公開日:2023年6月17日

映画『怪物』はなぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか。映画製作の構造的な問題を考える(文:久保豊)

監督・是枝裕和、脚本・坂元裕二による映画『怪物』。第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞、クィア・パルム賞を受賞した本作について、日本映画史、クィア映画史を専門とする久保豊が論じる。

『怪物』より、登場人物の麦野湊(右)と星川依里(左) 6月2日 全国ロードショー © 2023「怪物」製作委員会 配給:東宝 ギャガ

映画『怪物』は、『万引き家族』でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した是枝裕和監督が、映画『花束みたいな恋をした』やテレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』などで人気の脚本家・坂元裕二によるオリジナル脚本をもとに撮った作品だ。音楽は今年3月に他界した作曲家・坂本龍一が手がけた。出演は安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子、黒川想矢、柊木陽太ほか。

豪華布陣による注目作とあって、6月2日の公開とともに、その精緻な脚本や巧みな演出、出演者たちの演技などが話題を呼んでいる。いっぽう日本公開に先駆けて5月に開催された第76回カンヌ国際映画祭で、本作は脚本賞とクィア・パルム賞を受賞。しかし本作はマスコミ向け試写でも、登場人物の湊と依里という子供たちのクィア性に関わる描写を「ネタバレ」しないように案内されていたこともあり、このクィア・パルム賞受賞は唐突に本作の隠された核心を明らかにするとともに、議論を生むこととなった。

映画『怪物』における性的マイノリティ表象と、それをとりまく映画界の構造的問題とはどのようなものなのか。日本映画史とクィア映画史を専門とする久保豊が論じる。【Tokyo Art Beat】

是枝裕和×坂元裕二による映画『怪物』

第76回カンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞と脚本賞を受賞した『怪物』(監督:是枝裕和、脚本:坂元裕二、2023)は、性的マイノリティの生きた経験を描く日本映画の製作体制をめぐる製作者と観客の理解をどのように更新しうるのか。本稿では、特定の社会や文化において「正常」や「普通」とされるセクシュアリティ、ジェンダー、身体、欲望などの規範に対する抵抗の映画的実践を記述してきたクィア映画史を研究してきた立場から、『怪物』にみる性的マイノリティの表象とその背後にある映画製作の構造について考えてみたい。

『怪物』 6月2日 全国ロードショー © 2023「怪物」製作委員会 配給:東宝 ギャガ

クィア・パルム賞の受賞前夜

クィア・パルム賞とは、性的マイノリティやフェミニストの登場人物、また、それらに関わる事柄を描く長編・短編作品のみならず、家父長的なジェンダー規範への異議申し立てを試みる作品に与えられる賞である。

カンヌ国際映画祭の公式部門とは独立した賞として2010年に始まり、その選出の対象には、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に加えて、その他のセクション(国際批評家週間、監督週間、ある視点部門、ACID部門)に出品された作品すべてが含まれる。クィア・パルム賞の射程は広いものの、これまでの受賞作は、『BPM ビート・パー・ミニット』(ロバン・カンピヨ、2017)、『燃ゆる女の肖像』(セリーヌ・シアマ、2019)、『Joyland』(サイム・サディック、2022)といった、トランスジェンダー、同性愛者、同性へ性的に惹かれる人々などの経験を描く作品に与えられてきた。

そのようなクィア・パルム賞の受賞リストへ加わるに相応しい作品として、『怪物』がジョン・キャメロン・ミッチェル審査委員長をはじめとするクィア・パルム賞審査委員に満場一致で評価されたことは(Goldstein 2023)、『怪物』の登場人物たちのいずれかが性的マイノリティなのではないか、そして「怪物」とされる人物は、もしかすると「かいぶつ、だーれだ?」と予告編で発する子供たちなのではないかという可能性を明るみにした。

その可能性がクィア・パルム受賞の数日前に行われた記者会見で浮上していたことはすでに指摘されている通りだ(坪井 2023)。日本映画にみる性的マイノリティ表象の少なさに関する英国メディアからの質問に対して、『怪物』は「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」と是枝は答えた(勝田 2023)。是枝の発言は、小説版『怪物』ですでに明白であった、「普通」への期待がもたらす痛みを笑顔や無邪気さの下で耐える子供たちに付与されたクィア性を「LGBTQに特化した作品ではな」いと断言することで隠蔽しうるものであった。加えてそれは、現代日本社会において差別、不条理、暴力を日常的に受ける性的マイノリティ(かもしれない)の子供たちの経験を普遍的なものへと矮小化する効果を発動させた。

賞レースがもたらす期待

A級映画祭の賞レースは、受賞作品の市場価値をグローバル規模で大きく高める。坂元裕二が『怪物』でカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で脚本賞を受賞したことは、脚本家への名誉となるだけでなく、配給会社にとっては作品を国内外へ売り込む際の武器となり、映画館にとっても長期的な集客を期待させる。結果として得られる興行収入や利益が日本映画産業(製作、宣伝・配給、上映)を潤わせ、さらなる映画製作と映画館の維持を可能とする。

では、クィア・パルム賞はどうか。ベルリン国際映画祭のテディ賞と比較されるとき、クィア・パルム賞はその商業主義の強さを批判されることがあるとはいえ(Damiens 2015)、LGBTQ+コミュニティの観客にとって、クィア・パルム賞に紐づけられた作品には特別な意味づけがなされる。つまり、虚構世界に佇む登場人物に自分たちの経験を重ね合わせたり、現実世界で経験する苦しさを乗り越える力を見出したり、あるいは自分たちの実存を祝福される喜びを知ったり、「自分たちが楽しむことができる作品かもしれない」という期待を編み込んでいく。

それ故、「LGBTQに特化した作品ではな」いとする是枝の否定から、まるで映画館のドアが自分たちの顔の前で強く閉じられたような感覚を覚えた観客がいてもなんら不思議ではない。自分たちと似ているかもしれない存在を映画のなかから見えづらくされることは、観客のなかに歴史的に存在してきた自分たち(性的マイノリティ)の存在すらも認められていない感覚をもたらしうる。映画の内外に生きる自分たちの生命/身体/歴史を曇ったレンズ越しでしか見ていない印象を与えた是枝が、自分たちの生命/身体/歴史を祝福してきたはずのクィア・パルム賞を辞退しなかった展開に疑問を持った観客もいるであろう。

しかし、私たちがここで考えるべきは、映画製作はひとりで完遂するものではないという事実だ。作家主義への批判が明らかにしてきたように、映画製作とは監督以外にも脚本、俳優、プロデューサー、美術、照明、撮影、編集、衣装・メイクアップ、スクリプター、キャスティング、インティマシーコーディネーター、宣伝など、様々な役割の存在によって成り立っている。

クィア・パルム賞の受賞前に是枝の発言自体が提示した鈍感さについては、クィア映画史をめぐり長年築かれてきた言説を参照しながら今後も検証されるべきだ。けれども、是枝は製作委員会方式で作られた『怪物』という商業映画の顔に過ぎない点を忘れてはならない。つまり、『怪物』が抱える問題の要因はもっと大きな構造のなかにあるのではないか。

『怪物』 6月2日 全国ロードショー © 2023「怪物」製作委員会 配給:東宝 ギャガ

『怪物』製作の背景に潜む「なぜ」

長谷正人が指摘するように、是枝は「自分が置かれている製作環境のなかで監督として生き延びていくにはどうすべきなのかという問題」をつねに考えてきた、スタジオシステム崩壊後の映画作家である(2017: 126)。1億円未満の製作費で映画を作り、中規模の配給会社を通じて単館系の映画館で上映していくかたちで撮り続けた是枝は、『奇跡』(2011)以降、全国のシネコンでかかるような大規模の製作費を使える作品を撮ってきた。長谷の言葉を借りれば、それは映画監督としての生存を賭けた「是枝監督なりの実験」であったと考えられる(2017: 126)。そのような試みが国際的に成功した事例に含まれるのが、第71回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した『万引き家族』(2018)であった。

のちに映画『怪物』となる作品の企画が始動したのは2018年まで遡る(生田・吉田 2023)。坂元裕二が脚本を書いていたテレビドラマ『anone』が最終回を迎える頃、『怪物』のプロデューサーを務めた川村元気と山田兼司が坂元を訪ねたことがきっかけになったという(「プロダクション・ノート」 2023: 40)。「今の『怪物』の原型がほぼできあがっていた」坂元のロングプロットを携えて、それを映像化するに相応しい監督として同年末に選ばれたのが是枝であった(「プロダクション・ノート」 2023: 40)。『幻の光』(1995)以来、初めて他人が書いた脚本で、しかも長年敬愛してきた坂元裕二の脚本で映画を撮ることは、是枝にとって新たな「実験」であったと推察できる。

性的マイノリティの子供たちの葛藤や痛みを描く『怪物』において、その「実験」はどのような結果をもたらしたのか。

『怪物』は、社会がどのような性愛や性表現を「普通」や「正常」とするかや、その規範を内面化した言葉によって生じる痛みや不快感に苛まれる性的マイノリティの子供(や大人)の経験を描くことには成功している。凱旋記者会見で是枝が『怪物』と観客の望ましい在り方について触れたように、映画を通じて響く鋭利な、あるいは鈍い痛みの映像的・音響的表現から、性的マイノリティの置かれた状況について「気づき」を得る観客もいるだろう。

しかし、『怪物』が抱える問題は、その痛みの累積が導く結末にある。画面が白飛びするほどに眩しい「ビッグランチ」(宇宙の終焉を指す「ビッグクランチ」を登場人物の依里はこう呼ぶ)以後の世界において、土砂崩れに巻き込まれた廃列車から「脱出」した湊と依里は、生まれ変わったかどうかについて話をする。生まれ変わりなど存在せず、ふたりは「ビッグランチ」以前のままだと述べる湊に対して、依里はそれを「よかった」と形容する。結末のやりとりは坂元脚本のままだ。「自分自身を好きになれない、好きにさせてもらえていない人たちのことを書きたい」と願った坂元が少年たちへ捧げた「そのままでいいんだ」という祝福として理解できる結末である(2023: 23)。多くの観客が少年たちの駆ける姿に涙し、坂元とともに彼らの生存を祝福しながら、是枝が信じる「気づき」を得るのだろう。

『怪物』 6月2日 全国ロードショー © 2023「怪物」製作委員会 配給:東宝 ギャガ

本稿の主眼は『怪物』の結末に対して、テクスト分析から明らかになる少なくともふたつの解釈を詳細に提示することではない。けれども、そのうちのひとつに立脚するならば、なぜ少年たちは死ななければならないのかという問いから、あの結末は決して自由ではない。この問いを拡大するならば、なぜ『怪物』製作チームは、映画という極めて異性愛規範的な視聴覚装置が初期映画の頃から100年以上繰り返してきた、性規範から逸脱するとされる者への制裁(死や逮捕、裁判などによるスクリーンアウト)のイメージを現代において、しかもとくに子供たちの経験を通じて再生産する必要があったのか。

主にハリウッドを中心とした異性愛規範的なメインストリームの映画産業において、性的マイノリティは「怪物」や「悪者」として描かれることが多く、それらのイメージにはつねに死の影が付きまとってきた。そのような歴史は、『セルロイド・クローゼット』(ロブ・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン、1995)や『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』(原題:Disclosure、サム・フェダー、2020)などのドキュメンタリー映画がすでに明らかにしている。それらの映画や1990年代初頭のニュー・クィア・シネマの波を参照項に、性的マイノリティをめぐる映画表現は反省を促され、新しい表現が積極的に模索されてきたはずだ。

たとえば、新しい表現のひとつとして求められたのが老いのロールモデルである。1980年代から1990年代初頭のエイズ危機を生き抜いた性的マイノリティにとって、異性愛規範的なライフコースの外で老後を送ることへの想像力を養うにはつねにロールモデルを欠いてきたからだ。その欠落を埋めるように、子供時代を生き抜き、成人し、さらに歳を重ねた性的マイノリティの姿を描く映画作品は増えている状況にある。このような現状があるが故に、クィアな子供が若くして死ぬ解釈の可能性を残す『怪物』の結末には戸惑いを隠せない。

是枝が「名付けようのない自分の中に芽生えた得体の知れないもの。あの子たちにとっては。それを彼らは怪物と名付けてしまう。もしくは周りの抑圧によって、そう呼ばされてしまう。そのことを描きたい」と述べるとき(SankeiNews)、彼が監督として目指した頂点へと『怪物』が達したかどうかは判断が難しい。なぜなら『怪物』は、その抑圧、つまり少年たちの日常生活や将来への選択肢を窮屈にさせている性規範をめぐる社会構造への批判自体に成功しているとは言えないからだ。廃列車を少年同士にとってのユートピア的な空間として描きつつも、彼らの痛みと死に傾倒する表現を通じて、多くの観客に構造的差別に気づくよう促す方法は時代遅れだと言っても過言ではない。

性的マイノリティと死のイメージの観点から見れば、脚本を担当した坂元裕二もまたこれまで批判を受けてこなかったわけではない。『怪物』の脚本に携わりながら書き上げたであろう『大豆田とわ子と三人の元夫』の最終話で挿入された主人公の母親とその同性の恋人のエピソードは、高齢のレズビアン/バイセクシュアル女性の存在をテレビドラマで描く革新性を有しつつも、母親の死後にその過去と関係性が明らかにされる演出がSNSで批判されたことは記憶に遠くないはずだ。

坂元自身がその批判を受けて、どのように、また、どれだけ性的マイノリティの表象の歴史について学んだかは把握していない。だが、少なくとも『怪物』公開日に刊行された脚本の決定稿を読む限りでは、脚本の結末にも存在する死のイメージに対する固執とその美化は見過ごせないものの、湊と依里がそれぞれ経験している痛みや不快感に対する理解と描写の透明度は高い。加えて、『怪物』本編内では役割が極端に曖昧であった湊と依里のクラスメイトでBLマンガを愛読する美青の立ち位置もわかりやすく、決定稿には「カミングアウト」という言葉すらも含まれる。

脚本の第一稿が3時間近くあったという事実を鑑みると、もともとの重厚なプロットには湊と依里のアイデンティティに関する描写がもっと含まれていたのでないかと考えさせられる。しかし、シネコンでの1日の上映回数を柔軟に組むことを可能にし、興行収入を上げるためには、3時間の尺は望ましいものではない。尺の都合で脚本を削ぎ落とす過程で物語が洗練化されていったであろうことは想像に難くないが、『怪物』には脚本の変更において興味深い視点が入っている。

同性愛を扱う近年の日本映画やテレビドラマでジェンダーやセクシュアリティの分野に携わる研究者が製作に助言をする例は少しずつであるが増えている。それがどのような効果をもたらしているかについては入念な調査が別途必要だが、『怪物』の製作には「LGBTQの子供たちの支援をしている団体」(パンフレットのクレジット情報によるとReBitとその関係者)からの演出上の助言が入っているという(SankeiNews)。もちろん実際に生きる性的マイノリティの経験は一枚岩ではないため、何が「正しい」表象かという問題を本稿では展開しないが、『怪物』から性的マイノリティの実存と経験を見えづらくさせた演出と、性的マイノリティの子供たちのアイデンティティをめぐる自認・他認に関する団体からの助言(「あの年齢の子たちが、例えば自分がゲイであるとか、トランスジェンダーであるとか、自認もしくは他認というような認識をするのはまだ早い子どもたちなので、そういう特定の描写をむしろ避けた方がいいのではないか」[SankeiNews])の影響は無関係ではないだろう。

このように映画製作では、監督と脚本以外の声が作品の内容を変化させていくことは珍しくない。ときにその影響は、作品のある描写や設定を過度に隠す傾向につながり、「ネタバレ」として宣伝・広報の素材において見えづらくしてしまう結果を生む。たとえば、映画が公開される前に起こったクィア・パルム賞の受賞は、性的マイノリティが登場することについて予告編や雑誌インタビューで一切触れさせてこなかった『怪物』の宣伝・広報にとって最大級の皮肉となった。

プロデューサーのひとりであった山田もまた雑誌インタビューで『怪物』の構造に触れながら「ネタバレ」という言葉を使っている(Makino 2023: 41)。観客/読者には、映画を見終えた後にこの「ネタバレ」という言葉に立ち戻り、『怪物』の何が「ネタバレ」であったのか、またシネコンでかかる大規模予算映画の構造において、その何かはなぜ見えてはいけないものとして扱われているのかについて考えてほしい。なぜなら、是枝が望んだように、それこそが「できるだけ振り回された方が見終わった時に自分がどこに着地」したのかを認識する一歩につながるからだ(SankeiNews)。

映画製作はたったひとりで達成できるものではない。製作委員会方式で大規模予算をかけた映画であれば尚更だ。『怪物』の場合、脚本の初期段階で含まれていた性的マイノリティを可視化する要素が監督やプロデューサーとの議論、そして外部団体との相談によって削ぎ落とされていった可能性が高い。さらには、物語にとって重要な三幕について極力触れない宣伝・広報の戦略が、映画史における性的マイノリティの不可視の問題と皮肉にも合わさったことにより、結果として、映画の結末に対する批判へとつながっていったのだと考える。

『怪物』 6月2日 全国ロードショー © 2023「怪物」製作委員会 配給:東宝 ギャガ

性的マイノリティ表象をめぐる日本映画の未来……の前に、現在についても考えよう

『怪物』のパンフレットにおいて、あるインタビュアーは坂元に対して「アイデンティティに悩む少年たちを描いていて、それは近年高まっている問題意識とも重なります」と尋ねている(坂元 22-23)。たしかに2012年頃からのLGBTブームの余波を受け、とくに2018年以降のメインストリームの日本映画産業は、性的マイノリティが登場する映画を急速に製作してきた。このような映画産業の流れと並行して、日本社会では同性婚やトランスジェンダーの人権をめぐる議論が盛んになってきたが故に、インタビュアーは上記のような発言をしたのだと推察する。

しかし、性的マイノリティの人権や生活をめぐる問題意識は「近年」ようやく始まったものではない。異性愛・シスジェンダー中心主義社会のなかに性的マイノリティはつねに存在してきた。映画製作・上映の文脈で振り返れば、大規模なマーケットにはあがらなくとも、多くのインディペンデントの映画/映像作家たちが性的マイノリティの経験を真摯に描こうとする作品を遅くとも1980年代から作ってきた。

2020年代に入ってからも多くの画期的な作品が作られている。それらのインディペンデント作品の多くが単館系の映画館のみで上映されているため、アクセスの不均衡は課題として残るものの、VOD配信サービスの発展もあり、国内外のクィア映画を見て目の肥えた観客は多い。そうしたなかで、『怪物』が内包するある種の「遅さ」に苛立ち、残念さ、しんどさを覚えた観客もいるだろう。本稿は『怪物』を絶賛する観客を否定するものではない。むしろ、是枝が望んだように、『怪物』を見て「感動」し「気づき」を得たというのであれば、どうかいまは疲れ果てて動けない性的マイノリティやほかの社会的マイノリティの人権や生活を一歩でも改善させるような態度を示してほしい。そうすることで現在(いま)を生き抜く生命を『怪物』を通じてひとつでも増やすことができるはずだ。


参考文献
・生田綾・吉田薫「『怪物』是枝裕和監督、3年にわたる脚本・坂元裕二との協業を語る」『CINRA』2023年6月9日. https://www.cinra.net/article/202306-kaibutsu (最終アクセス:2023年6月12日)
・勝田智己「カンヌ映画祭便 是枝裕和監督「存在しない怪物を見せる」 カンヌ映画祭記者会見」『毎日新聞』2023年5月18日. https://mainichi.jp/articles/20230518/k00/00m/200/433000c (最終アクセス:2023年6月11日)
・坂元裕二「インタビュー」『「怪物」パンフレット』東宝、pp. 22-23.
・坪井里緒「映画『怪物』を巡って──「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ」『本屋lighthouse’s Newsletter』2023年6月7日. https://lighthouse226.substack.com/p/94f (最終アクセス:2023年6月11日)
・長谷正人「聡明な作家、是枝裕和」『文藝別冊 是枝裕和』河出書房新社、2017年、pp. 124-128.
・「プロダクション・ノート」『「怪物」パンフレット』東宝、pp. 40-45.
・Damiens, Antoine. “Queer Cannes: On the Development of LGBTQ Awards at A-List Festivals.” An Online Journal of Film and Moving Image Studies, 3(2), Winter 2015, pp. 93-100.
・Goldstein, Gregg. “John Cameron Mitchell Leads Cannes’ Queer Palm Jury: ‘Any Awards Help to Dignify Work.’” Variety. 17 May, 2023. https://variety.com/2023/film/news/john-cameron-mitchell-cannes-queer-palm-1235616531/ (最終アクセス:2023年6月8日)
・Makino, Tomoki「Interview 川村元気+山田兼司 “変える”をいとわない」『SWITCH』41(6)、2023年、pp. 40-41.
・SankeiNews「【ノーカット】カンヌ脚本賞の坂元裕二さんが記者会見」YouTube、2023年6月7日. https://www.youtube.com/watch?v=i5p-e88I_cA (最終アクセス:2023年6月16日)

『怪物』
6月2日 全国ロードショー
© 2023「怪物」製作委員会
配給:東宝 ギャガ

監督・編集:是枝裕和
脚本:坂元裕二
キャスト:安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太、田中裕子
音楽:坂本龍一
企画・プロデュース:川村元気、山田兼司
製作:東宝、ギャガ、フジテレビジョン、AOI Pro.、分福
公式サイト:gaga.ne.jp/kaibutsu-movie

久保豊

くぼ・ゆたか 日本映画史研究、クィア映画史/批評。金沢大学人間社会研究域国際学系 准教授。単著に『夕焼雲の彼方に─木下惠介とクィアな感性』(ナカニシヤ出版、2022)、編著に『Inside/Out─映像文化とLGBTQ+』(早稲田大学演劇博物館、2020)など。