国立西洋美術館で開催中の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? —— 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」。3月11日に行われた内覧会で、イスラエルのパレスチナ侵攻に対するアーティストや市民による抗議活動が行われた。本件についてはSNS等でも様々な意見があがっているが、アクションへの肯定/否定といった二項対立にとどまらず、明るみに出た様々な問題を建設的に考えていくにはどうすればいいのか。文化研究者・アーティストの山本浩貴による寄稿を4回にわたり公開する。【Tokyo Art Beat】
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2023年10月7日、イスラム組織・ハマースがイスラエルに大規模な奇襲攻撃を行った。その過程で、性暴力を伴う残虐行為がなされたことが確認される。それを擁護しうる理路は存在しないが、同時に背後にある歴史を考慮せず、事態を正確に理解することはできない。ハマースの残虐行為を看過しないいっぽう、その攻撃に至った文脈——前回も紹介した岡真理『ガザとは何か』など、その文脈を詳しく解説した日本語文献はある——を知り、そこにある歴史的不公正を矯正していくことは可能だ。単純な善悪二元論や二者択一は、適切な枠組みでない。
「2024年3月11日に国立西洋美術館で起きたこと」の背景に、この「2023年10月7日からガザで起きていること」がある。より正確に言えば、「2023年10月7日から——あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も——ガザで起きていること」だ。前回、この事態が議論の対象から外れる危険性を指摘した。西美でのアクションに——肯定的であれ、否定的であれ——論点が集中し、そこで前景化された出来事が置き去りにされてしまう危険性だ。繰り返すが、アクションをめぐる議論の重要性は否定しない。
『植民地主義論』(1950)でエメ・セゼールが喝破する通り、「罪のない植民地化などというものはなく、罰を被らない植民地化などというものはない」(エメ・セゼール『帰郷ノート|植民地主義論』砂野幸稔訳、平凡社、2004年、142ページ)。いかなる理由を以ってしても、植民地主義的行為は正当化できない。「植民地にしがみつこうとする帝国諸国家の必死の決意」(デイン・ケネディ『脱植民地化——帝国・暴力・国民国家の世界史』長田紀之訳、白水社、2023年、14ページ)に抗し、世界各地で脱植民地化の努力がなされてきた。「脱植民地化」は植民地支配を受けた国の宗主国からの独立、植民地支配が残した政治・社会・心理・文化的遺産の払拭を指す。ゆえに、世界中で植民地主義——あるいは、その残滓——が一掃されないかぎり、脱植民地化の闘争は終わらない。
アパルトヘイト(法と制度の人種隔離)撤廃後、1994年、ネルソン・マンデラは全人種が参加した歴史的選挙で南アフリカ大統領となった。マンデラは国際社会の支援に感謝するいっぽう、「パレスチナ人にも自由がなければ、私たちの自由も完全ではない」と語った。当時から、脱植民地化は徹底的かつ全地球的になされなくてはならないことを、彼は正しく理解していた。
10月7日の越境攻撃から2日後、イスラエルのガラント国防相はガザ地区に対する封鎖とともに、ほぼすべてのライフライン——食料、水、電気、燃料……——の停止を宣言した。その際、彼はこう述べた——「私たちは『人間動物』と戦っている」。保井啓志の指摘通り、「仮にこの『人間動物』がハマースのことだけを指し、ガザ地区の人々全体を指したものではないと好意的に解釈したとしても、この発言がライフライン供給停止の宣言の際に行われたことに鑑みれば、この発言は、ガザ地区に住む人間が人間としての生活を送るに値しない存在であるという姿勢を事実上宣言したものだととらえるべきだろう」(保井啓志「『我々は人間動物と戦っているのだ』をどのように理解すればよいのか」『現代思想 特集=パレスチナから問う』2024年2月号、119ページ)。
「人間動物」の表現には、グレゴワール・シャマユーの言う「狩猟権力」が剥き出しの形態で現れる。シャマユーは「人間狩りを隠喩として理解してはならない」と警告し、「人間存在が狩りというかたちで突如引きずりだされ、追い回され、捕まえられ、殺されるという具体的に過去に起こった出来事を指し示す」(グレゴワール・シャマユー『人間狩り——狩猟権力の歴史と哲学』平田周/吉澤英樹/中山俊訳、明石書店、2021年、8ページ)と書くが、ここには修正が必要だ。人間を動物に貶めて蹂躙する狩猟権力の行使——ヒト以外の生物に対する「種差別」の問題は、ひとまず措く——、すなわち人間狩りは、「過去に起こった出来事」などではない。いま、まさにガザで起きている。
特定の民族に属する人々を「動物」と一括し、その人々に対して非人間的な生殺与奪の権威を振るうことは、疑いなくレイシズムに立脚したジェノサイドだ。『レイシズムを考える』(清原悠編、共和国、2021年)所収の「トランスナショナル・ヒストリーとしての美術史に向けて——ブリティッシュ・ブラック・アートを中心にレイシズムに抗するアートを考える」や『この国(近代日本)の芸術——〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』(小田原のどか・山本浩貴編、月曜社、2023年)所収の「アートとレイシズム——ブラック・ライブズ・マターを『対岸の火事』としないために」などの論考で、ぼくはレイシズムと格闘してきた芸術の歴史を記述した。
歴史的に、アーティスト・キュレーター・美術関係者らは団結して、世界の多様性を縮減させるレイシズムに抵抗してきた。世界の多様性を維持することは、アート界の豊かさを維持することに等しい。だが、レイシズムと闘う者がレイシストになってはならない。レイシズムをもってレイシズムと対峙する過ちを犯してはならないのだ。
それゆえ、イスラエルのパレスチナ人虐殺に対する非難と、ユダヤ人に対するレイシズム的攻撃の混同は避けなくてはならない。ときに誤解されるように、あるいはしばしばイスラエル自ら誘導するように、イスラエルのガザ侵攻——および、それを先導するイデオロギーとしてのシオニズム(19世紀末からヨーロッパのユダヤ人を中心に勃興した、パレスチナにユダヤ人の民族的拠点を創設することを目指す思想・運動)——に対して否を突き付けることは、ユダヤ人への差別とは違う。
実際、イスラエル外のユダヤ人のあいだで、ガザ問題への抗議の声が日増しに大きくなっている。「特集=パレスチナから問う」と銘打った『現代思想』(2024年2月号)での鼎談では、金城美幸が在米ユダヤ人団体「平和のためのユダヤの声(Jewish Voice for Peace)」の動きを紹介している——同団体は「ジェノサイドの記憶を受け継ぐ者として『ガザで起きていることはジェノサイドだ』と述べ、『「二度と再び」は誰にとっても(Never again for anyone)』と訴えました」(金城美幸+早尾貴紀+林裕哲「パレスチナと第三世界——歴史の交差点から連帯する」『現代思想』2024年2月号10ページ)。
ゆえに、現在のイスラエルのパレスチナ人に対するジェノサイドを非難する声が、けっしてユダヤ人に対するレイシズムの形式を帯びてはならない。先述のシャマユーの『人間狩り』は、丸1章を費やして「俗権の力を借りた迫害の歴史」(170ページ)としてのヨーロッパのユダヤ人の歴史を描く。ホロコーストを頂点とするヨーロッパのユダヤ人に対する迫害の歴史を、人類は絶対に忘れてはならない。
『分かれ道——ユダヤ性とシオニズム批判』(2012)で、ジュディス・バトラーはユダヤ・アイデンティティを問い直すことで、ユダヤ性の観点からシオニズムに依拠するイスラエルのガザ政策を批判する道筋を開こうとしている。
「もし、国家暴力や、住民にむけた植民地主義的制圧、住民の追放や権利剝奪などを批判できるようなユダヤ的文化資源があると私が証明できるのなら、イスラエルの国家暴力に対するユダヤ的批判が、たとえ倫理的に強制されなくとも、少なくとも可能であることを私は証明しえたことになる。またさらに、非ユダヤ人との共生をめぐるユダヤ的価値観が存在すると、しかもそれは離散ユダヤ性のまさしく倫理的根幹になっていると私が証明するならば、社会的平等や社会正義の実現に関与することは、ユダヤの世俗的・社会主義的・宗教的伝統の不可欠な一部となっていたと結論を下すことができるだろう」(ジュディス・バトラー『分かれ道——ユダヤ性とシオニズム批判』大橋洋一+岸まどか訳、青土社、2019年、8–9ページ)。
同様に、イスラエルの国家暴力への批判とイスラエル人への憎悪が接合されることがあってはならない。2024年4月以降、ベンヤミン・ネタニヤフ首相の退陣を求めるデモがイスラエル国内で急増している。当然、イスラエル国内にも——日増しに厳しくなる言論統制に抗して——政府のパレスチナ対応を批判する人がいる。
バトラーは「人は例外なく、自分では選ぶことのできなかった自分自身の生の条件と闘っている」と指摘し、「もしこの闘いの中に行為能力(エイジェンシー)の、あるいはさらに自由の作用が存在するとすれば、それは制約が可能にし、制限するような領域で生じるのである」(ジュディス・バトラー『新版 自分自身を説明すること——倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸+清水知子訳、月曜社、2024年、29ページ)と述べる。「自由の作用」を含む道徳的・倫理的な行為能力(エイジェンシー)は、「自分では選ぶことのできなかった自分自身の生の条件」がもたらす「制約が可能にし、制限するような領域で生じる」主体の自己形成過程が育むと彼女は考える。
ゆえに、バトラーにとって、「道徳性は創造的であり、創造性を必要と」(バトラー『自分自身を説明すること』29ページ)する。「道徳的完成という価値」は「自分自身に働きかけ、自分を知り、自分を統御し、自分を試練にかけ、自分を完璧なものにし、自分を変容することを試みる」(ミシェル・フーコー『快楽の活用——性の歴史II』田村俶訳、新潮社、1986年、38ページ)ことを通じて獲得されると考えたミシェル・フーコーにとっても、道徳や倫理は創造性と不可分だ。
ぼくが芸術と関わるようになり重要性を学んだことのひとつが、自己の認識や思考を無批判に所与のものとせず、つねに変容と疑義の対象としてとらえる姿勢だ。その点で、少なくともぼくにとって、芸術は「本質的に」道徳的・倫理的な営みとしてある。既存の道徳や倫理に無批判に追従する営みという意味ではなく、それらの自明性を鵜吞みにせず、必要に応じて能動的に再構築していく営みという意味で。
シオニズムを基盤とする国家であるイスラエルは、前回も述べた通り、「セトラー・コロニアリズム」(入植植民地主義)を通して創設された。「定住型植民地主義」とも訳されるセトラー・コロニアリズムは、「開拓者」が移住の過程で先住民族を排除し、土地と資源を簒奪する形式の国家形成を指す。パレスチナ人歴史家のラシード・ハーリディーは、先述した「人間動物」発言の背後にある心理も抉り出す仕方で、次のように言う。
「南北アメリカやアフリカ、アジア、オーストララシア(あるいはアイルランド)のどこであれ、先住民族に取って代わろうとしたり、支配しようとしたヨーロッパの植民者は、いつも侮蔑的な言葉で先住民族を表現するという特徴があった。また彼らは自分たちが支配すれば現地住民の暮らし向きは良くなると主張する。植民地主義的な事業の「啓蒙的」「進歩的」な性質は、その目標遂行の過程で先住民族に対するいかなる残虐行為があろうとこれを正当化するのに役立つのである」(ラシード・ハーリディー『パレスチナ戦争——入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之・山本健介・金城美幸訳、法政大学出版局、2023年、11ページ)。
ここには微妙だが絶対に欠くべからざる修正が必要だ。入植植民地主義を行使し、「先住民族に取って代わろうとしたり、支配しようとした」のは、けっして「ヨーロッパの」植民者だけではない。近代国家としての自身の境界を画定していく過程で、日本は先住民族であるアイヌの土地と資源を奪った。文化的観点も含む「セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)と北海道」については、彫刻家・評論家の小田原のどかがMCを務め、表象文化論研究の渡部宏樹をゲストに迎えたYouTube番組「ポリタスTV」の回が参考になる。
いまなお日本には、その歴史的な事実を忘却し、それどころか意図的に否認している者さえいる。そうした忘却と否認は深い部分で、ガザで起こっていることへの無関心と地続きの関係にある。次回は、日本自体の足元を批判的に見つめることで、ガザ問題を「自分ごと」として思考する回路を開きたい。
山本浩貴
山本浩貴