2024年に開館20周年を迎えた金沢21世紀美術館。オープン前の1999年から同館に在籍し美術館の立ち上げに関わり、その後他館を経て21年から館長を務める長谷川祐子が共同キュレーションする展覧会「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」が開催中だ(会期:11月2日〜2025年3月16日)。本展は任期満了に伴い25年3月に退任する長谷川にとって、同館で手がける最後の展覧会となる。私たちはこれからのエコロジーをどう考え、どう生きるのか。美術館、キュレーター、アートの役目とは? 展覧会会場で長谷川に話を聞いた。
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——長谷川さんが近年取り組んでこられたエコロジーというテーマが、ついに金沢21世紀美術館で大きく展開されるとあって、今日は楽しみにしてきました。
長谷川 金沢21世紀美術館開館20周年ということで、当館の年間テーマに「新しいエコロジー」を掲げています。「すべてのものとダンスを踊って―共感のエコロジー」は、次の世紀に向けてこれからの美術館はどう応答していくのかというステートメントとなる展覧会だと考えています。
伝えたいのは、違いではなく「共通点(commonness)」を探そうということ。人間同士はもちろんのこと、私たちは動物や植物、テクノロジーといったノンヒューマンな存在とともに生きています。他者のことをよく知るために観察や調査が必要ですが、そうした知を共有するためにはテキストや記号化といった手段に頼るのではなく、もっと感覚を通した学びが必要です。そこでアートが機能します。
アートというものは見えないものを見えるようにする魔術です。でもいまは、世の中のデジタル化が進み、あらゆるものが見えるようになってしまっている。だからこそ、今度はアートが物事を少し見えにくくして、表面的に見えているものよりも深掘りした先へと連れていく魔術として機能する。これを「転回のエコロジー」と呼びたいと思っています。
私たちを取り巻くエコロジーを考えるうえで、動物や植物は喋りませんから、言葉を介してはお互い何を考えているかわからない。だからこそ、最先端の技術や研究が重要になります。本展では科学者や哲学者ともコラボレーションし、総合的なエコロジー理論を作品のなかに取り込んでいきます。アーティストを媒介者に、感覚を通した学び(Sensory Learning)を鑑賞者にお届けしたいと思っています。
見知らぬ他者とともに生きるにはどうしたらいいのだろう? 世界規模の気候変動のなかで私はどうすればいいんだろう? そんな問いへの第一歩として「いっしょに踊りませんか?」という提案をしています。
霊長類学者で総合地球環境学研究所(以下、地球研)所長を務める山極壽一先生の説では、人間が二本足で歩き始めてから言語を発明し、使い始めるまで数千年あると言われています。その間、人間はどうコミュニケーションをしていたのか、どう生き延びられたかというと、アイコンタクト、言葉なきボイスパフォーマンスやボディパフォーマンスだったと言われていて、そこがダンスの起源となっているのではという仮説があります。こうした「脱記号化・脱言語化」という価値観の転換が脱人間中心主義にもつながります。
——「すべてのものとダンスを踊って」というタイトルは一見楽観的、ユートピア的な響きですが、この分断の時代において勇気のある言葉だなと思いました。
長谷川 そうですね。自分と他者の違いばかりを探して強調するのではなく、何が同じなのか、何を共有できるのかを探したい。でも、環境問題や様々な格差などシリアスな問題が次々と浮かび上がる現代を生きる私たちは、もはやたんなるオプティミスティックな視点で未来を見ることはできません。未来を迎えるためには、人間を取り巻くあらゆる存在(アニマ)が、お互いの間をつなぐ身体や感性のバイブレーションを共有するような関係性が大事だと考えています。キュレーションもエマヌエーレ・コッチャさんや、当館の若手キュレーターである池田あゆみ、本橋仁と共同で行っています。前回の「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ」展も若手キュレーター4人とご一緒しましたし、これからの時代を担う人たちと一緒にやっていくことも、私にとってとても大事なことです。
長谷川 では早速会場に入りましょう。エヴァ・ジョスパン《パラティンの森》です。彼女はダンボールを素材に森を作りますが、ディティールを見ていくと樹木や洞穴が合わさっていて没入感がある。「森があらゆるものを呑み込んでいく」と彼女は言います。よく見ると全部リューターやカッターで作っていて、クラフトの枠には収まらない驚異的な創造力を感じます。また、パースペクティブを刺激する奥行きを感じられるのもポイントです。「ものの表層」ではなく、その奥へ誘う感覚を呼び起こします。
——たしかにダンボールなんですが、波型の中芯が作る空洞が小さな洞穴に見えたり、距離を変えることで同じ部分が巨大な大木にも細い根にも見えたりスケール感が変化しますね。岩のような《コリントの森》は、森と建築が合わさったようで、祈祷のためのような空間に見えたりもするし不思議です。
長谷川 そこがすごいところ。展示室の入口には展覧会の「概念図」を掲示していますが、そのなかで「物質の魔術」「物質の転移」というキーワードを示していて、本作はまさに物質の力を体感できるでしょう。ありふれたダンボールがとてもマジカルな変容をとげます。森がいろんな概念を呑み込んで一緒にしていくアンチテーゼ的なパワーの象徴として立ち現れているんです。
長谷川 次はオトボン・ンカンガの作品です。全部で4点のタペストリーは「見出す(Unearthed)」という言葉を共通のタイトルに用いていて、「Abyss」「Midnight」「Twilight」「Sunlight」の4点はそれぞれ異なる時間と光の場所を指しています。海の様子を表現した部分には、いわゆる自然としての海だけでなく、人工的な網や残されたゴミのようなものも見えます。
一見とても美しい作品ですが、それだけではありません。「Sunlight」は森林火災後の崩壊した森の姿です。注目したいのは、織り込まれたタペストリーの画面に彼女がシャボン玉のようなドット(玉)を分散的においたこと。これらは、破壊されてしまった場所を癒していく精霊の存在です。焼けこげた森が希望を持ち始め、悲惨な状況からまた別の輝きへと転化する様子が見えます。
糸の表現力を見てください。崩壊を表している部分は劇的に糸を引き出されているし、いっぽうで大変緻密に織り込まれているところもある。この融合の様子は絵画では表現できない、タペストリーだからこその魅力だなと思います。絵画で描くと悲劇の表象となりますが、タペストリーだと物質の力で悲劇から希望の光がみえるようになります。ここでも「物質の魔術」「物質の転移」を感じられると思います。
——悲劇的な破壊からの希望や再生という点では、地震と豪雨で被災した石川県の方々にとって何か訴えかけるものがあるのではないでしょうか。長谷川さんのキュレーションには、マッチョな態度とは対照的なある種のフェミニンさ、言い換えれば柔らかで治癒的な力を感じます。
長谷川 私はみんなをホストしたいっていう気持ちがあるんです。美術館周辺にお住まいの市民の方、お年寄りの方、とくに女性の方に向けて展覧会を作りました。建築を手がけた建築家の妹島和世さんとこの美術館を立ち上げたときからそう考えていましたし、今回は私にとって21世紀美術館での最後の展覧会となるので、そうした思いを皆さんにお返ししたいなと思っています。
——開館当時、「エプロン姿で立ち寄れる美術館」を掲げていたとか。
長谷川 そうそう。「サステナビリティ」と「開かれた美術館」であることがミッションでした。
現代アートは「どうだ!これが新しいだろう」と見せるようなものではない。現代アーティストは見る人を普段とは別の位相に連れていく存在で、彼らはその技と知性と感性を持っていると信じています。
長谷川 「自然×ヒト」というキーワードを象徴する、AKI INOMATAさんの《彫刻のつくりかた》を展示しています。本作の制作において、まず作家が動物園に木材を渡して、ビーバーに齧ってもらう。その木の形をもとに作家が彫刻家に依頼して人間大のスケール(現物の3倍)で模刻してもらう。その両方を鏡のように合わせて見せる作品です。2018年から継続している作品ですが、今回は見せ方を少し調整して自然史博物館的な要素を展示に加えていただきました。ここを見てください、それぞれの木を「何歳のビーバーが齧りました」という表示をしています。「Name Yuzu Birth 2011」のように(笑)。かわいいでしょう。
——ビーバー1匹1匹の個体としての解像度がグッと上がりますね。
長谷川 木の中にはカミキリムシが作る空洞があって、ビーバーはそれを避けながらかじるという一種のトレーニング的な生態学の思考があり、この形ができているんです。
「自然×ヒト」でもうひとつ。マリア・フェルナンダ・カルドーゾ《芸術の起源についてI-II》という作品は、オーストラリアに実在する米粒よりも小さいジャンピングス パイダーを撮影したもの。昆虫学者、顕微鏡医、マクロ撮影家らの協力を得て制作しました。
フォルマファンタズマの映像はエコロジーや森に関わるものです。イタリア出身の2人組で、プロダクトデザイン、展示デザイン、インフォグラフィック、さらにキュレーションも手がけるんです。フォルマファンタズマという名前の通り、フォルムをファンタサイズすることによって、人々に視覚的心理的インパクトを与えることを目的としています。たんに対象の事物とその中身の解説を見せるのではなく、ほかのものを引用することでまったく別の関係性を持たせています。非常に直観的でありながら、リサーチの集積、そして社会的な態度のバランスが素晴らしい。オシャレであることも大事です。
——うわー、すごい!
長谷川 アドリアン・ビシャル・ロハスの《想像力の果て》は「タイムエンジン」というアプリを使って、各時代の物質の重量、社会現象までシュミレーションして作られた彫刻です。人間でないものが作った時を旅する怪物のような彫刻。これは人間の想像力では絶対に作れないような、超絶的なデザインですね。驚くべきことに彼はバーチャルで作った彫刻を現実にダウンロードし始めました。それも産業廃棄物を使って。アルゼンチンのロサリオのスタジオでパーツを作ってから、ここで組み上げて彩色しました。設営に10日間以上かかっています。
天井にある《消失のシアター》は15世紀のピエロ・デ・ラ・フランチェスカの絵画「出産の聖母」を作家自身が超拡大模写した複製画。能登半島地震の被災後、下見に来た最初の作家が彼です。天井のガラスが一部落下した状態の展示室を見て「僕はここに住む人たちのために天井にこの作品を展示したい」と言いました。元々はオーストリアのクンストハウスブレゲンツの床に置いて展示したもので、それを天井に設置するには作品に穴を開ける必要があったのですが、それでも構わないと。彫刻の下に立つと、穴からちょうどマドンナの顔が見える。ここまで綿密な展示にするために1年弱ずっと考えてくれました。すごい情熱ですよね。
——彫刻のマテリアルの迫力も、巨大な聖母のまなざしも強烈な印象です。地震という地球の動きはまさにエコロジーの問題で、アーティストによる応答には一言では表せない多層的なメッセージが感じられます。
長谷川 これが芸術の力なんです。人間の想像力も、生命力もすごい。私はそれを見せたい。アドリアンも(キュレターの)コッチャさんもピエロ・デ・ラ・フランチェスカを高く評価していて、東方的でアルカイックな風貌で妊娠している聖母の姿には、不安と期待あらゆるものがまざりあい、胚胎されていく新しい生命も予感させます。このように一流のアーティストが美術史に向き合う気持ちや思考の連鎖を、もっと美術教育では教えてほしいなと思います。
次はRediscover project。能登半島地震で被災し破損した陶器をもとに、金継ぎなどの手法で新しい作品を生み出す試みです。石川県にある輪島塗の工房やお店も被災してしまい、職人さんも仕事ができないと手が忘れてしまう。そこで九谷焼の産地である能美市に2次避難した輪島塗の職人さんたちに、九谷焼や珠洲焼を金継ぎしてもらった。たんに金継ぎで修復をするのではなく、新しい作品にする。壊れたことによって、新しいものが生まれるということなんですね。震災のような災害は人の生活にとてつもなく大きな負荷をかけますが、ただ嘆くのではなく、それらをどうポジティブに転換していけるかを教えてくれます。
——今回はアマゾン地域に住む先住民の芸術家や北西海岸先住民の作家の作品も展示されていますね。
長谷川 アマゾンの人たちにとって、自然と人間という二項対立がなく、みんな“ヒューマン(人間)”なんです。ブラジルの有名なアーティストであり、シャーマンでアクティビストのジャイダ・イズベル。彼はキュレーターでもありました。近年は先住民の芸術に大きな注目が集まっていますが、そうした文脈において彼は欠かせない、非常に重要で影響力のある人です。残念ながら2021年に亡くなってしまいました。
——長谷川さんは過去にキュレーションした展覧会やイスタンブール・ビエンナーレでも「周縁」「エッジ(Edge)」という言葉を用いられていました。この言葉についてどう考えていますか?
長谷川 数学の概念に「カオスの淵(Edge of chaos)」というものがあるのですが、この言葉は20年間の私の軸としてありました。エッジは崩壊と同時に、新しい物事や秩序がもっとも発生しやすい場所なんです。私たちから見た「辺境」は文明から取り残された場所ではなく、私たちの知識を超えた様々な未知の文化が機能する場所だと思います。
ヤノマミなどアマゾン地域に住む先住民の作品には、人も動物も精霊も一緒に存在している。こうした脱人間中心主義から、ヒューマニティの可能性を探る方法があるはずです。
ステファノ・マンクーゾ教授は植物の知性と神経作用について研究し、人間中心主義的なものの見方を覆します。彼が率いるPNATの作品は、金沢市内の神明宮にある樹齢約1000年の大ケヤキ。そこに付けたセンサーで生体信号を受信し、フィレンツェ大学経由で展示室内のモニターに映像で投影して、生体反応の神秘的な様子を見ることができます。雨のときや夜など、とてもアクテイブなので時間をおいて見ていただけると「生」の有り様がよく感じ取られます。
もうおひとり、植物と向き合ってきた道念邦子さんは御年80歳。本展のリサーチを通して知った、地元の華道家の方です。《孟宗竹 キューブ》は彼女が30年前に制作した竹のインスタレーションを再現した作品で、竹を64本寄せ集め、キューブとして横に切ることで秩序が作られています。美術館での展示は初めてで、こうした作家と出会えたことも大きいです。
——長谷川さんは2017年の第7回モスクワ国際現代美術ビエンナーレ「Clouds ⇆ Forests」展をはじめ、東京藝術大学退任記念展 「新しいエコロジーとアート」(2022)や今年の「森の芸術祭 晴れの国・岡山」など、継続的にエコロジーをテーマにキュレーションをされてきました。いっぽうでこの10年間だけでも気候危機の深刻さがますます顕在化し、人新世や資本新生といった言葉が普及するなど、エコロジーを取り巻く問題意識は大きく変化しています。長谷川さんにとってのエコロジー観もやはり変わってきていますか?
長谷川 認識の変化はありますね。ブルーノ・ラトゥール、ティモシー・モートン、コッチャなどの研究者と交流したり、最近では地球研の山極さんたちとお話するようになったことが大きかった。こうしたテーマに取り組み始めた当初は、大きな意味でのエコロジーに対する人々の行動やアーティストの応答を調べてきました。いま、私や美術館ができることは、美術館を訪れる一個人への働きかけだと思っています。
先進国と発展途上国のあいだにある格差が気候危機の問題を複雑で深刻にしていますし、社会的思想や正義など様々な分裂がある。でも大事なのは「注意深く見る」ということなんです。他者と何が一緒で、何が違うのかを注視する。「地球環境のために、私に何ができるのか」と大きく考えると足がすくむかもしれませんが、たとえばオラファー・エリアソンは「リトル・サン」というソーラーライトを作ることで、気候変動に人々の意識を引きつける小さなステップとしました。周りからそんな方法は非効率だと言われようが、信じて行動し共有する。私もいつも、誰かひとりに向けて作るイメージで展覧会を考えます。
いま世界を変えるうえで重要だと思う3つの柱は「科学・芸術・政策」で、それらを下支えするのが資本主義経済なんです。つまり私にとってエコロジーは他者との関係をどうやって考えていくかという、つながりを考える生態学とも言えます。芸術を考えるうえでエコノミーは無視できませんし、オイコス(家)を起源とした言葉としてエコロジーとエコノミーは兄弟のようなもの、経済界の人たちにもエコロジカルな思想を持ってほしい。
そこで「感覚を通した学び(Sensory Learning)」が重要になる。私はこれからの現代美術館は、楽しくてためになる新しい学校になるべきだと考えています。妹島さんもコッチャさんも同じことを言っています。異なるジャンルの人たちが集い、そこに共通の言語がなくても、いまはインフォグラフィックスやデータビジュアライゼーションなど様々な方法を通して知識を共有し、それぞれの身体と智に落とすことができる。マルチメディアを用いる現代美術館でそれは可能となります。knowlegde production を通してwisdomが生まれます。そういう学びの場で、アートが機能すると信じています。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)