コミック、実写、ビデオゲームと多彩に広がり続ける「スパイダーマン」の世界。そのなかでも、ひときわ異彩と挑戦に溢れたアニメーション映画として熱狂的に迎えられた『スパイダーマン:スパイダーバース』の続編、『スパイダーマン:アクロス・ザ・ユニバース』がついに公開!
ブルックリンで暮らす悩み多き天才少年マイルス・モラレスを中心に、マルチバース(複数の次元)で活躍するスパイダーマンたちが集結した前作から全方位的にパワーアップした本作では、マイルスが密かに恋心を抱くグウェン・ステイシー(スパイダー・グウェン)やちょっと頼りない師匠のピーター・B・パーカー(スパイダーマン)らに加え、未来的な世界で活躍するスパイダーマン2099、ギターとモヒカンが特徴のスパイダー・パンク、颯爽とバイクを乗りこなすスパイダーウーマン、インド映画のヒーローのようなスパイダーマン・インディアをはじめ、数えきれないほどの未知のスパイダーマンたちが登場。かれらはいくつもの次元を渡り歩き、スパイダーマンにとっての逃れ難い運命と対峙する。
様々なスタイルのアニメーション表現が過激に交錯し、かつて見たことのない映像体験が繰り広げられる本作には、「スパイダーマン」の世界をも超えてアニメーションの歴史自体を総ざらいするかのようなクリエイターの野心、そして創造の興奮に満ちている。そんな革命的な作品の魅力を、アートディレクター/映画評論家/サタニストの高橋ヨシキが読み解く! 【Tokyo Art Beat】
『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』は、〈一貫性〉(consistency)について示唆に富む作品である。このことはアニメーションや「映画」の本質と結びついており、なおかつ本作はストーリー自体、メタ的な観点から「繰り返し語られる物語あるいは神話の〈一貫性〉」とキャラクターの自律性との相克を描いたものだとみることができる。そのような構造をビジュアル・スタイルの集積として提示できたというのは驚くべきことであり、その意味で本作は文字通り革命的な映像作品だといえる。
同時に本作は無数のビジュアル・スタイルを横断しつつ、それをパスティーシュ、もしくは単なるマニア的な消費の対象と「しなかった」ことによって、すでに懐古の対象となった〈ポスト・モダン〉を越える〈ポスト・ポストモダニズム〉の息吹を感じさせるものとなっているが、これもまた驚くべきことだ。『スパイダーマン』のアニメーションがそのような〈アメイジング〉なものとして立ち現れてきたことには感動がある。ここで我々が目撃しているものは時代の転換点そのものだからだ。
本作はグウェン・ステイシーが一心不乱にドラムを叩く場面から始まる。フラッシュバックとフラッシュ・フォワードがストロボ的に挿入される中、モノローグによって前作のあらましが語られるが、同時に「それで物語を分かったと思ったら大間違いだ」と、観客に向けたメタ的なメッセージも放たれる。
注目すべきドラムのサウンドと同期して画面に炸裂する抽象図形の数々だ。前作(『スパイダーマン:スパイダーバース』、2018)では、クライマックスの加速器崩壊場面において、伝説的なコミック・アーティスト、ジャック・カービーの特徴的なビジュアル表現、いわゆる〈カービー・クラックル〉(もしくは〈カービー・ドッツ〉。大量の小さな黒い丸によってエネルギーを表現する)をアニメーション化して観るものを驚かせたが、本作冒頭の躍動するサイケデリックな抽象図形の数々はノーマン・マクラレンの、レン・ライの、あるいはオスカー・フィッシンガーの、さらにはハンス・リヒターの実験アニメーションに接続している。
ライやマクラレンらは(スタン・ブラッケージもそうだが)フィルムに直接絵を描いたり傷をつけるという手法で〈カメラレス・アニメーション〉をものしているが(これは文字通り「カメラで絵を撮影するのではないアニメーション」という意味だ)、デジタル技術によってカメラの介在の必要性が消失した21世紀のアニメーションが20世紀初頭の実験アニメと交錯するさまには虚を突かれた。このことは冒頭に述べた〈一貫性〉とも関係している。というのも〈カメラレス・アニメーション〉は連続した知覚を生み出すこともできるいっぽう、イメージを粉砕された断片として示すこともできるからである。
「スパイダーバース」シリーズでは、前作でも「伝統的な」アニメーションのフローレスな流れを意図的に断つ、コミック誌面的なビジュアルの瞬間的な挿入が頻繁に行われていたが、本作でその手法はさらに推し進められた。それは『白雪姫』(1937)が事実上規定した、同一作品内におけるスタイル上の〈一貫性〉ならびに、フリッカーを排した流麗なアニメーションの〈一貫性〉からの開放を告げるものでもある。もちろんラルフ・バクシの諸作品、実写とアニメーションのハイブリッド作品など、これまでそういう表現が存在しなかったわけではない。だがここまで徹底的なスタイルの脱構築が行われ、「流れるような」アニメーションの連続性が分断され、にも関わらず〈一貫性〉が感じられる作品はこれまで存在しなかったと言っても過言ではない。ましてやコマーシャルなエンターテインメント作品においてはなおのことである。
いっぽうで、グウェンの感情が背景の色設計に瞬時に反映される演出について、それが『シンデレラ』(1950)にインスパイアされたものだと共同監督のひとり、ジャスティン・K・トンプソンが語っていることは興味深い。そのような演出はアニメーション、実写を問わずベーシックなものだが、ディズニー・クラシック作品の持つ強度へのリスペクトがそこにはあるからだ。
ディズニーは1940年という早い時期に『ファンタジア』でエクスペリメンタルなアニメーションへと接近したが、その媒介者となったのはオスカー・フィッシンガーだった(フィッシンガーは、いったん『ファンタジア』に関わったのち解雇された)。が、それは一種の転倒でもあった。ディズニーが『白雪姫』で〈一貫性〉を持つ長編アニメーションを世に問うたとき、それがアニメーションの可能性を狭めるものだという批判があったからである。「固定化せずにどのようなかたちにもなれる能力」を放棄し、「『描かれたアニメーションの平坦な空間や自己言及性をなくして、代わりに奥行きのある空間にする』という昔ながらのハリウッド式手法をまねしたと思われた」というのだ(J・P・テロッテ『ディズニーを支えた技術』日経BP社)。本作はこの、いわば歴史的なアニメーションのジレンマの間隙を埋めることに成功したのである。
ところで、冒頭のマルチバースをくぐり抜けていくスパイダー・グウェンをとらえたカットの構図は、ラリー・コーエン監督作品『ディーモン/悪魔の受精卵』(1976)中盤の、女性が異星人によって受胎させられる場面に酷似している。これを単なる偶然と言い切れないのは、その結果生まれることになるキリスト風の異星人ハイブリッドが男性のような外見でありつつ腹部にヴァギナを備えているからである。ここで示されているのは人間とエイリアンの、そして性別のリミックスであり越境である。そこにグウェンが本作で担っているトランス表象との共鳴を見ることはそれほど難しくない(ラリー・コーエンの多くの作品と同様、『ディーモン』の舞台がニューヨークであることを傍証とすることもできるかもしれない)。
本作のエモーショナルな部分の一翼を担うグウェン・ステイシーがトランス表象を体現していることは既に指摘されているばかりか、多くのLGBTQIA+当事者がSNSなどを通じてグウェンに共感を寄せている。自分の二重のアイデンティティを父親になかなか打ち明けられず苦悶するグウェンの姿に彼らは自分の姿を見る。グウェンの部屋には「PROTECT TRANCE KIDS(トランスの子供を守れ)」のスローガンの入ったトランス・プライドの旗が貼ってあり、さらに彼女の登場場面の基調カラーがパステルピンク・パステルブルー・白というトランス・プライドの旗の3色で構成されていることもグウェン=トランス表象説を裏付けるものだ。現時点では直截的にグウェン=トランスと名言しているわけではないが、このようなかたちでエンパワーメントが表現されたことは、LGBTQIA+コミュニティに驚きを与えると共に好意を持って受け止められている。
〈一貫性〉に話を戻そう。前作では異なるバースに属するキャラクターがそれぞれ異なるスタイルで描かれており、それ自体とてもユニークな試みだった。本作では加えていくつものバースが独自のスタイルで表現され、そこをバリエーションに富む筆致で描かれた無数のキャラクターが跋扈し、あまつさえ同一人物ですらシーンによって、あるいは瞬間によってそのスタイルが更新されていく。レオナルド・ダ・ヴィンチの素描とロバート・マッギニスの水彩画がこうして邂逅する。しかしながらそこには伝統的な意味合いを超える〈一貫性〉があり、観客が置き去りにされることはない。
このことの持つ意義が大きいのは、アニメーション、映画、それに先行・並走するものとしての原型的なコミック(『ジャボ氏の物語』など、一定の時間軸を持つロドルフ・テプフェールの漫画や、ウィンザー・マッケイの『リトル・サミー・スニーズ』など)がどれも、「一貫して動いている対象」のイリュージョンを分割され/別個に描かれたイメージの羅列もしくは置き換えによって現出させるものだからだ。
同時にコマ割りを模した画面分割や時制を示すテキストボックスが頻繁に挿入されることからも分かるとおり、本作は「静止したイメージ」と「動的なイリュージョン」の境界を自由に行き来することで極めてオリジナリティの高い表現に到達している──が、それはそもそも、紙の上であろうがスクリーン上であろうが、2次元の平面上にビジュアルとして時間軸を成立させること、その歴史への理解と、その集積をパスティーシュ的にではなく新たな表現手法として展開したことによる。その意味で本作が〈ポスト・ポストモダニズム〉表現の可能性を示すものだということは間違いない。
バートランド・ラッセルの「世界5分前仮説」(世界が5分前に非実在の過去──の記憶──を保った形で突然出現したものだという仮説が論理的に反駁不可能だという説)によれば、「異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない」という。論理的な必然性からだけでは因果律が導けないということだが、瞬間瞬間でスタイルも手法も融通無碍に変化する本作もまた、その感覚を強く想起させるものである。一コマ前の絵と一コマ後の絵、その間に因果律が「あるように思える」ことが一般にアニメーションを成立させているわけだが、そこに楔を打ち込む作品が本作なのである。〈一貫性〉の感覚は因果律によってもたらされる。しかしそこを相当程度分解してしまってもまだ〈一貫性〉を感じ取ることができる、ということを本作は見事なで証明したし、それはそのまま主人公マイルスとグウェン・ステイシーの関係の可能性へと直結している(はずだ)。
本作の「反・スタイル」(あるいは「汎・スタイル」というべきか?)はマルチバースの結節点がもたらす無情な因果律からの脱却を指し示すものだったのだ。
『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』 (原題 『SPIDER-MAN: ACROSS THE SPIDER-VERSE』)
6月16日(金)全国映画館で公開
監督:ホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソン
脚本:フィル・ロード&クリストファー・ミラー、デヴィッド・キャラハム
声優:シャメイク・ムーア、ヘイリー・スタインフェルド、ジェイク・ジョンソン、イッサ・レイ、ジェイソン・シュワルツマン、ブライアン・タイリー・ヘンリー、ルナ・ローレン・ベレス、ヨーマ・タコンヌ、オスカー・アイザック
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