国立西洋美術館で開催中の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? —— 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」。3月11日に行われた内覧会で、イスラエルのパレスチナ侵攻に対するアーティストや市民による抗議活動が行われた。本件についてはSNS等でも様々な意見があがっているが、アクションへの肯定/否定といった二項対立にとどまらず、明るみに出た様々な問題を建設的に考えていくにはどうすればいいのか。文化研究者・アーティストの山本浩貴による寄稿を4回にわたり公開する。【Tokyo Art Beat】
このエッセイは、初めて自分から「掲載してほしい」と申し出たものだ。掲載を許可してくれた、編集部の福島夏子さんに謝辞を申し上げる。また、このエッセイを書くにあたり重要な情報を提供してくれた多くの友人——とくに、滝朝子さん——に感謝の意を伝える。
2023年3月11日、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?——国立西洋美術館65年目の自問 | 現代美術家たちへの問いかけ」の内覧会が開催された。参加作家の飯山由貴と遠藤麻衣、美術家の百瀬文らが抗議のアクションを実施した。今回の報に接し、ぼく自身、恥ずかしさを覚える。この問題に対し、自分なりに知ろうとしてこなかったことについて。現代アートの領域で、「脱植民地化」を語ってきた研究者であるにもかかわらず。いまガザで起きていることに対して声をあげることは、まぎれもなく脱植民地化の問題だ(その関連性は、次のエッセイで論じる)。
抗議者たちは現在のイスラエルのパレスチナ侵攻を非難し、国立西洋美術館に向けて川崎重工業株式会社に「イスラエルの武器の輸入・販売を取りやめることを早急に働きかけ(る)」ことを求めた。同社は、西美のスポンサーだ。防衛省は川崎重工を介し、税金でイスラエル製の多用途——当然、人間を標的にした「攻撃」は、その最たる使用法だ——ドローンの購入を進めている。現在、この兵器はガザでのパレスチナ人大量虐殺に使用されている。「今、ガザで起きていることは、ジェノサイドという言葉のあらゆる定義に照らして、ジェノサイドに他なら(ない)」(岡真理『ガザとは何か——パレスチナ知るための緊急講義』大和書房、2023年、26頁)。つまり、日本は官民一体でジェノサイドに加担している。「イスラエルの武器の輸入・販売を取りやめることを早急に働きかけ(る)」という言葉は、抗議に際し会場で撒かれたビラからの引用だ。
このビラを読めば、抗議者の目的が明確にわかる。2023年10月7日から現在までなされているガザ地区でのジェノサイドを早急に、かつ即時的・恒久的に止めることだ。
そのために抗議者たちがとった手段が、「BDS」──ボイコット(Boycott)、投資引き上げ(Divestment)、経済制裁(Sanctions)──運動だ。これはイスラエルに対し、政治的・経済的圧力を与える世界規模のキャンペーンであり、この運動の成功例はその数を着実に増しつつある。イスラエルはロビー活動を通じ、欧米諸国でBDSの違法化を促進している。また、同国はBDSを掲げる個人・団体の入国を拒否している。 こうした事実が、逆説的にBDSの実効性を示していると言えるだろう。
そのため、抗議者たちがイスラエルとの武器取引を停止するように防衛省・川崎重工に働きかけるのは戦略的に妥当だと言える。同国に経済的ダメージを与え、ガザ虐殺の即時停止につながる可能性があるからだ。そして、それを川崎重工とオフィシャル・パートナー契約を結ぶ西美に訴えることも理に適っている。
加えて、上記の目的のための派生的な——だが、本質的な——目的がある。ガザ問題に関し美術界の反応は希薄なように思われたが、抗議者たちは内覧会で「美術関係者」に対し、「一刻も早い停戦のためにもっと力を注(ぐ)」ことを呼びかけた。またそれは、美術系メディアを通して、美術に関心のある人々に対して呼びかけることにもつながった。
アクションを起こした者の意図は、しばしば誤解——あるいは、曲解——されている。美術館や関係者(館長・キュレーター・その他の職員など)を非難することではないし、ほかの参加作家が標的でもない。物理的であれ精神的であれ、攻撃が目的でもない。4部構成予定の本エッセイは、抗議者の目的を自分なりに引き継ぐべく書かれる。
迂回路になるが、自分の性格について少し。小さい頃から、家族には「謙虚」の美徳を教えられてきた。あまり「天狗」にならないように、と。それも影響して、心の深い部分で自意識過剰への自意識過剰を抱えている。そのため、仕事については「受け身」の姿勢を貫いている。良く言えば、仕事を断らない。悪く言えば、主体性がない。けれども、冒頭に述べた通り、このエッセイは「持ち込み」だ。その背後には、「自分の」というより、「周囲の環境の」変化がある。
日本で社会学を学び、もう10年以上前に渡英した。社会にアプローチする手段として、アートが有効だと考えたからだ。そのときと比べ、確かに知識の総量は増えた(と信じたい)。でも、自己の核心は変化してない。20代から30代前半にかけ、ぼくは自分の「声」を不特定多数の他者に向ける機会をほとんど与えられなかった。30代後半になり、そうした機会は格段に増えた。そうした変化——より正確には、自身の不変とのギャップ——に、いつも戸惑いを覚える。
その状況を客観的に認識するいっぽう、それが無数の「特権」の上に成立している事実を無化することは許されないと思っている。帰国以来、ぼくは途切れることなく大学常勤職にあずかっている(ところで、この4月から本務校が変わった)。美大は極端な例だが、一般大学でも女性教員の数が少ない。それを考慮すると、自らの現状は「男性」という属性が作っている。能力や努力が「ない」わけではない(と信じたい)が、偶有的要素が大きいことは否めない。
だから、ぼくがいまいる場所は、より適切な人を待っている。自分よりもそこにいるに値する人が存在すると知り、それでもなお、ぼくはこの場所を占め続けている。たとえば、「その人」は女性であるだけで——あるいは、自分ではどうすることもできない理由で——、その場所にいることができていないかもしれない。そうした自覚に対する「罪悪感」を軽減するための言い訳かもしれないが、ルイ・アルチュセールの「偶然性」思想、そこから練り上げられた與那覇潤の「代理人の倫理」概念を心に留めている。
「偶然性をベースにしつつ、「ぜんぶ風任せ」な思考停止にならないためにはどうするか。(…)いま、私は君たちの前で偉そうに教えているけれど、本当はもっと適した人がいるはずで、たまたまここにいるという偶然によって、自分が代理を務めているだけだと。(…)そこから、誰かの「代理人」として生きるという倫理をつくれないか。「自分はスゴい人材だから、活躍するのは必然だ!」みたいにマッチョな方向でなく、(…)自分が代理としてベストを尽くしている。そういうモラルのあり方を模索できるように思っています」(與那覇潤『歴史がおわるまえに』亜紀書房、2019年、375–376頁)。
「代理人の倫理」は、たまたま与えられた「特権」を自分のためだけではなく、他者のために利用することを要請する。能力や努力の不足でなく、制度的欠陥や構造的不平等に苦しむ他者のために。そうした人たちは特権をはく奪されたか、まだアクセスすることができていない。その考えは、容易に「上から目線」のエリート主義に堕してしまう。それをつねに忘れず、自己の特権を制度や構造を根本的に変えるために活用する方法を考えている。そう言うと、ことさら偽善的に響くだろうか。
飯山や遠藤・百瀬は国内外で重要な展示に参加し、その名を広く知られる。今回のアクションは、権力に踏みつけられる者のため、自身の特権を活用する意志に立脚すると感じた。SNSで「展示を降りて抗議すべき」という意見があったが、それは自ら特権を手放すことと等しい。内覧会で参加作家がメッセージを発したからこそ、そのインパクトゆえ、ここまで多くの人に知られる事態となった。
ぼくも自分の特権——人が耳を傾けてくれる「声」も、そのひとつだ——を、それを奪われている人のために使いたい。より正確に言えば、ぼく自身がその特権を得るうえで何かを奪ってきた人たちのために。ガザにいるパレスチナ人はサバルタン(従属階級)であり、ホモ・サケル(殺害可能かつ犠牲化不可能な生)である。その大半は子供で、その人たちは「語ることができない」。より正確に言えば、その人たちが全身全霊で発する声は、これまで無効化され続けてきた。
「代弁」(speak for)という傲慢さのリスクを背負って、虐げられている者のために声をあげる必要がある。歴史の表象不可能性を語るアドルノに抗弁して、ベレル・ヤングはより大きな「悪」のために代弁・表象のリスクを冒すことを擁護した。
「アドルノの主張が額面通りに受け取られたとしても(…)もっと大きな野蛮に対して防衛するために、かれが警告した野蛮を肯定するような正当化もありうる。つまり、否認に対して、あるいは忘却に対して防衛するために」(ベレル・ヤング「限界の表象」ソール・フリードランダー編、上村忠男・小沢弘明・岩崎稔訳『アウシュヴィッツと表象の限界』未來社、1994年、233頁)。
今回の文脈での「もっと大きな野蛮」は私たちの無関心、そして、それがもたらす虐殺の黙認だ。
SNSには、今回の出来事をめぐる言葉があふれている。その言葉が誰かに届いていることは、その人の「声」が聞かれているということだ。その声は誰のために、何の目的で発せられているのだろうか。SNSの批判の言葉に対し、苦言を呈したいわけではない。批判は重要だが、いま、主にSNS上で目立つ対立構造に関する懸念を2つ挙げたい。
ひとつは、今回のアクションをめぐる図式が、「抗議者とその批判者」という二項対立に回収されてしまうこと。もうひとつは、今回のアクションをめぐる議論が、その「手法」——あるいは、その「言葉遣い」——の問題に矮小化されてしまうことだ。これら2つの論点が、まったく無意味だとは思わない。しかし、こうした流れは、そこで提起された事柄それ自体に向き合うことを妨げてしまうリスクがある。
ゆえに、次のエッセイでは「問題そのものに向き合う」ことを試みる。すなわち、「2023年10月7日から——あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も——ガザで起きていること」だ。繰り返しになるが、現在ガザで行われているのはレイシズムに立脚したジェノサイドだ。そして、これまでガザで行われてきたことはセトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)に由来するアパルトヘイトにほかならない。
「特権」ということで言えば、今回のアクションに(直接的・間接的に)関わり、より「脆弱な」立場にある者に想像力を向けることが必須だ。美術館のなか、あるいは参加作家のなかにも。事実、「美術館関係者や他の参加作家をないがしろにしているのではないか」という意見をSNSで複数、目にした。こうした批判にも、耳を傾けたい。
それに対し、ぼくの意見は次のようなものだ。原理的に完璧なアクションはない以上、「誰も取り残されない」という状況をつくるため、そのアクションの趣旨に賛同する者が、そのアクションによって脆弱な立場に置かれる人たちをフォローするために自分にできることを考えることが肝心となるのではないか。「誰も取り残されない」は、近年アート界で頻出する「ケア」の大事なスローガンとして知られる。ケアを語るとき、しばしば子供・高齢者や障害者が中心となる。当然、それは絶対に欠かせない視点だ。しかし、その倫理には「脆弱性はあくまで可能性であり、その可能性は根こそぎにできない一方で、じっさいの危害に至らないように、環境を整えたり、じっさいに危害にあったとしてもそこでの傷を和らげるよう努めたりすることは十分可能」(岡野八代『ケアの倫理』岩波新書、2024年、245頁)という考えがあるのを忘れてはならない。
「ケア」を便利な概念としてだけ消費しないためにも、こうした精神を美術界に浸透させなくてはならない。そして、この姿勢を現実化させる方法を自分なりに、あるいは仲間と一緒に工夫していきたい。今回のアクションの趣旨に賛同しつつ、それに伴ってリスクにさらされる人たちをサポートしていくことは可能なはずだ。そのうえで、今回のアクションに関して、批判的かつ生産的な議論を展開させていくこともまた可能なはずだ。いずれも、二者択一ではない。それは、私たちにできることとしての「連帯」の形式にほかならない。
単純化された二項対立図式——「味方、そうでなければ敵」——の枠内での相互的冷笑、非難の応酬、その結果として残る無視や無関心ではなく。あるいは、真に建設的で批判的な議論を。そのために、今回のアクションで可視化された出来事に対し、一人ひとりができることを考えてみること。できる範囲で、できる時間のなかで。まずは、それについて知ろうとすることが重要となる。ぼくも手始めに読んだ岡真理『ガザとは何か——パレスチナ知るための緊急講義』はじめ、良質な参考文献は日本語でも手に入る。通勤時間に少しずつ、忙しい仕事の合間に少しずつでも。
改めて、こう問いたい——その「声」は誰のためにあるのか?
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山本浩貴
山本浩貴