公開日:2023年3月31日

【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #4:日本アニメの形成期にみる「戦時」。制作背景をベトナム戦争から読み直す(文:長谷川新)

インディペンデントキュレーター、長谷川新による連載第4回。本連載は、1960〜70年代の「日本戦後美術」を、これまであまり光が当てられてこなかった「ベトナム戦争」を軸に辿り直すもの。ベトナム戦争を背景にした「イザナギ景気」に日本列島が沸いた時代の、新たな戦後美術史を立ち上げる。(不定期連載)

『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968、高畑勲監督)予告編の一場面 https://www.youtube.com/watch?v=0oSyEBCoBFM&ab_channel=YouTubeMovies

イザナギ景気とは1965〜70年にかけて続いた高度経済成長時代の好景気の通称だが、その要因のひとつがベトナム戦争を背景とした「ベトナム特需」である。本連載は、この時代の「日本現代美術」をベトナム戦争を軸に辿ることで、これまであまり注目されてこなかった同時代の美術のありようを浮かび上がらせることを試みる。

前回はマンガなどで表現された閉塞的な時代の“空気”を取り上げたが、第4回は今や日本を代表するコンテンツとなったアニメの形成期に光を当てる。最長寿TVアニメ『サザエさん』の放映が始まった1969年、まだ沖縄はアメリカ占領下にあった。いっぽうで、その頃の本土は好景気を謳歌し、高品質の「日本アニメ」が次々と作られた。ほかの東アジアの国・地域が「戦時」にあったこの時代にアニメ産業はどのような制作システムに支えられ、急速に規模を拡大できたのか。その背景をベトナム戦争から読み解く。【Tokyo Art Beat】

*これまでの連載は以下

『サザエさん』放映開始時、アメリカの統治下だった沖縄

2021年に公開された庵野秀明(1960〜)の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』と、90年代にテレビ放送された『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜1996)のあいだには25年の時間が流れている。ギネス記録にもなっている『サザエさん』は50年以上ものあいだ放送を続けているが、「25年」や「50年」という時間は想像するのにいかにも厄介な長さである(*1)。

遠藤達哉(1980〜)原作のアニメ『SPY×FAMILY』の1期(2022年、監督・古橋一浩[1960〜])のエンディング──家族3人が家へとなだれこむ 1分6秒から9秒までの3秒間──は『サザエさん』のそれによく似ている。フォージャー家は核家族で、血のつながりはなく、互いに正体を隠しながら一時的に家族を演じているにすぎないが、紛れもなく「家族」である。だが3人は訳あって「保守的な理想の家族」を演じているために、エンディングでもフォージャー家の「妻」ヨルは「娘」を背負った「夫」ロイドの背中を押して支える。いっぽうのサザエさんは、息子を背負う夫の方を向いて家族全体を先導する。このふたつの「家族」をめぐって私たちは──この50年で家族観がどう変わり、どう変わっていないのかを意識しながら──思考をめぐらせることができる(*2)。

『サザエさん』の初期のエンディングでは、該当シーンに背景もタイトルも表示されておらず、家屋に煙突もない簡素なものとなっている。

『サザエさん』のテレビ放送がスタートした1969年、沖縄はまだアメリカの占領統治下で、日本に「復帰」していない。長谷川町子(1920〜1992)が福岡の新聞に『サザエさん』の連載を始めたのは1946年だが、この年の衆議院選挙に沖縄は参加できなかった。長谷川が描きおろしたロールフィルム式幻灯版の『サザエさん』(*3)が発売された1948年には母子手帳の配布が始まっているが、沖縄での配布は1961年まで待たなければならない。

日本国憲法が制定されてからも、沖縄は「戦後の変化」から意図的に排除されてきた。沖縄が国政選挙に参加するのは──沖縄の女性が初めて国政選挙の投票権を持つのは──1970年になってのことだ(*4)。

比嘉康雄《女性初の国政参加 コザ、山内》(1970、東京都写真美術館蔵)。投票用紙を持って並んでいるのは比嘉の93歳の祖母である。写真集には、戦争で息子を亡くし、沖縄戦を経験した祖母が次のように表現されている。「1970年に初めて国政の選挙権が認められた沖縄で、字の書けない祖母は2日前から練習して、やっと私たちがすすめる候補者の名前を投票した。しかし、祖母はその国政参加の意義など考えようともしなかったし、ただみんながすすめるから投票したように思う。」(*5) 「特別な日」と「なんでもない日」とが、波乱の人生を送った祖母にとっては矛盾なく──二つ折りの投票用紙のように──重なり合う様子こそが現実であるように思われる。

地政学的な分断を制度化した「戦後」

この連載も後半に入る。あらためて書いておこう。「日本戦後美術」における「戦後」なるものは、「日本以外」の別の地域が「戦時」であることによって成立している。歴史社会学者の大野光明が述べたように「東アジアの『戦後』とは、戦場(朝鮮半島や後のベトナム)、占領地(沖縄)、経済成長拠点(日本)という地政学的な分断を制度化したもの」にほかならなかった(*6)。

こうした立ち位置のなかで好景気を謳歌した1960年代から70年代初めにかけての日本の美術を、この連載では「イザナギと呼ばれた時代の美術」と呼んでいる。この時代の人々は、LCCに乗ってアジア圏を旅行できるわけでも、インターネットで検索できるわけでもなかった。ある意味ではコロナ禍に負けないほど、「朝鮮戦争とベトナム戦争に挟まれたこの時代の東アジアは、冷戦の最前線にあって、近現代史を通じて国際的な人の移動がもっとも制限されていた」(*7)。折り畳まれた「日本」のなかで、人々は戦争の経験もアジアのことも忘れ、しかるのちに都合の良い形で覚え直していく。

美術史においても、「敗戦」「原爆投下」「民主主義の受容」といった言葉とともに、「1945年でリセットのかかった日本戦後美術」が編まれていった。 美術史家のナミコ・クニモトは「トランスウォー Transwar」という概念を援用し、「戦後」という時代区分の見直しを提案している(*8)。1930年代から60年代(あるいは70年代)までを連続した「長い横糸」として眼差す視点によって、「戦後」に「戦前」の価値観が引き継がれていること、重要なプレーヤーが戦前・戦後を通して継続的に存在していることが浮かびあがる。

平田実 《クロハタらによる故由比忠之進追悼国民儀》(1967)  © HM Archive / Courtesy of amanaTIGP 参加者は1967年11月に日本政府のベトナム戦争への協力に抗議して首相官邸前で焼身自殺をした由比忠之進の遺影を掲げて新宿を行進。新宿西口広場では「ベトナム戦争反対!安保破棄!」と叫んで人形に火を放った。「クロハタ」の主宰・松江カク(1935〜1984)はその後自らも娘とともにガソリンで焼身自殺を試み周囲の作家が慌てて止めるところまでいったという(*9)。この前年『われ炎となりてーベトナム戦争に焼身抗議したアリス・ハーズ夫人の感動書簡集』(芝田進午訳、弘文堂、1966年)が出版されたが、邦訳に際して「感動」という語彙が使用されている。

社会の矛盾に無自覚だった現代美術

前回、閉塞を促す空気について書いた。監視と経済成長を同時に謳歌する社会のなかで美術家たちはあまりに無自覚であるとして、黒ダライ児は次のような厳しい批判を差し向ける。

「この時代の、評価され公認された「現代美術」の主流は[…]産業化されるほどの需要も展開もなかったし、その作品の発表も批評も「美術」という制度から一歩も出ることがなかった。[...]美術家が、「美術」の枠をはみだし、現場的なアクションであれ、あるいはマスコミを利用した示威としてであれ、生きた肉体を脅かす危険、あるいは社会的に排除され抹殺されるリスクを冒してまで、社会に向けた(少なくとも美術評論家以外に向けた)異議申し立てやデモンストレーションを敢行する「活動 action」が、[…]「現代美術」の作家たちの『仕事』には(つまり心情的に新左翼に共感したり、生計をたてるための職場で組合活動をしていたという意味ではなく)、みられないのである。」(*10)

この挑発的でさえある断定は「流動的で形が残らないパフォーマンス」の肯定のためになされている。黒ダの『肉体のアナーキズム』は、美術制度の外──路上で体をはった表現者たちの仕事を可能な限り調査した、「イザナギと呼ばれた時代の美術」を考えるうえでの最重要書のひとつである。ただこの連載では、黒ダが擁護する「瞬間」の「肉の賭け」の意義を最大限認めたうえで、違う表現について考えたいと思う。

「イザナギと呼ばれた時代」にも、「日本」や「戦後」の矛盾に気づいた者たちはいた。知ろうとし、変わろうとした表現者たちもたくさんいた。その者たちのなかには、「瞬間」とは異なる時間の長さが存在している。一度きりではなく、長期的、断続的にパフォーマンスを続けた人々もいる。あるいはまた、たとえ過激な見た目をしていなかったとしても、矛盾を意識せざるをえない状況下でなんとか表現されたものがある。

『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968、高畑勲監督)の予告編

アニメの話を続けたい。1968年に『太陽の王子 ホルスの大冒険』という劇場アニメが公開される。20代の宮崎駿(1941〜)が参加したことで知られる本作であるが、監督の高畑勲(1935〜2018)によれば作劇の背景にはベトナム戦争があったという(*11)。とりわけ、ヒロインであるヒルダの人物造形──行動と内面が一致しない複雑な人物像──を模索するにあたっては「ヴェトナム戦争に参加している米国兵の気持ちを思い」制作をしたことが記されている(*12)。

だがそれはここでは深く掘り下げない。気になるのは作画監督だった大塚康生(1931〜2021)が次のように振り返っていることである。

「1カットも外注に出さず、1年半弱の期間でこの密度の高い動画枚数5万8000枚の映画を描き上げたのです。美術も仕上げも徹夜、残業の毎日で、ぴったりとフォローしています。」(*13)

「1カットも外注に出さず」──この自画自賛は、裏を返せば、当時アニメ制作の外注がすでに行われていたということを意味する。「外注」は「国内」だけで完結しない。たとえばいまベトナムのNam Hải Artのウェブサイト(*14)を開くと驚くほど多くの「日本アニメ」をこの会社が支えていることがわかるし、逆に、日本のアニメーターたちが国外のアニメ制作の下請けを担うことも増えている。

The Vietnamese Studio Creating Artworks for 'Attack on Titan'. Nam Hải Artの紹介動画

60年代に始まった韓国への制作外注

だが、こうした国をまたいだアニメ制作は実際には50年以上前に遡ることができる。日本初の長編テレビ用連続アニメである『鉄腕アトム』は1963年に放送されたが、そのわずか数年後にはすでに「国内」だけでアニメを作り上げることが難しくなっていた。そこでまず注目されたのが、1965年に日本との国交が正常化した韓国であった。

「日本のアニメーション産業がテレビ進出を果たし、国産作品の本数を増加させて、業界全体の規模が拡大した一方で、[…]韓国のアニメーション産業は、そうして拡大した日本のアニメーション産業から溢れ出た制作実務を物量とコストの面から補うように」なる(*15)。

長谷川町子と同時期に幻灯の作画を行っていた森川信英(1918〜)は、日本製のアニメと思われていた『黄金バット』(1967)や『妖怪人間ベム』(1968〜1969)が「日韓共同制作」であったことを告白し(*16)、自身が韓国の新人アニメーターの育成を要請された経緯について次のように回想する。

森川「「うちには家内がいる。子供もいる。できない」っていったんです。そしたらこれは今後の日韓の関係もあるし、そこらへん日本がちゃんとしないとうまくいかない、と。」
──
国交のためだというふうに、説得されたんですね。
森川「ええ。それで決心して。日本も戦争でずいぶん迷惑かけたわけだから、やりましょうって、OKしたんですよ。」(*17)

こうして日韓で同時に同一のアニメが放送されるという事態が「イザナギと呼ばれた時代」に発生する。互いに言葉が通じないなかでなされるアニメの制作指導は、専門性の高い部分はもはや通訳も介さずに身振り手振りで行われていった。せっかく描き上げた原画が日本への輸送途中で紛失し、また一(いち)から描きなおす必要に駆られるなど、大変な苦労があったようである。

韓国版『妖怪人間ベム』第1話(韓国版)
日本版『妖怪人間ベム』第1話はこちら


「技術協力」という名目の欺瞞

共同制作は1965年の日韓基本条約を契機に動き出している──これは、当時の韓国へのアニメの外注がベトナム戦争と不可分であることを意味している(*18)。どういうことか。条約締結の経緯を振り返ってみる。

韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は1963年から1979年まで政権を掌握し続けた人物だが、軍事クーデターによってその地位についたこともあり、軍部が重要な支持基盤であった。アメリカはもともと、財政の健全化のために韓国内の米軍・韓国軍の規模を削減しようと考えていたが、韓国軍は自分たちを「自由主義陣営の防衛のために保持している最も安い軍隊だ」とまで主張し、削減を拒否し続けた(*19)。いっぽうのアメリカには、在韓米軍をベトナム戦争に「転用」したいという思惑があった。こうした米韓の軍事費削減をめぐる攻防のなかで浮上してきたのが「ベトナム戦争への韓国軍の派兵」であり、帳尻を合わせるための「日韓基本条約の締結」であった。

『黄金バット』(韓国版)のオープニング

日韓の国交回復に向けた交渉自体は1950年代から継続的に行われていたが、条約の締結は1965年の6月となっている。これはアメリカのベトナム戦争への介入が本格化するタイミングであると同時に、韓国軍のベトナム派兵のタイミングとも重なっている。アメリカは在韓米軍の削減を断念する代わりに、韓国がベトナムへ派兵を行う代償としての経済援助を日本に求めた。

こうして、「韓国は植民地時代に被った損害の賠償請求権を放棄し、日本は過去の植民地支配の歴史的清算をしないままに国交を「正常化」させ」る(*20)。日本は「賠償金」ではなく、あくまで未来志向の協力関係という名目で、韓国に3億ドルの無償援助と2億ドルの有償援助を含む、支援、文化協力、技術提携を行った。韓国側が「返還」を求めた文化財についても、日本側は文化協力のための「寄贈」であると譲らず、最終的には「引き渡し」という言葉が選ばれる(*21)。

このような背景のもと始まったのが、商業アニメーション共同制作プロジェクトであった。先行研究を見れば、宣政佑や玄武岩が、「技術協力」へのすり替えがあった条約交渉プロセスの延長に『黄金バット』と『妖怪人間ベム』を位置づけている(*22)。と同時に──森川も振り返るように──この「技術協力」は人件費の安い韓国で制作することによる「コストの削減」が実態であった(そして反発を恐れてか日韓共同制作の事実は当時公表されなかった)。

森川には戦前、満州映画協会に所属し中国人たちに動画制作を指導した経験があった(その意味では彼もまた「トランスウォー・アーティスト」のひとりとしてとらえうる)。韓国での膨大な作画作業を通じた若手アニメーターへの指導は、一方通行の知識の伝達ではなく、森川にとっても「日本」をとらえかえすきっかけを多分に含んでいた、と考えることはできないだろうか。『黄金バット』や『妖怪人間ベム』は「日本アニメ」の欺瞞を露わにするだけでなく、日韓のアニメーターたちの紙の上での無数の交渉の痕跡として読み直されるのである。

(つづく)

*1──サザエさんの声である加藤みどり(1939〜)とタラちゃんの声である貴家堂子(1941〜2023)もまた放送当初から50年に渡りそれぞれのキャラクターを演じ続けている。本稿執筆中に貴家堂子氏の訃報に触れた。ご冥福をお祈りいたします。
*2──筆者は母子家庭で育ったので、父母子の家族構成は自然なものではなくいちいち気になる。映画『THE FIRST SLUMDUNK』(2022、監督・井上雄彦[1967〜])の母子家庭描写は自分には自然に映った。ちなみに血縁中心主義の否定で言えば『小林さんちのメイドラゴン』(原作:クール教信者、1期:2017、監督・武本康弘[1972〜2019] / 2期:2021、監督・石原立也[1966〜])の方がずっと好きだ。最近だと『私ときどきレッサーパンダ』(2022、監督・ドミー・シー[1989〜])は、移民家庭の抑圧的で過干渉な家族関係や、移民という立場の人間が絶えず「注意を払い続けている」ことをありありと描いていて終始面白く視聴した。
*3──鷲谷花は、長谷川が新聞版と幻灯版とで──メディアの特性を理解して──『サザエさん』を描き分けている点を詳細に分析している。(鷲谷花「「幻灯画」にみる「漫画家の職域」としてのフィルム / スクリーン」鈴木雅雄・中田健太郎編『マンガメディア文化論 フレームを越えて生きる方法』水声社、2022年、pp.149-156および、鷲谷花「「動く」幻灯、「動かす」幻灯──「運動」の場としての幻灯会──」『アニメーション研究』第16巻第1号、日本アニメーション学会、2014年、pp.41-pp.45を参照)。長谷川は表現を幻灯の「水平運動→静止」という動きと対応させている。とすれば、アニメ『サザエさん』のエンディングの黒シルエットの家族の横移動も偶然の選択とは思えなくなってくる。
*4──そもそも大日本帝国憲法下においても沖縄は国政選挙から長く排除されてきた。「沖縄県民は、日本の1890年の第1回衆議院議員選挙実施から、本島は22年、宮古・八重山は実に30年の間、衆議院への代表を選出できないまま過ごしたのである。これにひきかえ、徴兵制は、1898年に実施されている。」(小林武「沖縄の戦前史と明治憲法」『愛知大学法学部法經論集』213号、2017年、pp.201-202)
*5── 比嘉康雄『生まれ島・沖縄』東京写真専門学校出版局、1972年、p.4
*6──大野光明「 一九七二年、沖縄返還 終わらなかった「戦後」」西川長夫・大野光明・番匠健一編著『戦後史再考 「歴史の裂け目」をとらえる』平凡社、pp.203-204
*7──戸邉秀明「沖縄「占領」からみた日本の「高度成長」」『岩波講座 東アジア近現代史8 ベトナム戦争の時代 1960-1975年』岩波書店、2011年、 p.242
*8──Namiko Kunimoto, Transwar Art in Japan, Third Text, 2022 https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/09528822.2022.2146398
*9── 黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』グラムブックス、2010年、pp.382-383
*10── 黒ダライ児「美術家の「表現行為1968-1970 〈万博破壊共闘派〉を中心に」四方田犬彦・平沢剛編著『1968年文化論』毎日新聞社、2010年、pp.75-76
*11──高畑勲『「ホルス」の映像表現』徳間書店、1983年、p.114
*12──同上、p.148
*13── 大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』文春ジブリ文庫、2013年
*14── https://namhaiart.com/?page_id=1303&lang=ja
*15──木村智哉『東映動画史論 経営と創造の底流』日本評論社、2020年、p.282
*16──株式会社不知火プロ編『妖怪人間ベム大全』双葉社、2007年、pp.40-43
*17── 星まこと編著『アニメーション・インタビュー 伝説のアニメ職人たち 第1巻』まんだらけ出版部、2018年、p.43
*18──「考えてみれば、安保闘争後の日本を取り巻く国際状況は、沖縄の米軍基地、ベトナム戦争、そして日韓条約の三つが絡み合い、それらはいずれもアメリカのアジア政策の枠組みの中にあった。しかし日本のマスメディアや人びとの意識では沖縄やベトナムの問題と日韓条約=朝鮮問題は切り離された別のものとしてあった。」(尹健次『思想体験の交錯 日本・韓国・在日 1945年以後』岩波書店、2008年、p.197)
*19──成田千尋『沖縄返還と東アジア冷戦体制 琉球/沖縄の帰属・基地問題の変容』人文書院、2020年、p.116
*20── 岩間優希「ベトナム戦争体験とは何であったか 「対岸の火事」から見える日本」西川長夫・大野光明・番匠健一編著『戦後史再考 「歴史の裂け目」をとらえる』平凡社、2014年、pp.175-176
*21── 朴薫「日韓会談における文化財「返還」交渉の展開過程と焦点」李鍾元・木宮正史 ・浅野豊美編『歴史としての日韓国交正常化Ⅱ 脱植民地化編 〈新装版〉』法政大学出版局、2020年、pp.193-196
*22──宣政佑「日韓国交正常化とアニメーション合作」大塚英志編『TOBIO Critiques #1』太田出版、2015年、pp.38-48や、玄武岩「越境するアニメソングの共同体 : 日本大衆文化をめぐる韓国の文化的アイデンティティとオリジナルへの欲望」『国際広報メディア・観光学ジャーナル』18号、2014年、pp.25-47を参照。

長谷川新

長谷川新

はせがわ・あらた 1988年生まれ。インディペンデントキュレーター。京都大学総合人間学部卒業。専攻は文化人類学。主な企画に「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」展(2013-14)、「無人島にて―「80年代」の彫刻 / 立体 / インスタレーション」(2014)、「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」(2015)、「クロニクル、クロニクル!」(2016-17)、「不純物と免疫」(2017-18)、「グランリバース」(メキシコシティ、2019-)、「αM Project 2020-2021 約束の凝集」(2020-21)、「熟睡、札幌編 / 東京編」(2021-22)、「Gert Robijns: RESET MOBILE- Crash Landing on Akita」(2022)など。共同モデレーターを務めた大阪中之島美術館の開館記念ラウンドテーブル「美術館学芸員がいま相談したいこと」がYouTubeで公開中。https://www.youtube.com/watch?v=hmYr9t9VVsI&feature=youtu.be