長く続いたパンデミックを経て、ヨーロッパのアートシーンはどう変化しているだろうか? 分断、難民問題、戦争、経済格差、環境問題、公正性、急速に発達する情報技術の是非……。複雑で多様な問題に同時多発的にさらされる2023年から2024年の欧州を演劇研究者・内野儀がレポートする。(全12回予定)
ライヴであることが前提である上演芸術──演劇やダンスのみならずオペラやパフォーマンス(・アート)まで──を記述することは、「その場にいる」経験がデフォルトのため、ハイコンテクストになる可能性が高い。セリフ中心のドラマ演劇のように言語に依拠する場合、その可能性はさらに上がる。だからそこで語られることは閉鎖的になりがちだし、その社会の外部にいる「その場にいられない」者にとっては、関心を抱くことすらそもそも難しい。
クリック/タッチひとつで、どこの世界で起きていることも即座に「見ることができる」「経験できる」という思い込みなり幻想なりがグローバルに蔓延している現在、「その場にいる」ことの意味は「特権的」という便利な形容詞以外では、ますます理解を得られなくなってもいる。にもかかわらず、私は「その場にいる」ことにした。ドイツ・ベルリンにである。
ドイツ語がほとんどできないにもかかわらず、勤務先からサバティカルの機会を得てこの地に1年住んでみて、いろいろ見て回ろうとしている私は、ドイツの上演芸術について厳密な意味での専門的知見を持たず、事実誤認や勘違いをしながら、理解したり了解したりするしかできないに決まっている。
とはいえ、このようにしか「その場にいる」ことのできない私の存在を、私は、東浩紀が『ゲンロン0 観光客の哲学』(株式会社ゲンロン、2017年)で提示した<観光客>のポジションとして引き受けようと思う。「誤配」(の可能性)と「訂正可能性」を視野に入れつつ、「その場にいる」ことの<反響>を言語化しようと思うのだ。ただしモノローグや抽象的な戯れ言でなく、思いっきり具体的に。作品に沿って。
中長期にわたってベルリンに滞在するのは2015年以来2回目だから、この街のどこで何が起きているかについて多少の知識はある。
前回の滞在時は、アラブ諸国で連鎖的に起きた民主化運動「アラブの春」のひとつであるシリア内戦の激化の影響で、難民がヨーロッパに数多く逃れており、その状況は、たとえば日本だと「社会問題」の語感で曖昧に抽象化されがちな「遠い話」ではなかった。日常的な生活のレベルから市民としての思想的信条のアジャストメントの問題にまで、難民問題が幅広く波及していたのだ。当時の滞在について、私はこの文章(アーツカウンシル東京のコラム「<公共>ということ―ベルリンから」)を書き記している。
ここでは、2015年11月19日から21日にかけてベルリン市内のゾフィーエンゼーレで開催された「ほんとうに役に立つ演劇(Really Useful Theater)」フェスティヴァルをまず取り上げている。同フェスティヴァルでは上演と同時にディスカッションが行われたが、「社会的使命を忠実に果た」す──体制批判だろうが価値転倒的だろうが──と表明した作品やプロジェクトは公的な支援を受けやすくなるが、より個人的な範疇に属すると判断される問題を扱うもの、あるいは演劇の形式性を問う理論的な問題を設定するもの、はたまた「美」や「知覚」を探求する作品などが公的支援を受けられなくなっている状況は問題ではないか?という問いが議論にのぼっていた。
2015年は、主にアラブ諸国における民主化の(ある程度の)進捗と難民の問題がベルリンでは前景化した時期であったわけだが、そこから7年以上が経過したばかりでなく、コロナ禍によるロックダウンやロシアによるウクライナ侵攻といった事態を受けた現在、こうした上演芸術のアジェンダ設定に何らかの変化はあるだろうか?
「ほんとうに役に立つ演劇」で議論された上演芸術の制度的コンテクストとは、「公共劇場」と「フリーシーン」の関係についてである。ベルリンでは、アンサンブル(所属俳優)や多数のスタッフを雇用し、レパートリー作品を繰り返し上演する体制がとられる公共劇場の制度が強固にある。それに対するのが、制度的な枠組みにとらわれない、実験的な作品創造と上演の場としての「フリーシーン」だ。
この「公共劇場=制度」対「フリーシーン=オルタナティブ」という緩い二項対立的な自意識で、ベルリンの上演芸術は構造化されている。そしてそこに、様々に細分化されたジャンル意識や趣味や人間関係のしがらみが加わる。この二項対立化された認識のフレームは、2023年の今日どこまで通じるのか、というのが私の脳裏に浮かんだ最初の問いだった。
ベルリンに到着したのは4月2日。長い短いの差はあるもの、夏期期間の休止時期を挟んで年間プログラムにしたがって展開する公共劇場のシーズンが終わり、フェスティヴァルへと上演の形態が移行する時期である。
この1ヶ月間は公共劇場を中心に見てまわったが、そこから新しい傾向といった何かを抽出できるまでには至っていない。他方、「公共劇場 VS.フリーシーン」という構図に沿えば、フリーシーンを代表する集団、リミニ・プロトコルとゴブ・スクワッドの作品に立ち会うことができた。連載の第1回目では、フリーシーンの現在を理解するためのとっかかりとして、この2作品を取り上げる。
ベルリン最初の観劇になったのが、HAU(ヘッベルハム・アム・ウーファー劇場)でのリミニ・プロトコル「Konferenz der Abwesenden(不在者の会議)」。ヘルガルト・ハウグ、シュテファン・ケーギ、ダニエル・ヴェッツェルの共同創作である同作は、2021年6月にドレスデン州立劇場のコロナ後再開にあたって初演され、各地を巡回している。つまり公共劇場で共同制作された作品が、フリーシーンであるHAUで上演されたかたちである。
究極の参加型作品と言うべきか。いわゆる俳優は出演しない。説明者とテクニカルスタッフが舞台上に立ち、作品のルール──様々なレベルで取り上げられるべきと考えられる人々の言説を、観客がその場で読み上げる──が解説される。ここでは、舞台化する=公的なものにする価値があると考えられている有名無名の人とその言説が取り上げられ、そして公演ごとに変わる観客たちによる、これまでとは異なる「つながり方」が求められている。
AIによる声の語りも入り、背後にはプロジェクションのスクリーンがある。取り上げられる言説は多様だ。本人の意志に反して、ギリシャの島に何ヶ月も留め置かれた東アフリカからの難民の証言や、ユダヤ人であることを隠してドイツ軍に従軍し、常に発見される恐れがある状態で第二次世界大戦を生き延びた95歳のイスラエル在住の男性の言葉。宇宙が女性の身体に与える影響について、地球を離れてデータ作成する訓練を行うドイツの宇宙飛行士スザンナ・ランドール、米国のアクティヴィストで「自発的な人類殲滅運動」の指導者レス・ナイトの言葉など。そのどれもが簡単に肯定も否定もできない言説である。
舞台に上がる観客は、たんにボランティアの場合もあるし、いくつかの質問に挙手で答えていって最後に残った人に依頼するなど様々な方法で選ばれる。当たり前だが、強要はない。同時に2〜3名が登壇することも多々ある。短い休止を挟んで2時間。当初、観客は封筒に入ったテクストを取り出して読んでいたが、後半ではそれがなくなり観客=演者は何も見ずに話すようになっていた。イヤホンから聞こえる声を反復していたようだ。
コロナ禍以降の遠隔会議よりも、むしろ生身の誰かが代理表象することに人間味が感じられるというのが作品の前提であるが、選ばれる対象が一捻りも二捻りもあるために、そう単純に人間中心主義的な上演にはならない。コロナ禍(会えないこと)と、移動による地球温暖化(二酸化炭素の発生増加)を睨んだこの上演のフォーマットが、今後どこまでアクチュアルであり続けるかはわからないが、少なくとも2023年時点のベルリンの観客たちは、少し緩んだ空気の中ではあれ、それなりの意義を見いだしていたように思われた。
いっぽう、ベルリンの公共劇場であるフォルクスビューネでは、フリーシーンの老舗アーティストであるゴブ・スクワッドの 「Is Anybody Home?(お留守ですか?)」を観た。こちらもリミニ・プロトコルの場合と同様に、フリーシーンの担い手と公共劇場との共同制作である(2022年12月初演)。
前面に大スクリーン。そこに出演前らしいパフォーマーが大映しになり「出番を間違えた」とかなんとか言いながらメイクをしている。舞台上にはパジャマ姿のサルマ・サラヘルディン(Salma Salaheldin)という女性。さらに、すでにベルリン市街のどこかに、また別のパフォーマー2名が待機しており、かれらはサルマが実際に住んでいるアパートを訪ねるという設定だ。サルマは舞台奥に設らえられたベッドに横たわり、スクリーン越しにかれらとリモート対話することになる。
その様子は映像としてスクリーンに投影されており、市街を移動するパフォーマーたちの行動も同時中継されている。そこでパフォーマー2人は様々な対話を即興的に行い、最終的にはどちらがアパートに居残れるか、というゲームに興じる。
サルマはプロのパフォーマーではおそらくないが、偶然選ばれた観客の一人というわけでもなく、その中間的な位置にいる。キャスト表を見ると総勢15名の名前が掲載されており、部屋を提供する人は毎回異なる。当然、公演ごとに訪問するアパートや近隣市街の雰囲気も異なってくる。この作品のコンセプトを、ゴブ・スクワッドはこう説明している(筆者の翻訳による)。
この新しいライブインタラクティブ映画では、他者の経験への共感と共有というアイデアが極限まで探求される。毎晩、新しいゲストが招待され、自分たちのプライベートなアパートメントを舞台にした映画を鑑賞することになる。 プライバシーと所有権の境界線は常に引き直され、勝手にベッドで寝られてしまい、身体さえ乗っ取られる。
(中略)
いっぽう街角では、おとぎ話のような不思議な探求をする別の身体を目にする。4つの壁の外にある家とは何なのか?「私的なもの」という膜の隙間はどこにあるのか。それは分断ではなく、つながりを作るのか。私たちはどこに集まれるのだろう? 劇場で? 見知らぬ人の家? 私の身体? 私たちの心? 街角? お留守ですか?
「他者の経験への共感と共有(は可能か)」と「どこに集まれるのだろうか」という、コロナ禍でグローバルに注目された大主題である「分断」という問い(あるいはパンデミック以前にも共通する問いかもしれない)、すなわちクリティカルであり続けるしかない問いがここでは提示されている。
冒頭でメイク中だったパフォーマーは、劇場内の様々な場所から中継された映像と声を介してのみ上演に介入する。そしてようやく実際の姿を見せたと思えば、特殊メイクした狼男として登場するのだ。アパートの部屋と、舞台奥の寝室という自身の空間の両方に侵入されるサルマは、「他者」としての侵入者3名と理解し合えたなどということにはならない。それぞれが勝手に、サルマからは見えない設定らしきものに従って行動しているのだから。にもかかわらず作品にはほのぼの感が漂う。これはいったいどういうわけなのか。
コンセプチュアルに、しかし可視的に、「公」と「私」の境界が、参加者の同意を得たかどうかも微妙なまま「共犯的」に作りかえられていく。とはいえ、ほのぼのとしている。だからこそ、これを横から眺めている観客は、漠然と不安になる(はずだ)。その先がどうなるかは観客次第。ゴブ・スクワッドにとっては、もちろんどうなっても構わないに違いない。
内野儀
内野儀