愛知県の豊田市美術館で展覧会「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」が12月24日まで開催されている(巡回:東京・パナソニック汐留美術館2024年1月11日~3月10日、青森県立美術館2024年3月20日~5月12日)。アメリカ近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライト(1867~1959)の日本では四半世紀ぶりとなる大回顧展だ。フランク・ロイド・ライト財団およびコロンビア大学エイヴリー建築美術図書館の全面協力を得て、日本初公開のライトの貴重な建築ドローイングを含め、図面や模型、豊田市美術館所蔵の家具など約420点を紹介している。
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自然と人間が共生する「有機的建築」を提唱し、「カウフマン邸(落水荘)」や「グッゲンハイム美術館」で知られるライトは、日本と深い縁で結ばれた建築家だった。熱烈な浮世絵愛好家であり、7回来日し今年竣工100周年になる「帝国ホテル二代目本館」(博物館明治村に一部移築保存)や「自由学園明日館」の設計を手掛けた。91歳の長寿を保ったライトが実現できた作品は北米を中心に500件余り。広範な業績をさらに解明すべく、2012年にライト財団から5万点を超す資料がニューヨーク近代美術館とエイヴリー建築美術図書館に移管され調査研究が進められてきた。
その最新研究を踏まえた本展を見て、建築史家の五十嵐太郎・東北大教授と映像作家・現代美術家の大木裕之に語り合ってもらった。近現代建築のみならずアートやサブカルチャーにも造詣が深く、多彩な評論・キュレーション活動を行う五十嵐と、カメラを手に世界各地を移動しながら作り上げる詩的な映像作品で知られ「もっとも好きな建築家はライト」と語る大木。東京大学工学部建築学科の同窓でもあるふたりに、本展を担当した豊田市美術館の千葉真智子学芸員も加わったエキサイティングな「F.L.ライト談議」をお届けしよう。
——おふたりには先ほど展覧会をごらんいただきました。最初にご感想をお聞かせください。
五十嵐太郎(以下、五十嵐):そうですね、まず来場者が多いことに感心しました。もちろんライトの人気のためだと思いますが、やはり住環境に関する展示は関心が高いのだなと。ライトの大型の展覧会は、僕は1991年に東京のセゾン美術館で開かれた「フランク・ロイド・ライト回顧展」を見ています。ル・コルビュジエ(1887~1965)に関する展覧会は、手を変え品を変え開催されていますが、ライトのまとまった展示は本当にひさしぶりで、そのことにも驚きました。
約30年前のセゾン美術館の回顧展は、ライトの仕事を包括的に紹介する内容でした。今回の展覧会は、様々な切り口からライトの業績に光を当て、とくにセクション3「進歩主義教育の環境をつくる」とセクション7「多様な文化との邂逅」は、いままでにない新しいライト像を提示していると思います。
五十嵐:セクション3は、女性のクライアントや同僚、友人との関わりや協働に焦点が当てられています。これまでライトは、女性に関するスキャンダル的な話は喧伝されてきましたが、じつは周囲の女性の多くはフェミニストで先進的な教育の場に携わっていた。日本で羽仁もと子・吉一夫妻が設立した自由学園を設計したのもたんなる偶然ではなく、もともと彼自身が進歩的な教育の場の環境に関心があり、アメリカでも近い仕事をかなりしていたのがわかって、興味深かったです。
女性建築家は1990年代頃から建築史でジェンダーの視点が導入されるようになりました。それ以前はプロジェクトを担当しても、女性建築家の名前は出ないことがほとんどでした。ライトの場合、マリオン・マホニー(1871~1961)という女性スタッフが初期に右腕だったことは特筆すべきだと思います。
セクション7は、日本の土浦亀城(1897~1996)・信子(1900~1998)夫妻やイタリアのカルロ・スカルパ(1906~1978)、フィンランドのアルヴァ・アアルト(1898~1976)ら他国の建築家との交流や、多様な文化に対する関心を取り上げています。ライトは早い時期からオランダで知られていましたが、展覧会のキュレーションや著作を通じてヨーロッパに自身の情報が伝えられていたんですね。そうしたメディア的な伝播も展示は見せて、ライト像がアップデートされ、現代の建築家にも通じる部分だと思いました。
——大木さんはいかがでしたか。
大木裕之(以下、大木):ちょっと展覧会とずれてしまうんですが、ぼくは様々な人が行きかうホテルが好きで、いまの三代目の帝国ホテルにもたまにお茶を飲みに行きます。そのたびに、なぜライトが設計した二代目本館を取り壊したんだ!と文句を言いたくなる(笑)。本当にもったいなかったよね。二代目本館が解体されたのはいつでしたっけ?
五十嵐:1968年です。建て替えが発表されたときに、日本の近代建築では初めてとされる保存運動が起き、建築家の谷口吉郎氏(1904~1979)が提案してロビー部分が博物館明治村(愛知県犬山市)に移築されました。地震や戦争があっても残っていたのですが、1970年の大阪万博を前に、当時の帝国ホテルは客室数が少ないから増やすために建て替えがされたんですよね。
千葉真智子学芸員(以下、千葉):そうです。1964年の東京オリンピックの際も解体する話が持ち上がり、いったん持ち越されましたが、大阪万博で東京にも海外観光客が多く流れ込んでくるだろうということで建て替えが決定されました。
大木:本展のセクション4「交差する世界に建つ帝国ホテル」を見ると、ライトが手がけた二代目本館は、都市計画と言えるぐらい規模が大きかったことがわかる。あれほどの大規模なライト建築は、その後アメリカでも実現しなかったでしょ? あと今回知ったけれど、現存するライト建築はアメリカと日本にしかないんですね。
千葉:イタリアやイラクでプロジェクトは提案しましたが、実現しませんでした。ヴェネチアのマシエリ記念学生会館は、1951年に設計を依頼され計画案を作成しましたが、建設に至らず、代わりにライト信奉者としても知られるカルロ・スカルパが設計しました。日本には、「帝国ホテル二代目本館」(1923)、「自由学園明日館」(1921、東京)、「林愛作邸」(1917、東京)、「山邑邸」(1924、兵庫、現ヨドコウ迎賓館)と4つのライト建築が現存しており、彼との深い縁を感じます。
——会場の後半で大木さんは、ライトが1956年に発表した超高層建築「マイル・ハイ・イリノイ計画案」の透視図に見入っていましたね。
大木:とてつもない高層計画(高さ1マイル=1600m、528階建てを想定)だよね。1%でも実現する可能性はあったのかな?
五十嵐:マイル・ハイ・イリノイは、当時は技術的にまず無理でしょう。現在世界一の「ブルジュ・ハリファ」(ドバイ)だって高さ828mですし。
大木:最後に展示されている映像インスタレーションは、ちゃんと見そびれたけれど何ですか。
千葉:1932年にライトが自著で提示した未来都市計画「ブロードエーカー・シティ構想」を、スペインの映像作家ディヴィッド・ロメロがCGアニメーションで再現した作品です。あまり一般に知られていない、ライトの未来に対する眼差しが立体的に空間に落とし込まれているので、来場者の方に体感していただければと思います。セクション6「上昇する建築と環境の向上」では、実現したオクラホマ州の「プライス・タワー」(1956)など、ライトの高層建築に触れています。ライト建築は帝国ホテルのように水平性の印象が強いのですが、高層ビルの可能性も提言しました。ブロードエーカー・シティ構想は、都市機能を集中させた高層ビルの周囲に、住民が農業を営む田園地帯が広がっています。彼の志向が、水平から垂直の高層建築との組み合わせへと螺旋状に進展したことがうかがえるのではないかと思います。
五十嵐:ブロードエーカー・シティ構想のビジョンは、ル・コルビュジエが著書『輝ける都市』(1930)などで発表した一連の都市計画案と対照的ですね。都心に高層建築群を集約させオープンスペースを確保するル・コルビュジエの構想に対して、ライトはアメリカの車社会を前提にテレコミュニケーションや空を飛ぶ乗り物を活用して都市を低密度化し、農村を融合しようとした。近年のコロナ禍によるテレワークの普及を先取りしていたようにも読めます。
解説によるとマイル・ハイ・イリノイ構想は、たんにライトが超超高層ビルを建てたかったのではなく、むしろ反転して高密度を通じて都市をなくしてしてしまう手段という位置付けだった。この文脈は考えたことがなかったのですが、今回ふたつの構想のつながりがわかりました。マイル・ハイ・イリノイのような超高層は、どうも建築関係者の琴線に触れるようで、いまも世界各地で計画が持ち上がりますが、形はライトがいちばんカッコいいですね。
——大木さんと五十嵐さんは、ともに東京大学工学部建築学科の出身です。会場では、ライトの初期の教会建築「ユニティ・テンプル」(1908)の模型を見ながら大学時代の話をされていましたね。
五十嵐:大木さんは僕より少し先輩です。当時東大では2年生後半から建築図学が始まり、授業でライトの「ユニティ・テンプル」やル・コルビュジエの「ラ・トゥーレット修道院」(1960)のパースや平面図を描いたのを思い出しました。吉村順三の「軽井沢の山荘」は、そのまま施工できるぐらい精密な矩形図を、「とにかく写せ!」と教授に指導されて懸命に描いた(笑)。まだライトがどんな建築家かよく分かっていない時期に、まず図面に接してデザインを叩きこまれたので非常に印象に残っています。
大木:僕は子供の頃から建築が好きで、中学高校のときから設計していました。たとえば家を設計して、ドアの形とか、具体的な生活のディテールを考えるのが楽しかった。東大に入ったときは、将来は建築家になりたいと思っていました。
五十嵐:僕は大学に入ったときは建築を学ぶつもりはなかったから、そういう話を聞くとすごいと思いますね。
大木:子供の頃から設計していたから、大学の授業では製図に自分の思いを込めていたんです。でも大学でいくらオーソドックスな設計を教わっても、僕がしたい表現は建築物として絶対に実現しないことにだんだんと気づいた。その頃、クラスで映画を作ることになり、僕が脚本と主演をやって、非常に面白かったんですね。当時は、平面表現と建築の図面をいかに統合させるかを問われている気がして、それが卒業設計の《松前君の日記帳》につながりました。これはフィクションの男子中学生の視点を通して設計図やダイヤグラム、マンガを織り込み、ひとつの建築・都市計画として作った作品です。大学卒業後に学んだイメージフォーラム映像研究所の卒業制作で、卒業設計を映像化した《松前君の映画》を作り、いまもシリーズとして継続的に制作しています。
——大学の卒業設計が、大木さんのライフワーク「松前君シリーズ」の原点になったわけですね。学生時代は、ライトに関心はありましたか?
大木:まったくなかった。当時いちばん関心があったのはコルビュジエかな。
——いつ頃からライトに関心を持ったのですか。
大木:僕は、砂漠があるアリゾナ州が好きで10回くらい行っているんです。2003年頃かな、当時教えていた大学の学生を連れて、ライトによる建築学校「タリアセン・ウエスト」(1938)を見学しました。そのときに感動したのが最初ですね。
——どのようなところに感銘を受けたのでしょうか。
大木:それが、よくわからないんですよ。「ああ!ああ!」という感じ。
千葉:なにか、ご自分と通じるところがあったんですね。
——大木さんの映像作品は、人間とその暮らしに注ぐプライベートな眼差しがひとつの特徴です。ライトは、人間生活と周囲の自然との調和を図る「有機的建築」を提唱しました。そうした建築哲学にも惹かれたのでしょうか。
大木:そうでしょうね。ライトの著作を読んだら、これがすばらしかった。明快な思想があって、言葉が詩的かつ的確で、ユーモアもあって。まさに哲学と実践の人。今回、彼の『ライトの住宅』を読み返したんですが、たとえばこのくだりには、非常に本質的なことが書かれています。
「合成材料であれ、自然材料であれ、それらの性質を無視または誤解した場合には、有機的建築は絶対にあり得ない。なぜといえば、“生きる”ということは完全な相互関係と完全な統合にあるからである。“成長するものはすべて単なる集合体ではない”というのはどんな成長の過程にも通じる第一原則ではないか。本質(ENTITY)としての完一性が第一に重要なことなのだ。そして、この完一性という意味は、そのどの部分も調和のとれた全体の一部分であるという以外に、その一部分自体としてはなんら重要な価値を持たないという意味なのである」(フランク・ロイド・ライト『ライトの住宅 自然・人間・建築』、彰国社、遠藤楽訳、1967年、p.13)
大木:これを読むと、ライトは素材や技術に対して信念があり、ミクロな細部にこだわりつつも、そこで人間が生活することを見据えて全体の空間的な調和を第一に考えていたことがわかる。その代表的な作品が、帝国ホテル二代目本館や自邸兼スタジオで、のちに学校も併設された「タリアセン」(ウィスコンシン、1911。1932年に同地にタリアセン・フェローシップが設立された)やタリアセン・ウエストだと思います。いっぽう、晩期の未来都市計画や超高層案は、リアリティが湧かなくて僕自身は関心が持てない(笑)。本当にライトは心底これがやりたかったのか?という疑問があります。最晩年に設計した「グッゲンハイム美術館」(ニューヨーク、1959)や「マリン群シビックセンター」(カリフォルニア、1963)なども行ったけれど、正直良さがよくわからなかった。
千葉:五十嵐さんは、ライトが室内装飾までこだわり抜いた帝国ホテルと、その後の彼の仕事についての大木さんの感想をどう思われますか。
五十嵐:帝国ホテルは、ライトにとって特殊な仕事だったと思いますね。日本の職人がきっちりと仕事をしたし、相応のバジェットもあった。おりしも女性問題が原因で母国では仕事がしづらい状況の中で来日したので、設計・施工に時間と労力をかけて名建築にできた。ライトは部屋を緩やかにつなぐ「箱の解体」というべき空間のデザインや、建物の高さを抑え水平性を強調した「プレイリー・スタイル」の住宅で最初に注目されましたが、帝国ホテル後にアメリカで仕事が再軌道に乗ると、個々のプロジェクト規模は概して大きくなり、もともとプレファブ工法に関心が高く、1940~50年代に簡易で手頃な価格の「ユーソニアン・オートマチック住宅」を提唱したように量産する建築も視野にありました。それで言えば、装飾性が強い帝国ホテルはやはり特異なライト作品と言えるのではないですか。
五十嵐:セクション4「交差する世界に建つ帝国ホテル」に、ライトの助手として来日した建築家アントニン・レーモンド(1888~1976)の不思議な人物スケッチがありましたね。
大木:あれね! 不穏な感じがして僕も驚いた。
千葉:帝国ホテルの設計に携わったレーモンドが、帝国ホテルの建設現場で働く職人たちの姿をモチーフにして描いた水彩画です。面白い絵ですよね。
五十嵐:先日訪れた東京ステーションギャラリーの展覧会「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」(11月12日で終了)でもレーモンドの絵画を紹介していました。彼は、梅原龍三郎や岸田劉生らが創設した民間美術団体・春陽会の客員会員でした。レーモンドはライトの許から独立して日本に留まり、数多くのモダニズム建築を残しましたが、画家の顔もあったんですね。
大木:レーモンドにはスパイ説がありますね。
五十嵐:第二次世界大戦の際、アメリカ軍の焼夷弾を開発する実験のために日本の木造家屋を作って協力しました。戦後は再来日して、再び設計事務所を開設し、多くの建築家を育てました。
大木:先日、栃木県の日光にあるレーモンド設計の「トレッドソン別邸」(1931)に行きました。以前に僕と二人展をやったアーティストの落合多武くんがアン・イーストマンさんとそこで様々な展示や実験的な企画を行っていて会いに行ったんです。豊かな自然環境の中あり、何とも言えない心地よさが味わえる住宅でした。それで今回、豊田市美術館に来て、外の庭園から美術館を眺めていたら、なんか廃墟みたいに感じてしまったんですね。廃墟の言葉が適しているかはわからないし、美術館は「芸術の墓場」という比喩があるけれど、その形容は違う気がするし……。
千葉:過去の作品を収蔵する美術館自体が廃墟性を持っているということでしょうか。それとも、日常生活と切り離された空間という意味合いですか?
大木:う~ん、生活との関係性かな。うまく言えないんですが。ここだけにそう感じるわけじゃないんですよ。もともと僕は、ほとんどの現代建築に否定的ですから。
——大木さんは、現代建築のどのようなところに違和感があるのですか。
大木:そもそも、何を「建築」ととらえるかだよね。僕にとっての建築は、意匠ではなく、時間だったり、ある場所に人が集まったり、その人たちの動きだったり。活動拠点がある高知ではJR旭駅がいちばん好きな建築で、時々駅前のベンチに座って眺めています。可愛い三角屋根があるけれど、外見のデザインが気に入っているわけではなくて、駅舎に出入りする人々を見て思い続けることが僕には大事。大切なのは、その場所と人間の関係性ですよ。器(うつわ)じゃない。
あと僕が現代建築を好きでないのは、たぶん美術館に限らず、「ここの中で」という規定性を感じるから。きっちりとゾーニングがなされて、様々な規則があって、逸脱は許されない雰囲気がする建築が多い。本能的なものが圧迫されるというか、僕は息苦しさを感じてしまう。だから、いまの現代建築に近いライトの晩年の作品に違和感があるのかもしれないね。
——展示室が螺旋状のグッゲンハイム美術館は、ライト最晩年の作品です。
五十嵐:壁は湾曲しているし、スロープの床が傾いているので、展示環境として難しいと言われますね。2006年に開催された建築家ザハ・ハディド(1950~2016)の個展では、ドローイングを斜めにかける展示を行い、それが彼女のデザインにも合っていて感心しました。美術の専門家から見ると、美術館施設としてはどうなんでしょうか。
千葉:一般的にあまり評判は良くないようです。ただ、同僚の能勢陽子学芸員によると、「日付絵画」で知られる美術家の河原温(1932~2014)の回顧展(2015)では、スロープを降りていくにつれ、制作年が遡るように作品が展示され、人類の歴史を包み込むような作風と非常にマッチしていたそうです。抽象絵画の先駆者として再評価が進む女性画家ヒルマ・アフ・クリントの展覧会(2019)も、作品との相性は良かったと思います。彼女自身も渦巻状の美術館を構想していました。時間や進化などを扱うコンセプチュアルな作品やスピリチュアルな傾向がある作家と相性が良い美術館なのかもしれません。
大木:2013年に開催された具体美術協会の回顧展「具体:素晴らしい遊び場」(2013)を見ましたが、高崎元尚(1923~2017)の《装置》が唯一、展示に違和感がなかったね。
五十嵐:ライト90歳のときの作品がイラクの大バグダッド計画で、マイル・ハイ・イリノイ計画を89歳で考案しています。あらためて年齢を考えると、すごいよね。
——失礼ですけれど、五十嵐さんと大木さんがライトのように90歳過ぎまで活動されるなら、現在がおおよその折り返しに当たり、あと30年以上あります。
ふたり:(笑って)たしかにそうだね。
千葉:ライトは1914年、47歳の時に二度目の妻が使用人に殺害される悲劇を経験しました。衝撃的な事件でしたが、その後立ち直って設計に邁進し、91歳で亡くなるまで現役を通し、さらに2回結婚しました。かなり強い精神力の持ち主だったのではないかと思います。
——五十嵐さんにお尋ねしたいのですが、日本建築にライトはどのような影響を与えたのでしょうか。ライトは、コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969)とともに「近代建築(モダニズム建築)の3大巨匠」と呼ばれます。しかし、五十嵐さんが指摘されたようにコルビュジエに比べると展覧会の数はこれまで多くなく、現代の日本の建築家が影響を受けたと名前を上げることもコルビュジエほど頻繁ではない気がします。
五十嵐:ル・コルビュジエは、直接パリで教えを受けた弟子たち(前川國男、坂倉準三、吉阪隆正)が戦後日本の建築界をけん引し、彼の建築思想の普及にも努めたので、他の国に比べて日本は圧倒的に影響が大きい。ただ僕が大学生だった80年代は、モダニズムの反動のポストモダンの時期だったから、ル・コルビュジエもミース・ファン・デル・ローエも「仮想敵」のような存在として批判の矛先が向かうことが多く、心酔する若手は少なかった気がします。むしろル・コルビュジエは、ポストモダンが終焉した頃から、評価が爆上がりした印象があります。
いっぽうライトやアアルトは、ポストモダンの時期もさほど批判対象にならなかった気がします。それは、ライトの建築が幾何学的でありながら装飾的要素も備え、モダニズム建築と言い切れない性質があるからかもしれません。僕が建築製図を教わった東大・駒場の先生方は、大体ライトが大好きでしたね。もちろん思想に共鳴したからだと思いますが、シンプルに彼のドローイングは非常にセンスが良いので、そこにも先生方は痺れたんじゃないかと僕は想像しています(笑)。実際、ライトふうのドローイングを描く建築家は、上の世代にかなり多いです。
——ライトふうの建築ドローイングとは、どのようなものですか?
五十嵐:簡単に言うと、建物の水平性が強調され、手前に植栽を入れ込むなど、周辺の自然環境を併せてフレームの中に収めたもの。手前に樹木などを入れる構図は、もともとはライトが浮世絵から着想したそうですが、本展にも彼が影響を受けたと思われる歌川広重(初代)らの作品が紹介されています。現代の日本のハウスメーカーも、「ライトふう住宅」をうたい文句にしている会社がありますね。
——ライトの住宅建築は、普遍的イメージを伴うある種の「ブランド」といいますか、居心地の良さの象徴になっているのでしょうか。
千葉:本展会場に、ライトが提唱したユーソニアン住宅の原寸モデルを展示しており、ベンチにも座っていただけます。実際に体験すると、天井が低くて親密感がある空間は、日本人のスケール感に合っている気がします。
——ライト建築がメディアを介して伝播した話がありましたが、五十嵐さんが著書『映画的建築/建築的映画』(2009、春秋社)で取り上げたライトをモデルにしたとされるハリウッド映画「摩天楼」(1949、キング・ヴィダー監督)を先日Netflixで見ました。
五十嵐:アメリカの女性作家アイン・ランドのベストセラー小説『水源』が原作で、主演のゲーリー・クーパーが天才的建築家を演じています。映画ですごかったのは、自分が描いた設計図が現場で勝手に変更されたことに怒った建築家が、建設途中の集合住宅をダイナマイトで爆破しちゃう。逮捕され裁判にかけられるのですが、「創造者は絶対的に正しい」という趣旨の大演説をして無罪を勝ち取り、ラストは恋人の女性が見上げながらエレベーターで登っていくビルの屋上に、彼が仁王立ちしている場面で締めくくる(笑)。いま見ると、じつにマッチョな建築家像が描かれていてびっくりします。ただ、だいぶ上の世代に聞くと、あの映画に感銘を受けて建築家を志した人も多いみたいですね。
——映画に出てくる建築までライトふうでした。今回の展覧会で民主的理念を持ち、フェミニストに理解があったライト像がうかがえたので、気の毒な感じがします。
五十嵐:モダニズム建築は「闘う建築家」のイメージが刷り込まれているから、新しい理想を掲げたライトがイコン的にモデルにされた可能性はあります。また彼は、アイン・ランドのスタジオの設計を依頼され、交流もあったようです(スタジオは未完成)。でも、ライトは映画の製作に関わっていません。だって、あんな建築家像は滅茶苦茶じゃないですか(笑)。
——大木さんは、ライト本人かライト建築をテーマに映像作品を作りたいと思われますか?
大木:作品を作るなら、彼の建築に通ったり、滞在したりして、じっくりと時間をかけてイメージを膨らませたい。僕の制作パターンとしては、ひとつの場所単体で撮影することはまずないので、たとえばアリゾナのタリアセン・ウエストとほかの場所の作品を行ったり来たりすれば、何かつかめるかもしれない。たんにライト建築やその空間を撮影したドキュメンタリーでは、彼の思想やスピリチュアルな部分に踏み込めないと思うし、僕に興味があり探求したいのはその部分なんです。
五十嵐太郎
いがらし・たろう 1967年パリ生まれ。東京大学工学部建築学科卒、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。2009年から東北大学大学院教授。第11回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館コミッショナー(2008)、あいちトリエンナーレ2013芸術監督。2014年、芸術選奨芸術振興部門新人賞。著作に『現代建築に関する16章』(講談社現代新書)、『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)など多数。
大木裕之
おおき・ひろゆき 1964年東京生まれ。高知、東京ほかを拠点に活動。東京大学工学部建築学科卒。同大在学中の80年代前半より映像制作を開始。生活と制作が一体的な自身の日常から掬い取った膨大なイメージを重ねて紡ぎ出す映像表現が国内外で高く評価され、国際展にも多数参加。近年のおもな個展・グループ展に「大木裕之|判断の尺度vol.4」(2022、東京・galleryαM)、「恵比寿映像祭2023」(東京)など。