私が山田尚子作品と聞いて思い出すのは映画『リズと青い鳥』(2018)に代表される女性間の強烈な愛にまつわるような作品だ。近作のテレビシリーズ『平家物語』(2021)でも、権力者に使われることに倦んだ祇王と仏御前というふたりの女性が最後には出家しともに祈るようになるまでの人生の歩みを、短いながらも濃厚に描いていた。
そんな山田監督による8月30日に公開された最新作『きみの色』は本編が始まった瞬間から息を止めたくなるほどに脆く見える世界を提示する。それは女性間の親密さを描くとともに、その先にあるものを描き出そうとする作品でもあった。
『リズと青い鳥』で山田監督は「彼女たちの尊厳を守りたいというか、彼女たちにぐいぐいカメラを向けないように気を使いました」(*1)と語っていたが、『きみの色』では同作以上にカメラが映す場面は制限されている。
キャラクターたちが抱える葛藤や苦しみのいちばん濃い部分はカメラから外されており、彼女ら彼らは自分に起きた出来事の核心を語ろうとしない。だから観客は彼ら彼女らの一挙一動に静かに耳をそばだてることを要求される。
その繊細さは映画の見事な音響空間設計にも現れていた。『きみの色』ではキャラクターたちの声や環境音が丁寧に前後左右に振り分けられており、音の空間と映像の空間が密接に連携している。カットが切り替わり、キャラクターの立ち位置が入れ替わると言葉のやり取りが途切れ、またカットが変わって位置が戻ると言葉が再開される。
聞きすぎたり見すぎたりするとキャラクターたちが何も喋らなくなり、空間が壊れてしまうのではないかと錯覚するほどの緊張感がそこにはあった。そんなふうに映画に関わるのは不思議と心地良い。秘密を秘密のままにできる空間が広がっているからだ。
主人公、日暮トツ子の視点から描かれる物語はそんな視線をめぐる物語でもある。トツ子は人を色として知覚する。ある人は緑、ある人はオレンジ、そして彼女が感じる色には「綺麗さ」といった指標も含まれる。そんな彼女の主観を描く、フォーヴィズムのような色彩だけによるシーンは本作の見せ場のひとつでとても美しい。
しかしトツ子は他人の色を感じ取れても自分の色がどんな色なのかはわからない。またミッションスクールの寮生活という空間で多くの人と接する彼女は、つねに多くの色を見ている状態に置かれている。
映画の序盤の学校のシーンでは一画面に十数人ものキャラが同時に映り、しかもそのすべてが動き、しゃべっているというカットが何度も登場する。過剰なほどに情報量を持つこれらのシーンは、トツ子の感じるハレーションした世界そのものに思えた。
けれど、鮮烈な青色のイメージを持つ作永きみとの出会いが、トツ子の世界を一変させていく。聖歌隊のリーダーを嘱望されていた彼女を追うなかでトツ子は次第に学校の外で過ごすようになり、さらにきみを通じて影平ルイと知り合いバンドを組むようになると、音や動きの飽和は次第に穏やかになっていく。
それは彼女自身がバンドという活動のなかで自分自身の場所を見つけ、自分が世界に存在していることを知っていくことを意味しているのかもしれない。
『きみの色』が描く物語のひとつは、そんなふうに世界を見つめる人が世界に居場所を見出し、自分を理解していく物語でもある。
意外だったのはそこでキリスト教が息づく社会が前景化されていることだった。従来の日本のアニメではキリスト教はキーワードの材料だったり、神学的な議論だったり、ぼんやりとした寮生活のイメージだったりと、抽象的な扱いを受けていることが多かったが、本作ではキリスト教のある世界が明確に描かれる。
足繁く聖堂に通い自身を見つめるトツ子、祖母から聖歌隊のリーダーになることを期待されるきみ、古い教会の管理をしつつ母から医者を継ぐことを求められるルイ。それぞれが違うかたちでキリスト教のある社会に関わる様子は、新鮮なものだった。
それはまた、彼女ら彼らがどのように規律とかかわり、規律を通した許しを実践するかというかたちで、映画のテーマと深く呼応する。
規律の上にあるの許しと解放もまた、この映画の大きな物語だ。
山田尚子が監督を手がけた『けいおん!』をはじめ、バンドがアニメの主題となって久しいが、そこで描かれるのが様々な社会的抑圧や自己の苦しみからの一時的な解放であることは一貫している。
2024年は『ガールズバンドクライ』や『夜のクラゲは泳げない』、そして『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!』などバンドアニメが話題を呼んだ年でもあった。
これらの作品はすべて女性たちによるガールズバンドものだ。『きみの色』でも主人公たちがガールズバンドについて話をする場面がある。
こうした作品では現実の男性中心の社会とは異なる、女性たちだけによる連携と親密さをフィクションとして描くことで、息苦しい社会から逃れられる世界を——強固なジェンダーイメージを利用しつつ——表現していた。
そんななか『きみの色』が画期的なのは、そうした作品が描いてきた親密さや解放の感覚を男女が混ざるバンドのなかでも作れることを示した点だ。
ルイがトツ子ときみになんの照れもなく抱きついてみせたりするような身体接触の場面は、とても素敵だった。ガールズバンドものでは珍しくない光景だけど、それを男女で演じさせる作品はあまり多くはない。ルイの柔らかな雰囲気によって成り立つそれは、男性ジェンダーの規範を解きほぐすような描写だった。男性もそうした世界に主体として入ることができるのだ。
映画が描くのは恋愛が禁止される規律の上に成り立つ、恋愛や性的なものごとの規範から解放された世界と言えるのかもしれない。トツ子は何度か学校で異性との交際が禁じられていることを話す。
恋愛や性的なものを存在しないことにすることで感情や関係が曖昧にされた世界というのは、アニメが得意としてきたもののひとつでもある。良くも悪くもそこでは女性同士の親密な関係を、恋愛とも友愛とも名付けずに描く作品が多い。山田監督による『リズと青い鳥』もそうした作品のひとつだ。それは低く見られる友愛への祝福であると同時に、さらに低く見られ存在を無視されてきた女性間の恋愛や性への呪いでもあった。
『きみの色』は異性の関係をも友愛とも恋愛ともつかないもの、はじめからあらかじめ区別がないもの、として描くことで、きみとトツ子の関係も同じようなものとして並置し、すべてが曖昧になった世界を作り上げる。
そこではもはや恋愛/友愛や異性愛/同性愛という規範や差異やあり方が混ぜられ希薄になっていく。「誰かを好きであること」も、「誰かが誰かを好きであることが好きなこと」も色のハレーションの中で混じり合い、好きの意味にも無数の色が乗せられる。
山田尚子が描き続けてきた世界のひとつの到達点と言っても過言ではないだろう。
しかしそれは、冒頭で述べたような多くのことに対する沈黙によって支えられている世界ではないか、と私は思わずにはいられない。
一歩、映画館の外に出ればそこには数多くの差異と差別が存在する。映画の中のキャラクターたちも本当はそのことを知っているはずだ。映画はそうした差異を浮かび上がらせるような物事を慎重に画面から取り除いている。
教会を管理するルイは、医師である母親から病院を継ぐことを期待されているが、もしもこれが神学校への進学や神父になることを期待されているという話であれば、社会のなかにある男女の差別が物語に暗い影を落とし、ルイ、トツ子、きみのつながりは違うものになっていたかもしれない。
同性間の愛もそうだ。きみとトツ子の関係は映画の範囲では曖昧ななかにあるが、その葛藤は端々にある。映画で引用されるニーバーの言葉と、それを介したシスターとの対話はそれが一番色濃く出ている場面だ。
裏を返せば、映画が描くような関係や空間が我々の社会のなかでどれほど作りにくいのか、ということでもある。規範がもたらす抑圧や差別は私たちからつながる可能性を奪い去っていく。
映画全体に漂うかすかな緊張感やすぐにも壊れてしまいそうな繊細さは、そのことを深く深く知っているからこそ感じられるものなのかもしれない。
映画のラストで、観客は強制的に物語の中から退場させられる。
そこから先はもう『きみの色』の物語でないのだとすれば、どんな物語がその後に広がっているのだろうか。なんでそこから先は観ることができないのだろうか。きっとその先では差別や差異により濃く直面していくことになるのだろう。いや、映画が映していないところにも、すでにその葛藤はたくさんあったはずだ。
彼女ら彼らが、自身の物語を映画が描くままにのびやかに続けることのできる社会がもっとあってほしい、と願いながら私は映画館の白い光を浴びていた。
*1──『リズと青い鳥』山田尚子×武田綾乃 対談 少女たちの緊迫感はいかにして描かれたか(KAI-YOU) https://kai-you.net/article/52799
『きみの色』
2024年8月30日(金)公開
監督:山田尚子
脚本:吉田玲子
音楽・音楽監督:牛尾憲輔
キャラクターデザイン・作画監督:小島崇史
キャラクターデザイン原案:ダイスケリチャード
出演:鈴川紗由、髙石あかり、木戸大聖、やす子、悠木碧、寿美菜子/戸田恵子、新垣結衣
配給:東宝
公式ウェブサイト:https://kiminoiro.jp
©2024「きみの色」製作委員会
近藤銀河
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