藤原ヒロシが語る、パンクの“奥行き”とシチュアシオニスト、そして自身のクリエイション。「しないでおく、こと。」展(豊田市美術館)インタビュー

中学生の頃にパンクと出会い、シチュアシオニスト・インターナショナル(SI)やアスガー・ヨルンへと関心を広げた藤原ヒロシ。豊田市美術館の展覧会「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」で自身のSI関連のコレクションを初公開した藤原にインタビューを行った

藤原ヒロシ 撮影:青木兼治

愛知県の豊田市美術館で2025年2月16日まで開催されている展覧会「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」。権力支配への抵抗や逃走の実践を行うアナキズムに芸術の本来の力を認め、様々な時代や地域の表現や活動を紹介している。

本展の第3章「シチュアシオニスト・インターナショナルとアスガー・ヨルン」に自身のシチュアシオニスト・インターナショナル(以下、SI)関連のコレクションを貸し出しているのが、音楽プロデューサーの藤原ヒロシ(fragment design主宰)だ。藤原は中学生の頃に夢中になったパンクを入り口にSIに出会い、以降、関連資料をコレクションしている。また、本展第2章の主題である、芸術家やアナキストが集ったスイス・アスコナの「モンテ・ヴェリタ」へもプライベートで何度も訪れているという。

豊田市美術館では11月9日に藤原を招いたトークイベントを開催。ここでは、その模様とイベント後に実施したインタビューの様子をお届けする。SIやアスガー・ヨルンの表現との出会いとその魅力、そして自身が手がけるコラボレーションや現代のクリエイションに対する考えなどを語ってくれた。

シチュアシオニスト・インターナショナルへとつながる、パンクの“奥行き”

シチュアシオニスト・インターナショナルは、1957年にギー・ドゥボールやアスガー・ヨルンによって結成。都市を舞台に、剽窃と引用、転用と漂流といった手法を用いながら、労働と消費のサイクルに飲み込まれてスペクタクル化した社会を批判し、日常生活を転覆させる実践を行った。

本展第3章では、ドゥボールやヨルン、その弟のヨルゲン・ナッシュの作品や、SIの発行物、資料などを展示している。

第3章「シチュアシオニスト・インターナショナルとアスガー・ヨルン」展示風景

藤原ヒロシは、清永浩文(SOPH.)とともに手がけるブランド「ユニフォームエクスペリメント(uniform experiment)」にて、2021年のS/Sコレクションでアスガー・ヨルンのアートワークを用いたカプセルコレクションを発表した。そこでは本展にも出品されている、ドゥボールとヨルンによる本『Mémoires(メモワール)』の表紙のタイトルロゴをあしらったスウェットなどが販売された。

トークイベント冒頭、聞き手を務めた本展企画担当の豊田市美術館学芸員・千葉真智子は、展覧会の準備にあたってユニフォームエクスペリメントのコレクションの存在を知ったことが、今回藤原を招くきっかけになったと説明。

左から藤原ヒロシ、千葉真智子(豊田市美術館学芸員) 撮影:青木兼治

「アナキズム展なので、もっと排他的でパンクなものかと思って来たら、こんな立派な展覧会だとは(笑)」と客席を笑わせた藤原は、ブランドとヨルン作品のコラボレーションの意外な裏話から話し始めた。

じつはそれ以前からヨルンの作品を使ったアイテムを作りたいと考えていたが、提案先のブランドのコンプライアンス方針により実現が叶わなかったことがあったという。

「詳しい理由はわかりませんでしたが、作品のプリントに割れたワイングラスがあったり、タバコの吸い殻があったりしたのが引っかかったようです。僕がSIに興味を持ったのはパンクからですが、こんなことでもいまはコンプライアンスに引っかかるのかと余計にアナキズム精神みたいなものを感じ、どこかで発表したいと考えてSOPH.と一緒に作りました」

uniform experiment 2021 S/S COLLECTION「UE : FRAGMENT / ASGER JORN」のアイテム

そもそもパンクキッズだった藤原がSIへの関心に至るまではどのような経緯があったのだろうか。

「いちばん最初に“アナーキー”という言葉を知ったのもパンクからでした。中学1年生くらいのときにパンクロックがイギリスから出てきて、すごく影響を受けました。ほとんどの人はそこで止まったり、そのままパンクの音楽が好きになったり、あるいはパンクファッションが好きになったりしていくと思うのですが、なぜか僕はこのアートワークがどこから来ているのか、などを延々追い続けていて。最終的に辿り着いたのがSIだったんです」

アスガー・ヨルン、ギー・ドゥボール 『Mémoires』 1959 藤原ヒロシ氏蔵

セックス・ピストルズを生んだマルコム・マクラーレンや、アートワークを手がけたジェイミー・リードは、ドゥボールやSIに影響を受けていたことで知られる。また、ポストパンク/ニューウェイヴのアーティスト、ドゥルッティ・コラムの1stアルバム『The Return of The Durutti Column』(1980)はジャケットの表面が紙ヤスリ仕様になっているが、これは表紙が紙ヤスリになっている『Mémoires』へのオマージュだ。

「僕はドゥルッティ・コラムもすごく好きだったのですが、紙ヤスリのジャケットってレコード屋の棚に並んでいると、ビニール袋越しでもほかのレコードに傷をつけるんですよ。当時はギー・ドゥボールやアスガー・ヨルンのことを知らなかったので、めちゃくちゃなことをするな、すごく面白いなと思っていました。

それを調べていったら、じつはギー・ドゥボールやアスガー・ヨルンの『Mémoires』という本があって、そこから影響を受けていたと知ったり、バンド名もSI関連発行物からきているものだと知ったり、いろんなことがつながっていきました。

僕はよく“奥行き”という言い方をするんですけれど、パンクを知ったおかげでそこまでつながっていく。結果的にいま受けている影響もそうですし、そのおかげでこのような場所にも来られているというのは良いつながりだなと思っています」

アンドレ・ベルトラン 『ドゥルッティ連隊の帰還』 1966(複製) 豊田市美術館

バンクシーやアイ・ウェイウェイに通じる、既存の価値を転倒させる創造性

さらに、「『Mémoires』や『Fin de Copenhague(コペンハーゲンの終わり)』などを見ると、僕がすごく憧れていた70年代のパンクのアートワークや、そこにつながるコラージュ作品などのオリジナルがすべてここにあったというくらい、いっぱいネタが詰まっているんです。僕らもデザインするときに参考にするので、あまり知ってほしくない(笑)」と続ける藤原は、ヨルンやヨルゲン・ナッシュの作品が、その後のパンクのアートワークに影響を与えたように、「バンクシーやアイ・ウェイウェイも(アスガー・ヨルンらの作品からの)つながりがあるんじゃないかと思わざるを得ない」と語る。

アスガー・ヨルン、ギー・ドゥボール 『コペンハーゲンの終わり』 1959 ヨルン美術館

本展では、蚤の市で入手した絵の上から絵具を重ね、オリジナルがわからないほど別の絵に改変するというかたちで描かれたアスガー・ヨルンの作品が2点展示されている。

「それもバンクシーがやっていることに近いですよね。アイ・ウェイウェイにも《コカ・コーラの壺》という有名な作品がありますが、この作品も、もともとあった古いものの価値を、コカ・コーラという文字を描いて一度価値を消してしまうというところが、SIの考えと近いのかなと感じました」

アスガー・ヨルン 甘い生活II 1962 ヨルン美術館
アスガー・ヨルン エキゾチズム:極端な志向 1959 ヨルン美術館

創作と資本主義の関わりに思うこと

これを受けて、「いまは、そのように価値を転倒させたり、既存のものの文脈を変えたり、毀損したりする行為自体が、もう一度、資本主義的なものに取り込まれていくという、いたちごっこのようなところがあると思います」と千葉。

藤原は、「この展示をここでやっているのは本当にその通りですよね。僕はいつも、歴史になったものは、資本主義だろうがなんだろうが、そこを超越して、みんなが見て知ったり、学んだりするものだと思うんです。その途中段階、たとえば70年代にこの展覧会をやったら、もしかしたらバッシングがあるかもしれないですが、いまの時代から見ると色々なことにつながる重要なものなので、こういう場所でやる価値があるんでしょうね」と持論を述べる。

自身の手がけたユニフォームエクスペリエンスでのコレクションにも言及し、「SIは商業主義に反対した人たちの運動なわけで、僕もそれを洋服に落とし込むのはかなり矛盾があるとは思いました。僕は歴史のひとつとして考えていたので取り上げたのですが、もし本人が生きていたらどう思ったからわからないですよね」と語った。

豊田市美術館で行われたトークイベントに登壇した藤原ヒロシ 撮影:青木兼治

さらにアートマーケットとアーティストの関係性に触れ、「アーティストの方々が自分の作品がオークションに出たり、転売されることを嫌がったりするという話も聞きますが、オークションに出て価値がついたからこそ、その人のバリューが上がるわけですよね。それを本当にどう思っているのかなっていうのは知りたいです」と疑問を呈しつつ、「ただ僕の望むところですが、始まりはみんなやっぱり売るために作っているのではなく、自分が思う面白いことや社会に何かを訴えるということをやっているのだと思います」と続ける。

「展覧会の始めに新印象主義の作品がありましたが、当時はあの絵がすごく過激だったということですよね。それは僕らがいまあの絵を見ているだけではわからない。でもきっと作品を作っているときは、自分が何かを変える、何かに反対するという思いで作っていた。そういうことがアーティストをドライブする原動力なのではないでしょうか」

ポール・シニャック《サン=トロペ、グリモーの古城》 1899 静岡県立美術館  本展は1章「新印象主義とアナキズム」で、19世紀半ば以降のアナキズムの高まりと軌を一にした動向として、新印象主義のポール・シニャック、ジョルジュ・スーラ、カミーユ・ピサロらの作品が展示されている

そして最後に、「僕も含め、今日来ている人たちも帰ったら仕事があったり、一般的な生活を送っていると思うのですが、アーティストたちの作品に触れることで、一瞬でもどこかピュアな気持ちになるのはたしかですよね。帰り道の電車のなかでは明日の朝起きる時間のこととかを考えてしまうんですけど、『こんな暮らしもあるのか』とか『こういうのも面白そうだな』って思えるものに一瞬でも触れられるのが面白かったです」と展覧会の感想を述べて締め括った。

トークはここで終了かと思いきや、当日展示室で滞在制作を行っていた大木裕之が乱入するサプライズも。「ネオ・シチュアシオニスト」を名乗る大木の独壇場となりつつも、最後には大木が最前列の観客にスマートフォンを渡し、藤原、大木、千葉のスリーショットを撮って和やかにイベントは終了した。

アスガー・ヨルンの色使いやコラージュ感に惹かれた

トークイベント終了後、藤原に話を聞いた。

──まさかの大木さんの飛び込み参加がありましたね。

藤原 面白かったです。平和的アナキストでしたね(笑)。

──今回、SI関連の藤原さんのコレクションを美術館で公開するのは初めてだそうですが、いつ頃からコレクションされていたのでしょうか?

藤原 30年前くらいですかね。その頃はオンライン販売もなくて、日本でも見つからないので、フランスの知り合いに教えてもらった本屋でいつも買っていました。

──最初に買ったのは『Mémoires』ですか?

藤原 イギリスで出版された『Leaving the Twentieth Century: Situationist Revolutions』という本があって、それが最初かな。でも『Mémoires』の本物を見たときは感動しました。トークでも話しましたが、ドゥルッティ・コラムが好きだったので、紙ヤスリのジャケットは彼らがオリジナルだと思っていたんですよ。パンクから入っていって、どんどんつながっていった感じがしました。

──そもそも藤原さんは中学生の頃から現在まで、パンクのどのような部分にいちばん惹かれているのでしょうか?

藤原 パンクを始めた人たちは何か新しいことや変わったことをやろうと思っていたんですよね。僕がいちばん影響を受けたのは、セックス・ピストルズとマルコム・マクラーレン、ヴィヴィアン・ウェストウッドなのですが、彼らもそうだし、クラッシュ(The Clash)もそうだし、みんな同じ場所に居続けるというわけではなく、その時々で新しい面白いものにどんどん変わっていった。パンクだけでなく、パンクに影響を受けたミュージシャンやアーティストも、ヒップホップが面白そうだったらヒップホップにいったり、パンクの終結とともに放たれるように色んな方向へ進んだというのが、いちばん面白いポイントだったと思います。

たとえばエヴリシング・バット・ザ・ガール(Everything But The Girl)も、トレイシー・ソーンがピストルズをテレビで見て、触発されてパンクバンドを始めて、いまは全然違うことをやっている。でもきっかけがパンクだったというのは、すごく大きなことですよね。

本展で展示されている藤原ヒロシのシチュアシオニスト・インターナショナル関連の書籍コレクション

──マルコム・マクラーレンやジェイミー・リードと実際にロンドンで交流があったそうですが、当時彼らが影響を受けていたSIの話を直接聞いたことなどはありますか?

藤原 残念ながらそれはないですね。マルコムたちと出会ったのは80年代前半頃だったので、まだ僕もSIまでそんなにつながっていなかったと思います。SIについて知るのはその後でした。

──ご自身がパンクからSIにたどり着いたとき、その表現や思想など、どのような部分にパンクとの親和性を感じましたか?

藤原 最初に親和性を感じたのはデザインです。マルコムやジェイミーがSIにすごく影響されていたので、アートワークにそのまま使っていたからだと思うのですが。バンクシーもきっとパンクからSIに入っていったのだと思いますが、コラージュや、作品を上書きしてしまうというような手法も通じますよね。

藤原ヒロシのコレクションより

──なかでもアスガー・ヨルンに特に惹かれたのはなぜだったのでしょうか。

藤原 それも色使いやコラージュ感ですね。初めは『Fin de Copenhague(コペンハーゲンの終わり)』でグラデーションに色を使っているのがもっとも惹かれた部分でした。ほかにもモノクロに赤や水色のペンキを使っていたりとか、色の使い方が面白いんですよね。

政治的な活動やギー・ドゥボールが傾倒していった方向については、僕はあまり知らないんです。アナキストにもおそらく何種類かあって、過激な運動をして自分たちの手で革命を起こして社会を変えようとする人たちもいれば、そういう社会があるなら僕たちだけのユートピアを作ろうという人たちもいたと思うんですね。今回の展覧会もラディカルな運動というよりはアートの方にフォーカスしていますよね。

アスガー・ヨルン 無題(デコラージュ) 1964 ヨルン美術館

コラボレーションとタイミングの妙

──違う価値を持つものを組み合わせたり、すでにあるものを上書きしたりするという手法は、藤原さんが様々な企業やブランドとコラボレーションしたり、音楽活動でリミックスを手がけられたりすることと通じる部分もあるように感じます。

藤原 そうかもしれないですね、考え方的にはすごく通じるところがあると思います。洋服に本当にそのまま落とし込めているかというとあまり自信はないですが、音楽も含めて、異質なものを組み合わせたり、もともとあるものに手を加えたりするというのは、パンクから培ったものだという気がします。それはつまり、アスガー・ヨルンやSIからの流れということになりますね。

──最近Instagramではマッシュアップ音源をアップされていますね。

藤原 あれはテクノロジーの進化で神々の遊びができているんです。絶対ありえないであろう山下達郎さんと細野(晴臣)さんの合作とか(笑)。

──異質なものを組み合わせる面白さはどんなところにありますか?

藤原 いちばんやりやすいですね。僕はゼロから作り出すということはほとんどできていないと思うので、あるものをコラージュしたり、変化させたりするのが自分には合ったやり方なのかなと思います。

──たとえばルイ・ヴィトンのようなハイブランドやたまごっちなど、誰もが知るようなすでにイメージが固まったものとコラボすることも多いと思いますが、そこにご自身の色を加えるときにはどんなことを意識されていますか?

藤原 僕はわりと先方の意見を大事にして取り入れるようにはしているのですが、どこまで遊べるか、どこまでいじれるか、というのはいつも考えています。みんなが知っているもののほうがやりやすいし、やりがいもあります。マッシュアップでも、知らない曲と知らない曲を組み合わせても、誰も知らない曲が出来上がるだけなので。そういう意味では、ヴィトンでもたまごっちでも、誰でも知っている要素があるもののほうが自分のエッセンスを入れやすいというか。

──ヨルン作品とのコラボレーションがコンプライアンスでできなかったことがあるというのは驚きました。

藤原 あの柄のダウンとかあったらかっこいいですよね。その2年後くらいに、パリのポンピドゥー・センターでSIを取り上げた展覧会があったんです。当時一緒に仕事をしていたデザイナーたちはみんな若くてSIのことを知らなかったので、この展覧会のあとに「あのときにやっておけばよかった」って言っていました(笑)。

アスガー・ヨルン 無題 1961 ヨルン美術館

──たとえばUTなどでも古典絵画や現代アートなど様々な作品のTシャツが売られていますが、アスガー・ヨルンは作品を見て誰もがわかるアーティストというわけではないと思うので、受け入れられ方も違ってきそうです。

藤原 それはやっぱりタイミングで何を持ってくるかじゃないですか。

──アスガー・ヨルンはなぜあのタイミングだったのでしょうか。

藤原 誰もやっていなかったからというか、そこまで知られていなかったからこそ僕のなかではずっと旬が続いていたということかもしれません。

同じものでもタイミングによって物の価値はすごく変わります。アスガー・ヨルンに関してはそもそもタイミングがなかったので。だからちょうど誰もやってないし、良かったなと思います。

──先日、上海で行われたモンクレール「ジーニアス」の最新コレクションを発表するイベント「The City of Genius」では、リチャード・ウィルソンとコラボレーションされていましたね。こちらはどのような経緯で実現したのでしょうか?

藤原 80年代にロンドンを訪れたときに、サーチギャラリーの「オイルルーム」(正式な作品タイトルは《20:50》)に行って、すごく感動したんです。それがずっと記憶のなかにありました。今回のモンクレールは黒のダウンが多かったということもありましたし、上海の大きい場所でGeniusデザイナーそれぞれの「街」を作るというコンセプトだったので、ダメ元で「オイルルームでやりたい」って言ったんです。リチャード・ウィルソンに頼むのはさすがに無理だろう思ったのですが、一度頼んでみてくださいとお願いしました。

そうしたら本人がやりますと言ってくれて。すごく嬉しかったです。ダメだったら黒いガラスを使うことも考えたりもしたのですが、やはりオイルの見え方だとすごく奥行きが出るんですよね。しかもあれはコートが上下に動くんです。物が上に行くほど、反射のなかでは深く潜っていく。それはモンクレールの美術部が考えてくれました。「オイルルーム」は以前、東京都現代美術館にも来ていましたが、やはり知っているようでそんなに知られていない。だから良かったですね。

2024年10月に上海で行われた「The City of Genius」で披露された、リチャード・ウィルソンとのコラボレーションによるインスタレーション

──コラボレーションワークには、ほかの人と協働することの面白さというのもありますか?

藤原 協働よりも、僕はタイミングで何かを持ってきて組み合わせることに面白さを感じます。自分のなかに色々とアーカイヴがあるんです。もちろん忘れているものもあると思うのですが、「あの時に見たリチャード・ウィルソン」とか、「昔から好きなアスガー・ヨルン」とか、そういうものが溜まっていって、どこかのタイミングでうまく出せれば、と。

僕は7年ほどモンクレールで仕事をしているのですが、今回はたまたま黒が多かったこともあって思い出しました。実現できて本当に良かったですね。

モンテ・ヴェリタへの関心。押し付けたくないし、押し付けられたくない

──本展では、SIとは別の章でモンテ・ヴェリタを取り上げています。トークイベントでも藤原さんがモンテ・ヴェリタに行かれた際のお話がありましたが、モンテ・ヴェリタへはどのような興味から訪れたのでしょうか?

藤原 話には聞くけれどコミューンって実際に見たことがあまりなかったのもあって興味を持ちました。アナキストが集まる街というよりは、芸術家やベジタリアンが集まる街というふうに最初は教えてもらっていたのですが、それも気になって。コミューンに対するファンタジーが最初のきっかけですね。あのような場所があるというのが面白くて。

第2章「モンテ・ヴェリタ:逃避と創造の地」展示風景。19世紀末から20世紀初頭、産業化の進む都市を離れ、スイス南部のアスコナに多くの芸術家や思想家が集まり、コミュニティを形成。「モンテ・ヴェリタ(真理の山)」と名付けられた

──2020年のアルバム『slumbers 2』の収録曲「Pastoral Anarchy」は、モンテ・ヴェリタのことを歌った曲だそうですね。モンテ・ヴェリタで築かれたようなユートピアを目指す人たちが、なぜ攻撃的に過激化していくのかということへの疑問が根底にあったと過去のインタビューで語っていました。

藤原 そうですね。僕らだったらオウム真理教などが強く印象にあるのですが、オウムもきっと最初はコミューンみたいなかたちで楽しくやっていたものが、どこかのタイミングで過激志向になっていったのではないでしょうか。それがどのようなタイミングで起きるのか、なぜそうなるのかということが気になりました。

僕はどちらかというと、(僕らを)嫌いなんだったら僕はこっちで生活します、というほうがいいなと思うんです。嫌いな人をこちらの色に染めようとするのは間違っていると思うので。

Hiroshi Fujiwara「Pastoral Anarchy」OFFICIAL VIDEO

──この曲が発表されてから4年間のあいだに、コロナ禍や先日もアメリカ大統領選があり、世の中の分断や異なる主張の対立がより明らかなかたちで現れ、社会にも大きな影響を与えています。楽曲がリリースされてから現在までに何か考えに変化はありましたか?

藤原 いまも人に考えを押し付けるのは嫌だし、押し付けられるのも嫌だなと思いますね。宗教とかだとやっぱり自分が本当に良いと思ったら人に勧めたくなりますよね。それをどこまで押し付けずにいられるか。

──歌詞の中にある「争わない戦いもある、戦わない抵抗もある」というフレーズが印象的でした。

藤原 それはモンテ・ヴェリタで感じたことです。過激に戦うことだけじゃないというか、自分なりの過ごし方や戦い方みたいなものを見つければ良いのではないでしょうか。人に押し付けない、人に押し付けられない。

いまの世の中、本当に色々なところで押し付けがすごく多いと思うんです。SNSは特にそうですし、ファッションショーを見ていてもブランドが上から下まで押し付けてくるじゃないですか。

昔は好きなブランドの洋服があっても、デニムまではそのブランドが作っていなくて、デニムはリーバイスだったり、スニーカーを履きたかったらスニーカーブランドだったりと選べたのが、いまはひとつのブランドが全部作るようになりましたよね。それが個人的には良くないなと思っています。自分が好きなものを好きに選べるような状況になった方がいいなと思うんですよね。

第2章「モンテ・ヴェリタ:逃避と創造の地」展示風景

オーバーグラウンドとアンダーグラウンドの狭間で

──今回の展覧会でも、資本主義的な社会のなかでオルタナティヴな生き方を探るヒントとして様々な芸術家たちの実践が紹介されていますが、パンクなどのサブカルチャーに若者が社会変革の可能性を見ていた時代と比べると、いまはオーバーグラウンドとアンダーグラウンドの区別があまりなくなってきていることもあり、オルナタティヴを探りづらくなっている面もあるように思います。

藤原 サブカルチャーでいることは無理ですよね。いまはサブでいることが無理なので。でも、それぞれに考えてやっている人たちはいると思いますよ。ただそれがアンダーグラウンドでいられる時期が短い。本当にいまのスピード感なので仕方ないとは思うのですが。

──ご自身のお仕事や活動のなかでは、オーバーグラウンドに行きすぎないバランスを意識されていますか?

藤原 そうかもしれないです。多数派ではない立場でいたいなと。

──そのバランスはどのようにとっているのでしょうか。

藤原 断るものは有無を言わさず断りますし、本当の意味のマジョリティみたいな仕事はあまりやっていないつもりではいます。資本主義に取り込まれていると言えばそうかもしれないですが、そのなかで自分ができることをやっています。あとは、政治や国が絡むようなことはすべてお断りしていますね。

──オルタナティヴなやり方という点で、いま気になっているアーティストやムーブメントなどはありますか?

藤原 先週ロンドンに行っていて、以前からInstagramでフォローしていたUniform Displayというアカウントをやっている子たちと会いました。若い子たちのファッションスナップみたいなものから始まっているんですが、じつはやっている人たちは組織立ってちゃんと考えていて。タイアップにぎりぎりならないようなタイアップとか、溶け込むように見せている感じなどは、「なるほど」と思いましたね。すごく小さいチームなのですが、いまかなり成長していると思います。

撮影:青木兼治

後藤美波

後藤美波

「Tokyo Art Beat」編集部所属。ライター・編集者。