連載では、#MeToo以降の女性映画を様々な観点から追ってきた。#MeTooのムーブメントは、発端はアメリカの映画界におけるセクシュアル・ハラスメントである。それにより明らかになったのは、映画界のみならずテレビ局・芸能界など華やかに見える業界ほど、男性中心主義の構造的な問題により、いかに女性差別によるおぞましい性的暴行等が横行しているかということである。#MeTooムーブメントは2017年の10月に発刊された「ニューヨーク・タイムズ」を嚆矢として、欧州、韓国や日本などのアジア圏にも広がり、日本ではいまでも演劇/映画/芸能界で映画監督や演出家に対しての性的暴行の告発の動きがある。
よって、連載で追ってきたのは女性ポップスターの伝記映画、#MeTooムーブメントの直接の原因であるワインスタイン事件の映画化作品、人工中絶が違法だった時代の女性作家の伝記的作品、家父長制の外で生きるホームレス女性の末路を描いた映画、そしてイランでの実際の事件を基にした、16人の娼婦を殺したシリアル・キラーを描いた映画などである。これらの作品は、いままで男性の視点で描かれてきたことを女性の視点で描き直したり、または男性中心主義の視点では描かれてこなかったことに焦点を当てている。いままで表に出ることがなかった「女性の声」が映画の基調となっているのがいちばんの共通点なのである。そして、ワインスタイン事件が象徴的なように、これらの映画の女性たちは、いずれも何がしかの犯罪や暴力の被害者であり、決して加害者ではない。
だが、5、6月に封切られる女性が主人公の作品を試写で観て、私は頭を抱えてしまった。自らが犯罪者である女性が跋扈しているのである。とくに度肝を抜かれたのが、『ソフト/クワイエット』(2022、ベス・デ・アラウージョ)である。
ブラジル人の父と中国系の母を持つアメリカ人女性監督が撮ったこの作品の主人公は、「アーリア人団結をめざす娘たち」という白人至上主義のグループを結成した若い女性たちである。白人女性である彼女らは、多文化主義や多様性が重んじられる風潮を嘆き、移民や有色人種を毛嫌いし、集会を開き意気投合、ちょっとしたことからアジア系女性への実際のヘイトクライムに突き進む。全編ワンカットで撮られているので、彼女らの差別意識を発端とした犯罪の芽生えから実際の犯行まで、ドライブ感が観客に如実に伝わってきて、おぞましいことこのうえない。
大きなヘイトクライムの加害者が、女性だったというニュースはあまり聞かない。だが、アラウージョ監督が造形した人物像は、たとえば有色人種の女性のほうが自分より出世が早いことに憤る女性など、リアリティがあり、自分の隣人にももしかしたらこんな女性がいるのかも、と思わせる巧さがある。
これもいままで表に出てこなかった「女性の声」のひとつではあるのだろう。そもそも製作のブラムハウス・プロダクションは『ゲット・アウト』(2017、ジョーダン・ピール)で全米の賞レースを席巻した製作会社である。ヘイトクライムの加害者が女性、しかも集団、という要素がセンセーションを増幅させることを熟知しているのだろう。『ゲット・アウト』と同じくホラーテイストを利かせながら、「人種のるつぼ」と言われるアメリカでの人種差別の現実を観客に突きつける社会派作品の格は保っている。決して女性を貶めるために女性のヘイトクライマーという設定をしているわけではない。
だが、ジェンダー・イクオリティが進(んでいるともあまり思わないのだが……)むにつれ、映画で女性の犯罪者を見ることも増えるのだろうか、と考えると複雑な気分になる。男女平等とは、女性の権利拡張とは、そういう目的ではなかったのではないか。続けて、『私、オルガ・へプナロヴァ―』(2016、トマーシュ・ヴァインレプ、ペトル・カズダ)は22歳という若さでチェコ最後の女性死刑囚となったオルガが主人公の、実話を基にした映画である。
オルガは、1973年にプラハのトラム停留所に自らトラックに乗ったまま突っ込み、8人を殺害した。13歳のときから鬱病に苦しんできたオルガは、精神病院で集団リンチに遭ったり、女性の恋人ができたりするが、捨てられ、だんだんと精神を病んでいく。
『ソフト/クワイエット』を「女性映画」と呼ぶのはためらわれるが、この映画は一種の「女性映画」であろう。オルガが家族を嫌い、彼らと上手くいかない理由は観客にはっきりとは明示されないのだが、だからこそ、彼女の内面のひりひりするような孤独がこちらにも伝わってくる。年若く、小悪魔的な風貌はひとつ何かのスイッチを押せば青春を謳歌できそうなのだが、彼女の場合は、石が坂道を転がっていくように物事が悪い方に進んでいく。
レズビアンの犯罪者ということで『モンスター』(2003、パティ・ジェンキンス)を想起したりした(レズビアンは映画やドラマで残忍な殺人者として描かれることが多く、その連想自体は注意が必要だが)。だが、娼婦への蔑視などの女性差別に対する糾弾というフェミニズム的なテーマが中心にある『モンスター』と較べると、レズビアンであることによる差別はさほどあからさまには描かれず、あくまで犯罪の原因はオルガの内面にあり、他人にはわからない、というような描き方になっている。どちらかというと、男性のシリアル・キラーを描く手法に近いだろう。
ジェンダー・イクオリティは犯罪映画にも様々なかたちで現れているということだろう。『Rodeo ロデオ』(2022、ローラ・キヴォロン)もその観点から見ることができる。若いバイカーのジュリアが、アクロバティックな技を繰り出しながら公道を爆走するバイカー集団に出会う。事故がきっかけで彼らの組織に加わることになったジュリアは、男性中心主義の集団の中で「盗み」の才能によって頭角を現していく。まずは、典型的なアウトローヒーローを女性にした功績があげられる。バイクに乗ることが何よりも好きなジュリアの、バイクに乗っているときの笑顔は、鑑賞者の性別にかかわらず観ていて爽快感があるだろう。
犯罪といっても、バイクを盗み、ナンバープレートを付け替えて売るというだけなので、人を傷つけるわけではない。彼女のバックグラウンドは詳しくは描かれないが、カリブ系であることからフランス社会での苦労も窺え、彼女が犯罪をエスカレートさせていくのも、男性中心主義への対抗心だと見ることができる。組織のボスの妻とのシスターフッドも描かれ、『ソフト/クワイエット』や『私、オルガ・へプナロヴァー』に比べたら、明らかに#MeTooの文脈で語ることができる映画であろう。
私が気になったのは、結局はチーム内の男性に裏切られたジュリアに訪れるラストだった。監督はノンバイナリーということで、体の線が出る服を嫌いいつもブカブカのTシャツを着、男性とも女性とも親密な関係を作ることができる、ジェンダーフルイドな新しいヒロイン像を創造しておきながら、従来の男性アウトローの「滅びの美学」に収束してしまうのはなんとも勿体ない。また、結局は男性中心主義に負けたのだとも取れるラストである。
これは同じフランスの女性監督、カンヌの受賞作品ということで共通点が多い『TITANE/チタン』(2021、ジュリア・デュクルノー)にも思ったことである。
ヒロインの車やバイクに対する耽溺も共通している。頭にチタンを埋め込んだ主人公のアレクシアが、デヴィッド・クローネンバーグの映画の登場人物や、『鉄男』(1989、塚本晋也)の女性バージョン、というのはいい。その奇想天外な設定──ジェンダーはおろか、車とセックスをするのだから人間と物の境界を超えている──のわりに、ラスト、その車との子を出産してアレクシアは死んでしまうのだ。『ローズマリーの赤ちゃん』(1968、ロマン・ポランスキー)のヒロインですら悪魔の子を産んだ後、生き残るのに。
序盤からいきなり、言い寄られたとか、たいした理由もなく人を殺すシリアル・キラーになるアレクシア。中盤以降、逃亡生活となった彼女は消防士の中年男性の息子に成りすまし、ここでもジェンダーフルイドがテーマになるが、気になるのはアレクシアの主体性が感じられず、痛々しいだけなのである。女性が子供を産んで亡くなるのも、決して新しい女性像とは言えない。
デュクルノーの初長編『RAW 〜少女のめざめ〜』(2016)は人喰いがテーマなので、痛いシーンも多かったが、一貫したヒロインの強い欲望が感じられ、それが「人を食べたい」という異常なものであればあるほど、切実な美しさがあった。若い女性の欲望が我々観客の周知の世界ではない、別の文脈で花開くような、魅惑的な驚きがあった。
ジェンダー・イクオリティに拘り、「男並み」に行動した女性は、結局は報われず、数多の犯罪者の男と同じように、破滅すべきだということだろうか。この原稿を書くために、女性映画&犯罪映画の金字塔である『テルマ&ルイーズ』(1991、リドリー・スコット)を見直した。
ジーナ・ディヴィス演じる専業主婦のテルマも、スーザン・サランドン演じるウエイトレスのルイーズも、いま観ても女性として古いとは感じない。未だにいそうな女性像であった。だが、ジュリアやアレクシアに較べたら、平凡な女性たちである。テルマがクラブで会った男にレイプされそうになり、ルイーズは思わず男を射殺してしまう。そして、2人の逃避行が始まる。
テルマもルイーズも結局破滅するのは『ロデオ』や『TITANE/チタン』とそう変わらないのだが、彼女らは警察に捕まることより、崖から飛ぶことを自ら選ぶ。崖から飛んだ2人の乗った車のストップモーションは、よくある手法だが、彼女らの魂の自由や永遠性を感じさせ、効果的だ。また、それまでの道中で、彼女らは2人にセクハラしたトラック運転手をとっちめたり、横暴な夫に苦しめられていたテルマは若い男とアヴァンチュールを楽しんだりと、自らを解放させる。結局は追い詰められ破滅するジュリアやアレクシアとは、女性の観客が観たときに、解放感や爽快感が違うと思う。
ライターの佐藤結はこの映画が、「「古い枠組みの中でも、女性キャラクターを輝かすことはできる」ことを示した」(*1)と述べたが、同感である。佐藤はこうも言う。「小さな街に住む、それほど若くはない平凡な女性たちがこれほど“かっこよく”見える映画は、いまだに作られていない」(*2)。2016年のカンヌ国際映画祭で、スーザン・サランドンは、「『テルマ&ルイーズ』の後、女性が主演する映画がたくさんできるだろうと予想されていたが、そうはならなかったと語っている。未だにこの映画が輝きを失わないということは、世界がそう変わっていないということではないのか。『モンスター』でも描かれたような、レイプに遭い、その怒りや恐怖から殺人者になる女性は新しい女性像とは言えないが、だからといって「古臭い」という気もしない。男性による性暴力がいまだに続いている現実は、2017年に#MeTooムーブメントが起きたことによって、世界的にも実証されてしまった。
ここからは犯罪ではなく、女性と暴力の関係について考えてみたい。『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(2022、サラ・ポーリー)では、2010年、自給自足で暮らすキリスト教一派のとある村が舞台である。そこでは、女たちがたびたび薬を盛られて男たちにレイプされている。「悪魔の仕業」「作り話」などと誤魔化されてきたが、それが実際に起きた犯罪であることを知った女たちは、男たちの留守に、彼女たちだけで集まって話し合う。男たちを赦すか、それとも闘うか、村を去るか。
2005年から2009年にボリビアで実際に起きた事件を基にした、ミリアム・トウズによる同名のベストセラー小説が原作で、出演もしているオスカー女優フランシス・マクドーマンドがオプション権を獲得し、ブラッド・ビッド率いる制作会社PLAN Bに持ち込み、映画化が実現した。
この映画の美点は、「いままで表にでてこなかった女性の声」どころではない、あらゆる年代の女性の、怒りも、戸惑いも、女性同士の争いも、シスターフッドも、そこにいるすべての女性のあらゆる声をとらえようとしているところであろう。性暴力といういま、女性にとってもっともヴィヴィッドなテーマを扱っているということも大きい。
ただ、女性たちが辿り着いた結論については、『物語る私たち』(2012)でアクロバティックな作劇を見せたサラ・ポーリーにしては平凡な印象だった。原作もあり、さらに事実を基にしているから制約もあるだろうが、もう少し何かできたのではないか。優れた女性映画は、女性の本質を映し出してくれるだけでなく、女性というジェンダーの可能性も見せてくれるものではないだろうか。
ここで、旧作なのだが、女性と暴力の関係を考えるに、重要な作品を挙げたいと思う。ケリー・ライカートの『ミークス・カットオフ』(2010)である。犯罪者やたいした理由もなくシリアル・キラーになる女性に感情移入できるわけではないが、女性は暴力を好まず、ひどいことをされても仕返しさえしないというのもなんとも古臭く感じる。そんななか、その二極に当てはまらない新しい女性像が清新に感じられた作品であった。
舞台は西部開拓時代の1845年、オレゴン州。移住の旅に出たテスロー夫妻ら3家族は、道を熟知しているという男ミークにガイドを依頼する。だが、2週間の予定だった旅は、5週間経つのに目的地に辿り着かず、水が不足し、旅は過酷さを増していく。家族らはミークを疑い始める。そんななか、ひとりの先住民が彼らの前に姿を現す。水を欲している家族らは、水場の場所を知る可能性がある先住民を捕え、旅に連れていくことにする。
西部劇を換骨奪胎したこの作品は、男たちが重要な話し合いをしている傍で、女同士でお喋りしながら編み物など細かい仕事に従事する妻たちの姿をとらえる。そのひとり、エミリー・テスローは、先住民に対し、食べ物を運んであげたり、破れた靴を縫ってあげたり、何かと世話を焼く。ほかの妻の中には、先住民の仲間が自分らを待ち伏せしているのではないかと怖れる者もいたが、エミリーは意に介さない。
終盤に、幌馬車が壊れてしまい、投げ出された荷物に触る先住民にミークが怒り、銃を向ける。エミリーは思わずミークに銃を向ける。ミークは銃を下ろす。水場は見つからず、彼らは戻るか、このまま進むか迷うが、荒野の先に1本の木を見つける。水がなければ木は育たない。男のひとりがミークにどうするつもりなのかと訪ねると、彼はテスロー夫妻に従うと答える。それはつまり、先住民の男に従う運命なのだということだ。
エミリーがミークに向けた銃──水の不足という過酷な状況のなかで、言葉も通じず、敵か味方かはっきりしない先住民の殺害を阻止する彼女の暴力の兆し、毅然とした恫喝こそ、女性映画にふさわしい暴力なのではないかと思った。彼女は未知のものに身を預け、可能性のなかを進んでいく。女性が、男たちの傍で佇むことを強いられる西部劇というジャンルを解体するように、徐々にエミリーをカメラの中心に据えていくライカートの手つきも驚くべきものだが、それを牽引するのが、西部劇ではずっと悪者扱いされていた先住民であったというのも皮肉が効いている。
テルマとルイーズが崖から飛び降りてから22年が経った。銃と車と女がいれば映画はできる。『気狂いピエロ』(1965、ジャン=リュック・ゴダール)の宣伝文句に使われたこの言葉に「女」があるのは、彼女らが銃や車と同じ、要素のひとつに過ぎなかったからだ。自らバイクに跨ったり(『ロデオ』)、また車を性愛の対象としたり(『TITANE/チタン』)、男たちに銃を向けたり(『ミークス・カットオフ』)、犯罪映画の女性たちは明らかに進化している。
女性たちはもう自分たちを犠牲にしなくてもいいだろう。声をあげて、連帯する。逃げるだけでは社会は変わらない。男社会に闘いを挑むのはいいけど、生き残る道を探すべきだろう。銃口を向ける。どこに向けるのか、狙いを定めて、しっかりと銃を構える。
*1──佐藤結「車は走り続ける──『テルマ&ルイーズ』が開いた道」、『リドリー・スコット』、佐野亨編、辰巳出版、2020年
*2──同上