公開日:2021年12月31日

批評家、キュレーターが語るアート界の不祥事と批評のゆくえ【座談会】アート界ゆく年くる年(後編)

批評、キュレーションの場でそれぞれ活動する、きりとりめでる、菅原伸也、檜山真有、福尾匠の4名が2021年のアート界を振り返る。後半では、アート界で相次ぐ不祥事についての所感、批評のゆくえ、コレクティヴの問題などを語る。

「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989–2019」展会場風景

*印象的だった展覧会について語る「前半」はこちらから

アーツ前橋の作品紛失、ハラスメントなど、美術界で相次いだ不祥事

──事前アンケートでみなさんの関心ごととして多く書かれていたのは、アーツ前橋の作品紛失問題や相次ぐハラスメントなどの不祥事でした。今年、美術界に失望した方は多かったと思うのですがみなさんはそれぞれの問題をどう見ていますか?

菅原伸也 アーツ前橋に関しては、以前から良からぬ噂が漏れ伝わっていたので、正直紛失問題が公表されたときは、驚きはなかったです。むしろようやく公になったかという印象で、そのこと自体は良かったと思っています。それに対して林道郎さんのセクシャルハラスメント疑惑については、個人的には本当にショックでした。その2つを結びつけて考えるのは難しいですが、ハラスメントの公表を支援する組織が存在して、そういった問題がもっと明らかになっていく状況になればいいとは思います。そして、彼らがこれからどういった責任の取り方をするのか、それともしないのかということには注目していきたいです。

檜山真有 私は東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科(GA)の住友ゼミの出身です。この問題が明るみに出たときにはすでに修了していたので、大学院の中で起こっていたことはほとんど知りません。しかし、何人かの後輩から相談であったり、話を聞いたりをしました。彼らは総じて不安であり、学内の連携が取れていないようにも見えました。そもそもコロナ禍で対面する機会が減り、学生同士があんまり互いの意見を交換できないような状況でもありましたし、とくにGAは日本語を理解しない学生もいるので、英語でのアナウンスも必要でした。私のような個人がこういった彼らの不安に関わるのではなく、先ほど菅原さんが言っていたように、連携を取るための学内の機関の必要性を感じます。また、この件について、彼らが頼る術が用意されていなかったことは、大学内のいろんな信頼関係がガタついてるような実感がありました。

アーツ前橋 出典:ウィキメディアコモンズ

福尾匠 住友氏も林氏も美術評論家連盟の内部の人であり、それついて連盟から声明の発表がありましたよね。事件やトラブルを解決する組織的なスキームは僕も必要だと思ういっぽうで、美術評論家連盟が中間に立つというのはさすがに無理があると思います。評論家・批評家って、少なくとも第一義的にはそういうトラブルを調整するための存在ではないので、連盟としてトラブルに口を出すことに何の意味があるのか僕はよくわからない。少なくとも現時点では、「連盟としてはこういう見解です」という、それこそ置き配的な内向きの既成事実作りにしか見えません。

美術評論家連盟はそもそも批評を書いている人の集団というより美術業界の非アーティストの偉い人の集まりという印象があり、側から見れば業界の利害を代弁する利益集団にしか見えません。そしてそれはコロナ禍を受けて、美術業界が盛んに文化庁に補助金を求めていたことともリンクします。そもそも、それこそ連盟も声明を出していたあいちトリエンナーレ2019のときの文化庁批判はどこに行ったのか。決定していた交付金が出ないことに怒ることと、とりあえず大変だから金をくれというのは全然違うことです。これが日和見主義でなくてなんでしょうか。国からお金をもらうためには出してもらえるような作品を作らなければならず、そこに巻き込まれることの危うさにあまりに無批判だと思います。

僕はコロナ禍の大きな弊害のひとつは、政府がお金を配るということの意味が変わったことだと思います。これまで基本的には、それは生活保護なりベーシックインカムなりの福祉政策であり、その説得の方便として経済的な合理性が主張されていたように思います。しかしコロナ禍以降、両者が圧着して、それぞれの業界が臆面もなく自分らの利益の保護を訴えるようになり、政府は待ってましたと言わんばかりにそれに乗りました。縦割り的バラまき、補助金分割統治とでも言えるような状況です。美術業界は自らの表現の自由のような「理念」を笠に着て業界の権益を主張するのではなく、全面的な給付金の要求、あるいは移動の自由の制限への批判など、もっと大きいスケールの権利や自由に訴えかけるべきだったと思います。

きりとりめでる 私は美術評論家連盟にちょうど1年前に入って、様々な共同声明が出るのを目の当たりにしました。美評連によるアーツ前橋に関する2021年5月6日の声明は、事前の調査不足の結果の拙速であるとして関係者への謝罪を含めて5月31日の声明で訂正されました。ジャーナリズムとも研究とも学芸とも異なる、あるいは接地面としての美評連にできることは多いと思ういっぽう、トラブル解決のための声明とは折り合いの悪さを感じた一件でした。今後、どのようなスキームが美術に必要なのか考えさせられます。

先ほどの大学の話に戻りますが、ハラスメントの問題を浮かび上がらせ、解決に結びつける学生との対話方法を大学側は絶対に持つべきだと思います。それを持っていないと判明したのが、上智大学の学生運動でした。林道郎さんのハラスメント報道について上智大学はどのように考えているか、上智大学の学生団体Gender Equality for Sophia(GES)が作った質問文が2万人近くの署名と提出されたのですが、大学からは「この度はご迷惑をおかけしました」というウェブサイトの謝罪文だけが返答としてありました。学生たちは大学に対して対話を望んでいたわけですが、それは叶っていません(参考)。

多摩美術大学では、2021年3月26日に多摩美メディア芸術コース卒業制作展のトークイベント「教授陣 × 学生対談 司会 - 小田原のどか」で、コースから7名中5名の教員が登壇しています(*記事公開時は「全教員が登壇」と記載しておりましたが誤りでした。正しくは「専任教員7名のうち2名を除く5名登壇」でした。2022年1月13日修正[編集部])。トークの過程で学生有志48名からメディア芸術コース宛に、教員の着任年数やジェンダー均等を含む、コースの風通しをよくするための要望書を出しています。要望書の返答にあたって教員全員の意見の一致は困難であり、久保田晃弘さんと谷口暁彦さんは個人名での回答となりましたが(参考)、トークイベントではコースの多数の教員と代表の学生との対話が図られ、その返答まで可視化された貴重な対話の事例だと思います。(*トークは2021年3月26日、久保田晃弘と谷口暁彦の個人回答は要望期限通り同年4月末、発表自体は同年11月6日に行われた。2022年1月20日追記[編集部])

いま批評が持つべき役割

──先ほど福尾さんから評論家・批評家の役割について語られていましたが、今日批評はどのような意味を持つと思いますか?

福尾 これは我々4人に共通したモヤモヤだと思うんですが、いま「美術批評」と呼ばれるものは2000字程度の展示レビューばかりであり、それをいくら書いても何かが積み上がっているという気がぜんぜんしません。それは出版業界の疲弊とともに批評が「本」という単位に付いていけなくなるという、他のジャンルでも起こっていることでもあります。批評が各ジャンルの学術性と広告性のあいだのニッチに閉じ込められてしまっている。

蓄積的にするということが文脈を作ることであり、文脈を作ることが特定の共同性を立ち上げることであるとするなら、それを「美術」というあらかじめ用意された専門性に閉じ込めないことをこそ考えるべきだと思います。批評が「展示フォーマリズム」や「補助金分割統治」といった、置き配的な世界で幅を利かせる自閉的な傾向に批判的に介入しうるとすれば、そうした広義のアクティビズム的な側面は無視できないと思います。その点できりとりさんが批評誌『パンのパン』を持続的に刊行しているのは素晴らしいことだと思います。

菅原 そうですね。やっぱりいま、日本の美術批評がほぼレビューを書くことだけに還元されてしまっているという問題があると思っています。レビューって旬のあるものなので、ある一定の期間に読まれて、その後ほぼ忘れられていくものなんですよね。なので本当に自分で書いていても、それがきちんと積み上がっている実感がありません。最近はそれこそきりとりさんの『パンのパン』で岡本太郎論を書き、来年はどこかで柳宗悦について少し何か書けたらいいなと、個人でもちょっと違ったやり方をしたいなと思っています。

あと、僕も来年美術評論家連盟に入る予定なのですが、まだ内情をまったく知らないのでどのようなものかわからないんですけど、美術評論家連盟といったものが良いかたちでギルドや組織として存在すること自体は必要だと思うんですね。そのことが翻って美術批評界に良い影響を与え、僕もそれに多少なりとも貢献できたらいいなとは思っています。

平成の終わり、コレクティヴが抱える問題

──今回の事前アンケートでは「鬱」「トー横(新宿東宝ビルの横)キッズ」といった社会情勢を表すような暗いキーワードも目立ちました。

檜山 昔から若者という存在はすごくフラジャイルで社会不安に影響を受けやすく、我々も通過してきたものですが、いま私自身が若者側の気持ちがまったくわからなくなっていると感じています。先日、歌舞伎町のデカメロンというバーで「オカルティック・ヨ・ソイ」(10月29日〜12月12日)という展覧会を企画したのですが、そこで出品作家のオル太が「トー横キッズ」に着目した作品を制作するというので、実際にトー横に行ってみたりしたのですが、気持ちが若者側ではなくなってるなぁと思いました。そう感じつつあるなかで、若者ではない自分には何ができるのだろうということを考えはじめた1年でもありました。

いっぽうで2021年は庵野秀明が「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」によって、エヴァンゲリオンシリーズを自らの手で終わらせ、椹木野衣が「平成美術:うたかたと瓦礫デブリ 1989–2019」(1月23日〜4月11日、京都市京セラ美術館)によって彼の仕事のまとまった部分を総括させた年でもありました。本来であれば、コンテンツや文化というのは下の世代による新陳代謝で自然と淘汰されるのにもかかわらず、私の親と同世代である庵野秀明監督と椹木野衣さんは「自分で自分の仕事を終わらせる」という、大変なことを成し遂げたように見えました。年長者のやってきたことを「終わらせる」ことは、下の世代がやらなくてはいけないと2人の仕事を見て思い始めるようになりました。

「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989–2019」展会場風景

きりとりめでる 檜山さんは「若者の死」の問題を普遍的に考えてきたと思います。「平成美術:うたかたと瓦礫デブリ 1989–2019」に参加したカオス*ラウンジも目[mé]もコレクティヴですが、みなさんコレクティヴをどのように考えていますか?

福尾 カオス*ラウンジの問題が告発された後、これからのコレクティヴがどうなるべきかという話ですが、めちゃめちゃ意地悪な言い方をすれば、美術業界の男性中心主義的な傾向を乗り越えるというのは、美術業界がもっぱら「内政」に関わり対外的には空疎な理念を唱えるという自閉性から目を逸らす方便になりかねないと危惧しています。もちろんセクハラ・パワハラはなくなるべきであり、そのための具体的な施策が練られるべきですが、組織的な民主化の実践はあくまで内輪の話であるということ、そして女性にとっては本来しなくていいはずの苦労だということをつねに意識する必要があると思います。

現時点で被害者が自身の被害を公にせざるをえないのはそれを秘匿しつつ解決する組織的なスキームがないからであって、民主的な制作プロセスをそのまま作品化するのに展示フォーマリズムはあまりに便利です。展示の作り方についての展示を、キュレーターではなくアーティストがそのまま作品にできてしまうわけですから。そうすると作品という概念は完全に骨抜きにされてしまうし、政治的正しさがそのまま作品の価値になる。だからこそバックヤードの整備と店頭の演出は理念的には分けて考えるべきだし、キュレーションと作品の差異は堅持すべきだと思います。

まさにあいトリの「表現の不自由展・その後」にも、この展示名それ自体が「作品」かつ「出展作家」としてクレジットされているという捩れがあり、それが混乱を助長したところもあるように思いますし、それによって実際の個別の作品にアクセスできなくなったというのは非常に象徴的な出来事です。SNSもあり、バックヤードをバックヤードに留めることは極めて難しくなってきていますが、僕はそれを客商売の職業倫理として考えるべきだと思います。

目[mé] まさゆめ 2019-2021 Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13 撮影:金田幸三


菅原 まずコレクティヴについて言うと、一言で「コレクティヴ」と言っても、水平的で平等なコレクティヴや、ひとりのリーダーが牽引するコレクティヴなど様々な形態があると思います。そういった意味ではもうちょっと細かく区分けして考える必要もあるのではないでしょうか。

あと、先ほど檜山さんから若者の話が出ましたが、僕は年齢的に檜山さん以上に若者のことが全然わかりません。でも、いまの社会では若者も中年もお年寄りもつらいと思うんですね。人間ひとりで生きていくことはできないので、本当に困ったときに助け合ったりとか、誰かに助けを求めたりとか、困っている人がいたら手を差し伸べたりといったことが普通にできるような社会になるといいなと思います。なので、ひとりで生きようとしないほうがいいと思います。

──最後に2022年の展望をお願いします。

檜山 私はキュレーターなので、社会との関係性に自覚的になるというよりかは、自分のやりたいことを自分のやりたいようにやりたいと思います。企画で関わるアーティストたちが私のことを社会に接続してくれる場合もあるし、私がアーティストたちを社会に接続する場合もあり、それはアーティストたちと私の関係性によるものだと思うんですけど、そのなかで自分のやりたいことをやっていって良いものをこれからもつくっていきたいです。

菅原  冒頭に話した祝賀の話にもつながるのですが、僕は祝賀感から距離を置いた活動にこれからも注目していきたいです。あと、ハラスメントには告発後も被害者に負担がかかりすぎてしまう問題が非常にあるので、公にしておしまいではなくそれをケアし、解決して支援する組織と制度ができたら良いなと思っています。

福尾 僕は美術以外の領域でも批評を書いているのですが、俗っぽい言い方をするといかにいろんなジャンルに散らばっているお客さん(読者)を混ぜることができるかというのがひとつ意識していることです。哲学から入った人が美術批評も読んだり、美術から入った人が文芸批評も読んだり。そのためにはある程度「この人が書いてるんだったらほかのも読んでみよう」と思ってもらえないといけない。それにはやはり、批評が個別の作品なり展示なりについての専門的・客観的な評価以上のものになり、書き手が自分の固有名にその過剰を宿らせなければならないと思います。

きりとり 私は今日の座談会であらためて、Twitterでの発言や展覧会レビューとは異なるかたちでのまとまった論考が必要だと思いました。そのための場や展覧会評のような旬の短いテキストの再考、今回の座談会で取り上げられた事象を受け止めていく機会を作っていきたいです。

──本日はみなさまありがとうございました。良いお年をお迎えください。

きりとりめでる
批評家。1989年⽣まれ。2016年に京都市⽴芸術⼤学⼤学院美術研究科芸術学を修了。特に、視聴覚⽂化の変容と伴⾛する美術作品をデジタル写真論の視点から 、研究、企画、執筆を⾏なっている。2019 年に「未然の墓標」(パープルームギャラリー)を企画。2017 年からは美術系同⼈誌『パンのパン』を発⾏。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論』(共編著、ビー・エヌ・エヌ新社、2018)がある。

菅原伸也
すがわら・しんや 美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アートそしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。最近の関心は柳宗悦。主な論考に、「質問する」(ART iT)での、田中功起との往復書簡(2016年4月〜10月)、「岡本太郎の「日本発見」—岡本太郎の伝統論と民族」(『パンのパン 04』)、「タニア・ブルゲラ、あるいは、拡張された参加型アートの概念について」(ART RESEARCH ONLINE)がある。他には、奥村雄樹(『美術手帖』2016年8月号)やハンス・ウルリッヒ・オブリストへのインタビュー(Tokyo Art Beat)など。

檜山真有
ひやま・まある キュレーター。1994年大阪府生まれ。展覧会企画に2018年「Pray for nothing」(「ゼンカイ」ハウス、兵庫)、2019年「超暴力」(山下ビル、愛知)、2021年「オカルティック・ヨ・ソイ」(デカメロン、東京)など。『paper C』で展覧会レビューを不定期連載。コンビニおみくじマガジン『月刊檜山真有』もやってます。2022年はもっと話すのが上手になりたい。

福尾匠
ふくお・たくみ 現代フランス哲学、批評。1992年生まれ。日本学術振興会特別研究員PD(立教大学)。著書に『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)、論文に「ポシブル、パサブル:ある空間とその言葉」(『群像』2020年7月号、講談社)、「ベルクソン『物質と記憶』の哲学的自我:イマージュと〈私〉」(『表象』第14号、表象文化論学会)等がある。

野路千晶(編集部)

野路千晶(編集部)

のじ・ちあき Tokyo Art Beatエグゼクティブ・エディター。広島県生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、ウェブ版「美術手帖」編集部を経て、2019年末より現職。編集、執筆、アートコーディネーターなど。