公開日:2021年9月1日

上を向いて忘れよう──「虚実」について:目「ただの世界」展+《まさゆめ》レビュー

現代アートチーム「目[mé]」の2つの展示をレビュー(文:菅原伸也)

目[mé]は、アーティストの荒神明香、ディレクターの南川憲二、インストーラーの増井宏文を中心に、個々の特徴を活かしたチーム・クリエイションに取り組む現代アートチーム。特定の手法やジャンルにこだわらず、空間自体を大きく変容させる作品を手がけ、「果てしなく不確かな現実世界」を人々の実感に引き寄せようとしてきた。

目[mé]の作品や展覧会は毎回SNSで大きな話題を呼ぶが、今年7月にSCAI THE BATHHOUSEで行われた個展「ただの世界」も、開始まもなく鑑賞予約枠は一杯に。展覧会を見ることのできない人々の惜しむ声があった。そのいっぽうで7月16日、8月13日の2日間に予告なく行われた《まさゆめ》はSNSやテレビ等のメディアで多くの人が目にすることになった。美術批評家の菅原伸也が2つの展覧会を照らし合わせながらレビューする。

目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE)展示風景より Photo by Nobutada Omote. ©︎ mé Courtesy the artist and SCAI THE BATHHOUSE.

「ドッキリ」が線引きする虚実

多少なりともYouTubeを見れば、あらゆるタイプのYouTuberが定番ネタとしてドッキリをしばしば行っていることに気づくだろう。YouTubeからの影響もあってだろうか、テレビにおいても近年ドッキリ番組が再び増加している印象を受ける。そうしたドッキリにもいろいろな種類が存在するが、よくあるタイプとして特異な状況を人工的に作り出しそこにターゲットを巻き込んで、その反応を見るといったやり方がある。それは、最終的には、仕掛け人が「ドッキリ大成功」と書かれたプラカードとともに登場し、その状況がドッキリのために人為的に作り出されたものであることを知らせて、ターゲットと視聴者がともにカタルシスを得るという構造になっている。そこでは、ドッキリが行われる以前の「現実」と、意図的に作り出されたドッキリの状況という「虚構」との境界は、ターゲットにとって一時的に不分明になっていたものの、「ドッキリ成功」というプラカードを持った仕掛け人のネタばらしによって、つまりその状況が「虚構」のものであったことが知らされることによって、再びきっちりと確立されることとなる。そのようにして「現実」と「虚構」とは安定的に分離されるのである。目[mé]の個展「ただの世界」において中心的な位置を占める作品《Life Scaper》をこうしたドッキリのあり方と比較することによって、その特徴が明らかにしたい。

目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE)展示風景より Photo by Nobutada Omote. ©︎mé Courtesy the artist and SCAI THE BATHHOUSE.

そのためには、まず《Life Scaper》がどういう作品であるか説明する必要がある。個展では会場の一角を区切った小部屋において、この作品に関する説明が希望者に対して行われる。この説明自体、ギャラリーにおける通常の営業業務であると同時に、作品の一部としての「パフォーマンス」でもあると捉えることができるだろう。その説明によれば、《Life Scaper》の購入者(個人でも団体でもよい)は、勤務先や行きつけの場所、見知らぬ人に話しかけられるのは嫌いかなどに関するアンケート調査を受け、普段の生活において、事例写真《Reference Scaper》を彷彿とさせるような、目[mé]によって意図的に作り出された光景や物に遭遇する可能性を得る。しかし、「現実」に対するそのような操作がいつ、どこで、どのように行われるかについて購入者がまったく知らされることはないので、それが行われていることに購入者が気づかずに通り過ぎてしまったり、「現実」の光景を、目[mé]が作り出したものであると誤認してしまったりすることも起こりうる。そして、実施された操作について購入者が事後的に知らされることもない。したがって、購入者は、目[mé]が自らに対していつ、どこで、どのような光景を作り出したのか、もしくはいまだ作り出していないのかについて知るすべを持たず、この作品を「所有」している間ずっと目[mé]による「現実」操作の可能性に晒され続けることとなるのである。

目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE)展示風景より Photo by Nobutada Omote. ©︎mé Courtesy the artist and SCAI THE BATHHOUSE.

目[mé]が見せる「虚実の間」

《Life Scaper》を先述のドッキリのあり方と比較するならば、端的にそれはネタばらしのない「ドッキリ」であると言えるだろう。通常のドッキリでは、ある状況が引き起こされた後にそれがドッキリであったことがネタばらしされ、その状況が仕掛けられたものであったことが明らかにされるのに対して、《Life Scaper》では、「ドッキリ」(人為的にある「虚構」の状況を作り出すこと)が行われる可能性は事前に知らされるものの、「ドッキリ」の後にネタばらしされることはないので、購入者は、「ドッキリ」がすでに行われたのか、いまだ行われていないか分からないし、たとえ行われていたとしてもどの光景が「ドッキリ」であったのか特定することもできない。したがって、作品購入後の日常生活において遭遇する光景すべてが「ドッキリ」である可能性を孕むようになり、ある光景が「現実」であるか、または作り出された「虚構」であるのか、購入者が確実に見分けることは不可能となる。この謎は、解くことが不可能であり、それゆえにあらゆる光景に遍在するようになるのである。

目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE)展示風景より Photo by Nobutada Omote. ©︎mé Courtesy the artist and SCAI THE BATHHOUSE.

今回の個展には、《Life Scaper》以外にも、同一にしか見えない複数の石や岩を会場に散在させた作品もあった。最初にその中の一つの石を見かけたならば、どこかから持ってこられた自然の石がただ置かれているとしか思わないであろう。しかし、少し離れた場所に、それと同一の石が置かれているのを発見すると、観客はそのことの異常さに驚くにちがいない。自然ではあり得ないことであるからだ。したがって、見分けがつかないほど類似した石が二つあるということは、少なくともそのうちの一つは人工的に作られたものであることを示している。ここでは、《Life Scaper》とは違って、「ドッキリ」の可能性を事前に知らされることはないものの、《Life Scaper》と同様に、二つの石とも、「ドッキリ」(虚構)であるのか、または自然(現実)のものであるか、それを見るだけでは特定することができないのである。

目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE)展示風景より Photo by Nobutada Omote. ©︎mé Courtesy the artist and SCAI THE BATHHOUSE.

目[mé]の作品に関して「虚実の間」ということがよく語られるが、それはまさに、「現実」と「虚構」との間の、そうした決定不可能性こそを指していると言えるだろう。石が自然のものか作られたものか、日常生活で遭遇する光景が「現実」か「虚構」かを決定することができないのである。さらに、目[mé]が主張する「別の観点・ものの見方」の重要性もまた、虚実の間の決定不可能性に関連していると考えられる。すなわち、虚実どちらであるのか決定不可能であるようなやり方で物事を見る態度のことを「別の観点・ものの見方」と呼んでいるのである。たとえば、同一にしか見えない二つの石のどれが人造のものであるか特定することができたならば、「別の観点・ものの見方」は生じない。なぜなら、もはや「虚実の間」で決定不可能なのではなく、それはただの「虚」でしかないからだ。そこでは「現実」と「虚構」とが重なり合うことなく、通常のドッキリにおけるネタバレ後のように整然と切り分けられている。「現実」の世界は「ただの(一つの)世界 just a world」でしかない。それが「虚構」というもう一つの世界と決定不可能なかたちで見分けがたく絡み合っているような「虚実の間」の世界を、目[mé]は本展において提示しようとしていたのである。

目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE)展示風景より Photo by Nobutada Omote. ©︎mé Courtesy the artist and SCAI THE BATHHOUSE.

《まさゆめ》とはなんだったのか

では、個展開催中に代々木公園で行われソーシャル・メディアにおいても話題を呼んだ、同じく目[mé]による《まさゆめ》は、このような観点から解釈するとどのように見えてくるだろうか。この作品もまた、《Life Scaper》と同様に「虚実の間」にあると考えられるのだろうか。《まさゆめ》とは、東京都、東京都歴史文化財団、アーツカウンシル東京が東京オリンピック・パラリンピックに合わせて主催するTokyo Tokyo Festivalスペシャル13(*1)の一つであり、初回はオリンピック開会式のちょうど一週間前である7月16日に行われた。広く一般から顔を募集し、そのなかから選ばれた実在する一人の顔を東京上空に浮かべるというプロジェクトである。この顔の浮遊は、一般には事前に告知せずに行われたが、情報解禁後に多くのメディアがこのイベントを速報し、それを知って代々木公園に集まった人やたまたまその周辺にいた人々が、浮遊する顔の画像や動画をTwitterやInstagramに投稿して、大きな話題を集めることとなった。

目[mé]《まさゆめ》, 2019-2021, Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13 撮影:五十嵐智行

《まさゆめ》は、《Life Scaper》のように「虚実の間」にある作品なのかという問いに戻ろう。先述のように、「虚実の間」とは、ある光景や物が「現実」(自然)のものであるか、それとも人為的に作られた「虚構」のものであるのか、決定不可能な状態にあることであった。しかし、《まさゆめ》においては、《Life Scaper》のように事前に周到な操作が見る者に対してなされることがなく、非現実的な顔形の巨大バルーンを浮遊させるだけなので、たまたま見かけた人であっても、その顔が果たして「現実」のものか「虚構」のものか迷うことはなく、人為的に作られた顔のバルーンという「虚構」であると容易に判断しうるだろう。それはもはや「虚実の間」の不安定な宙吊り状態に置かれているのではなくて、「現実」から分離されたただの「虚」でしかない。人造であることが明らかな石なのである。《まさゆめ》は、《Life Scaper》のようにネタばらしのない「ドッキリ」ではなく、ネタばらしさえも必要としない明白な「ドッキリ」なのである。だが、振り返ってみるならば、目[mé]が一般的な人気を惹き寄せている大きな理由は、「虚実の間」というよりも、そうした不可思議な「虚構」の光景の人為的な創造とそのスペクタクル化にこそあったのではないか(*2)。《まさゆめ》のように、不可思議な光景に心地よく「ドッキリ」させられることを求めて多くの観客は目[mé]の展示へと殺到していたのである。

目[mé]《まさゆめ》, 2019-2021, Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13 撮影:津島岳央

上を向いて忘れよう

代々木公園での《まさゆめ》浮遊イベントでは、浮遊している顔を見るために多くの人々が空を見上げ、それを撮影してソーシャル・メディア上に投稿していた。オリンピック・パラリンピックに関連しそれを盛り上げるために行われる企画の一部として、国立競技場などのオリンピック会場からもほど近い代々木公園(*3)において実施されたという文脈を考慮に入れるならば、空を飛んでいるものを目撃するために人々が楽しげに上を見ているというこの情景は、同じくオリンピックと関連してその直後に行われたあるイベントを思い起こさせないだろうか。ブルーインパルスによる東京上空の飛行である。オリンピックの開会日にブルーインパルスもまた、東京上空へと多くの人々の視線を集めていた(*4)。両者とも、オリンピック・パラリンピックの関連イベントとして、我々が立つこの地面において起こっている深刻な出来事よりもその上空へと視線を逸らす役割を果たしていたのである。

《まさゆめ》に関して言えば、その浮遊が行われた代々木公園では、もともとオリンピック・パラリンピックの期間中パブリック・ビューイングが開催される予定であったが、批判の結果中止され、《まさゆめ》浮遊時にはその場所がCOVID-19ワクチン接種会場として転用されていた。さらに、接種会場の周りには柵が張り巡らされ、もともとそこに居住していたホームレスはその場所から排除されたのだという(*5)。そうした地面の上における、パンデミックやホームレスの存在といった「現実」へと本来向かっていたであろう、水平的もしくは下への視線を、上空に浮かぶ垂直的な顔という「虚構」へと90度上に逸らす出来事として、《まさゆめ》というイベントは行われたのである(*6)。そこでは「現実」と「虚構」は重なり合うことなくはっきりと分離されていて、仰々しく浮遊するスペクタクルな「虚構」は、足下の「現実」を忘れさせる役割を果たしているのである。

目[mé]《まさゆめ》, 2019-2021, Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13 撮影:金田幸三

目[mé]は、最初の浮遊の後に7月29日付けで新たなアーティスト・ステートメントを唐突に公表したが、そこで「この作品は、オリンピックをただ盛り上げようと実施したものではありません。私たちは、オリンピック・パラリンピックやそれに関連する事象について、賛成や反対を表明することによって関わるつもりはなく、同時代における芸術活動として、作品を通してより深くコミットすることに挑戦しています」(*7)。と述べている。「賛成や反対」ではなく「作品を通してより深くコミットする」とは何を意味しているのか今ひとつ不明であるが、目[mé]が同じステートメントで言うように「「後から」その意義が掴」まれるとするならば、《まさゆめ》という作品は、明らかに「虚構」である特異な光景を作り出し「現実」から目を背けるよう誘導することによって、「文化」側から2021年の東京オリンピック・パラリンピックに呼応しそれを「盛り上げる」ことに「深くコミット」した出来事(スポーツウォッシングならぬカルチャーウォッシング?)として記憶されることになるのではないだろうか。

目[mé]《まさゆめ》, 2019-2021, Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13 撮影:金田幸三

*1:「Tokyo Tokyo Festivalスペシャル13」 https://ttf-koubo.jp
*2:筆者が以前見たことのある目[mé]の作品から例をとれば、さいたまトリエンナーレで展示された《Elemental Detection》は、沼の水面を鏡面へと変容させ、その上を歩くことができるようにした作品であったが、これもまた、「虚実の間」にとどまるというよりは、「現実」にはあり得ない明白に「虚構」の光景であり、スペクタクル化されたその特異な光景が人気を集めていた。
*3:代々木公園は、1964年の東京オリンピックの選手村跡地でもある。この場所は、前回のオリンピックの「レガシー」とも結びついている。
*4:「ブルーインパルス飛行で歩道にも人、人、人」『NHK NEWS WEB』2021年7月23日 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210723/k10013155251000.html
*5 「五輪会場周辺 代々木公園炊き出しに列 「追いやられた」人々」『毎日新聞』2021年8月5日 https://mainichi.jp/articles/20210804/k00/00m/040/435000c
*6《まさゆめ》はコロナ禍以前から企画されていたものであり(この企画に関する最初のプレスリリースが出たのは2019年2月15日であり、そもそも2013年に《おじさんの顔が空に浮かぶ日》という類似した企画を宇都宮で行っている)、言うまでもなくもともとコロナ禍を意識していたものではない。しかし、そうした当初の「作家の意図」よりも、実際に《まさゆめ》という企画が現在の状況において持ったパフォーマティヴな意味こそが重要である。後述のように、それはオリンピック・パラリンピックに関しても同様である。すなわち、本稿で《まさゆめ》に対して繰り返し問うているのは、作家が非政治的なやり方で明示的に述べていることとは別に、それがパフォーマティヴに果たしている政治的意味なのである。
*7:https://twitter.com/mouthplustwo/status/1420702551817613312

菅原伸也
美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アートを中心に批評活動を行なっている。最近の関心は柳宗悦。主な仕事に、「質問する」(ART iT)での、田中功起との往復書簡(2016年4月〜10月)、岡本太郎の伝統論を再検討した「岡本太郎の「日本発見」—岡本太郎の伝統論と民族」(『パンのパン』)、奥村雄樹(『美術手帖』)やハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Tokyo Art Beat)へのインタビューがある。

Art Beat News

Art Beat News

Art Beat Newsでは、アート・デザインにまつわる国内外の重要なニュースをお伝えしていきます。