*連載第1回「ベトナム戦争を軸に「日本戦後美術」を辿り直す」はこちら
イザナギ景気とは1965〜70年にかけて続いた高度経済成長時代の好景気の通称だが、その要因のひとつがベトナム戦争を背景とした「ベトナム特需」である。本連載は、この時代の「日本現代美術」をベトナム戦争を軸に辿ることで、これまであまり注目されてこなかった同時代の美術のありようを浮かび上がらせることを試みる。
第2回となる今回は、第1回に登場した「現代美術野外フェスティバル」から話を続ける。この「現代美術野外フェスティバル」は、大阪万博や「第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ) 人間と物質」などと同時期の1970年春に、横浜市の「こどもの国」で開催され、158名の作家が参加した。ここで川村直子(1932〜)がベトナムのソンミ村で起きた米兵による虐殺事件の写真を貼り合わせたB全版原色刷展覧会ポスターを13枚横一列に設置したことで物議を醸し、こどもの国協会管理事務所が撤去を要求。こうした検閲は他作品へと波及し、海老原暎(えい)ら女性作家を中心に抗議の声が上がるという事態へと発展した。本稿では海老原が「こどもの国」でとったアクションや作品、そして川村らの作品と共振するような同時代の動向について論じる。【Tokyo Art Beat】
前回、川村直子の発表したベトナム戦争における米軍の民間人虐殺──ソンミ村事件──に関する作品が撤去され、それを皮切りとして「現代美術野外フェスティバル」で多くの事後検閲(*1)が行われたことについて書いた。そして、川村の作品が検閲を受けたことに対して最初に抗議の声をあげたのが海老原暎たち女性作家であったことに触れた。
海老原暎(1942〜)はこどもの国の会場内に横長の白く塗られたベニヤ板を持ち込み、掲示板のように設置していた。毎朝会場を訪れては、新聞で報道された事件を描きこんでいくという計画だ。彼女の展示場所は入口に比較的近く、またこどもの国に来る時間も早かったため、川村の作品の異変にいち早く気づくことになった。
現代美術野外フェスティバルの記録写真を見ると、都内の殺人現場の見取り図の左隣に文字を書き込む海老原の姿が映っている(*2)。ここで、あらかじめ彼女の当時の作品について振り返っておこう。海老原は1969年頃、新聞の誌面を折れ目も含めて写しとっていくという仕事で注目を集めていた(*3)。
その後、個展を挟みつつ(*4)、彼女は新聞のなかにある独特な「図解」──「見取図」に興味を抱き、これを拡大して転写する仕事を開始する。
《事故現場見取図集》(1970)と名づけられたそのシリーズは、500部ほど刷られたようで、上部がホチキスで留められ、めくりながら閲覧されることが意図されている。《事故現場見取図集》は神田の書店で「展示」され、展示終盤には書店利用者の手垢でかなり黒ずんでいたとのことである。《事故現場見取図集》には、いわゆる殺人事件の現場見取り図や地図にとどまらず、凶器や装置の図解など様々な「図」が記録されている。それらは手書き特有の筆圧を残した線で構成されており、CGの図解が当たり前となった現在では尚更、客観的とも主観的とも言えない不思議な立ち位置を占めているように感じられる(当時は新聞社に「図」を描く専門の「職人」がいたのだろう、と海老原は振り返る)。ガス漏れ事件からベトナム戦争まで、「図」を伴って報道されている事件たちが等しく引用されている。
現代美術野外フェスティバルの時期は海老原が《事故現場見取図集》に着手し始めたタイミングであり、彼女は展示会場でいわば「速報」的に現場見取り図を毎日更新しようと試みていた。したがって、海老原が「川村直子の作品の検閲」という「事件」を目撃し抗議を続けるなかで、描く内容を新聞の「事件現場見取図」ではなく、まさに起きている「検閲事件」の推移へと変更したのは、作家同士の連帯や道義心の発露であるとともに、作品内で駆動する力学による必然でもあった。
搬入時点でふたつの事件の見取り図を描きこんでいた海老原は、展示初日である「4月1日の分としては、東急の人から正面入口ポスターの作品について、クレームがあったことだけを短く描き込」んだ(*5)。そして「[検閲に応じない川村の作家としての毅然とした態度を]支持するひとりとして、4日の10時頃から自分のパネルに、2日付けで「切符売り場の横にある作品に対し、残酷であるから撤去せよとの要請が強くある」という事実だけを書きはじめ」る(*6)。そして川村の作品が撤去された直後には「公園側への直接的な抗議の意志を書き込み」(*7)事態をほかの参加作家たちにも知らせるべく行動をとるが、「協会側はこのパネルをみて激昂し、海老原をこづきながら、撤去を要求」(*8)、最終的に作品は実行委員会の手によって上から板を打ち付けられてしまう(*9)。
コンクリートブロックに「HERE」と書き入れた作品を発表していた板東胡江(ひさえ)もまた、検閲を受けた作家のひとりである。彼女は「『分譲地』という立看板の作品に、売出期間四月一日〜五月三十一日と記し、所在地、面積、建ぺい率、価格、環境を描き入れた」(*10)のであるが、こどもの国管理事務所から、「番地(所在地)」と「こどもの国」という名前の箇所を消すよう要求される。板東のようにこどもの国がどのような来歴を伴った土地であるのかを批判的に考察する作家はほかにもおり(*11)、検閲への抗議以前から、参加作家による現代美術野外フェスティバルに向けての批判は行われていたようである。実行委員会が当初こどもの国側に提出していた企画書を読むと、そこには「弾薬庫の平和利用」と書かれており、企画側の「方便」を認めることができる。
海老原、板東、そして矢田章子の3人は、『現代美術野外フェスティバル内で起った問題についての報告と意見』と題した、アート紙に写植2色刷、説明図版つき、5枚綴りのプリントを作成・配布する。ほかのビラよりも目立ち、手に取ってもらえ、かつ、捨てられずにきちんと読んでもらえるよう吟味した結果の紙選定であり、それゆえの2色刷であった。
美術批評家のヨシダ・ヨシエは、片桐充らの協力を得て『こどもの国からみえるソンミ村』と題された調査報告書をガリ版で作成した。ヨシダのほかにも、日向あき子、石子順造、針生一郎といった批評の担い手が検閲事件に関心を寄せている。また、会期中には加藤アキラのように抗議の意志を示すため自主的に作品を撤去する作家も現れる。
こうした状況のなか、実行委員会側は曖昧な態度に終始し、さらには、検閲を抗議する側に対して反発を見せる。とりわけ抗議の中心にいた海老原には辛辣な言葉が投げかけられた。
川村さんの問題で、あちこちに電話したりして、騒ぎを大きくするのはやめてくださいよ。また、海老原暎さん、あなたがあまり自分の立場だけ固執するなら、あなたは除名だ。
一人のために一五〇人に迷惑をかける訳にはゆかない。
あなた方のねらいは分っている。騒ぎを起して、赤瀬川原平とおなじことをやろうとしているんだ。(*12)
「赤瀬川原平とおなじこと」とは、千円札裁判(1965〜67)を指しているのだろうが(*13)、要するに海老原たちは(そして赤瀬川も)制作への純粋な動機ではなく、たんに騒ぎを大きくしたいという承認欲求で動いているという前提がそこにはあるのだろう。実行委員会は男性陣で構成されており(東急や公園管理側は言うまでもない)、相当な重圧があったことが察せられる。後年海老原は、検閲をめぐる事件が「頭の片隅に小さな棘となってひそんでいて、普段忘れていても、何かあるとその棘の先が起き上がってくる」と記している(*14)。そして川村はほとんどこの事件を公で語ることをしていない。
実行委員会側も東急から後援料200万円を返金するよう求められるなど調整に難航した形跡がうかがえるが、最終的に誰がもっとも苦しい立場に置かれたのかを考えれば、それは検閲を受けた側であり、抗議に対して反発や冷笑を受けた側である。そして何よりもこの事件においては、議論のダシとして宙に浮き続けたソンミ村の被害者たちが再度忘却されている(*15)。
川村の作品と比較したい作品があるのだが、その前にひとつ迂回をしておきたい。現代美術野外フェスティバルは関東圏のみならず、北陸、東海、関西などからも参加のあった大きな規模のものであった。「新潟現代美術家集団GUN」(以下「GUN」、ガンと読む)も参加しており、中心人物である前山忠(1944〜)は実行委員会のひとりでもある(ただし、検閲をめぐる総括として実行委員会名義で書かれた「統一見解と姿勢」には賛同しない旨をカタログに記載しており──そもそも新潟に住んでいるため抗議運動や討論会に直接参加することが難しかった──ほかの実行委員会メンバーとはやや異なる立場にあった(*16))。
「GUN」は、《雪のイメージを変えるイベント》がとりわけ知られており、メンバーである堀川紀夫(1946〜)の石を郵送するメールアート(1969年のアポロ11号の月面着陸における月の石ではなく、新潟を流れる信濃川の石を11個、包装をせずに郵送できる特殊な配送方法で関係者に送りつけた)や、京都市美術館の展示に訪れた鑑賞者に5円玉を配布する試みも再評価が進んでいる(*17)。だが「GUN」は同時に、反戦の態度表明も重要な特徴であった。
たとえば堀川はアポロ計画の責任者であると同時にアメリカ軍の責任者でもあるニクソン大統領や、ベトナム戦争に加担し続ける佐藤栄作首相に対しても、石を送付している(ニクソン大統領からは大使館経由で返報を受け取っている)(*18)。また、前山は現代美術野外フェスティバルでストレートにベトナム戦争を批判し、星条旗から滴り落ちる血が日の丸の赤へと伝わっていく様子を描いた《反戦旗》を発表している。「GUN」においては、政治的なアクションと想像力豊かな表現行為は──受容する側にとっては前者は煙たいものであったかもしれないが──互いが互いを排斥し合うようなものではなかった。
川村の検閲を受けた作品と比較したい作品について、話を進めよう。堀川紀夫も参加した「第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ) 人間と物質」は、1970年5月10日から30日まで上野の東京都美術館で開催された。
この展覧会は、コミッショナー(キュレーター)の中原佑介が「人間と物質(のあいだ)」というテーマを掲げ(*19)、当時の欧米圏で注目を集めていたミニマルかつコンセプチュアルな表現に、国内の「もの派」などの作品を併置させた極めて先鋭的なものであった。したがって、発表された作品のほとんどはいわゆる絵画ではなく、インスタレーション、写真、映像、パフォーマンスの形態をとっていた。だがここで言及したいのは、そうした傾向と部分的に重なりながらもほとんど言及されることがないカール・アンドレ(1935〜)とリチャード・セラ(1938〜)の共作《豚はその子供を喰べてしまうだろう。》である。
この作品はもともと出品予定だったものではなく、5月4日に発生したアメリカのケント州立大学での警察による学生への銃撃事件に対しての抗議の意志の表明のために、急遽追加発表されたものだ(実際にはアンドレに依頼された写真家・安齊重男が報道写真を複写し、模造紙にテキストを書いている(*20))。4月30日にニクソン大統領がベトナム戦争の一環としてカンボジア侵攻をテレビで宣言して以降──海老原暎が《事故現場見取図集》に収録した1970年5月1日の「地図」はその事件の報道である──、ケント州立大学では多くの学生たちがプロテストを画策していた。抗議運動の盛り上がりのなか、警察によって実弾が発射され、デモを傍観していた学生を含む4人が死亡し、9人が負傷する。「豚はその子供を喰べてしまうだろう。」と書かれた紙の右に設置された写真は、ジョン・ファイロが撮影したもので、彼はこの写真でピューリッツァー賞を受賞している。
アンドレもセラも、芸術労働者連合(連載第1回を参照)と関わりが深く、ソンミ村虐殺の抗議のために制作された《Q. And Babies? A. And Babies.》と同様に、この展示でも報道写真を抗議表現に取り込む方法論が採用されている。政治的意志の表明を目的としない展覧会のなかで、社会的事件に素早く反応した表現が発表されたことは唐突であったと思われるし、「人間と物質(のあいだ)」というテーマとも表面上は無関係であった。実際の制作を担当した安齊も「まさか展示するとは思っていなかった」と振り返る(*21)。それゆえにこの作品は「人間と物質」展が伝説的な展示として賞賛を集めてからも言及されることは少なく、分析の対象外になった。
川村の作品は、制作方法においても、発表時期においても、アンドレたちの作品と類似性をもつ。現代美術野外フェスティバルの会期は4月から5月にかけてであり、「人間と物質」展とは会期が3週間ほど重なっている。言い換えておこう。1970年の同時期に、現代美術の先鋭的な表現を集めたふたつの展覧会のなかで、ベトナム戦争の死者に関する作品が発表されている。その一方(自主企画の野外展)は会期序盤に撤去され、もう一方(美術館内の国際展)は当初予定になかったものの展示され続けた。
ここまで取り上げてきた表現を別の角度から考えてみよう。海老原は新聞を、川村やアンドレは雑誌をそれぞれ参照し、そのなかで流通するイメージを外へ取り出すことを試みている。そうすることで、イメージのすさまじい消費スピードにブレーキをかけ、分岐ルートを設けるかのようである。情報が飽和し濁流となっている渦中で、一矢報いて「情報の鼻を明かそうとする」(*22)ような試み──すなわち「パロディ」も、同時期に数多く企てられた。島州一(1935〜2018)はその行為を「情報の投げ返し」(*23)と呼ぶ。
1970年1月19日(*24)、島は、ソンミ村の虐殺についての特集が組まれた──しかし表紙にはそのことは載っていない──『LIFE』誌(1969年12月5日号)を美術の技術体系を用いて「投げ返した」。「LIFE」のロゴを黒に変え、LとEを消去し「IF」としたうえで、日の丸のような赤い円を追加、右上の「AFRICAN ANTELOPE」(表紙に掲載されている動物のこと)の文字列を左側に移行する。こうしてできた余白に「THE MASSACRE AT MYLAI」(ソンミ村の虐殺)の文字列が書き込まれている。あたかも元からそうであったかのようなレイアウト変更である。だが、見ようによっては取るに足らないイメージの変更、擬態、潜伏が、核心部分の地層を剥き出しのまま保存することがある。その観点からもう一度、海老原暎の制作に話を戻す。
海老原は《事故現場見取図集》の発表後、事件の見取り図と煽り文が光る立体作品を制作し、ギャラリーをカーテンなどで暗室にして図と文字だけが浮かび上がるような構成をとった「殺人現場見取り図」展を開催する。展示は東京のガレリア・グラフィカで行われた後、大阪のモリスフォーム(*25)にも巡回している。「殺人現場見取り図」展は新聞にも掲載され、いわば新聞からはじまったプロジェクトが新聞へと還っていくかたちで一区切りとなった。
海老原の次のシリーズは一転して静物画や風景画のようであり、異なるタッチで描かれたヤカンや水差しが映る台所の窓、小窓の向こうに人影がある民家の様子が描かれている。だがよく見るとどちらも画面右上部分に小さく「密告にご協力を!」とある。あるいは、雑誌『デザイン』に掲載されたものには「□□隊は海外出張する」とある。ここには何のイメージが潜伏しているのだろうか。
彼女が版画にしたこの場所は東京都の福生(ふっさ)市である。であるならば、描かれている家屋は抽象的な家屋一般ではありえない。はたして、「密告にご協力を!」と囁かれるこの一戸建て住宅は、戦争の激化に伴って増加したアメリカ兵たちのための基地外住宅──通称「米軍ハウス」であった。
(つづく)
*1──以後、検閲で統一する。
*2──海老原へのインタビュー時に海老原本人だと確認した。
*3──海老原の《1969年3月30日》の図版を神田日勝が鑑賞していたという証言があり、神田の代表作《室内風景》(1970)に影響を与えた可能性が指摘されている。『神田日勝 大地への筆跡』展図録、北海道新聞社、2020年、p.114
*4──以下の略歴を参照のこと。中原佑介編著『現代の美術 5 つくられた自然』講談社、1971年
*5──海老原暎「見過ごせなかったこと」『あいだ EXTRA』no.30、1998年、p.21
*6──同上
*7──同上
*8──「表現の自由と作家の態度──こどもの国の野外美術フェスティバル──」『朝日ジャーナル』1970年5月24日号、p.51
*9──『ピエロタ』vol.2 no.5、母岩社、p.24
*10──同上、p.17
*11──「グループ∞その②」の面々は天皇制や米軍の弾薬庫利用の跡地を教育施設化することへの強い疑義を表明し、展覧会に参加することで内側から抗議活動を行っていた。
*12──『ピエロタ』vol.2 no.5、母岩社、pp.14-15
*13──1969年1月に最高裁に上告していたが、奇しくも1970年4月に上告を拒否され、有罪が確定している。
*14──海老原暎「見過ごせなかったこと」『あいだ EXTRA』no.30、1998年、p.22
*15──ソンミ村の虐殺に対する日本国内での直接的な抗議運動は、在日ベトナム留学生協会の主催によって1969年12月5日に行われている(同協会が抗議声明を出したのは11月29日)。「ベトナム人約六十人、そのほかアメリカ人、中国人、朝鮮人、イギリス人、日本人、約百人が参加した」デモはその時点では「東京で唯一のソンミ虐殺抗議デモであった」が、しかしそれは確かに行われている。「ベトナム人留学生協会ソンミ虐殺抗議デモ」『破鎖を求める人々──在日ベトナム人留学生の闘い──』ベトナム留学生支援の会、1970年、p.15
*16──前山は「子どもの国協会側のクレイムも当然予測されたので特別の驚きはなかった。私の考えからすれば、展示・発表、制作も表現のうちであり、身の処し方も含めたそれらのすべてに作者の責任がある。そういう意味では、責任は出品者ひとりひとりが負うべきで、ねばり強く交渉したうえで、こちらの主張が入れられなければフェスティバルを中止してもよかったのではないか」と後年語っており、運営体制上の責任の所在や作家同士の連帯の模索よりも「作家の自己責任」を強く重視していることがうかがえる(『あいだ EXTRA』no.30、1998年、pp.19-20)。実際、前山は翌年、第10回現代日本美術展でカンパ箱を撤去されたことに抗議して、《反戦旗》を含む作品すべてを取り下げている。
*17──福住治夫「人間復興を求めて──〈もの〉をつくらない作家たち 《ニルヴァーナ》展取材記」『美術手帖』1970年10月号、pp.195-196
*18──また「人間と物質」展参加後は、石に「反戦 anti-war」や「地球の石」という言葉を添えて郵送するようにもなっている。
*19──「ベトナムに平和を!市民連合(通称:ベ平連)」の小田実は佐世保に米軍艦エンタープライズが寄港するのを阻止しようとする闘争について、『世界』1968年3月号に「「物」と「人間」──佐世保・一九六八年一月──」という文章を寄稿している。「「エンタープライズ」を巨大な鋼鉄の塊として、「物」としてとらえる(すくなくとも、「物としてのみとらえる)のではなく、そこに「人間」を認め、そこから「エンタープライズ」寄港という問題の核心にまで迫って行く──私はこのことを、一九六八年一月の佐世保の状況の中心にすえて考えてみたいと思う。」小田実「「物」と「人間」──佐世保・一九六八年一月──」『人間・ある個人的考察』筑摩書房、1968年、p.213
*20──「「中原佑介美術批評選集」通信 第五巻「人間と物質」展の射程」現代企画室、2011年、p.7
*21──同上
*22──成相肇「オリジナリティと反復の満腹ーーパロディの時代としての一九七〇年代前後左右」『パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右』東京ステーションギャラリー、2017年、p.18
*23──同上
*24──本来発売日が記載される部分が制作日に変更されている。
*25──カリフォルニア芸術大学を卒業後帰国した画家・森喜久雄と、森英二郎、夏谷英雄によって1971年に開廊。
長谷川新
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