長く続いたパンデミックを経て、ヨーロッパのアートシーンはどう変化しているだろうか? 分断、難民問題、戦争、経済格差、環境問題、公正性、急速に発達する情報技術の是非。複雑で多様な問題に同時多発的にさらされる2023年から2024年の欧州を演劇研究者・内野儀がレポートする。(全12回予定)
5月のベルリンの舞台芸術界は、ベルリン演劇祭(Theater Treffen)で賑わう。ドイツ語圏演劇を代表する10作品がベルリンに集結する大がかりな催しで、今年は5月12日から29日の日程で開催された。連載の第1回で話題にした<公共劇場の制度vs.フリーシーン>の図式で言えば、公共劇場の制度側のシーズン総決算的一大イヴェントである。
ベルリン演劇祭を主催するベルリーナ・フェストシュピーレ(ベルリン祝祭)には、新しい芸術監督としてマティアス・ペース(Matthias Pees)が2022年9月に就任し、演劇祭のキュレーションは4名のチーム体制になった。
2022/23シーズンに上演された400以上の作品から7名の審査員が選んだ10作品の各2回の公演が、演劇祭の中心である。ただし新体制のもと、今回は「10の出会い」(10 Treffen)というプラットフォームも新たに設定された。
「10の出会い」では「多様性」「連帯」「責任」「トランスフェミニスト」「Herstory」「グリーン」「ネットワーク」「交流」「応答」の9つのテーマが掲げられ、上演や参加型パフォーマンス、展示、各種討議や若手ライターのブログによる演劇祭への応答まで、多様な展開をみせた。
なかでも重点が置かれたのは、ジェンダー公正とロシアによるウクライナ侵攻の問題である。そして各プログラム内でも、この二項が理論的、現実的に交錯している。たとえば、研究者中心の「ウクライナ文化におけるポスト植民地主義」「文化収奪の遺産」といった討議、女性兵士がその4分の1をしめるウクライナ軍の元兵士らが参加した「戦争における女性」というセッションなどである。あるいは、ウクライナやベラルーシからの避難民と互いの経験をシェアして小さな連帯感を醸成する「編み物(Knitting)ワークショップ」を組織してきたポーランドのアナログ・グループ・コレクティヴ(Kolektyw Grupa Analog)のワークショップ、ファム・アーティストのコレクティヴと自己定義するマザーズ・アートラバーズ(Mothers Artlovers)による『ディナー・パーティ』なる、ゲストに夕食を振る舞いつつ、新しい家族のイメージを共有する参加型パフォーマンスもあった。
ウクライナからの「10の出会い」への参加ということでは、フーリガン・アート・コミュニティがキーウのシェルター避難中に発想したという『塹壕キャバレー』や、リヴィウのTeatr Vartaによる『ЛЮТИЙ(Liutyy) | FebrUaRY』の上演があった。後者の題名はウクライナ語でロシアが侵攻した「2月」と「激怒という感情」を表す語である。戦争に参加している兵士やボランティアの人たちのインタビューや出演しているアーティスト自身のコメンタリーをちりばめた音楽劇である。
審査員が選んだ10作品については、オープニングを飾った2作品が現代ドイツ語圏演劇の振れ幅を示していた。ひとつは、ロンドン・ウエストエンドやニューヨーク・ブロードウェイで上演され、2019/20年度の演劇賞を総なめにしたアメリカ人劇作家マシュー・ロペスの戯曲をフィリップ・シュテルツル(Philipp Stölzl)が演出した『継承(The Inheritance)』(ミュンヘン・バイエルン州立レジデンツ劇場)。もう一つは、昨年のKYOTO EXPERIMENTに来日して話題となった、ウィーンの振付家フロレンティーナ・ホルツィンガーによる『オフィーリアに才能がある(Ophelia’s Got Talent)』(ベルリン・フォルクスビューネ)である。
前者は7時間におよぶ大作で、1980年代のエイズ危機と戦後アメリカの政治的闇を描いたトニー・クシュナーの『エンジェルズ・イン・アメリカ』の後継作とも称され、トランプ政権誕生前後のニューヨークにおけるゲイ・コミュニティの様々な葛藤を歴史的な奥行きとともに描きだす。
他方の『オフィーリア〜』は、シェイクスピアの『ハムレット』に登場し、ミレーの絵画で西洋芸術史に「受動的存在」として視覚的にも定着した感があるオフィーリアに才能があるというシンプルなタイトル。だが、ヘリコプターやら巨大水槽が出てくる一大スペクタクルである。タレントショーの楽しげな装いで開始されるものの、ボディー・サスペンションや無呼吸潜水といった離れ業や「水兵ダンス」なるタップダンスのシーン。そして、舞台に水が湧き出てプールになったかと思うと、巨大なヘリコプターが空から舞い降りもする。
前者は演劇祭ホームページでもNetflix製作ドラマとの比較が出てくるように、ウェルメイドな大河ドラマ的作品で、そもそもE・Mフォースターの『ハワーズエンド』(1910)を下敷きにしているという意味での文芸大作である。
他方の『オフィーリア〜』は、全裸であることが多いパフォーマーたちの過激なショーとダンス、間に挟まれるプライベートな語りの交錯から出現する自己肯定性とスペクタクル芸能史への批評性といったジャンル乗っ取り感と、それを凌駕する高揚感がなによりの特徴である。
〈女性〉をキーワードとする作品にはほかに、原作者イプセンをテクスト提供者のひとりとして3人の女性作家と共にクレジットしつつ、現代的視点からもう一度『人形の家』を語ることを試みる、あるいは語れるか自体を問うフェリシタス・ブルッカー(Felicitas Brucker)演出の『ノラ』(ミュンヘン・カンマーシュピーレ)。近年再評価が始まった女性作家のマリア・ラザール(Maria Lazar)が1937年に書いた小説を原作とする、ルシア・ビーラー(Lucia Bihler)演出の『マリア・ブルートの原住民(Die Eingeborenen von Maria Blut)』(ビーラー+アレキサンダー・カルリン[Alexander Kerlin])上演台本、ウィーン・ブルク劇場)では、1930年代のオーストリアの閉鎖的共同体がファシズムに傾倒していくさまが寓話的に描かれる。
19世紀の哲学者マックス・シュティルナーの代表的著作『唯一者とその所有(Der Einzige und sein Eigentum)』(1844)を視覚性豊かに舞台化した、セバスチャン・ハルトマン演出の同名作品(ベルリン・ドイツ座)や、市民による素人演劇の枠組みから立ち上げつつ、「庶民の芸能力」的な楽しい上演にしたてた、アントゥ・ロメロ・ヌネス(Antú Romero Nunes)演出によるシェイクスピア『夏の夜の夢』(スイス・バーゼル劇場)、『観客罵倒』(1966)で知られる大御所ペーター・ハントケの最新作『対談(Zwiegespräch)』(リーケ・シュスコフ[Rieke Süßkow])、ウィーン・ブルク劇場)などもあった。
ただ、わたし個人にとって、もっともひりひりするような希有な体験となったのはこれら選ばれた作品ではなく、「10の出会い」に参加した、ベラルーシのイーゴリ・シュガリエフ(Igor Shugaleev)、セルゲイ・シャボヒン(Sergey Shabohin)が構成・演出した『375 0908 2334. お呼び出ししている身体は今、電話に出られません(The body you are calling is currently not available)』だった。
375はベラルーシの国識別番号、0908は2020年8月9日のルカシェンコ大統領が再選された選挙の日で、その前後に大規模は反政府デモが起きた重要な日付。また、2334はベラルーシの行政法にある「集団行事の組織・開催手続き違反」の条文番号で、これによって2020年8月以降、4万人以上のベラルーシ人が有罪判決を受けている。
上演空間に入るとスツールが一定の距離を配置され、その上には反政府デモで拘束されいまだ収監中と思われる人物の顔写真が置かれている。出演するのは、シュガリエフひとりで、開演前から逮捕されるに当たって治安警察に強要される跪いて頭を道路につけ、後手を組んだ姿勢でいる。スクリーンは「60:00」と表示。このパフォーマンスはきっちり60分で終了すると宣言され、時計が動き始める。スクリーンの半分に反政府デモと警察による弾圧と収監の映像、さらにまだ拘束されたままの仲間がいるといった情報がナレーションとともに、15分程度流れる。その後同じ屈辱的な姿勢のままのシュガリエフは、「参加してください」と観客に声をかける。
即座にひとりのアジア人が加わった。どこから来ましたか、と聞かれて「香港」と答える。その後、少しずつ参加者が増えていき、最後は6名ほどが、身体に負荷がかかる姿勢を続けた。わたしは参加する「資格」があるかどうかなどという自己問答を続けるうちに、時間表示は「00:00」となって終了。しかしそのときには、屈辱的な姿勢が参加者間の連帯感に反転し、わたしはといえば、ひりひり感をともないつつも、その一角に加われたような気がしたのだった。
内野儀
内野儀