世界中で圧倒的な人気を誇るドイツ出身の写真家・ヴォルフガング・ティルマンス(1968〜)。1980年代から写真を撮り始め、2000年には写真家、かつ、非イギリス系アーティストとして初めてターナー賞を受賞した。40年以上続くキャリアでは写真というメディアの可能性を広げ、社会問題へのアクションや音楽活動にも積極的に取り組み、いまなお現代アートの幅を拡張しているアーティストである。2022年にニューヨーク近代美術館(MoMA)では過去最大規模の回顧展「To look without fear」(2022年9月12日~2023年1月1日)が開催され、初期から現在までの417作品が展示された。
展示は翌年にトロントのオンタリオ美術館(Art of Gallery of Ontario、4月7日~10月1日)を経由し、その後サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)へと巡回した。
*MoMAで開催された「To look without fear」展のレビューはこちら
日常の一場面を映し出す詩的な写真で知られるティルマンスだが、じつは幼い頃から天文学に関心を持ち、天体をモチーフにした作品も数多くある。たとえば、2021年にリリースされた初のフルアルバム『Moon in Earthlight』は宇宙の世界から着想を得たという(*1)。
また、「To look without fear」展にも「天文学」と名づけられた一章があり、金星の太陽面通過を望遠鏡を通して撮影した写真などが並んでいる。加工されているように見える幻想的な作品だが、ティルマンスはいっさい自身の写真を加工していない。「デジタルテクノロジーを恐れたことはない。1986年頃からデジタルプリントを使ってきたが、光の記録はアナログが一番だ」と語り、「AIという人工的な世界に効く早い解毒剤があるかどうかはわからないが、自分の感性にこだわり続けるサブカルチャーやカウンターカルチャーは出てくるだろう」(*2) と写真の未来を懸念する姿勢も見受けられる。
天体シリーズの最新作のなかに《Seeing the Scintillation of Sirius Through a Defocused Telescope》(2023)がある。望遠鏡の焦点をずらし、地球上から見える最も明るい恒星、シリウスの輝きをリアルタイムでとらえたビデオ・プロジェクションだ。しかし、シリウスはなぜ多彩なカラーで輝き、このような形で写っているのか。ティルマンスが自身のインスタグタムで科学者に次のように問いかけた:
この投稿をご覧になっている天文学者や物理学者の皆さんに質問があります。焦点を外したシュミットカセグレン式望遠鏡を通して撮影したシリウスの静止画に写っているディテールはなんなのでしょうか。シリウスの冷たい白色光が大気を通過していく過程でスペクトルカラーが生まれると思うのですが、なぜ異なる色が同時に発生し、ぼやけているはずのディスクにこれほど多くのディテールが含まれているのでしょうか。
自身の探究のなかで生まれた疑問を科学者にぶつけるのが好きだというティルマンス。今回は2023年9月17日にオンタリオ美術館の関連企画として開催されたトーク「Wolfgang Tillmans in Conversation」の一部を紹介する。
登壇したのはトロント大学のキロス・クトゥラコス教授(コンピューター・サイエンス学者)とスレーシュ・シヴァナンダム准教授(天文学者、ダンラップ天文学・天体物理学研究所暫定所長)のふたりだ。カメラで星の輝きを記録することは可能なのか。最先端のテクノロジーがいかに写真の未来を変えるのか。アートとサイエンスとの究極のコラボレーションから最新のティルマンスを読み解いていく。
ティルマンス:視覚世界を探求し続けるなかで生まれた疑問を科学者に投げかけるのが大好きなので、今日の対談を楽しみにしていました。科学に熱中した最初のきっかけは天文学でした。10歳から13歳頃まで、晴れた日は望遠鏡で太陽黒点を観察し、絵に描いていました。今回の対談の出発点は、「星の瞬きを撮影することは可能か?」という素朴な疑問でした。科学的観点から見れば、星は地球上の人々にとってたんなる点に過ぎないのでしょうか。
シヴァナンダム:星ははるか遠くにあり、限りなく小さく見えますが、巨大な星を観測できる特殊な望遠鏡が存在しますよ。
ティルマンス:星はキラキラと輝きますが、惑星が輝かないのは、星からは1本の光線が出ているのに対し、惑星の反射光が大気圏で均等に跳ね返されるからですか。
シヴァナンダム:これはひとつの考え方ですね。大気中の乱気流が光を跳ね返すわけですが、これには一定のスケールがあります。しかし、惑星を観測している場合、乱気流のスケールは上空の惑星の大きさよりも小さいため、平均化効果が生じ、惑星が瞬いているようには見えないのです。
ティルマンス:シリウスの瞬きを撮影していたとき、望遠鏡の焦点をずらすと画像が輪に見えることに気づきました。試しに拡大して静止画にしてみましたが、驚いたことに、ピントが合っていないはずの画像に細かいディテールまで写っていました。しかし、この色彩とディテールはどこから来ているのでしょうか。最初は望遠鏡内部に色収差が発生していると思ったのですが、そうではないみたいです。解説していただけますか。
シヴァナンダム:このタイプの望遠鏡は鏡と前方にあるガラスを使います。光はガラスを通して入り込み、背面鏡で反射され、もう一つの鏡に当たってから望遠鏡の後方、つまりカメラがあるところで詳細に写ります。色収差がないのは、レンズが光の色の違いに敏感であるのに対し、望遠鏡が色に影響されずに光を反射するためです。
ティルマンス:ピントをずらすとどうなりますか。
シヴァナンダム:優れた視力、優れたカメラ、または優れた望遠鏡であれば、光は正確でシャープに見えます。シリウスがこのように写るのは、光が望遠鏡の大きな鏡で反射され、もう一方の小さな鏡に当たっているからです。それが星の光を遮断しています。ピントが合っているときは、光線がきれいに合わさっているため気づきにくいですが、ピントが合わなくなると望遠鏡の中心にある二つ目の鏡の影が目立ってきます。そのため、このような輪ができるのです。
ティルマンス:では、干渉現象はどうでしょうか。
クトゥラコス:光を様々な角度から考えることができますが、そのうちのひとつは波のようなものです。池に落ちる一滴を想像してみてください。周囲に広がる波が発生します。星から届く光は波のようなものだと考えることができます。一滴だけなら問題ないのですが、数が多すぎると波がバラバラに広がってしまいます。あるところでは重なったり、別のところでは打ち消されてしまったりして、避けることのできない物理的現象なのです。この光の干渉と大気によって発生する色収差の組み合わせが、シリウスの複雑なイメージを作り出しています。
ティルマンス:何かがあるように見え、一瞬だけ、存在していたのですね。これは合成ではなく、実際に望遠鏡の前にあった現象です。自然そのものですね。
シヴァナンダム:そうです。インスタグラムの投稿を見たのですが、色や形の素早い変化が気になり、謎を解く手がかりになりました。光学系では起こり得ない現象なので、大気が影響しているに違いないと思いました。
ティルマンス:ここから人間の優れた道具である視力について議論していきたいと思います。以前、インペリアル・カレッジ・ロンドンの光学の先生と対談したことがありますが、そのときに彼が、人間の目が網膜に投影するイメージは実はひどい品質で、脳内で大量のポストプロダクションが行われているという事実を教えてくれました(笑)。
人間の目の特徴のひとつは、球形の世界を見ることができることです。眼球は球体なので、画像を平らに補正する必要はありませんが、カメラのセンサーは平らですし、私たちは平らな紙に印刷しますね。キロスとのやりとりが始まってから、彼は「コンピュテーショナル・フォトグラフィ」という言葉を口にしました。これは私たちが生きている世界でもあります。スマートフォンで撮れる写真はもはや「デジタルフォトグラフィー」とは呼ばれず、「コンピュテーショナルフォトグラフィー」と呼ばれるようになりました。しかし、このように素晴らしい技術があるにもかかわらず、なぜ画像の歪みを避けられないのでしょうか。
クトゥラコス:私たちが周囲の世界をどのように認識しているかということに関わってくるものだと思います。目が動き回り、瞳孔が明るさや暗さを認識するために広がったり縮んだりすることで、私たちは世界の細部まで確認することができます。しかし、最終的に頭の中で形成されるイメージを作り出すのは脳なのです。
360度の世界をカメラで撮影し、平らな紙に写し出すことは簡単ではありません。平面上に球体のイメージを再現しようとするから歪みが生じるわけです。どんなに修正を試みても、多少の歪みが残ります。
ティルマンス:大陸図は歪みの良い一例ですね。《truth study center》(2005〜)インスタレーションの一環として、「アフリカの本当の大きさ」というポスターを必ず展示しています。グリーンランドはアフリカと同じ大きさではなく、実際にはアフリカの10分の1の大きさであり、ロシアも南米の2倍の大きさではありません。それでも、大陸図を修正しようとしないことは、今も植民地主義的な考え方が残っている印だと思います。
クトゥラコス:そうですね。球体の地球を平らな紙に投影しているので、どの部分を歪ませて見せるかは私たち次第です。写真も同じで、横長の写真の中央を正常に見せようとすると、それ以外の部分が歪んでしまいます。例えば、このアーチは直線のはずなのに歪んで見えます。
ティルマンス:それを修正する唯一の方法は、スキャンしてこのように提示することですか。
クトゥラコス:ちょっとズルしていますね。平らな用紙に1枚の写真ではなく、ここで異なる方向から撮影された3枚の写真が並んでいます。シーンを理解しやすくするために写真をつなぎ合わせ、すべてがまっすぐになるように工夫しましたが、その結果、遠近感が失われたようですね。この写真はカメラではとらえられないものです。遠近法のルールに従っていないからです。
ティルマンス:写真は本当に素晴らしいメディアであり、35年間使い続けていますが、写真が奥行きや空間をうまくとらえることができないことにいつも驚いています。先週末、ロングアイランドのサウサンプトンにある庭園を撮影していたのですが、奥行きをまったくとらえることができず、愕然としました。人間が三次元的にモノを見ることができるのは、両目を持っているからであり、脳が両目の視差を計算して奥行きを理解しているからです。しかし、写真ではそのようなことができず、撮影位置をずらして初めて、写真の中心がずっと遠くにあることに気づきます。新しい3D写真技術が近いうちに開発され、写真を3Dで見れるようになると思いますか。
クトゥラコス:バーチャルリアリティ(VR)ゴーグルはありますが、もちろんスクリーンを見るほど快適ではありません。しかし、人間の世界の見方や遠近感を再現できるテクノロジーではあります。
シヴァナンダム:世界を3Dでとらえる方法は存在すると言えますが、ひとつの疑問が浮かびます。人間の脳に3Dを認識させたいのか、それともコンピューターに処理を任せたいのかです。例えば、2枚の写真をそれぞれの目に同時に見せれば、3Dに感じるでしょう。これは脳の働きです。一方、コンピューターのディスプレイにも、2つの目に2つの異なる画像を同時に表示できるものがあります。
実現するかどうかは別として、潜在的に、3D写真を撮影できるカメラはすでに存在します。まだ開発中の技術ですが、カメラから被写体がどのくらい離れているかなどの情報を取得することができます。しかし、考えてみれば、スマートフォンにも初歩的な3D技術が搭載されています。例えば、Face IDや各スマートフォンメーカーが開発したセンサーは似たようなテクノロジーを利用していますよ。
*「Wolfgang Tillmans in Conversation」全編はオンタリオ美術館の公式YouTubeにて視聴可能
*1––––「Wolfgang Tillmans on his eclectic debut album inspired by celestial bodies」DAZED。2021年12月9日。https://www.dazeddigital.com/art-photography/article/55014/1/wolfgang-tillmans-on-his-eclectic-debut-album-inspired-by-celestial-bodies
*2––––「Wolfgang Tillmans on New York, his latest show and AI in art」DAZED。2023年9月25日。https://www.dazeddigital.com/art-photography/article/60885/1/wolfgang-tillmans-fold-me-exhibition-interview
協力:ワコウ・ワークス・オブ・アート