NHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」が2025年1月から放送される。主演を横浜流星、脚本を森下佳子が手掛ける本作の主役は、江戸時代の出版人・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう、通称:蔦重、1750〜1802)。近年は「江戸文化の仕掛け人」「名プロデューサー」「メディア王」などとも評され、蔦重なくしては浮世絵の現在のような芸術的名声もなかったと言っても過言ではない人物だ。とくに喜多川歌麿・東洲斎写楽を世に送り出したことで知られる。
大河ドラマのタイトルの「べらぼう」は、もともと「たわけ者」「バカ者」という意味だったものが、時代とともに「甚だしい」「桁外れな」という意味に変化した言葉だという。そんな常識外れな発想や行動で江戸時代を駆け抜けた蔦重とはどんな存在だったのか? その歩みをダイジェストで解説。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期にあたる寛延3年(1750)1月7日に生まれ、遊郭の街である江戸の新吉原(現在の東京都台東区)で育った。重三郎が7歳のときに両親が離婚。養子となった喜多川家は吉原で茶屋を営んでおり、その屋号が「蔦屋」だった。この「吉原育ち」という生い立ちとネットワークが、重三郎が出版事業を立ち上げる土台となる。
20代で吉原大門前に書店「耕書堂」を開業。重三郎の初期の活動でもっとも有名なのは『吉原細見』に関わるものだろう。『吉原細見』とは吉原のガイドブックと言えるもので、吉原にある妓楼とそこに所属する遊女、廓内の略図、揚げ代金などの情報を掲載したもの。重三郎はこの販売権を獲得し、自らの小さな書店で販売した。
当時『吉原細見』は、鱗形屋孫兵衛(うろこがたや ・まごべえ、大河ドラマでは片岡愛之助が演じる)が営む大手の地本問屋(江戸で出版される大衆本=地本の出版から販売までを行う)「鶴鱗堂(かくりんどう)」が制作をほぼ独占してたが、ここに編集者として滑り込み、そのお株を奪ったのが重三郎だった。
重三郎は『吉原細見』の情報アップデートを任され、改訂版が安永3年(1774)に発行。このとき序文を書いたのが、当時マルチな才能で人気を博していた平賀源内(大河ドラマでは安田顕が演じる)だ。男色家として知られる源内を起用したことで江戸の人々を驚かせ、注目を集める手法には、重三郎のマーケティング力が見て取れる。
しかし翌年、鱗形屋が不祥事を起こし、『吉原細見』の刊行が困難になってしまう。すると重三郎は「待ってました」と言わんばかりの勢いで、これにとって代わって『籬の花』と題した『吉原細見』を自ら発行。地縁を生かしたこの『吉原細見』は、鱗形屋から出していたものを凌ぐ内容の充実ぶりによって一躍大人気となり、版元としての地位を築いた。また判型を大きくするなどレイアウトを変更し、ページ数を減らすことで価格を抑えるといった消費者目線の企業努力も功を奏した。
当代一の絵師、勝川春章(大河ドラマでは前野朋哉が演じる)と北尾重政(大河ドラマでは橋本淳が演じる)を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』も、吉原育ちの重三郎らしいヒット作。68人の遊女の姿が、四季の移ろいとともに鮮やかに描かれた。
当時の江戸吉原は、知識人が集う文化サロン的な場所でもあった。1780年代前半は、社会風刺や皮肉などを盛り込んだ狂歌が大流行。蔦重自身も文人・狂歌師の大田南畝らが開催する狂歌会に参加する文化人であり、こうしたコミュニティで育まれた江戸時代の娯楽文化の粋を集めた狂歌本と黄表紙を刊行することで、さらに版元として駆け上がって行った。
黄表紙とは挿絵と文章が合わさった、現代のマンガや絵本のようなスタイルの書物。内容は洒落やギャグ、世相や政治を揶揄する風刺が盛り込まれており、軽妙な文芸作品として江戸の庶民に好まれた。
黄表紙の人気作家を抱えた重三郎は天明3年(1783)、33歳のときに吉原から江戸の出版界の中心地である日本橋通油町へと進出。名実ともに一流版元となっていく。
こうした重三郎の躍進には、当時、田沼意次(大河ドラマでは渡辺謙が演じる)が政治の実権を握っていたという政治的背景がある。田沼は強引とも言える政策によって幕府の財政基盤を確立。江戸は好景気に沸き、経済や社会が発展したことでその余裕が文化を活性化させた。こうしたお江戸文化の花盛りの時代が重三郎の前半生と重なり、その波にうまく乗っていたのだ。しかしその反動として、田沼時代の終わりがのちの重三郎の人生にも大きく影を落とすことになる。
蔦屋重三郎の名前を語るうえで、勝川春章の弟子だった葛飾北斎や喜多川歌麿(大河ドラマでは染谷将太が演じる)、東洲斎写楽といった浮世絵師との関係を外すことはできない。絵師の才能を見出し、売り出したことで、日本美術史に偉大な足跡を残した。
とくに歌麿との関係は特筆すべきものがある。当時、蔦重は狂歌に絵を加える狂歌絵本の発行に力を注いでおり、そこで起用したのがまだ新人の歌麿だった。タッグを組んだふたりは『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明8年/1788)、『潮干のつと』(寛政元年/1789)をはじめとする狂歌絵本を次々と刊行、大ヒットとなる。これらのなかで歌麿は自然観察に基づく写実的描写を行っており、絵師としての実力を磨くステップアップにもなった。
ときは天明7年(1787)、田沼意次が失脚し、松平定信が老中となったことで寛政の改革が始まると、禁欲的なこの政権下でそれまで流行していた狂歌はいったん沈静化した。こうした逆風のなか、重三郎と歌麿は、精緻な描写力と木版技術の粋を尽くした新しい狂歌絵本で勝負に打って出たのだった。
しかし寛政の改革のもと質素倹約が奨励され、娯楽を含む風紀取締りが厳しくなるなか、幕府は寛政2年(1790)に問屋や版元に対して出版取締り命令を下す。これにより出版物の表現内容や華美な着色、装飾への規制が強まった。負けじと反発する重三郎だったが、浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとう・きょうでん)による黄表紙が摘発され、京伝は手鎖50日、重三郎は重過料により身上半減、すなわち財産の半分が没収されるという罰金刑を受ける。商売は大幅な縮小を余儀なくされた。
しかし、転んでもただでは起きないのが重三郎という人物。路線転換を迫られたことを契機に注力したのが、歌麿の「美人画大首絵」だった。大首絵とは人物の上半身をクローズアップで描いたもの。 歌麿が寛政2年(1790)頃から始めた《寛政三美人(かんせいさんびじん)》などの美人大首絵は、当時の浮世絵としては異例の写実性を持って描かれ、それまでの固定化した美人画の形式を打ち破るインパクトがあった。
《ビードロを吹く娘(ポッピンを吹く女)》は、舶来品であるビードロをモチーフに登場させ、女性が頬をわずかに膨らませて吹く様子を生き生きと描いている。たんなる理想化ではなく、人物の特徴や感情を表現した歌麿の美人画は一世を風靡。これらの刊行により重三郎は再び江戸出版界をリードする存在となった。
浮世絵と聞いて、東洲斎写楽による大首絵を思い浮かべる人は多いだろう。しかし写楽の活動期間はわずか10ヶ月ほど、出自も経歴も決定的な事実が不明の謎めいた人物だ。
140点以上の作品を残したこの10ヶ月を伴走したのが、やはり重三郎だった。写楽のデビュー作は寛政6年(1794)に発表された歌舞伎役者の大首絵のシリーズ。役者大首絵を28枚も同時に出すというだけでなく、普通は新人の作品に使われることのない豪華な黒雲母摺(くろきらずり)の技法を用いており、異例中の異例といえる扱い。この鮮烈な売り出し方に、プロデューサー重三郎の意気込みがうかがえる。
役者の目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張し、役柄の憎々しさまでとらえたこれらの作品は、江戸の人々に驚きを持って受け止められた。実際には美化しない型破りな描写が不評を買い、商業的な成功を掴むことができなかった。このときの評価の低さが、写楽の活動期間の短さや絵師としての情報の少なさにも影響しているだろう。
写楽作品のすべてを出版した重三郎のプロデュースは失敗だったかもしれない。しかし、その審美眼に世界が追いつくのがずっと遅かったとも言えるだろう。浮世絵の新たな表現を切り開いた写楽は100年以上の時を経て国内外での評価が急上昇。いまでは「浮世絵」を代表するイメージとなり、日本の美術史に刻まれている。
写楽の登場から3年後の寛政9年(1797)、蔦屋重三郎は48歳でその生涯を閉じる。江戸病と呼ばれた脚気が原因だったと伝えられている。
新しい価値を生み出すクリエイティブな仕事を、多角的な事業展開を通して成し遂げた蔦屋重三郎。日本文化全体に深い影響を与えたその足跡はいまなお眩しい。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、どのように肉付けがされて、現代にその姿を表すのだろうか。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)