇しくも安曇野で製造や爆破実験が行われたもので、彼は大きな衝撃を受けたという。

会場風景より、東京美術学校西洋画科卒業記念写真(1910)。前列中央に黒田清輝、その左後ろで腕を組むのが望月桂。同級生に藤田嗣治、マンガ家になった岡本一平らがいた

卒業後は中学校教員を経て、石版画工に弟子入りし、一時印刷所を経営したがあえなく倒産。そこで妻ふくと一緒に営んだのが伝説的な飲食店「へちま」だ。当初は神田の氷水屋だったが、谷中に移転後は一膳飯屋に形態を変え、多数の労働者や社会運動家、文筆家が集った。彼らに感化された望月はアナーキストのカリスマ大杉栄の知遇を得て、交流と信頼関係を深めていく。

会場風景、左の映像と床の植物は松田修の映像インスタレーション《この世からの花》(2025)

この時期を扱う第2章は、「へちま」の食器や客が書き描いた落書き帳、大杉が推奨した世界共通語エスペラントの単語が入る望月の素描などが並ぶ。自ら愉快な文言を絵付けした徳利などの食器類は、万人に開かれた食堂を「表現の場」にした望月の先駆性を伝える。1917年には、労働者のための絵画教室などを行う平民美術協会を店内に設立。誰でも楽しく表現すべきだという望月の信念は、資金難による「へちま」の閉店後は黒耀会に引き継がれた。

望月の一膳飯屋「へちま」で使われた食器類
望月が絵を彫った盆(蛙と蝸牛)

プロレタリア美術運動の草分け「黒耀会」

革命芸術を標榜する黒耀会は1919年12月、望月の自宅で結成された。参加者は大杉、「日本社会主義運動の父」ともされる堺利彦、民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊ら多士済々な顔ぶれ。同会は誰もが参加できる無審査の展覧会(アンデパンダン展)を22年に解散するまで4度開催し、プロレタリア美術運動の草分けとされる。

本展の第3~6章は、黒曜会での活動から関東大震災(1923)時の大杉と伊藤野枝らの虐殺と波紋、戦時体制下の作品までを広い一室を使って紹介し、大きな見どころだ。牢獄を想起させる箱や構造物を配したカオス感がある展示空間は卯城が監修したもの。照明を落とし背景は黒一色の中に、望月と仲間たちの作品を浮かび上がらせた。

会場風景

望月の黒耀会展の出品作は、作家性が炸裂している。大きな特徴は、動きがある回転運動を表現に取り入れていることだ。たとえば《製糸工場(女工)》は、回り続ける機械とそれに絡めとられるような女性たちの姿を素早いタッチで描いた。日本近代化の象徴でもあった製糸工場は、この時期は低賃金や過酷な労働環境が大きな社会問題になっていた

会場風景より、望月桂《製糸工場(女工)》(1920)

本展キービジュアルの《反逆性》は、回転する自動車の車輪や電車の軌道、行きかう人々の足元が巧みに配され、せわしなく流れる時間や都会の喧騒を感じさせる。

会場風景より、望月桂《反逆性》(1920)

当時世間に流布した大正天皇の「遠眼鏡事件」を戯画化したと考えられるのが《遠眼鏡》。天皇が丸めた勅書が、見上げる議員たちを見回すように残像を描き、光線を放っているが、議員たちの顔もマンガチックに描かれていて風刺した対象は定かではない。

会場風景より、望月桂《遠眼鏡》(1920)

これらの望月作品は、1909年に始まったイタリアの未来派の影響が色濃いという。だが、未来派が機械文明を礼賛したのに対し、彼の表現意図は真逆だったようだ。調査団メンバーの清水智世・京都文化博物館学芸員は、ZINEの寄稿文の中で望月の作品は「『運動』への賛美ではなく、大いなる力に翻弄されることに対する反発と悲哀であった」と述べる。異議申し立てのように《機械は大丈夫か》と題した作品は、労働者の痛々しい事故を描くが、プロパガンダ臭がしないのは諧謔があるからだろう。

会場風景より、望月桂《機械は大丈夫か》(1920)

大杉がモデルの作品も必見。半裸で書き物をする姿を最小限の線と墨の濃淡で活写した《ある日の大杉》は、親密に接して盟友関係を結んだ望月ならではの傑作だ。望月が原型制作に協力したと考えられる横江嘉純作のブロンズ像や顔を描いた水墨画は、大杉の凄みがある眼が強烈な印象を残す。

会場風景より、左は望月桂《ある日の大杉》(1920)
横江嘉純《大杉栄像》(1924)

100年前に応答する松田修の新作も展示

会場には黒耀会の仲間たちの作品も並ぶ。大杉栄の自画像は素朴な絵ながら洒落っ気があり、ほかの同人も写実的な水彩画、ポンチ絵ふう、脱力系と多彩で各自が思い思いに楽しんで描いた姿勢が伝わる。

興味深いのは、望月の作品を含め画材はすべて簡便な墨や水彩が使われ、賛(文章)入りの文人画のスタイルも目立つことだ。黒耀会は、荒畑寒村脚本による演劇上演や合唱も行った。作る敷居を下げ、プロアマや分野の隔てなく、表現を皆で分かち合うことが望月の芸術実践だったと言える。

会場風景より、大杉栄《入獄前のO氏(自画像)》(1920)

望月は、いまでいう「メールアート」も行った。大杉らの虐殺後、報復で狙撃未遂事件を起こし無期懲役になったアナーキスト和田久太郎(獄中自殺)の遺言により、遺灰で育てた花を押し花にして友人同志に送ったのだ。自宅に出入りしていた和田を、受刑中に望月は家族ぐるみで支えたという。

本展はその押し花、和田と望月に応答する松田修の映像インスタレーション、この事件で死刑になった古田大次郎を望月が描いたコラージュ作品も展示。迫害のさなかでも、他人の意思と尊厳を重んじた望月の豊かな人間性が感じられるだろう。

会場風景より、望月桂《あの世からの花》(1929頃か)
会場風景より、望月桂《死の宣告》(1926)

マンガ家、編集者、農業人として

統制が強まるなか、望月は1928年に読売新聞社に入社し、「犀川凡太郎」のペンネームで風刺マンガを発表した。退社後は翼賛色が強いマンガ雑誌「バクショー」を38年に創刊し、編集責任者になった。同誌は東京美術学校で同級生だった藤田嗣治が創刊号の表紙を描き、人気マンガ家の池部小野佐世男、彫刻家の北村西望らが寄稿して16号まで出したが、紙の配給制限のため翌年廃刊。戦時中は会社寮の舎監を務め、戦後は故郷に戻り帰農した。

会場風景より、現在は稀覯本になっているマンガ雑誌「バクショー」(1938-39)
会場風景より、藤田嗣治《「バクショー」創刊号原画》(1938)

ラスト第7章は、望月が土を耕しながら作り続けた作品を紹介する。マンガ的な表現を駆使した水墨画は、身近な人間や暮らし、自然と動植物に対する温かな観察眼が光る。戦後は地主ながら小作に土地を分ける農地改革に尽力し、晩年は女子高で美術を教えて生徒たちに慕われたという。再上京を促す勧めも断り、初めて個展を開いたのは88歳で死去する半年ほど前だった。

会場風景より、望月桂の戦後の水墨画
会場風景より、望月桂が戦後描いた油彩による風景画

今回の調査では、望月の日記や回想録など資料も多数見つかった。足立は「現在は資料の精査と研究の途上で、まだ彼の全貌の一部しか見えていない」と話す。望月と黒耀会がどのように日本と世界のアート史に位置づけられるのか、引き続き注目したい。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。
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