シリーズ「#MeToo以降の女性映画」は、「#MeToo」のハッシュタグとともに自身の性暴力被害を告発する人々が可視化され、この運動が時代を揺さぶる大きなうねりとなったいま、どのような映画が生み出され、それらをどのように語ることができるのかを考える連載企画。
「#MeToo」運動が一躍世界に広まったきっかけは、2017年10月に「ニューヨーク・タイムズ」紙がハリウッドでもっとも影響力のあるプロデューサーのひとり、ハーヴェイ・ワインスタインによる様々な女性たちへの性暴力とセクシュアル・ハラスメント疑惑を報道したことだった。以降、映画界の長年にわたるジェンダー不平等は様々なかたちで問題視されることとなり、こうした問題を意識的に取り上げる作家・作品も増えている。
連載第5回となる今回は、「放浪する女性たち」がテーマ。女性映画の金字塔から近作、コロナ禍以降の現代までをつなぐ。【Tokyo Art Beat】
前回はこちら↓
「放浪する女性たち」というと、2種類に分けられる。まずは『WANDA』(1970、バーバラ・ローデン)のようにたいした目的もなく主婦が犯罪者のような男についていってしまうロードムービーがあり、ケリー・ライカートのデビュー作『リバー・オブ・グラス』(1994)などがその定型を引き継いでいる。
もうひとつは、家を持たない女たちで、たとえばアカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した『ノマドランド』(2020、クロエ・ジャオ)が、キャンピング・カーにて“現代のノマド”として暮らす女性を描き、2008年のリーマンショック以降そのような生活をする人々が増え、女性にまで広がっていることを知らしめた。
また、コロナ禍も女性が多い飲食業などに従事する非正規労働者を直撃した。2020年11月に起きた渋谷ホームレス殺人事件は、ホームレスの女性がバス停で夜を明かしていたところ撲殺されたという痛ましい事件だ。被害者は事件の3年前にホームレスとなっていたので、コロナ禍が直接影響を与えたわけではない。だが、この事件に着想を得た『夜明けまでバス停で』(2022、高橋伴明)のヒロインはコロナ禍で仕事を失い、ホームレスになるという設定になっている。
ケリー・ライカートも『ウェンディ&ルーシー』(2008)で、愛犬ルーシーとともに車でアラスカに向けて仕事を探しに行こうとしているほぼ無一文の少女ウェンディを描いた。スーパーマーケットにて窃盗で捕まり、警察に連行されているあいだにルーシーがいなくなってしまう。寝泊りしていた車も故障し、野宿を強いられるなど、次々とウェンディにとってのセーフティネットがなくなっていく展開がシビアだが、そのなかでも尊厳を失わないウェンディと、彼女を気にかける警備員の男との心の交流が胸をうつ。
西部開拓時代のアメリカを舞台にした同監督の『ミークス・カットオフ』(2010)も、飢えと渇きに苦しみながら砂漠を横断する白人3家族を描きながら、旅の途中で捕まえたインディアンとの交流において、ひとりの女性が重要な役割を果たす姿をとらえた。「放浪する女性」を“現実的”かつ“映画的”――そして何よりも主体的/包括的に描いたライカートの功績は女性映画全体にとって非常に大きいと言えるだろう。
今回は、後者のパターンである家のない女性=ホームレスに絞って分析していきたいと思う。映画で描かれるホームレスは圧倒的に男性が多いが、これは実際のホームレスの中の女性の割合を反映していると言えるだろう。日本ではホームレスにおける女性の割合は3%と言われ(*1)、不明者を含めても8%程度(*2)だという。女性にとって野宿は性的暴行などの危険が多いことから避けられがちであることや、女性のほうが福祉や公的扶助が認められやすく、人や制度に頼ることに抵抗が少ない場合が多いことがその理由だと言われる。また風俗産業が一時的なセーフティネットとして機能する側面があったり、若年層では、性交渉の代わりに見ず知らずの男性の家を泊まり歩くような女性も存在する。こうしたことも女性の貧困がホームレスというかたちでは現れにくい一因となっている。
そもそもとくに日本では、女性は経済面を夫や実家などに頼る割合が高く、世帯主になりにくい。経済的に自立できない女性たちの多くは、野宿を選ぶよりは問題があっても夫や親のいる家庭に留まることが多いのである(*1)(確かに『ノマドランド』のようにキャンピング・カーで移動する女性の話は日本では聞いたことがない。もちろん国土の広さも関係しているだろうが)。
近年までは、彼氏とアメリカに旅立つために貯金に励んでいたOLが、いざ出発というときに空き巣によって有り金をすべて盗まれてしまい、ついでに彼氏の二股も発覚し、急遽ホームレスになるという米倉涼子主演の『ダンボールハウスガール』(2001、松浦雅子)のように、シチュエーションドラマのネタに使われるようなものしか──とくに邦画だと──見当たらなかった。
レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991)は女性ホームレスをヒロインにした点で画期的だったが、男性と2人で橋で暮らすという設定だった。近年になって女性映画の興隆とともに、『ドライビング・バニー』(2021、ゲイソン・サヴァット)のように、経済的弱者であるシングルマザーを等身大に、生き生きと描く映画も出てきたが、彼女も姉夫婦の家に居候しているという設定である。
やはり性暴力の問題がつきまとう女性ホームレスは、映画にするには重い題材だろう。私自身、男性ホームレスならたまに見かけるが、女性のホームレスを見かけたことがない。彼女らは隠れるように暮らしているのだという。
そのヴァルネラヴィリティは女性が若ければ若いほど高まり、45歳のホームレス女性が主人公の『夜明けまでバス停で』が撮られたのは、明らかに実際にホームレスの女性が撲殺されるという事件が起きたことに呼応している。犯行には根深いミソジニーが感じられ、いまこの映画を撮らなければという、製作陣の切迫した思いが感じられる。だが、被害者は実際は死亡当時65歳だった。また、実際の事件と違い、映画では女性は間一髪のところで撲殺の危機を逃れる。セクハラする上司に立ち向かう女性たちが連帯する描写も取り入れられ、いまどきの等身大の女性たちが描かれる、女性にとってエンパワメントされる映画となっている。
そのように考えていくと、若く美しい女性をホームレスの設定にし、殺害されるわけではないにせよ、だんだんと落ちぶれさせていき最後は凍死させる『冬の旅』(1985、アニエス・ヴァルダ)の過激さが浮き彫りになるだろう。『夜明けまでバス停で』では、ヒロインがホームレスになってからも顔や髪、服装が綺麗すぎるのが瑕疵であったが、『冬の旅』で主人公を演じるサンドリー・ボネールは撮影中ずっと髪を洗わなかったそうだ。つねにドキュメンタリーとフィクションを混合させながら映画を撮るヴァルダらしい、ヒリヒリするようなリアルが根底を覆いつくす映画となっている。
ある若い女性が畑の側溝で死んでいるのが発見される。外傷はなく、凍死と判断された。そこからモナという、その若い女性に逢ったことがある人々の回想方式で話が進んでいく。彼女を最初に目撃したのは、冷たい海で泳いでいたモナを見たふたりの若者であった。その証言はまるでモナが海からやってきたような印象を与える。
モナは洗車や農作業などを手伝って小銭を稼いだり、同じように放浪中の男と空き家に住んだりしながら放浪を続けている。重要なのは、モナがどうしてそのような生活を続けているかは説明されない点だ。アメリカでヒッピー文化が流行したのは60年代後半だが、ファッションや音楽や酒、マリファナへの耽溺から、その影響下にあるように見える(ドアーズなどの挿入歌の選曲もその印象を後押ししている)。要は、いままで述べた「放浪する女たち」はみな、経済的事情から家を持つことができず、仕方なく“漂流”していたが、モナは自由と孤高を愛し、自ら選んでその生活をしているようにも見えるのだ。山中で牧場を営む若い夫婦のもとでは、数日泊めてもらい、仕事をすればそのままいてもよいと言われるが、「自分は楽に生きたいのだ」と言ってその家を後にする。その後、ひょんなことから女性の大学教授ランディエと出会い、不思議と通じるものがあり仲良くなり、支援を受けるが、彼女とも長続きしない。
放浪生活を続けるうちにひどい匂いがするようになってしまったが、十二分に若くて美しいモナは、愛想と環境に合わせる柔軟性があれば、悲劇的な最期を迎えなくてもよかったのではないか……と観客に思わせる。『ノマドランド』のヒロイン、ファーンも、中盤以降、妹夫婦に頼ろうと思えば頼れることがわかり、また彼女とともに生きたいという男性が現れるが、彼女はひとりまた放浪の旅に出る。ファーンはリーマンショック後、街ごと消滅してしまった企業城下町の出身で、“ノマド”になったのは自分の意志ではないが、人々の厚意に頼らないところはモナの精神を引き継いでいる。
他作品のホームレス女性たちと違い、ひとりの人間の持つ多面性、謎が保たれているのもモナの特徴だ。老若男女様々な人々の回想によって回顧されるモナは、語る人によって印象が違う。働き者の男性にとっては「怠け者」だし、モナを羨ましそうに語る女性もいる。
勉学も、労働も、恋愛も、家庭を作ることも拒絶したモナは、つまり「世間が女性に期待すること」をすべて突っぱねている。男性に従属し家事や家業に勤しむこと、母となること。女性が子を産むことができるからこそ、経済的弱者になりやすい社会のシステムを考慮し福祉などが手厚い現実を、反故にするがごとく、バックパッカー然とした恰好で畑を歩き続けるモナ。見返りなど求めず面倒を見てくれる親切な男性も多いが、観客の皆が恐れること、襲われ性的に暴行されることが中盤以降起こり、そこからモナは転落していく。ただモナは決して「ひとりで強く生き抜く中年女性」(ファーン)、「健気な少女」(ウェンディ)、といったひとつのイメージに固定されない。
若い女性ホームレスといった、世間的にスティグマに満ちた女性表象を冒頭からラストまで保ちながら、また彼女に悲劇的な最期を与えながら、モナが「不幸な女性」というありがちなイメージに固定されないのは、ヴァルダの類まれな才能故としか言いようがないだろう。我々はそのスティグマを側溝に横たわった痛ましいひとりの少女の遺体に押し付けることなく、自らのなかに引き受ける。それらは我々のなかに巣食い、時折思い出したように臓腑を痛めつけたり、また到底叶いそうもない夢を見させたりする。
*1──【論文】見えない女性の貧困とその構造―ホームレス女性の調査からhttps://www.jichiken.jp/article/0055/
*2──THE BIG ISSUE 「女性のホームレスはなぜ少ない? 単身女性の貧困が考慮されていない社会デザインについて/岡山ウィズセンターに出張講義」 https://bigissue-online.jp/archives/1073643715.html