会場風景より、オーブリー・ビアズリー《クライマックス》(1893) ライン・ブロック ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館 © Victoria and Albert Museum, London
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東京の三菱一号館美術館で、「異端の奇才——ビアズリー」が開催される。会期は2025年2月15日〜5月11日。
オーブリー・ビアズリーは1872年にイギリスに生まれた異才の画家。わずか25歳で世を去ったが、精緻な線描や大胆な白と黒の色面からなる、きわめて洗練された作品を生み出した。オスカー・ワイルドによる『サロメ』(1894)の挿絵をはじめ、マロリー『アーサー王の死』(1893〜94)、ゴーティエ『モーパン嬢』(1897)など数多くの挿絵を手がけた。日本でもファンは多く、その独特の様式美はマンガをはじめとする様々なメディアにも大きな影響を与えている。
本展はビアズリー作品の充実したコレクションを誇るヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)との共同企画。初期から晩年までの挿絵や希少な直筆の素描に加えて、彩色されたポスターや同時代の装飾など、約220点を通してビアズリーの歩みをたどる。
ビアズリーはイギリスの海辺の街に生まれ、寄宿舎での生活や一家の移転などを経ながら16歳のときに家族が暮らすロンドンに移り住む。7歳で肺結核と診断され、たびたび体調不良に悩まされながらも、子供時代から絵や音楽に親しんだ。困窮した家族を経済的に支えるため、美術学校に通うという夢を諦め、生命保険会社に働きながら独学で絵を学んだ。
ビアズリーが表舞台で活躍したのはわずか5年ほどだ。本展は主に時系列に沿って、ビアズリーの類まれな創作活動を追っていく。
最初の展示室の見どころは、初期の傑作《「ジークフリート」第2幕》(1892)。ワーグナーの楽曲から着想した本作には、神経質なまでに細やかな描線と装飾的要素、白と黒の色面のコントラスト、中性的な人物描写など、ビアズリー印と言える特徴が見て取れる。とはいえ、弱冠20歳のビアズリーは過去の美術史から様々なことを学んでいた。たとえば人物がいる前景から中景をカットして後景へとつながり深い奥行きを示す構図はルネサンス時代の絵画によく見られるもの。なかでもイタリアの画家アンドレア・マンテーニャに大きな影響を受けており、とくに身体の表現にその特徴が見られる。マンテーニャのエングレーヴィング(凹版技法)による作品も合わせて展示されているので、合わせてみてほしい。
また、ビアズリーはより身近な、同時代に活躍した先行世代の画家たちからも影響を受けている。後期ラファエル前派の代表作家として知られるエドワード・バーン=ジョーンズの自宅を訪ねた19歳のビアズリーは、その才能を認められ、画家として歩むことを励まされている。上記の《「ジークフリート」第2幕》もバーン=ジョーンズに贈られ、アルブレヒト・デューラーの銅版画と並べて客間に飾られていたという。
本展ではバーン=ジョーンズのほか、バーン=ジョーンズとともに活動したウィリアム・モリスが設立したケルムスコット・プレスとの関わりなども紹介されている。
専業画家として歩むきっかけとなった『アーサー王の死』の仕事は必見。出版のため下絵350点以上を描くという膨大な仕事によって心身ともに疲弊を招いたが、独自の画風を確立することにもつながった。
ビアズリーといえば、なんと言っても『サロメ』だろう。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の一場面から着想を得た《おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン》(1893)が芸術雑誌『ステューディオ』で紹介されるとたちまち評判を呼び、英訳版『サロメ』(もとはフランス語で書かれた)の挿絵画家に抜擢される。本展では、初版で掲載された13点の挿絵とともに、ボツとなった当初の表紙案や挿絵3点を含む全17点が紹介される。
余白をいかした大胆な構図、洗練された線描、当時のトレンドであったアングロ=ジャパニーズ様式を取り入れた装飾性、そして色欲と暴力に彩られた物語を支配する登場人物たちの描写。極めて独創的なビアズリーの『サロメ』は大きな反響を得た。
ところで、なぜいくつかの挿絵がボツになったのか。ビアズリーが描いた『サロメ』は、実際にはワイルドが書いた戯曲には登場しないシーンが描かれるなど、説明的な挿絵にとどまらないものだった。そうしたいくつかの描写が、過剰に性的だと問題視されたのだ。展示では、ボツにされた最初の挿絵と、その代わりに描かれた挿絵とが並んで展示されている。
たとえば《サロメの化粧 I》(1893)。胸を露わにして椅子に座り、奴隷に身支度をさせるサロメの左手の位置や、左に座っている人物の姿勢が自慰行為を連想させるとして問題視されボツになった。代わりに制作されたのが《サロメの化粧 II》(1893)で、こちらではサロメの当世風のドレスに見られる大胆な形状などに、際立った洗練が見られる。とはいえ、本作でサロメが腰掛けている椅子の背もたれは男根を想起させるし、テーブルに置かれた本にはサド侯爵の著書などの書名が明確に書き込まれており、ビアズリーのアイロニーや毒気は失われていない。
また、ビアズリーは著者であるワイルドの姿を意地悪なまでにデフォルメして描き入れたりもしており、ワイルドとビアズリーの関係は結果的にこじれてしまった。とはいえ、悪趣味すれすれのグロテスクと美的洗練とが背中合わせで共存し、カッティングエッジで魔術的な魅力を放つ『サロメ』の仕事は、今日に至るまでビアズリーの代表作として多くの人々を魅了している。
本展では、この『サロメ』を題材とした、ミュシャをはじめとするビアズリー以外のアーティストの作品も合わせて展示されている。
『イエロー・ブック』はビアズリーが構想段階から関わり、美術編集を担当した文芸誌。表紙を手がけたほか、ここに収録された素描はビアズリーの作品のなかでも傑作揃いだ。
とくにビアズリー本人がもっとも優れた自作だと述べた1点が《ワーグナー崇拝者》(1894)。本展では、紙にペンやインクで描かれた原画とライン・ブロックによる印刷版とが並べて展示されている。原画と印刷物の併置は、ビアズリーがいかに印刷技法を熟知しながら原画を手がけたかをうかがうことができる貴重な展示だ。
最初の数巻を手がけたあと、ワイルドが同性愛を理由に罪を問われた余波で、騒動とは無関係のビアズリーも編集から外されるという憂き目にあう。名声を失いかけたビアズリーだが、新たな支援者を経て、新たな文芸誌『サヴォイ』に多彩な作品を展開するなど、野心的な試みを展開していく。しかし、ビアズリーの肺結核が悪化し、25歳でこの世を去る。本展の最後は、こうした最期の時期の作品群が紹介されている。
最終章の前には、「18歳未満は立入禁止」の展示室がひとつある。なかに展示されているのは古代ギリシャの喜劇作家アリストパネスの戯曲『リューシストラテー』をもとにした挿絵だ。ビアズリーが手がけた絵の性的描写が刺激的すぎるとされ、100部の発行にとどまった。昔もいまもエロコンテンツは金になるということだろうか、『イエロー・ブック』の仕事を失い、困窮したビアズリーは、この頃生活の糧として露骨に性的な絵を手がけていたという。後年、自らの死期を悟ったビアズリーは「よからぬ絵はすべて破棄してほしい」と切願したが、現在まで残ってしまった。本人の遺志に沿わないものの、短い画家人生の後期におけるビアズリーの作風をこれらの作品群に見ることができる。
黒と白の端正な画面に、時折滲み出る悪意と野心。緊張感たっぷりに漲る美。19世紀末イギリスの時代背景やモードを象徴するものでありながら、ビアズリーの確立した意匠は時代を超えて何度も変奏され、現在に至るまでのビジュアル・カルチャーに大きな影響を与えてきた。そんなビアズリーの芸術世界に、ぜひ刮目してほしい。
展覧会グッズも充実。詳しくは以下の記事をどうぞ。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)