小森真樹編著 『美大じゃない大学で美術展をつくる|vol.1 藤井光〈日本の戦争美術 1946〉展を再演する』 アートダイバー、2025 1800円+税
本書は2024年3月に、編著者である小森真樹の勤務先であり、私の勤務先でもある武蔵大学で開催された展覧会「美大じゃない大学で美術展をつくる|vol.1 藤井光〈日本の戦争美術 1946〉展を再演する」の記録集である。タイトル通り、美術大学ではない武蔵大学で、美術系の学科ではない英語英米文化学科所属の教員である小森が企画した展示を扱っている。展示概要のみならず、併催されたシンポジウムの様子なども収録されている。
この展覧会記録集の風変わりな点は、そもそも展示じたいが何重にも「再演」だったということだ。まず、1946年に東京都美術館にてアメリカ合衆国太平洋陸軍が関係者を対象に日本の戦争画展を行った。第二次世界大戦中に日本の画家が戦争画を描き、これが日本政府のプロパガンダに使用されていたのはよく知られている。戦後にこうした絵画はアメリカ軍に接収され、どの程度芸術的価値があるのか評価を行うための展示会が開かれた。この1946年の展示が、この本の最初の起点である。
2022年に東京都現代美術館で開催された「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA) 2020-2022 受賞記念展」にて、藤井光による展示「日本の戦争美術 1946」が行われた。これは1946年の戦争画展を調査にもとづいて「再現」したものであるが、実際に戦争画が展示されたわけではなく、関連する音声や映像、美術展や美術品運搬に使用された物品の廃材などを用いたインスタレーション作品であった。この時点ですでに1946年の展示の「再演」(1回目)なのだが、さらに2023年4月にこの展示のオンライン版「再演」(2回目)が行われ、作品販売も行われた。小森はこの時に作品を購入し、それを用いて2024年に武蔵大学でさらなる「再演」(3回目)を行った。この記録集はその武蔵大学の展示のさらなる「再演」(4回目)である。
本書を読んでいると、1946年に行われた展示が何度も何度も再演されるうちに姿を変えていく様子がわかるようになっている。本書評の筆者は1946年の展覧会はもちろん見ておらず、2022年の展示も見ていないが、戦争画の現物がひしめいていたと思われる最初の展覧会と、この記録集から見て取れる、収蔵庫か資材置き場のような2022年の展示は似ても似つかない。いっぽうで筆者は2024年に行われた武蔵大学での展示は見ているのだが、これと2022年の展示も大きく異なっている。2022年の美術館での展示は狭いところに資材が並び、明るい照明で照らされているが、武蔵大学での展示は広い大学ホールを閉め切って行われ、照明も暗く、やや神秘的な印象を与えるものであった。
本書評の筆者の研究分野は演劇であり、演劇では演出などが変更された再演だと印象ががらりと変わるのは日常茶飯事だが、美術展でもそのようなことが起こるというのは新鮮だ。この記録集を見て驚いたのは、2024年の武蔵大学の「再演」では、そもそも「演出家」じたいが変わっていたということである。展覧会は小森の主導により小森が購入した作品を軸に行われ、アーティストの藤井とは事前打ち合わせなどはしたものの、設営にはあえてかかわってもらわなかったという(p. 81)。演劇では台本は設計図であり、演出家や役者、スタッフがそれにそって建てた建物が違うのが面白い……というようなことが言われるが、ひとりのアーティストによるコントロールが演劇や映画よりも強固だというイメージがある美術においても、「演出家」が変わるとキュレーションの方針によって建つ建物が違うことがありありとわかるのがこの本のポイントのひとつだ。
さらに面白いのは、この武蔵大学での展覧会開催のきっかけのひとつとして、小森が「ある美術品を気に入って買ったので、多くの人に見てもらいたいと考えた」(p. 6)と述べていることである。本稿筆者はファン研究に携わっているのだが、この美術展はファンが買った作品を展示するという、ある種のファン活動(流行りの言葉を使えば「推し活」と言ってもいいかもしれない)として始まっている。ファン活動においてコレクションを人に見せるというのは昔から王道であり、絵画を蒐集して美術館を建てるというような大規模なものから、個人的に集めたスニーカーや切手などを人に見せるというような小規模なものまでさまざまな展示活動が行われてきた。
武蔵大学での展覧会はこうした伝統的なコレクション自慢のファン活動に、「二次創作」的なクリエイティブなキュレーションが入り込んだものである。本書ではイベント登壇者でもある星野太の食客論が援用されているが、ファン研究の文脈においてはこのようにもともとあるテクストからファンが新しいものを作る行動をミシェル・ド・セルトーやヘンリー・ジェンキンズなどの用語にならって「密漁」と呼ぶことがある。密漁はファンが作品から勝手に違う意味を作り出す、若干あやしいが創造的な活動だ。言ってみれば武蔵大学ではテクストの密漁が行われ、私はその現場に居合わせたことになる。この記録集は堂々と密漁の経緯を説明する書籍ということになり、美術のみならずファン研究の観点からも非常に興味深いものであると言えるだろう。
参考文献
Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, rev. ed., Routledge, 2012.
ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー——ファンとメディアがつくる参加型文化』渡部宏樹、阿部康人、北村紗衣訳、晶文社、2021年。
ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、筑摩書房、2021年。