東京・京橋のアーティゾン美術館で、展覧会「ジャム・セッション 石橋財団×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」が開催されている。石橋財団コレクションと現代美術家が共演する「ジャム・セッション」の第4弾。会期は9月9日から11月19日まで。
「ジャム・セッション」は、アーティゾン美術館のコンセプト「創造の体感」を体現する展覧会としてアーティストと学芸員が共同するもので、2020年は鴻池朋子、2021年は森村泰昌、昨年は写真家の柴田敏雄と鈴木理策が招かれた。
今回招かれた画家の山口晃は1969年生まれ。鳥の目で描く鳥瞰図といった日本の伝統的絵画の様式を取り入れて油絵の技法で描く絵画をはじめ、立体やマンガ、インスタレーションなど多岐にわたる表現を行っている。最近では東京2020パラリンピック公式アートポスターや、東京メトロ日本橋のパブリックアートなども手がけて話題になった。
大和絵や古美術に影響を受け、独自の作風を確立してきた山口が、今回「ジャム・セッション」の対象作品として選んだのは、近代絵画の巨匠ポール・セザンヌ(1839~1906)の《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》と、「画聖」と呼ばれる室町期の画僧・雪舟(1420~1506)の《四季山水図》。山口と担当学芸員の平間理香学芸課課長に本展が実現した経緯やセザンヌ作品の魅力をインタビューした前編に続き、後編では雪舟や日本近代絵画についての会話をお届けする。
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——山口さんが選ばれた雪舟の《四季山水図》は、春夏秋冬の風景が描かれた四幅対の水墨淡彩画です。平間さんは日本美術がご専門ですが、制作背景などを教えていただけますか?
平間 《四季山水図》は、署名や印章は入っていないものの、古くから雪舟の筆とみなされてきました。京都の寺で絵の修業を積んだ雪舟は、周防・大内氏の庇護を受けて山口に行き、1967(応仁元)年に中国(明)に渡る機会を得ます。遣明団の記録係を務めて、中国の自然や本場の絵画、絵師と出会いました。本作は、雪舟が中国体験を経て制作したと考えられるいっぽう、手本にした可能性がある中国絵画が日本にあるので渡明以前に描いたとする説もある作品です。私は確たる証拠があるわけではなのですが、中国へ行った後に描いたのではないかと考えています。おそらく山口さんもそうです。
山口 中国へ行く前の作品に比べて、自分の形になっていますよね。何か吹っ切れたかな、っていう感じがします。
平間 そうですね。やはり雪舟が画家として抜きん出ていったのは中国での経験が大きかったと思います。1469年に帰国後もすぐ山口には帰れず、九州各地を移動してから山口に戻ってきましたから、中国での経験や学びを温める時間はかなりあったのではないかと想像します。そうしたなかで描かれたのが《四季山水図》ではないかと思います。
——山口さんは著書『ヘンな日本美術史』(*1)のなかで、終生「こけつまろびつ」しながら破綻を恐れずに描き続けた雪舟について書かれています。《四季山水図は》は、やはり雪舟が実物の中国の風景を見たのちに描いたように感じますか?
山口 あきらかに……。いや、わからないですけれど、現地の山を見るだけでも、実景と絵の関係に開眼する所があると思うんですよね。大胆さといいますか、縮こまった感じがしないので、転機があったのかなと思いますね。やはり明に渡ったのは雪舟にとって一大事だったでしょうから。それ以前の作品を見ると(雪舟の作品集を取りだす)、中国へ行く前の作品は、固いじゃないですか。もう、おっかなビックリという。非常に親近感が湧きます。「あ、この腰の引け方、俺だ」という感じで。
——(渡明前の雪舟作品を作品集で見ながら)そう言われると全然違いますね。
山口 一生懸命に山水の要素を入れて、形を綺麗に整えよう整えようとしているのですが、要素の羅列という感じで要素同士のつながりが弱い。さすがに入明直前とされるものは闊達さが増していますが、この《四季山水図》のような失敗を恐れぬ感じに無い。奇岩が縦横にうねって「え、ここはこれでいいんだ?」という箇所もあるけれど、まったく直す気がない(笑)。それを次の筆致とモチーフで持ち直して行くことで雪舟一流のグルーブがうまれてくる。《四季山水図》は、パッと見るとモノクロのようですが、じつは彩色がなされていまして。
——花や紅葉など部分的に淡い色彩がありますね。
山口 ええ。色というのは、強すぎるのですね。非常にオーバードーズというか、頼ってしまうと絵の本質的な強さを忘れてしまいます。たとえば赤を一面に塗っておけば、見る人の心拍数は勝手にギュっと上がるわけです。
そういう、顔料の鮮やかさと絵の強さが同一視される「生理的」に訴えてくる段階を経て、線と墨の濃淡を主体にした「精神的」な部分を表現しうる絵があらわれてくる。赤い顔料が「大きな音」を出しているとしたら、墨の濃淡はだいぶ「小さな音」です。音が小さいと人は耳を澄ますように、微妙な濃淡に対して見る人は自然と感度を上げてくる。そこにおいては色彩はうっすら掃くだけで十分なんですね。そして上がった感度は微細な変化もとらえますから、同じ濃淡でも多くの階調を含むことになります。その落差や微妙さを最大限に生かして、雪舟は見る人の精神を揺るがしてくるわけです。
——山口さんが、最初に水墨画に対して感度が上がったと感じたのはいつでしょうか。
山口 30歳過ぎてからでしょうか、上野の東京国立博物館で作品の展示ケースを工夫した展覧会がありました。日本美術を展示するケースは通常、ガラス面から作品を掛ける壁面まで結構距離があるのですが、そのときはケースが非常に薄かったのです。かつてない近さと工夫された照明のもとで東博が所蔵する雪舟の《秋冬山水図》を見まして、ぞおっとしたのが最初でした。それから、室町期の水墨画ににわかに興味が湧きまして。
もっとも、時を隔てた先達の絵を見るときはとくにですが、全部わかった気になっちゃいかんと自分を戒めてます。雲谷派や狩野派など、後続世代が読み替えて行くことで歴史に命脈を保つ部分はもちろんありますが、時の移ろいで現在からは窺い知れない部分こそ、尊重すべきだと思います。現代の、とくに「美術」の概念で読み解き過ぎても見えなくなります。私は雪舟を見ていると、頭のてっぺんがむずむずして叫びだしたくなってくるんですね。瞑想や意識変容、その辺りとの関連もあると思います。
——しつらえで言いますと、本展の「雪舟の翳る部屋」のセクションでは、ガラスケース内の「四季山水図」に対面して、発光する大きなホワイトボックスが設置されています。どのような狙いがあるのでしょうか?
山口 正直に言いますと、当初はもっと柔らかい日本家屋のなかのような光を目指していました。たとえば禅寺の方丈は軒が深く、光が開口部から水平に入ってきます。それが室内の奥へ届くまでに拡散して弱められて、ホワッと全体感をもって襖絵に当たる。そうすると、絵の中に光を含んだ自然な奥行きが生まれます。それを再現したかったのですけれど、作品保護のためにガラスをはめなきゃならない。当たり前ですが。正面から光を当てたらガラスに反射して作品が見づらくなりますが、絵と鑑賞者の間に一つ違う面ができると分かったときに、なんだか「しめた!」と思ったんですね。
雪舟は、あまりにも基底的な存在になりすぎて、かえって作品の面白さに気づきにくい。本展は「ジャム・セッション」ですから、現代人である私が、奉られて「画聖」的おとなしさの向こうにある雪舟を「読み替える」ことで、雪舟の絵をその本来性に立ち返って「こんなヤバい絵だったのか」というふうに見てもらえるんじゃないかと思いまして。
——たしかに会場では、視点の高さや位置を変えながら《四季山水図》を左見右見(とみこうみ)しました。
山口 絵の中にあれだけ沢山のモチーフがありますと、その図様のほうへ目が行ってしまいますが、それを目で追って行くと、線の流れ、モティーフ同士の押し、引き、移ろいといった沢山の線と面の関係性がこちらの精神を揺さぶってくるのに気付きます。また、《四季山水図》のような絹本は、ある程度の近さで見ると絹地の織目がまず見えて、その織目が目をやんわりと受け止めつつ、その奥からジワっと絵が現れてそこに目が染み込んでゆくような気持ち良さがあります。そんな諸々の感じを反射するガラス面を意識する事で増幅させて、織目と描かれた図様の往還や、絵の中の面の積層感を体感してもらえたらと思いました。かつ、これはやってからわかったのですが、ボックスのライトによって軸が掛かる後ろの壁面が消えて、中空に絵が浮いているように見えるんですね。これも不思議な奥行きを生んで積層感を高めていると思います。
作品が見やすいと、すぐ視認して「山が、寺が、道があるぞ」と記号的に見終えてしまうおそれがありますが、もうちょっと描かれた空間に耽溺する面白さも感じてもらいたいなと。映り込みに邪魔されて、見ている自分の影の中に絵が現れるわけですが、それがとても心象風景的であったり、一目で見られないから、色々な角度から画面を見つめて、その断片が合わさって、ひとつの絵の記憶が出来上がっているという、見て認識することのアレゴリーにもなっていたり。《四季山水図》の展示では、なぜこんなに見えづらのだろう?という疑問から始まって、絵の表層や奥行きの問題、ここにレイヤーが幾つあるのかなど、見ることについての意識の広がりを楽しんでもらえればと思っております。
——雪舟のセクションでは、墨と溶き油による山口さんの新作絵画《オイル オン カンヴァス》の2点を展示しています。
山口 そちらは日本家屋の軒下を経てフワッと届く全体感のある光による鑑賞に適した作品を目指して作りましたが、結果的にちょっと……。
平間 先ほど山口さんがガラスケースのなかで雪舟の《四季山水図》が中宙に浮いて見えると言われましたが、《オイル オン カンヴァス》も宙に浮いてますね 。
山口 そうですね。ありがとうございます、学芸的なフォローをしていただいて。
——新作インスタレーション《アウトライン アナグラム》は、以前にも同じようなパノラマふうの作品を制作されたことがあるそうですね。
山口 2006年にミヅマアートギャラリーで発表しました。そのときに作ったのは風景の作品ではなくて、群衆が水平線まで広がっている図でしたけれど、それを心ゆくまでやりたいという気持ちがありまして今回の作品となりました。
——シンプルな構造なのに、非常に奥行きを感じました。
山口 ありがとうございます。奥行きを感じていただけた。
——元々の空間の広さは見当がつくのですが、どこに壁があるか分からないような。
山口 (冗談めいて)ちょっとお茶をお出しして……。
一同 ははは(笑)。
——私たちが絵の中に奥行きを感じる基本的な仕組みを実感できました。作品中には、山口さんの絵画作品と同じく過去と現代の様々なモチーフが描かれていますが、テーマはありますか。
山口 あれは四季の図でして、右が春、左が冬、中央部分が夏と秋の場面になっています。タイトルに「アナグラム」とあるように、基本的に雪舟の絵の色々な要素を組み替えています。
要は描き割りによるパノラマなんですが、そういうトリックアート的な所に絵画の出自があることは忘れてはいけない事だと思うんです。やっぱり絵画において、「イリュージョン」性、つまり、そうでないものがそう見える、さらに言えば「そうでないもの」自体になってしまっているという点は、メディウムや画面の空間性を含む、それを避けて絵画は成り立たない所なわけです。今回ある種のイリュージョン空間を作ったのは、片目をつぶって見たほうが奥行きが生まれるという、絵画体験の一面を感じたり、私たちが奥行きを見出すときの視覚の原初性を追体験したりしていただきたいと思ったのもあります…….。
——担当学芸員として平間さんは、セザンヌ・雪舟作品と山口さんのセッションをどうご覧になりますか?
平間 これまでの「ジャム・セッション」は、アーティストが収蔵作品と向き合ったいわば成果物として作られた新作をご紹介してきました。今回は成果物の展示というより、山口さんがセザンヌや雪舟にアプローチしていく過程や様子、思考の在り方を見ていただける展覧会になりました。たとえば、セザンヌのセクションでは、《サント=ヴィクトワール山》を模写する過程で山口さんが様々な気付きを書き込んだ図面なども紹介しています。見てすぐ理解できるものではないかもしれませんが、山口さんの脳の中をのぞくような、興味深い経験をしていたただけるのではないかと思います。
——本展開幕前日のプレス向け内覧会で、山口さんが「昨今の美術館行政や美術を巡る状況が進んでいくほど、作家個人は制度に絡めとられてしまう。作家がサンサシオンを内発し、愚直に続けていくことが、制度が個人を絡めとってくるときの防波堤になる」と語ったのが印象に残っています。なぜそう思われるかを、もう少し詳しく教えていただけませんか?
山口 防波堤……。なんというのでしょうね、絵描きはつい忘れてしまうのですね。「自分はなぜ絵を描いているか」を。
人が生きやすくなるために制度が作られたはずが、制度を維持するために人が動き出すとおかしくなるという話ですね。たとえば美術史にしても、作者が先達の歴史を俯瞰しようとして作られましたけれど、制度の側の正統性担保の道具にされると「美術史に沿った作品でないと絵画じゃない」と言われたりします。そうではなくて、その時代に画家がまったき自分の内発から作り得た作品が、歴史になっていかなければ。本来なら美術史は、私たちが「どうしよう?」と迷ったときに、ひとつの「羅針盤」になるはずです。「古画品録」も「芸術家列伝」も「本朝画史」もみんな実作者である画家が書いたわけです。先達が彼らの時代の社会や制度の中にあって、どう格闘して作品を物して来たのかを知ることで、自分たちの時代の「未知」へ漕ぎ出す知恵や勇気を得るものでなくては。それが制度の理屈を内面化して、歴史の延長線上に人を押し込めて逆に航路を狭めている。
でも、そこに自分のサンサシオンはときめかない、陸だか海だかわからないけど自分はあっちに進むことでしか生きられない!と突っ切って逸脱していった所が新しい海になれば美術の歴史の幅はそこまでワーッと広がります。そのときに画家を唯一導いてくれるのはサンサシオンしかない。人間は内発するものでしか自分を動かせませんし、自分に根ざさないものは観念上のものにしかならないでしょう。しかし、その逸脱地も歴史化されればすぐに制度に取り込まれる。
これは、美術や他の芸術領域の「逸脱」をいかに社会が担保していくかという話にもつながりますが、その担保自体が余剰をなくすことになりうるわけです。「はいはい、あなたたちはここで『逸脱』できますよ」と、注意書きだらけの箱が用意されたりする。制度側はますます一見「よくできてる」と思われるようになってゆくと思いますが、いつでもその外に出られる道は見据えておかねばならない。
作家は自分の外骨格をしっかり作って、中は柔らかく保つ工夫をしなければすぐに既存のものに取り込まれ慣らされてしまいます。
そうならぬためには個人が内発しているもの、制度や社会の向こうから照り輝く、人を一個の動物にさせてしまうものとしてのサンサシオン、にいま一度立ち返って、ディフェンス力としなければ。それは、内心に従うという端的なことですが、時としてとても勇気のいることです。
——会場には、東京パラリンピック公式ポスターの原画と、制作を依頼され悩んだ顛末を描いた一連のマンガも展示されています。上腕がない女性選手を主人公にした公式ポスターは、福島第一原発や原発事故の処理済み汚染水が入ったタンク、新国立競技場整備により家を追われる人々などが描きこまれ、反響を呼びました。山口さんにとってこの体験は大きかったのでしょうか?
山口 安倍さんがマリオの帽子かぶってレガシーとか言ってしまう翼賛案件なわけです。戦争画の過去もありますから、かかわったら日本で絵が描けなくなるんじゃないかと恐れました。依頼から制作、その後に至る顛末は「当世壁の落書き 山口晃」で検索してもらうと出て来ますので他山の石として読んでほしいですが、権力への警戒心が逆に内なる検閲者を生んで自分を規制してくることには自分で驚きました。つまり、ギリギリのラインを狙おうとする時に想定する権力を、内面化しちゃうんですね。
そういう権力に対しての他に市民同士の関係の問題もある。今回、公式ポスターの原画は、「分断の解消」も一つのテーマでした。解消というのは皆が心一つに一つの方向を目指すというのではなく、もっと「君は君。我は我。」みたいに、多極化してそれぞれに「上」を目指すみたいな。そういう「上」をなんとか描けないか、という……。全然至りませんでしたが。
分断はなぜ起きているのか、誰が仕掛けているのかという部分にも私たちは意識がいかないといけないのですが、分断の原因を遡って考えると、日本の近代化以降の問題もあるように感じていまして。つまり技術や制度を輸入して列強に「追いつく」というメンタルですね。追いついて、その先が無い。問題が起きても、時間延ばしさえすればやがてクレバーな解決策が海の向こうの輸入元からやってくる。利便を享受はするけれど、それを求める心性を欠いているから、輸入されたものの上を横滑りし続けている、それを生み出す原理が無いわけです。自らの基底部を持ち得ないから立場主義になるしかない。そういうのは分断させやすいんだろうな、と。
━━それは美術の世界に限らず?
山口 限らないでしょう。今のは近代の技術・社会制度移入の話のつもりでしたが、むしろそういったところから文化方面に波及していったのでしょう。地理に要因する欠乏感ゆえか、海の向こうからやってくる新奇な制度や技術、様式をすぐに接続してきた結果としての原理性の欠如や喪失が、日本という国では必然的に起こりやすいんじゃないでしょうか。古典美術を見てもそう思うときがあります。ただ、過去の日本において作り手が内発性を発揮して独自性を獲得できたのは、海の向こうから「解決策」が訪れるスパンが長かったから、否応なく国内発酵できた面があるでしょう。
だから、いかに良い閉じ籠り方をできるか、「放って置いて」もらえようにするかが大事ではないかと思います。一つの答えがサブカルチャー方面で、日本人の欲望に沿って特化して内容がタコツボ化した結果、ある種「生」の普遍性に達して、それをほぼそのまま輸出したら強力なコンテンツになり得た。美術は逆にお利口すぎるのですね。西洋由来であるからと、そこにおける評価軸、新規性を気にかけすぎている。その由来したものをいま、どこで行ってるのかということです。美術というのは人間社会の外部、ヒトの古層へ開く術なわけです。そこにおける新規性は、各時代の各社会が閉ざす、古層への扉を開ける鍵の形みたいなもので、時代ごと、社会ごとに違う。鍵の形が変わるだけで、線的に進歩する類のものではないのですね。最近、若い作家のキャラ作品やコレクティヴ的なものなどを見て、興味に開かれながらも「いい感じにまた籠ってきたな」と感じていたのですが、そうするうちに「Tokyo Gendai」のようなアートフェアが始まって。
——昨今花盛りともいえるアートフェアに疑問はありますか?
山口 そうした存在が海外向けに国内作品を選定、剪定する「権威」や「制度」にならないようにしないと。もうこれは全然理解されないだろうなと見えるものにこそ、自分たちで名付けをして立ち上げてゆく。当然理解されなくても諦めない。そうしないと西洋美術由来の評価軸によって私たちの作品が因数分解されるわけですね。本来なら割り切れないものもビシッと割られて、これとこれの領域の作品などと言われてしまう。本当は名付け得ないような微妙なニュアンスを含んだ作品も、なにかしらの言葉に集約されてしまうのです。そうした言葉から守るために自分たちで名付けてガードし、微妙なところを保ち咀嚼し続けてゆく。
大学の作品講評に行くと、何を描いていいのか分からないという学生さんはポツリポツリといて、自作を解説させられたり批評されたりするときの、言語の介在のさせ方が問題なんですね。造形スキームでやっていたことを、わざわざ言葉の領域に戻してきて、ましてや既存の自分が属してない言語に合わせて自作品を解体、解説せよと言われたら、それまで自然に絵を描いていた人ほど描けなくなってしまいます。これも制度が人間を絡めとっていると言えるのではないでしょうか。
——本展開催に先立ち、山口さんは日本が西洋近代、そして近代絵画を自らに接続することに失敗したという趣旨の文章を発表しています(*2)。会場の「日本という淀み」のセクションでは、その続きとも言うべき文章に併せて、洋画の草創期に活動した黒田清輝と浅井忠の作品を展示しています。ふたりを選んだ理由を教えてください。
山口 あの展示は、まさに日本近代美術の不幸と言いますか、悲しい流れを表すものでして。明治維新後に西洋式の美術教育機関として工部美術学校(1876年設立、1888年廃校)が作られ、そこに教えに来たイタリアの画家アントニオ・フォントネージに浅井忠は学び、それが本格的な日本の「油絵事始め」になるはずでした。ところが、道半ばでフォンタネージが帰国し、新たに作られた東京美術学校(1887年設立、現東京藝術大学)に黒田清輝が招聘されて、彼がフランス留学で習得した新しい美術が国ぐるみで推奨されると、伝統的な油絵を学んだ浅井忠は中央から弾き飛ばされる。十分なアカデミズムの歴史もないままそのカウンターである印象派にシフトした外来の新様式により、古い様式がその学習者ごと「生き埋めにされた」ということですね。その黒田も結局は、次に海外からきた潮流によって生き埋めにされた。そういう、外から横滑りして来たものに取って代わられ、相克が生まれない歴史の始まりを表すふたりとして選びました。
——その歴史は現在も続いていると思いますか?
山口 どうでしょうか。由来元の西洋美術が現役なわけですから、私たちはいつでもその波を食らって相克をし損ねる恐れがありますし、「〇年代」などと言って10年刻みでものを見る世の中では「生き埋め」にならない人の方が少ないでしょう。細分化し多極化する中では同時代にいても相克が起こらぬほうが多いかもしれません。
しかし、「生き埋め」と言っても「生き」てはいたわけですから、時を経て掘り起こされ画業を見直す流れも出て来ました。先達と私淑というかたちでつながるのもあるでしょうし、個人が発信手段を持った現在ではむしろ、籠ることでフリーハンドを確保するという選択肢もあり得ます。
その中では、生き埋めを作らぬよう意思して行くこと、プレ美術館・人類博物館のような無選別に人の営みをアーカイブする場所が重要になるんでしょうね。
*1──2012年、祥伝社刊。
*2──「日本は近代を接続し損なっている、いわんや近代絵画をや。/写実絵画やアカデミズム絵画に対する反動としての、あるいはその本来性を取り戻すためのものが西欧の〈近代絵画〉であろう。が、写実絵画やアカデミズム絵画の歴史を持たぬ本邦に移入された近代絵画とはなんであろう」(本展プレスリリースより)。
やまぐち・あきら 1969年東京生まれ、群馬県桐生市に育つ。1996年東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。日本の伝統的絵画の様式を用い、油絵という技法を使って描かれる作風が特徴。絵画のみならず、立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。近年のおもな個展に、「望郷TOKIORE(I)MIX」2012、東京・銀座メゾンエルメス フォーラム、)「山口晃展 前に下がる 下を仰ぐ」(2015、茨城・水戸芸術館現代美術ギャラリー)、「Resonating Surfaces」(2018、ロンドン・Daiwa Foundation Japan House Gallery)など。2013年に著書『ヘンな日本美術史』で第12回小林秀雄賞を受賞。本展で原画を展示している漫画「趣都」を月刊「モーニング・ツー」で連載中