公開日:2023年11月15日

10月、日本人ドラマトゥルクを起用したベルリン芸術祭の挑戦【連載】ヨーロッパのいまを〈観光客〉として見て歩く(6)

いよいよ新シーズンに突入した秋のベルリン。各劇場が様々なプログラムを行うなか、ベルリン芸術祭(ベルリナー・フェストシュピーレ)はドラマトゥルクとして橋本裕介を起用した新企画を始動した。ながらく京都を拠点に活動した橋本は、いまや心理的にも距離的にも日本から遥かに遠くなりつつあるヨーロッパの地でどのようなキュレーションを試みたのか?

スティーヴン・コーヘン 足元に心をおいて……そして歩け! © Pierre Planchenault

長く続いたパンデミックを経て、ヨーロッパのアートシーンはどう変化しているだろうか? 分断、難民問題、戦争、経済格差、環境問題、公正性、急速に発達する情報技術の是非。複雑で多様な問題に同時多発的にさらされる2023年から2024年の欧州を演劇研究者・内野儀がレポートする。【Tokyo Art Beat/島貫泰介】

ベルリン芸術祭(ベルリナー・フェストシュピーレ)の舞台芸術シーズン始動

9月半ば以降から、ベルリンの演劇シーンはオペラ劇場をはじめとする公共劇場からフリーシーンのHAUにいたるまで、新しいシーズンに入る。オペラ劇場と公共劇場は新制作作品と再演(レパートリー)作品を組み合わせ、他方、フリーシーンのHAUでは時に特集を組みつつ、3つのスペースを使ったプログラムが展開することになる。この連載で何度か言及してきた公共劇場vs.フリーシーンの振幅で、新たな1年が始まるのである。

こうしたなか、私が注目したのは、ベルリン芸術祭(ベルリナー・フェストシュピーレ)の新しい企画「舞台芸術シーズン(Performing Arts Season)」である。5月のベルリン演劇祭、あるいは8月の「八月のダンス」フェスティバルで登場した劇場組織である。

注目した理由は2つある。ひとつは、この企画の責任者が、昨年9月からベルリン芸術祭のチーフ・ドラマトゥルクに就任した橋本裕介である点。もうひとつは、正確には公共劇場でもフリーシーンでもない劇場組織であるベルリン芸術祭が、この「vs.」の構図にどのように介入しようとしているかという理論的関心である。

ベルリン芸術祭の様子 撮影:筆者

プラットフォームとしてのベルリン芸術祭

ベルリン芸術祭は1951年に始まった舞台芸術祭の名称だが、時代が下るとともに、1年を通じ、音楽・美術・文学を含む多様な活動を展開するようになる。2002年以降は連邦政府下の一大組織となり、ベルリン祝祭劇場(Haus der Berliner Festspiele)とグロピウス・バウ美術館を傘下におき、この2つを使ったイベントが多くなった。その範疇は、様々なフェスティバルや展覧会、コンサート、ダンス、演劇、朗読、講演会など多岐にわたる。そのミッションは、プラットフォームとしての役割である。

ベルリン芸術祭は、各芸術分野において多様なプログラムを提供し、以下のようなプラットフォームを目指す。独自の作品ともっとも多様なアプローチと作業方法を可能にするアーティストのためのプラットフォーム。ベルリン市内や州内のあらゆる場所から、しばしば対照的な傾向や期待値を携えて訪れる観客のためのプラットフォーム。そして、私たち全員がなんらかのかたちで関心を寄せる、時代を超越した、あるいは時代に即した諸問題―世界中のわたしたちが、個人としてあるいは社会として現在直面しているこれまでにない課題としての―の探求を共有するためのプラットフォームを目指す(*1)。

やや抽象的だが、ベルリンという地域に限定されない国際的な視野からのジャンル横断的プログラミングがその特徴である。本連載でも取り上げた毎年5月に開催されるベルリン演劇祭では、期間中、選考委員に選ばれたドイツ語圏からの10作品が上演される。あるいは、8月末から9月にかけて開催されるベルリン音楽祭では、シーズン中には聴く機会が限られるベルリン以外の都市や海外の主要オーケストラのコンサートが連日開かれる。

舞台芸術についても、ベルリン以外で作られた作品を観る機会が、じつはベルリンの観客にはそれほどないのである。HAUはそうした演目を上演するが、あくまでもフリーシーン的なセレクションで、とくにドイツ語圏外ですでに定評を得た作家の作品が上演される機会が、ベルリンでは限られる。興味深いことに、そこにある種の奇妙な空隙が生じる。

グロピウス・バウ美術館で2021年に開催された草間彌生展の様子

ベルリン芸術祭の新しい体制

ベルリン芸術祭はその空隙を埋める試みをこれまでも行ってきたが、今回、昨年9月に芸術監督に就任したマティアス・ペース(Matthias Pees)は、チーフ・ドラマトゥルクに日本から橋本裕介を招聘。これまでとは異なる空隙の埋め方の模索が始まったのである。

橋本については、最近出版した『芸術を誰が支えるのか アメリカ文化政策の生態系』(2023年、京都芸術大学 舞台芸術研究センター編)』について、本人へのインタビューをまじえた記事を、本サイトで島貫泰介が書いている(*2)。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)をゼロから立ち上げ、プログラムディレクターを2010年から2019年まで務めた橋本は、その実績を買われて抜擢された。それは、ヨーロッパとアジアのフェスティバル文化に精通しているばかりか、2021年~22年には北米に滞在するなど、地政学的広がりを持って活動してきた彼の芸術的知見への信頼である。

ベルリン祝祭劇場を主会場とする企画は短期でなく長期にわたるものとなり、「舞台芸術シーズン(Performing Arts Season)」と称されることになった。フェスティバル的な短期のお祭り騒ぎでなく、舞台芸術シーズン真っ最中のベルリンにおいて、「ほかとは異なる」上演として、ベルリン芸術祭の存在感を高めようというのだ。

スティーヴン・コーヘンの〈喪〉のパフォーマンス

初年度の今回は、10月から来年3月までの期間に、2つの世界初演作と4つのドイツ初演作を含む7作品が上演される。

10月にはまず、南アフリカの振付家・パフォーマーのスティーヴン・コーヘン(Steven Cohen)による『足元に心をおいて……そして歩け!(Put your heart under your feet... and walk!)』が、ベルリン祝祭劇場内の1000人収容の大劇場の背後にある350名ほどのスペースで上演された(10月13~15日)。

スティーヴン・コーヘン 足元に心をおいて……そして歩け! © Pierre Planchenault
スティーヴン・コーヘン 足元に心をおいて……そして歩け! © Pierre Planchenault

すでに60歳を超えるコーヘンが、20年連れそったバレエダンサーだったパートナーの死を悼む〈喪の儀式〉である(初演は2017年)。舞台上には、様々なトゥシューズや儀礼的なオブジェが置かれ、登場するコーヘンの白く塗られた頭はラインストーンにつけまつげ、花柄のパターンや蝶の羽で覆われ、まるでファベルジェの卵のようである。

背後の巨大スクリーンには、食肉工場で牛が処分される模様と、立ち会うコーヘンの姿が映し出される。あたかもコーヘンの儀式の生け贄でもあるかのように、牛が工場の機械で命を奪われ、その血をコーヘンが浴びる姿である。

コーヘンはまた、異様にヒールの高い靴(子ども用の棺桶をかたどったヒール)を履いて長い杖を使って舞台上をゆっくり動いたり、パートナーが好きだった音楽を奏でる4台の蓄音機を体に結びつけ、たゆたったりもする。

このどこまでも重い、事実とフィクションと自らの扮装をふくめた〈人工性〉による個人的な〈喪〉のパフォーマンスは、『Tagesspiegel』紙のサンドラ・ルジーナ(Sandra Luzina)も言うように、観客は〈同化〉しにくい(*3)。事実、現在までの私のベルリン滞在で、もっとも多くの観客が途中退出した作品だった。

観客をそうさせたのは、たんに映像の残酷さだったかもしれない。しかしそれ以上に、この過酷な儀式を2017年以降続け、自らを精神的・肉体的苦行にさらしているコーヘンを、字義通り、見るに耐えない(=「そこまでしなくてもよいのでは?」)とする観客からの静かな抗議だったのではないか。

パパイオアヌーのベルリン初登場

コーヘンに続き、ギリシャのディミトリス・パパイオアヌーによる『INK』が上演された。すでに何度か来日公演があるが、ベルリンは初登場である(10月19~21日)。

パパイオアヌー自身が演じる「服を着た男」とŠuka Horn演じる「裸の男」のふたりだけのパフォーマンスである。1000人収容のベルリン祝祭劇場の巨大な空間に、散水装置を通して大量の水が上方に下方に放出される。水が空間に作り出す模様は変化し、ときに止まることもある。いっぽう、人が扱えるぎりぎりの大きさであるプレクシグラスの防水板があり、それがふたりの「男」の関係を作ったり作らなかったりする。

ディミトリス・パパイオアヌー INK © Julian Mommert

 HPには以下のように書かれている。

『INK』は欲望の物語である。ふたりの人間の優しくもサディスティックな関係。ふたりは互いに争い、対立するゲームは、ふたりから新たな別の暴力が生まれるまで、絶えず逆転する。同時にこの作品は、両生類の姿から人間の段階へ、そして最後には神性へと至る生き物の進化という、私たちの種の歴史を物語っている(*4)。

本作は、日本では既におなじみのパパイオアヌーらしい「濃厚な身体とイメージの劇」なのだが、今回の観劇でとくに気づいたのは、その大げさかつ強靭な美意識の世界に、自虐的とも思える笑いの要素が自覚的に介入させられていたことだ。支配と被支配が基本とならざるを得ない──その逆転を含め──が、そこに「なんちゃって感」としか呼びようのない感覚が忍び込んでいる。つまり、すでに定評のある大家による自己批評的視座まで含みこんだ最新作、ということである。

テーマ的な響き合いを持つが外形的には対照的なこの2作品で、橋本の「舞台芸術シーズン」は開幕した。この後、12月には今年のKYOTO EXPERIMENTでも上演されたディナ・ミッチェルの『MIKE』や『空中サーカス』(ラムバザムバ劇場とトマス・サラセーノ)、あるいはリミニ・プロトコルのシュテファン・ケーギとヴィディ・ローザンヌ劇場/台湾国立劇場の共同制作『これはメッセージ/大使館ではない(メイドイン台湾)』(Dies ist keine Botschaft[Made in Taiwan]といった世界初演作の上演も控えている。機会があれば、また取り上げることにしたい。

ディナ・ミッチェル © Françoise Robert
シュテファン・ケーギ(リミニ・プロトコル) これはメッセージ/大使館ではない(メイドイン台湾) © Stefan Kaegi

*1──https://www.berlinerfestspiele.de/en/ueber-uns/ueber-die-berliner-festspiele 翻訳は引用者。
*2──「芸術はお金なしには始まらない!? 年間約2.6兆円の寄付が動くアメリカの文化政策から「アートの生態系」を支えるものを探る」(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/yusuke-hashimoto-supporting-the-arts-insight-202306)。
*3──https://www.tagesspiegel.de/kultur/steven-cohen-bei-den-berliner-festspielen-die-asche-des-geliebten-10624597.html
*4─https://www.berlinerfestspiele.de/en/performing-arts-season/programm/2023/spielplan/ink、訳は引用者による)。

内野儀

演劇研究。1957年京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年4月より学習院女子大学教授。ベルリン自由大学国際演劇研究センター “Interweaving Performance Cultures”招聘研究員(2015-6年)、同大学演劇学研究所客員研究員(2023-4年)。専門は表象文化論(日米現代演劇)。単著に『メロドラマの逆襲―〈私演劇〉の80年代』(勁草書房、1996年)、『メロドラマからパフォーマンスへ―20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会、2001年)、『Crucible Bodies: Postwar Japanese Performance from Brecht to the New Millennium』 (Seagull Press、2009年)。『「J演劇」の場所―トランスナショナルな移動性(モビリティ)へ』(東京大学出版会、2016年)。共著に『Brecht Sourcebook』(Routledge、2000年)、『Tokyogaqui um Japao imaginado』(SESC SP、2008年)、『亞州表演藝術――從傳統到當代』(進念‧二十面體、2013年)、『Okada Toshiki & Japanese Theatre』(Gomer Press、2021年)、『Staging 21st Century Tragedies』(Routledge、2022年)等。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「Dance Research Journal of Korea」(韓国)国際編集委員、「TDR」誌(Cambridge UP)編集協力委員。