公開日:2021年12月30日

批評家・キュレーターが語る2021年の印象的だった展覧会は? 【座談会】アート界ゆく年くる年(前編)

批評、キュレーションの場でそれぞれ活動する、きりとりめでる、菅原伸也、檜山真有、福尾匠の4名が2021年のアート界を振り返る。前半では、今年を表すキーワードやベスト展覧会を紹介。

佐々木健「合流点」会場風景 撮影:佐々木健 写真提供:五味家

2021年は「祝賀」「うわつき」「置き配」「継」の1年だった


──今回、事前アンケートでみなさんに「2021年を表す一言」を選んでいただきました。まずはその一言について教えてください。

菅原伸也 僕は「祝賀(セレブレーション)」という言葉を選びました。アメリカの研究者のジュールズ・ボイコフが、オリンピックに関して「祝賀資本主義(Celebration Capitalism)」という概念を提案しているんですね。その「祝賀資本主義」がどういうものかというと、いわゆるオリンピックの祝賀的な雰囲気という例外状態に乗じて公的セクターに多額の費用を負担させ、一部の民間企業や富裕層が多大な利益を得ることを指しています。よく「トリクルダウン」と言われますが、その逆の「トリクルアップ」の構造ですね。そのように一部の人が利益を得るという状況が今年のオリンピックにもあって、その祝賀的な雰囲気に便乗するというのは、政治経済だけじゃなくアートにおいてもあったと思います。ひとつの例を出せば、僕がTokyo Art Beatに展評を書いた、現代アートチーム目[mé]の《まさゆめ》はまさにそういう企画でした。

他方で、最近のNFTをめぐる動き・騒ぎも、デジタルデータをマネタイズできるという資本主義による新たな領域開拓への祝賀感を見て取ることができます。僕はそういった祝賀的な状況よりも、そこから遠く離れた活動やそれに抵抗するような活動に注目したいと思います。

目[mé] まさゆめ 2019-2021 Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13 撮影:津島岳央

檜山真有 私は「うわつき」という言葉を選びました。2020年の秋口から新型コロナウイルスの感染者数が落ち着きはじめ、このまま好転するかと思った矢先の2020年の大晦日に日本での新型コロナウイルスの感染者数がピークになり、その後また一気に感染者数が増え、不安のなか始まった2021年でした。緊急事態宣言や感染状況などに左右され、美術館や展覧会を開けるか開けないかという点や、状況に対して即座に動かないといけないという点でもすごく不安定な1年で、良くも悪くも浮ついてる印象を受けました。

また、家にこもる時間が増え、SNSがより一層、情報伝達ツールとして大きな位置を占めている影響からか、本人にとって関係ないことや、体験していないことにも当事者意識や問題意識を持って接している状況を何度も目にしました。炎上ともPC(ポリティカル・コレクトネス)ともやや異なるこういった空気感についても「うわつき」を感じました。

福尾匠 今年の美術に大きな動きがあったようには思えないので、美術は直接関係なくてもいいかなと思い「置き配」にしました。

かつて東浩紀氏は『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』で「郵便的なもの」を哲学的な概念として練り上げました。それは一言で言うと、コミュニケーションやメッセージを、人から人ではなくポストからポストに伝達するものとしてとらえることだと思います。いま手紙が届いてるのかわからないし、相手のポストには届いているかもしれないけど、手紙を読んでるかどうかわからないという、不確定性としてのバッファがある。それによって、すぐに返事が返って来なくてもイライラしないような、ある程度ゆとりを持ったコミュニケーションができたわけですよね。それは顔を突き合わせて正直に語ることを理想としてきたコミュニケーション観に対するオルタナティブだった。

しかしいまや世界は郵便的なものを通り越して置き配的なものになっています。ポストも何もなくたんに荷物が玄関先の床に置かれて、同時に配達通知がポップアップする。荷物が物のように扱われていることの疎外感。考えてみれば不思議な話ですが、届け物はたんなる「物」ではなかったのに、置き配は届け物を「物」にしてしまいます。配達することは「届ける」ことだった、つまりそれはあくまで人格的なコミュニケーションの拡張で、ポストはそのメタファーだったはずなのに、配達することは「置く」ことになってしまった。

こうした置き配的なものはわれわれのコミュニケーション環境にも当てはまることだと思います。Amazonは置いたという事実を持ち帰るために運び、人々は言ったという事実を持ち帰るためにハッシュタグを付けたり、他人の揚げ足を取ったりする。SNSの炎上で起こっているのは、互いの陣営が相手に何かを伝えるためになされる論争ではなく、それぞれが言った/言われたという——それぞれ異なる——事実を自陣に向けてアピールし持ち帰るということです。この座談会で使っているzoomも、小学校の学芸会みたいにひとりずつしゃべっては一歩下がる置き配的なコミュニケーションを助長するものです。配達は届けることではなく置くことになり、何か言うことは伝えることではなく言わば「言っておく」ことになった。そして美術の世界もそうした傾向から距離を取れているようには思えません。

きりとりめでる 私は今年の漢字を「継」にしました。2021年ってCOVID‑19の遅延が慢性化した中だるみの年だったと思うんですね、そういったなかで継続性への志向があったと思います。まず、今年刊行された『i+med(i/e)a イメディア』というフェミニズム系の雑誌に「つれづれアクティビズム」というテキストを1人コレクティヴのたまちゃんズという人が書いているんですね。そこでは、出発点はどうであれ、私たちは怒りの感情だけで生きてるわけではない、そして自分たちが求める社会のあり方を模索するために、アクティヴィとして中だるみを許容する方法論としての継続性が示されていたことに時代性を感じました。

また、国内のNFTと美術の接点として注目される契機となった高尾俊介さんの「Generativemasks」も、高尾さんがprocessingなどの初学者として技術を習得するための日課からはじまった、デイリーコーディング(毎日プロフラミングで何かを表現する)の結果のひとつでしたね。デイリー〇〇は、SNSへの「置き配」でもありますし、なんとか日々を積み重ねるという次元と既成事実作りとの峻別は丁寧に考えたいところです。

「Generativemasks」ウェブサイトより

それぞれのマイベスト展覧会

──今年みなさんにとって印象的だった展覧会をお聞かせください。

福尾 僕は、本山ゆかり「コインはふたつあるから鳴る」(4月23日〜5月11日、愛知、文化フォーラム春日井・ギャラリー)、「約束の凝集 vol.3 黑田菜月|写真が始まる」(3月16日〜6月5日、東京、gallery αM)、佐々木健「合流点」(7月31日~2022年1月30日、神奈川、五味家)です。

3つの展示に共通しているのは、写真や絵画といった表現ジャンルの反省的な実験が、それぞれのジャンルの外にある現実とのつながりを回復することとセットになっているということです。その反面、僕はこれまで美術批評だとインスタレーション・アートについて書くことが多かったのですが、なんだか「展示フォーマリズム」というか、形骸化した自閉的な制度批判みたいなものが増えてきて辟易してしまいました。

菅原さんがレビューを書かれた目[mé]の作品もそうですし、大岩雄典と布施琳太郎という同世代のインスタレーション作家がほぼ同時にコロナ禍におけるネット上での展示を実験したものが出てきたり、展示するということについての展示、見せるということ自体を見せるというものが増えているように思います。あとで詳しく話したいですが、こうした自閉的な傾向は美術業界全体の在り方に関わることだと思います。

本山ゆかり「コインはふたつあるから鳴る」展会場風景 撮影:澤田華 © Yukari Motoyama Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery

檜山 私は福尾さんとは対照的にすべてインスタレーション・アートの展覧会で、大和田俊個展「破裂 OK ひろがり」(2020年11月28日〜2021年2月7日、栃木、小山市立車屋美術館)と、「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-」(4月6日〜6月20日、京都国立近代美術館)、チェン・ティエンジュオ「牧羊人」(10月5日〜31日、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA)の3つです。この三者の展覧会はいずれも「音」の扱い方がいいなと思いました。後者2人はヴィデオ・アートの作家ですが、音楽にも造詣が深く、良いサウンドで鑑賞者を彼らの作品世界に没入させることに成功していました。

いっぽうで大和田さんはサウンドアートを出自にする作家ですが、視覚だけでは読み解くことのできない空気感、緊張感を見事に作りあげていると感じました。福尾さんの先ほどの選出理由が絵画や写真の展覧会のなかでも「外にある現実とのつながりを回復すること」だとすれば、この三者の展覧会は外にある現実とのつながりと距離を置き、自分の世界を作り、鑑賞という介入によってもその強度がブレないことが共通しています。コロナ禍のいま、外とのつながりを離したくない気持ちは多くの人が抱いていると思いますが、私が選んだ作家たちは外との関係性を自ら選んで、自分の世界を作ることを判断している。それは制作において孤独を選ぶことでもあると想像します。とくにコロナ禍ではつらいことでしょう。しかし、こういった状況の中でインスタレーション・アートで良い展覧会というのはより一層美しいものですし、生きる勇気を与えてくれます。

「ピピロッティ・リスト: Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-」展会場風景 撮影:編集部

きりとりめでる ピピロッティは挙がるだろうと思って、私は展覧会ではなく作品を選びました。まずは「あざみ野フォト・アニュアル とどまってみえるもの」(1月23日〜2月14日、横浜市民ギャラリーあざみ野)で見た新居上実さんの「家」シリーズと、2022年3月13日まで金沢21世紀美術館の「フェミニズムズ / FEMINISMS」展で展示中の、遠藤麻衣さんと百瀬文さんの《Love Condition》(2020)です。《Love Condition》は2020年のTALION GALLERYを初出に、「彼女たちは歌う」東京藝術大学美術館陳列館など様々な場所で展示されましたし、遠藤さんと百瀬さんの展示が多かったのが印象的でした。それは、フェミニズムをネット上のアクティビズムに留まらせないような言説化の活動が少しずつ動いた今年の現代美術のアイコンのひとつなりうるような作品だったからだと思います。

少し作品の説明をすると、《Love Condition》は、遠藤さんと百瀬さんがおしゃべりをしながら油粘土で新しい性器を作る映像作品で、TALION GALLERYでは樹脂粘土で再製作された性器も展示されていました。岸井大輔さんが各所で指摘されている通り、この立体作品だけの展示でも十分ですが、この1年の展示ではいずれも映像だけでした。映像で、ふたりが粘土で造形しながら会話で行なう駆け引きの微細はすごく重要で、立体の展示は輸送含め困難だと思うのですが、完成したかたちある「新しい性器」もあるよと言いたくて挙げました。

新居上実さんの「家」シリーズは、ドールハウスを買って、家に届いて開封し、そこに自分が作ったオブジェなどを入れながら撮影していく作品です。リサーチベースの優れた写真作品を見る機会は多いのですが、何をどのように撮影するべきかという構成写真の文脈を突き詰めた結果としての作品に見えました。

遠藤麻衣×百瀬文 Love Condition 2020
遠藤麻衣×百瀬文「新水晶宮」展(TALION GALLERY、2020)の展示風景より《新水晶宮》(2020) 撮影:木奥恵三 Courtesy of the artists and TALION GALLERY

菅原 僕は「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(10月26日~2022年2月13日、東京国立近代美術館)と、「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」(10月23日~2022年1月23日、豊田市美術館)、そして福尾さんと同じく佐々木健「合流点」(7月31日~2022年1月30日、神奈川、五味家)です。

「民藝の100年」展に関してはポジティブ・ネガティブ両方の意味で印象に残ったので選んでいます。「合流点」について説明すると、この展覧会は障害を持っているお兄さんと佐々木さん一家、そして障害者をめぐる問題がテーマとなった展示で、会場(五味家)はもともと佐々木さんの祖父母が住んでいた、一家に馴染みのある場所が選ばれています。2016年に、相模原障害者施設殺傷事件がありましたよね。佐々木さんによると、あの痛ましい事件のニュースを初めて佐々木さんが聞いたときに、もしかして、障害者施設に入所する自分のお兄さんが被害に遭ったのではないかと思ったそうで、その事件も本展のベースにはあります。

佐々木健「合流点」会場風景 撮影:佐々木健 写真提供:五味家
佐々木健「合流点」会場風景 撮影:佐々木健 写真提供:五味家

この展覧会が開催されたのは東京オリンピック・パラリンピックと同時期で、そのことはとても象徴的に思えました。障害を乗り越えて華々しい祝賀的な場で活躍する人々がいるいっぽうで、同じ障害者でありながら殺されたかもしれなかった人々も存在するという対比をそこに読み取れることができます。オリンピック関連では青山真也監督の『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』も、1964年と2020年のオリンピックに翻弄され、コミュニティを壊される人々を描いていて、この映画と「合流点」は、祝賀から離れた場所にあるものとして記憶にとどめたいです。

「後編」に続きます。

きりとりめでる
デジタル写真研究、批評家。1989年⽣まれ。2016年に京都市⽴芸術⼤学⼤学院美術研究科芸術学を修了。特に、視聴覚⽂化の変容と伴⾛する美術作品をデジタル写真論の視点から 、研究、企画、執筆を⾏なっている。2019 年に「未然の墓標」(パープルームギャラリー)を企画。2017 年からは美術系同⼈誌『パンのパン』を発⾏。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論』(共編著、ビー・エヌ・エヌ新社、2018)がある。

菅原伸也
すがわら・しんや 美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アートそしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。最近の関心は柳宗悦。主な論考に、「質問する」(ART iT)での、田中功起との往復書簡(2016年4月〜10月)、「岡本太郎の「日本発見」—岡本太郎の伝統論と民族」(『パンのパン 04』)、「タニア・ブルゲラ、あるいは、拡張された参加型アートの概念について」(ART RESEARCH ONLINE)がある。他には、奥村雄樹(『美術手帖』2016年8月号)やハンス・ウルリッヒ・オブリストへのインタビュー(Tokyo Art Beat)など。

檜山真有
ひやま・まある キュレーター。1994年大阪府生まれ。展覧会企画に2018年「Pray for nothing」(「ゼンカイ」ハウス、兵庫)、2019年「超暴力」(山下ビル、愛知)、2021年「オカルティック・ヨ・ソイ」(デカメロン、東京)など。『paper C』で展覧会レビューを不定期連載。コンビニおみくじマガジン『月刊檜山真有』もやってます。2022年はもっと話すのが上手になりたい。

福尾匠
ふくお・たくみ 現代フランス哲学、批評。1992年生まれ。日本学術振興会特別研究員PD(立教大学)。著書に『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)、論文に「ポシブル、パサブル:ある空間とその言葉」(『群像』2020年7月号、講談社)、「ベルクソン『物質と記憶』の哲学的自我:イマージュと〈私〉」(『表象』第14号、表象文化論学会)等がある。

野路千晶(編集部)

野路千晶(編集部)

のじ・ちあき Tokyo Art Beatエグゼクティブ・エディター。広島県生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、ウェブ版「美術手帖」編集部を経て、2019年末より現職。編集、執筆、アートコーディネーターなど。