愛知県の豊田市美術館で芸術とアナキズムをテーマにした展覧会「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」が2025年2月16日まで開催されている。
本展では、権力支配への抵抗や逃走の実践を行うアナキズムに芸術の本来の力を認め、現代の硬直化した社会を突破する契機ともなる可能性を問いかける。スイスのモンテ・ヴェリタに集った芸術家たちや、シチュアシオニスト・インターナショナルなど、歴史のなかの人々の実践を紹介するとともに、1970年代以降、制作を続けてきたロシアの集団行為やマルガレーテ・ラスぺ、さらに、コーポ北加賀屋、オル太、大木裕之ら現代の作家を取り上げている。
参加作家の1組であるオル太は、2009年に結成され、現在は井上徹、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chiの5人で活動する芸術家集団。膨大なリサーチやフィールドワークを重ね、自らの身体を媒介として表現する挑発的でユーモラスなパフォーマンスやアクション、インスタレーションなどを発表してきた。
本展では、「団地」の成り立ちから着想を得て、豊田を含むいくつかの地域をリサーチして制作した《Living Conditions》を発表。美術館内で様々な状況を作り出しながら撮影された映像作品と、撮影のセットとして用いられた構造物などが置かれたインスタレーションが展示されている。今回はメンバーのメグ忍者とJang-Chiにインタビュー。《Living Conditions》の制作背景、アナキズムとの関わりなどについて話を聞いた。
──アナキズムは日本語だと「無政府主義」と訳され、一般的にどこか過激なイメージなどもあるいっぽうで、近年は様々な書籍が出版されたり、相互扶助や市民の連帯、人間の自由を追求する考え方といった観点で新たに注目を集めています。今回の展覧会もそうした流れのなかにあると思いますが、初めにアナキズムがテーマである本展の話があったとき、どのようなことを思われましたか?
メグ忍者:大学時代に『スペクタクルの社会』などギー・ドゥボールの本を読んだり、そのような観点で色々と個人的に物事を考えたりしていたので、展覧会のコンセプトを聞いて馴染みがありましたし、面白そうだなと思いました。
Jang-Chi:今回の展覧会は、集団の作家の活動やアクションからアナキズムをとらえる視点が、面白いなと感じました。
──自分たちで家を建て、創作や生活を営む《耕す家》(2009〜)をはじめ、これまでもオル太の活動のなかにはアナキズム的な精神と通じるところがあると思うのですが、もともと皆さんのあいだでシェアされている感覚としてアナキズムの思想は存在していたのでしょうか。
メグ忍者:普段からミーティングのなかでアナキズムという言葉が出るというわけではないのですが、大学時代に学校に小屋を建てちゃうような人が集まっているので、法や制度の隙間をいかにかいくぐって作品を作れるか、ということは学生時代から考えていました。
Jang-Chi:実際、《耕す家》も法や規格をどう考えるかという点があります。いままで2回、千葉と茨城に建てて活動しましたが、1回は仮設建築物としての許可をとりました。
──オル太としては、初期からそのように制度や決められたものをいかにすり抜けるかという実践をやられてきたのですね。近年アナキズムの考え方に新たに関心を持つ人が増えているように、社会の変化に伴って作品の見られ方も変わってきたと感じられたりもしますか?
Jang-Chi:コロナ以降、閉塞感が強くなったり、ネットやSNSでの情報が過多になったりしたことで社会の断絶や地球環境の変化などを感じる状況のなかで、コレクティヴや身体表現への関心があると思います。
──今回の展覧会で発表されている《Living Conditions》は、集合住宅である団地がテーマになっています。
メグ忍者:今回団地を扱おうと思ったのも、団地って部屋は全部一緒だけど、その中で暮らしている人たちは生活態度がそれぞれ全然違っていて、集合住宅には隣の人が何をしていて、何を考えているかわからない怖さみたいなものがあると考えたのがひとつのきっかけでした。団地が建てられた全盛期からいまに至るまで、人が集団でひとつの建物に押し込められている状態と日本の独特な雰囲気のあいだに通じるものがあるような気がしていて。
かならずしも隣の部屋で危ないことをしているというわけではないけれど、集合住宅における「見えなさ」や、他の人とあまり会ってはいけないような気がしてある種の防御線を張るようなことがずっと続いているのは、日本のなかにある、人と交わらないようにするような感覚とつながっているように感じるんです。
──映像作品のエレベーターのシーンでも、「誰かに会っちゃったらどうしよう」と話す場面がありましたね。私もなんとなく同じ階の住人になるべく会わないようにしてしまいがちなのですが、そういった意識はコロナ禍でより強くなったようにも思います。
メグ忍者:それはかなりあるとは思うのですが、いまはもう世の中的にコロナを忘れようとしていますよね。当時はコロナという脅威があったから、そこから自分の身を守るために孤立するということでしたが、いまは「日常を取り戻す」という方向になっています。
でも、自分たちが考える日常ってなんなんだろうっていつも思うんです。いろんな人が「日常」って言っているけど、様々な日常があってひとつではないのに、「これがひとつの日常です」ってどこか決めつけられているようなところもあるのではないでしょうか。何か日常を「人並み」にしていかないといけないような風潮も感じていて、それをどうにか壊せないかとも考えました。
Jang-Chi:今回の作品では展覧会タイトルから「資本や労働からの逃走や失踪」をイメージして、人の労働や資本のロジスティクスとしての団地という側面に着目しました。
──ロジスティクスとしての団地というのは、日常を営む人や物の流れが起きる場所としての団地ということでしょうか?
Jang-Chi:はい。団地には生活や産業においてインフラや物流の効率化が図られているという側面がありますが、それがどのように計画され、使われてきているかということに注目しました。
──戦後すぐは庶民の憧れの住まいでもあり、やがて大衆化し、そして老朽化が進むようになっていった団地は、近代日本の流れの象徴的な存在のひとつです。いまのお話を伺うと、世の中がひとつの日常に戻ろうとしているなかで、そのような大きな流れから見えなくなってしまっているもの、こぼれ落ちているものを掬い取るような視点も、映像作品からは感じられたように思います。
Jang-Chi:今回の作品を作るにあたって、いくつかの団地を訪れました。豊田の保見団地は、自動車産業に携わる労働者がかつては日本の各地から集まったけれど、いまでは移民の方が住む場所にもなり、箱は変わらないけれど、そこに住む人や生活のあり方は時代とともに変わっていく。それは豊田という場所の一側面ですが、別の場所に行くとまた違うものが見えてきます。
福岡で行った浜松団地はかつて金平団地と呼ばれていた場所なのですが、朝鮮人の方が多く住む団地で、その場所にはその場所の歴史的な経緯や、自分たちの視点からは見えていなかったものが現実としてあります。高齢者にまつわる問題や孤独死なども団地を通じて見えてくる問題ですが、団地ができていく過程から見えてくる問題はじつに多岐にわたるんだなということを、リサーチのなかで感じました。それは自分たちと関係ないものではなくて、むしろ自分たちの現実のなかに生きている。そういった事象を、演じることを通して作品として提示したいなと思いました。
数年前に鉱山や炭鉱をテーマに《生者のくに》(2021)という作品を作ったのですが、鉱山や炭鉱の閉山が団地造成にもつながりがあったことは今回初めて知りました。
──様々な場所の団地をリサーチされたということですが、メグ忍者さんご自身が住んでいた団地のことも映像作品には反映されているそうですね。
メグ忍者:はい。私は実質1年くらいしか住んではいないのですが、私の母が団地で生まれ育っています。私も子供の頃からよくおばあちゃんの家の団地に行って、長い時間滞在していました。その記憶から今回の脚本が書かれています。
──団地のセットは、日本で初めてダイニングキッチンが導入された東京の晴海団地をモデルにしているそうですが、内覧会では大量生産が可能なステンレス製の流しの登場によって、ダイニングキッチンが資本主義下の女性の地位向上に貢献したと説明されていました。映像のなかでは夫の介護をする妻や娘の姿もありましたが、キッチンとつながった部屋にいる女性と寝室にいる男性で空間が違うなど、団地という構造のなかで自由にもなるし、縛りつけられもする女性への視点も感じました。
メグ忍者:そうですね。私の母方のきょうだいは男性が一人だけで、ほとんど女性だったんです。その一人の男性も高校を卒業してすぐ家を出たらしいのですが、家にいるのが女性ばかりという状況が多くて。祖父が早くに亡くなって、家事は専業主婦だった祖母がほとんど一人でやっているというような感じでした。
晴海団地へのダイニングキッチンの導入は浜口ミホが考案したものですが、ダイニングにテーブルがあり、そこでご飯を食べるという西洋的なあり方を推進していましたよね。でも、実際には家の中に家族がたくさんいて、テーブルには物が置かれるようになり、そこではとてもじゃないけどご飯を食べられないから、従来の日本的な生活通りにちゃぶ台でみんながご飯を食べるという状況になっていて。団地が設計されたときの理想と現実とはかけ離れた状況になっているんですよね。映像のなかではそれを描いています。
──リサーチの時点では、そのような内容にするというのは見えていたんですか?
メグ忍者:いや、まったく見えていなかったですね。自分の記憶を扱うことも、本当に最終段階になって初めて出てきました。すべての要素を並列に扱うために、リサーチをして全部が出揃ってから書き始めるというスタイルでやっています。
いつもそのときの記憶の順番にテキストを書いていくので、意図していない部分のほうが多いのですが、ひとつの事柄が別の事柄にだんだんとつながっていって、意図していなかった部分がそのうちに全体の軸になっていく、というような感覚ですね。
──リサーチや対話をするなかで出てきた歴史的な事実や個人の記憶を扱うにあたって、その扱い方や物語としてどの程度抽象化するかといった距離感についてはどのように考えていますか?
メグ忍者:作品によって全然違うのですが、今回は自分の個人的で主観的な感覚が結構強くありました。団地というプライベートな空間を扱うからこそ、そういう描き方になっていったのだと思います。
Jang-Chi:物語としてどのような展開ができるかというよりは、物の記録や記憶から状況をとらえようとしていたり、役が変わって、想定していない人がテキストを読んだとしても、それによって創造性が生まれるというようなこともあります。メグ忍者の脚本を読んでいるとそのような開かれ方を感じることが多いですね。
メグ忍者:テキストで自分が想像しているイメージがあっても、受け手とそのイメージをなかなか共有できない部分もあると思うんです。その人がテキストと自分の記憶や自分の中のイメージとどのように結びつけるかは本当に様々な解釈があると思うので、その自由度は残しておきたいなって思っています。
Jang-Chi:セットや撮影に用いた造形物が同時多発的にできていくということもオル太の特徴だと思います。今回の作品でもメグ忍者の脚本があるから生まれたものもありますが、インスターレションについては脚本ができる前にすでに考えていました。あらすじや内容をリサーチの過程で共有していて、すべてが同時に作られていく一方、詳細の部分は結構それぞれに任せられています。
演じることを通して、その役が自分とともにどうあるかということを提示できると思います。メグ忍者が言ったようにそれぞれの解釈が混じり合うことで、その場で演じることの可能性が広がるんです。今回は美術館自体を撮影場所として使わせてもらい、様々な場所で状況を構築することができました。
──撮影は展示室以外の通常は入ることのできない場所も使われているそうですが、今回はすべて美術館内で撮影を完結させることも重要でしたか。
メグ忍者:今回の場合、撮影する環境が変わることは作品の内容を考えると違うように思いました。集合住宅の同じ空間にずっとい続けるということとつなげるためには、美術館内で撮影するということは重要だと考えました。
Jang-Chi:美術館で撮影するということは、本来とは全然違う想定でその場所を使っていることになります。映画だったら、たとえば中華そば屋のシーンを撮影するときに実際の中華そば屋さんを借りたり、精巧なセットを作ったりしますが、今回は中華そば屋のシーンを美術館のエントランスで撮影しています。エントランスを中華そば屋に見立てるから、そのために最低限必要なものは何かを考えました。
メグ忍者:最低限、これとこれがあれば中華そば屋に見えるっていうものですね。
Jang-Chi:そうすると全然論理が変わるというか、何を重要に考えるのか、撮影における物の意味が変わる。中途半端に外に飛び出してしまうと情報が多すぎるので、セットや美術館のなかで変わっていくということが重要でした。
──《超衆芸術スタンドプレー 夜明けから夜明けまで》(2020)でもリサーチをもとに脚本を作り、撮影されたセットのなかで映像を見せるという手法をとられていました。観客としては、映像を見ながらそれがいま自分がいる展示室で撮影されたということに気がつくと、急に作品に自分が巻き込まれるような感覚もありました。
メグ忍者:観客と舞台の入れ子構造というのは、最近オル太で考えていることです。観客は見ている存在でもあるし、見られている存在でもあるから、じつは次に舞台に立つのは観客かもしれない。そういうことを作品のなかで実験的にやろうとしています。観客もそのうち参加してしまっている状況に陥るというか。たとえば自然と拍手しちゃうとか単純な動きもそうですが、無意識な動きも演じることにつながっていくという感じです。
──観客も油断できない感じがあります。
Jang-Chi:まさにそういう作品を作りたいなと思っています。見せるほうも見るほうも、その状況をどうとらえたかということが身体を通じて顕在化されると思うんですね。そうやって直接的に対話が行われることの重要性は感じています。
──今回の展覧会は「抵抗」がひとつのキーワードになっていますが、いま様々なフィールドで既存の仕組みを疑ったり旧来の制度に抵抗したりする動きがあると思います。オル太としては、たとえばストレートにメッセージや行動として打ち出すというよりも、いかに主流から外れた視点や既存のシステムにはまらない手法を用いて抵抗につなげるか、ということは意識されているポイントですか。
メグ忍者:権力と直に戦うというのは、アクティヴィズムになってきますよね。オル太の作品の中にもアクティヴィズム的な要素はあると思うのですが、自分たちは美術をやっているので、美術作品としてどう抵抗できるかっていうことは考えています。
いまはあらゆる主張があると思っていて、そこからどれかひとつをとるということが難しいと感じています。なので、あらゆる主張をとにかく並べて見せることで、受け手がどう受け取るかということを挑発していきたいとは思っています。でも、実際に作家側が持っている主張というのは、作品を通して見たときに最後に見えてくるものなのかなと思います。
Jang-Chi:作品から見えることが何に基づいているかという問いかけが美術としての価値判断の豊かさでもあると思うんですよね。政治的なテーマが作品を通して浮かび上がってくること自体、ある種作家としてのスタンスが出ている。美術作品として何を重要なものとして残すのか、そして最終的にどのような意味を成しうるのかということにおいて、何かの主張が強ければいいとは言い切れないと思うんです。例えば親しい人や身内のなかでも意見が全然違うことってありますよね。そういった現実のなかでどんなことを提示できるのか考えています。
メグ忍者:状況がくれば街に赴いてアクションをするという方法をとると思うんですよ。すべてを手放したわけではないです。
──最後に、今回の作品も踏まえて、今後取り組みたいと考えているテーマなどがあればお伺いできますか。
メグ忍者:今回の作品ともかなりつながっていますが、女性の労働のあり方に着目した作品を「あいち2025」で発表する予定です。
オル太
ヴィジュアルアーツ/パフォーミングアーツの制度との折衝、社会学的/民俗学的フィールドワークを重ね、絵画、インスタレーション、映像、パフォーマンス、演劇など、様々な手法を用いて活動を展開する5人組のアーティスト集団。メンバーは井上徹、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chi。これまで参加した展覧会に、「青森EARTH2019:いのち耕す場所 -農業がひらくアートの未来」青森県立美術館(2019年)、釜山ビエンナーレ(2016年)、「内臓感覚 — 遠クテ近イ生ノ声」金沢21世紀美術館(2013年)など。公演にYPAMディレクション、ロームシアター京都、KAAT 神奈川芸術劇場、ソウル・マージナル・シアター・フィスティバルなど。第14回岡本太郎賞受賞(2011年)。