ドイツ人アーティスト、ウラ・フォン・ブランデンブルクの個展「Chorsingspiel」が、11月27日からエスパス ルイ・ヴィトン大阪にて開催されている。会期は2025年5月11日まで。
本展は東京、ミュンヘン、ヴェネチア、北京、ソウル、大阪のエスパス ルイ・ヴィトンにてフォンダシオン ルイ・ヴィトンの所蔵コレクションを公開する「Hors-les-murs(壁を越えて)」プログラムの一環。
ウラ・フォン・ブランデンブルクは1974年ドイツ・カールスルーエ生まれ。現在はパリを拠点に活動している。カールスルーエで舞台美術を学んだのち、ハンブルク美術大学に進学。インスタレーションや映像、水彩画、壁画、コラージュ、パフォーマンスなど多様な表現方法を用いるが、演劇の世界に強い愛着を持ち続け、いずれの作品も大きな舞台空間の延長、あるいはその一要素としてとらえることができる。また精神分析やタロットカード、秘密結社など、オカルトへの傾倒から合理主義へと移行する19世紀から20世紀の時代と結びついたモチーフを好んで用いている。
マドリードのベラスケス宮殿、パリのパレ・ド・トーキョー、ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーなど、世界各地の美術館やギャラリーで個展を開催しており、その作品はテート・モダン、ポンピドゥー・センターをはじめ、多数の美術館に収蔵。2024年は京都のヴィラ九条山にてレジデント・アーティストとして滞在制作を行っている。
本展では、フォンダシオン ルイ・ヴィトンのコレクションから、モノクロの映像作品と垂れ幕で構成されるふたつのビデオインスタレーション、《Singspiel》(2009)、《Chorspiel》(2010)を展示。いずれも日本初公開の作品だ。
ギャラリーに入ってすぐ目に飛び込んでくるのは、薄暗い空間にそびえ立つ、四角く巨大な布の囲いだ。高さ2.9m、幅62mにおよぶ幕によって作られた構造のなかを進んでいくと、映像作品を投影するスクリーンにたどり着く。
上映されているのは、18世紀後半のドイツで花開いたオペラの形式である「歌芝居(Singsiel)」を参照した《Singspiel》。ひとつのシークエンスショットで撮影された本作では、建物に住むゴーストの主観ショットのようにカメラが室内を自由に動き回り、やがて本を読む人、床に横たわっている人など様々な人物をとらえる。人々は食卓を囲んで話に花を咲かせ始め、どうやら家族団欒の風景のようだ。そして舞台が屋外に切り替わると、今度は先ほど食卓を囲んでいた面々が出演者や観客になった野外演劇が行われている。
映像内では無声映画のようにセリフが存在しない代わりに2曲の歌が流れるが、これはフォン・ブランデンブルクによって作られた楽曲で、どちらも作家自身が歌っている。歌詞はどこか掴みどころがなく、具体的な物語を読み取ることは難しい。食卓の場面では役者が歌詞にあわせてリップシンクしている。
撮影の舞台になっているのは、ル・コルビュジエが1931年にフランスのポワシーに設計したサヴォア邸だ。作家によれば、垂れ幕は柔らかな布で建築を展示室に立ち上げ直す役割を果たしており、布に用いられている色はサヴォア邸の建物に使われている色と同じなのだという。
フォン・ブランデンブルグは、プレス内覧会にて、「私にとって両方のインスタレーションにおいて重要なのは、観客が空間的な要素を通って映像をへとたどり着くことです」と話した。この迷路のような構造は映像に出会う前の序章のような役割を果たしており、ここを通った観客の身体的な感覚が映像のなかへと続いていくことを意図している。
ル・コルビュジエといえばモダニズム建築の巨匠だが、作家は「この映像は、モダニズムの建築家たちへのある種の批判でもあります」とも話す。建物のなかで人がどのように生活するかが規定され、人間の感覚的なニーズを排除するかのような機能性や合理性の追求に対する疑問を投げかけている。映像の登場人物たちはこのサヴォア邸に住んでいるという設定だが、そこには作家自身の家族との記憶、実際にサヴォア邸に住んでいた家族のエピソードも重ねられ、現実とフィクションが混じり合う。
もうひとつの作品《Chorspiel》でも、映像にたどり着くまでに垂れ幕によって作られた通路が用意される。直線的に垂れ幕が配置されていた《Singspiel》とは対照的に、本作では長さ78mの布が渦を巻く。垂れ幕のあいだをぐるぐると進んで行くと、迷宮に入り込んでいくかのような感覚がもたらされる。
《Chorspiel》もひとつのシークエンスショットで構成されており、撮影はスウェーデンの森で行われた。ラインパウダーで一区画を白く塗りつぶすことで森の中に即席のステージを作り出すなど、より演劇的な演出が取り入れられている。こちらの作品でも映像に映し出されるのは、ある家族の姿だ。両親、娘、祖母と思しき男女のもとへ異国から男がやってきて、家族の関係性のダイナミズムを揺さぶっていく。絡み合った紐の玉をほどこうと格闘していた娘の様子は、男との出会いで変化する。渦巻き状の垂れ幕に描かれいてる海や山などの景色は、男が森に辿り着くまでに見た景色を表していて、さながら巨大な絵巻物のようでもある。
ここでもセリフの代わりに歌が用いられるが、本作では作家による歌ではなく、男女の混成による合唱が状況を説明し、登場人物の内面を表現する。これはギリシャ演劇で場面の状況を説明したり、進行の助けとなるような役割を担ったコロス(合唱隊)をイメージしたものだ。さらに、映像のオープニングでは絵画のような構図で画面の中に登場人物が配置されるが、この演出には活人画の要素が取り入れられている。
作家は、両作は「家族」と「無意識」を扱っている点で共通していると語っている。観客はどちらの作品でも映像を鑑賞する前に、舞台セットのように演出された垂れ幕の構造物に迷い込むことになるが、ただ映像作品を見せるのではなくこうした演出を用いるのは、観客の身体を“アクティベート”し、「作品」と「作品を見ること」を分離させずに一体化させたいという作家の想いがある。
さらに特徴的なのは、両作とも映像作品のテキストが作家の「自動手記」によって執筆されていることだ。シュルレアリストたちが取り入れたオートマティズムのように、自らの意識の外側において文章を書くという手法で書かれたのだそうだ。文章がかならずしも意味を成していなかったり、要素が欠けていて行間を読むことを求められるという点で、「俳句にも似ている」と作家は語る。
会場には、《Singspiel》で使われた垂れ幕のデザインのためのドローイングも展示されているが、映像、演劇、平面作品、彫刻など多様な表現手法を用いるフォン・ブランデンブルグは、自身の作品を「総合美術(Gesamtkunstwerk)」ととらえ、ひとつのジャンルにとらわれず、複数な要素を融合させることを好んでいるのだという。
最後に作家は、「私は時間やストーリー、俳優、彼らの動きなどのすべてを考えるのが好きです。映像作品はそれらをすべて結びつけるのに最適なメディアです。そして私の全部の展覧会において、観客がアクティベートされること、作品の一部になることがとても重要なのです」と観客の身体に働きかけることの重要性を強調した。ギャラリーに出現した舞台装置のなかに迷い込み、フォン・ブランデンブルグの作り出す作品世界に身体を委ねてみてはいかがだろうか。