公開日:2023年11月30日

2つの監獄、そして監獄からの視点──Now and Then。ある展示とパレスチナ問題に寄せて(文:菅原伸也)

いま私たちに求められる視点とは。1971年の「新宿クリスマスツリー爆弾事件」を起点とした映像作品《49年目》、68年の連続殺人事件が題材の映画『略称・連続射殺魔』、そして現在のパレスチナ問題までを交錯的に読み解く。

ハイドルン・ホルツファイント 49年目 2023 フィルムスチル 写真提供:ASAKUSA © Heidrun Holzfeind

12月3日までアサクサで開催中の展覧会ハイドルン・ホルツファイント 「Kからの手紙」では、1970年代の日本で社会変革を志した鎌田俊彦が起こした実際の爆発事件と、現在も獄中生活を送る鎌田からの手紙をもとにした映像作品《49年目》(2023)が上映されている。本作と、一見関係ないように見える現在のパレスチナ問題。両者に通じる「視点」について美術批評家の菅原伸也が綴る。【Tokyo Art Beat】

《49年目》と『略称・連続射殺魔』

1971年12月24日、警視庁四谷警察署追分派出所のそばでクリスマスツリーに仕掛けられた爆弾が爆発し、12人もの負傷者が発生した。いわゆる「新宿クリスマスツリー爆弾事件」である。1980年3月に、黒ヘルグループのリーダーである鎌田俊彦が、この爆弾事件の首謀者として逮捕された。鎌田は、その後無期懲役の判決を受け現在も仙台の宮城刑務所に収監されている。

「ハイドルン・ホルツファイント:Kからの手紙」展(ASAKUSA、2023)展示風景 撮影:大坂崇

2023年にハイドルン・ホルツファイントによって制作された《49年目》は、この事件の首謀者である「K」こと鎌田俊彦が獄中で書いた手紙を読み上げるナレーションと、現在の東京などの風景を映し出す映像によって構成された映像作品である。《49年目》のこうした形式は、1968年10月から11月にかけて拳銃で4人を殺害する連続殺人事件を引き起こした永山則夫を題材とする足立正生らの『略称・連続射殺魔』(1969)を否応なしに思い起こさせるであろう。両者とも1970年前後の殺人事件を扱っているからという理由だけでなく、『略称・連続射殺魔』もまた、足立正生によるナレーションと、風景の映像から成り立っているからである。奇しくも、《49年目》が出品されるアサクサの「Kからの手紙」展は、『略称・連続射殺魔』が出品されていた「風景論以後」展と、2023年10月27日から11月5日まで10日間会期が重なっていて、その期間同じ東京において両方の作品を見比べることが可能であった。これら2つの作品を比較するならば、それぞれの特徴を明らかにすることができるにちがいない。

「ハイドルン・ホルツファイント:Kからの手紙」展(ASAKUSA、2023)展示風景 撮影:大坂崇

まず、《49年目》は『略称・連続射殺魔』の続きを描いたような作品であると言えるだろう。『略称・連続射殺魔』が、永山則夫が逮捕された場所のシーンで終わるのに対し、《49年目》は、Kが逮捕された時のことを回想する手紙のナレーションと、逮捕現場の現在の風景映像から開始される。それに応じて、『略称・連続射殺魔』が、生まれてから逮捕されるまでの永山を描き、逮捕後のことはまったく扱っていないのに対して、《49年目》ではむしろ、逮捕されて以降のKが中心であるという違いが生じている。したがって、人物こそ違えど、逮捕以後を主題としているという点において《49年目》を『略称・連続射殺魔』の「続編」のようなものとして考えることができるのである。

「ハイドルン・ホルツファイント:Kからの手紙」展(ASAKUSA、2023)展示風景 撮影:大坂崇

《49年目》は『略称・連続射殺魔』の続編であるのみならず、その批評でもある。逮捕以後のKに焦点を当てることによって生み出された、『略称・連続射殺魔』とのさらなる差異を見てみよう。制作に関わった映画評論家の松田政男が述べているように、『略称・連続射殺魔』は、「ただひたすら永山則夫の眼もまた見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくっ」(*1) た作品であり、それゆえその映像は、永山の視点に同一化し、永山が逮捕されるまでの人生に随伴して、永山の「現在」を共有しようとしている。すなわち、永山の視点と足立らの視点との間にあるはずの違いがなし崩しに消し去られ、「現在」という同じ時間に属するものとして両者が結びつけられているのである。

「ハイドルン・ホルツファイント:Kからの手紙」展(ASAKUSA、2023)展示風景 撮影:大坂崇

「監獄からの視点」がもたらすもの

他方、《49年目》はむしろ、塀の中にいるKと、現代の風景の撮影者であるホルツファイントとの差異を露わにしようとする。Kは逮捕されて以降、40年以上もの間監獄の中にいるので、作品内で映し出される現在の風景を見ていない。それを見た(撮影した)のは現代のホルツファイントであり、それに伴って、ホルツファイントが見た現代の風景と、塀の中のKが手紙において回想する過去の風景との間には、たとえ両者が同じ場所を扱っていても、必然的に大きな時間的乖離もまた生じることとなる。このように《49年目》は、監獄という特殊な隔離空間の中にいるKの視点、いわば「監獄からの視点」を作品に導入することによって、Kとホルツファイントという2人の視点を差異化し、さらに両者間の時間的な差異をもたらすことが可能になっているのである。

ハイドルン・ホルツファイント 49年目 2023 フィルムスチル 写真提供:ASAKUSA © Heidrun Holzfeind

1969年12月、先述の松田政男は、『略称・連続射殺魔』の制作中に執筆した「風景としての性」(*2) を『朝日ジャーナル』に発表した。この文章がいわゆる「風景論」の嚆矢であるとされている。そして、松田は「風景としての都市」という論考で、『略称・連続射殺魔』について次のように述べている。

中央にも地方にも、都市にも辺境にも、そして〈東京〉にも〈故郷〉にも、いまや等質化された風景のみがある。(中略)私たちは、こうしてオホーツクの沿岸にも東北の平野にも、永山則夫を育んだであろうところの〈故郷〉を発見することができなかったのだ。私たちは、まさに小さな〈東京〉を見たにすぎぬ。永山則夫が小学校時代に住んでいた板柳町の一隅にある入福住宅と呼ばれる小スラムでさえ、私たちは東京の任意の場所に措定しうるのだ。かつて、谷川雁が、「東京へゆくな、ふるさとを創れ」とうたった時に前提とされていた〈東京〉対〈故郷〉という図式は、60年代のどんづまりにおいては、ついに通用不可能となってしまったことを私たちは確認しなければならない。わが独占の高度成長は、日本列島をひとつの巨大都市として、ますます均質化せしめる方向を、日々、露わにしているのではないか。 (*3)

松田による風景論の基本的な認識はここにほとんど示されていると言ってよい。もはや〈東京〉対〈故郷〉といった対立は存在しない。永山が生まれ育ったような地方もまた「小さな〈東京〉」と化していて、あらゆる場所の風景が均質化されているというのだ。そして永山は、そうした「風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いない」(*4)と主張するのである。松田は、この均質化した風景を「何処にでもある風景」とも呼び、それは「〈何処にもない場所〉としてのユートピアの反語」であると述べ、〈何処にもない場所〉(ユートピア)と〈何処にでもある風景〉(均質化した風景)という対立関係を提示している(*5)。

ハイドルン・ホルツファイント 49年目 2023 フィルムスチル 写真提供:ASAKUSA © Heidrun Holzfeind

「ヘテロピア」として存在する監獄

1966年12月21日、フランスの哲学者ミシェル・フーコーはラジオ局フランス・キュルチュールにおいて、「ヘテロトピア」という講演を行なった。そこでフーコーはヘテロトピアを、「絶対的に異なった場所、つまり、他のすべての場所に対置され、言わばそれらの場所を消去し、中性化し、あるいは純粋化するよう定められた場所」である「反場所」として定義している(*6)。さらにフーコーは、ヘテロトピアとは、現実に存在する場所であるという点においてユートピアと異なっていると述べ、ヘテロトピアの例として監獄を挙げている。同様に《49年目》における監獄も、現実に存在しているという点においてユートピアではなく、絶対的に他なる空間であるという意味において〈何処にでもある風景〉でもなく、まさにヘテロトピアとして存在していると言えるであろう(*7)。したがって、それは、〈何処にでもある風景〉(均質化した風景)対〈何処にもない場所〉(ユートピア)という、松田政男による二項対立の構図から逸脱した空間として《49年目》において機能しているのだ。

ハイドルン・ホルツファイント 49年目 2023 フィルムスチル 写真提供:ASAKUSA © Heidrun Holzfeind

フーコー自身は監獄を、逸脱のヘテロトピア、そして移行や変容、再生に関わるヘテロトピアに割り当てているが、《49年目》における監獄はむしろ、美術館や図書館(*8)のように時間が蓄積されるヘテロトピアに近いと言えるだろう。監獄は、通常の時間が流れている外の世界から完全に孤立しており、独特の時間感覚を備えている。先述のように、Kの視点とホルツファイントの視点との間に時間差が存在することに加えて、Kによってさまざまな時期に獄中で書かれた、過去の回想を含む手紙をナレーションに用いることで、時間がなおいっそうアナクロニックに複雑化されている。このように《49年目》では、監獄からの視点を作品内に取り入れることによって、現在主義を超えた時間の重層化が生じているのである。加えて、監獄という特殊な場所は、塀の外の社会との間に空間的な距離をも生み出している。実際、現在の風景を映し出し続けてきた映像は決して塀を超えてその中に入ることはできず、その周りを虚しくさまようのみである。ヘテロトピアとしての監獄がもたらす時間的・空間的差異によって、映し出される現在の風景が異議を唱えられて相対化され、Kが現代社会に対して犀利な考察を行うことが可能になっていると言えるであろう。

「ハイドルン・ホルツファイント:Kからの手紙」展(ASAKUSA、2023)展示風景 撮影:大坂崇

パレスチナ問題に「道徳的怒り」ではなく「監獄からの視点」をもって向き合ってみる

2023年10月7日、パレスチナ・ガザ地区に拠点を置くイスラム主義勢力ハマスが、イスラエル側に越境したりロケット弾を発射したりするなどしてイスラエルに対して大規模な攻撃を仕掛けた(*9)。それ以降、本稿を執筆している現時点(2023年11月21日)においても、イスラエルはガザ地区で、圧倒的な武力による無差別的な報復攻撃を継続して行なっており、民間人や子どもを含む大量の死傷者を生み出している。多くの人々が指摘しているように、それは明らかに、イスラエルによるパレスチナの人々への「ジェノサイド」(*10)であり、一刻も早く完全に停止されなければならない。ガザ地区は、今回の攻撃よりも15年以上前である2007年からイスラエルによって完全封鎖されているため、以前から「天井のない監獄」と呼ばれている。したがって、イスラエルとガザの間に生じた今回の出来事について考察する際にも、我々が《Kからの手紙》において確認したような「監獄からの視点」を適用すべきであろう。両者の監獄がまったく異なる文脈にあるのは確かだが、共通の機能を持っている。すなわち、監獄としてのガザもまたヘテロトピアなのであり、しかし同時にそれは、ディストピアでもある。

2023年10月13日、アメリカの哲学者・フェミニストでありユダヤ人でもあるジュディス・バトラーは、「哀悼のコンパス 暴力を批判する」という論考を発表した(*11)。そこでバトラーは、ハマスによるイスラエル攻撃に対して道徳的・「一時的な非難」に向けることに終始する人々や主流メディアを批判し、「非難するだけにとどまっている道徳的立場の人々にとって、状況を理解することは目的ではない。この種の道徳的怒りは、間違いなく反知性的で現在にとらわれすぎている」と指摘している(*12)。そしてバトラーはさらにこう述べている。

ある出来事がどのように生じたのか、あるいはそれがどのような意味を持つのかを理解するには、歴史を学ぶ必要があるように思われる。つまり、私たちは、その恐怖を否定することなく、同時に、その恐怖が、表現すべき、知るべき、そして反対すべきすべての恐怖の象徴となることを拒みながら、ぞっとするようなこの瞬間を越えて視野を広げなければならない。(中略)もしメディアにとって、この70年間の恐怖よりも、この数日間の恐怖の方が道徳的に重要であるとするならば、占領下のパレスチナや強制的に離散させられたパレスチナ人が耐えてきた根本的な不正義、そしていまこの瞬間ガザで起きている人道的災害や人命の損失に対する理解を、その時々の道徳的対応が蝕んでしまう恐れがある。(*13)

ここでバトラーは、現在にとらわれた、ハマスの攻撃に対する道徳的批判と、今回の出来事以前から70年以上継続しているパレスチナにおける不正義の歴史についての考察とを対比している。「天井のない監獄」と呼ばれるガザに対して監獄からの視点を適用することは、後者を選択すること、つまり歴史という重層的な時間をそこに見出すことである。200万人以上が長年閉じ込められているこの監獄には、2023年10月7日の出来事にとどまらない時間が、歴史が、瓦礫のように堆く積み上げられているのであり、ガザという監獄もまた、ヘテロトピア的な存在として、現在主義的な外部の世界に対して異議を唱えつづけている。その異議に耳を傾けなければならない。この天井のない監獄においていままでどのような出来事が起こってきたのか? いかなる歴史的な経緯のために今回のような出来事が生じたのか? いまガザにおいて生じている出来事を考える際にも、現在という「この瞬間を越えて」、外部から隔離された監獄であるガザそしてパレスチナにおいて長い時間をかけて積み重ねられてきた時間を解きほぐし、なぜこのようなことが起こったのか、歴史的に、長い時間スパンで理解する必要がある 。

いつの日かパレスチナの人々が天井のない監獄から解放される未来の光明が陰惨な現在の彼方に現れるならば、それは、監獄からの視点による過去の歴史への理解を通じてしかありえないだろう。

*1──松田政男『風景の死滅 増補新版』、航思社、2013年、17頁。
*2──のちに『薔薇と無名者』において「密室・風景・権力––––若松映画と『性』と『解放』」と改題されている。
*3──『風景の死滅 増補新版』、26頁。
*4──同上、17頁。
*5──同上、148頁。
*6──ミシェル・フーコー「ヘテロトピア」『ユートピア的身体/ヘテロトピア』佐藤嘉幸訳、水声社、2013年、34-35頁。
*7──ちなみに、本展のタイトル「Kからの手紙」の英語タイトルは「News from K」であり、それはウィリアム・モリスの著作『News from Nowhere』を思い起こさせる。日本語のタイトルが「ユートピアだより」となっていることからも分かるように、この「Nowhere」とは、〈何処にもない場所〉であるユートピアのことである。したがって、「News from K」は、Kが収監されている監獄という「ヘテロトピアからの手紙」と言い換えることもできるだろう。
*8──これらの場所もフーコーによってヘテロトピアに分類されている。前掲書、43頁。
*9──会期中に突如として生じたこの出来事によって、「風景論以後」展において「風景論の起源」というセクションで資料としてその短いシーンが小さなモニターで上映されていただけの『赤軍—PFLP・世界戦争宣言』が奇しくも、(もしかすると、大きなスクリーンで全編上映されていた『略称・連続射殺魔』よりも)にわかにアクチュアリティを帯びてしまっていた。
*10──たとえば、ジュディス・バトラーが「Democracy Now!」に出演した際の発言を参照のこと。
https://youtu.be/CAbzV40T6yk?si=i8f5Bw06Is-dAP-g
*11──本論考は最初に、フランスのメディアAOCにフランス語で発表された。邦訳は、ジュディス・バトラー「哀悼のコンパス 暴力を批判する」清水知子訳、『世界』2023年12月号。
*12──同上、38頁。
*13──同上、39頁。

菅原伸也

菅原伸也

すがわら・しんや 美術批評・理論。美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アート、そしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。主な論考に、「タニア・ブルゲラ、あるいは、拡張された参加型アートの概念について」(ART RESEARCH ONLINE)、「リヒター、イデオロギー、政治––––ゲルハルト・リヒター再読」 (『ユリイカ』2022年6月号)がある。最近の論考には、「現代的な、あまりに現代的な──「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part 1/3」展レビュー」(Tokyo Art Beat)や「同一化と非同一化の交錯──サンティアゴ・シエラの作品をめぐって」(『パンのパン 04下』号外としてKindleとBOOTHで先行発売中)など。現在、アナ・メンディエタに関する英語の研究書を翻訳することを目指して有志で研究会を行っている。