公開日:2023年6月25日

沖縄の建築10選:激動の歴史とインターナショナルな文化、風土を建物を通じて知る

首里城から名護市庁舎、貴重な伝統的木造民家まで、沖縄を知るうえで重要な10の琉球・沖縄建築を建築家が解説する。

庁舎建築の傑作との呼び声も高い名護市庁舎 撮影:編集部

年間約1000万もの人が訪れる国内屈指の観光地の沖縄。透き通った青い海と雄大な自然の景観、琉球王国時代の旧跡や第二次世界大戦の戦跡など訪れたい場所は数多いが、優れた建築にも注目したい。独自の長い歴史を持ち、亜熱帯に属する沖縄は、日本の文化と風土の多様性を改めて教えてくれる名建築や歴史的遺産の宝庫だからだ。

本稿では那覇在住の建築家・福村俊治に、ぜひ訪れたい10の琉球・沖縄建築を挙げて解説してもらった。福村は1953年滋賀県生まれ。沖縄の自然と歴史に魅せられ約30年前に東京から移り住み、沖縄戦の犠牲者を慰霊し資料を展示する沖縄県平和祈念資料館(糸満市)の設計で知られる。公共建築や土地に根ざす住宅を手がけ、旧日本軍が首里城の地下に造った司令部濠など歴史的建造物の保存活動にも携わっている。【Tokyo Art Beat】
(画像は特記あるもの以外は筆者提供)

はじめに

沖縄は、日本の最南西端の島嶼地域に位置し、東西1000km南北400kmの広い海域に浮かぶ亜熱帯の島国である。

ここにはかつてその地理的優位性を生かして中国や朝鮮や東南アジア、そして日本とも交易し栄華を誇る独立国・琉球王国があった。諸外国と交流し島国の気候風土の中で育まれたのが、琉球伝統文化であり琉球建築であった。だから、長く鎖国し国内で洗練されてきた日本本土の伝統文化とは異なり、沖縄の事物にはどこか異国情緒を感じる。滋賀県出身の私も初めて沖縄を訪れたときは同じ日本の中の一県であるのに、気候、植物、料理、音楽、そして街や建物などあらゆるものが本土と違うことに驚き、そして「琉球文化・建築」の存在を強く感じた。

しかし、その後、世界各国の街や建築を見て回って、日本本土こそが特殊であって沖縄はインターナショナルであることに気づいた。なぜなら、ガジュマルの木やゴーヤなどは東南アジアやインドのどこにでもある。沖縄は日本にとって世界への窓口であり、いま問われている多様性(diversity)そのものなのである。ただ、琉球・沖縄の長い歴史を振り返ると栄華を誇った琉球王国の伝統文化だけでなく、中国に形式的に臣従する冊封体制の影響や、薩摩の琉球侵攻(1609)、明治政府による琉球処分(1879)、沖縄戦(1945)、日本復帰(1972)などの大きな事件があり、それらの外圧に翻弄され続けた地域であったことも忘れてはならない。

沖縄本島を中心とした地図 作成:team DREAM

街や建築は、たんに建設技術や流行のデザインから生まれるものではない。沖縄を見つめると、街や建築が地域の気候風土や時代の政治経済、伝統文化の総合的な産物であることがよくわかる。沖縄の建物を介してぜひ琉球・沖縄の歴史を知っていただきたい。

青く透き通った沖縄の海
市場に並ぶ種類豊富な魚介類は美しい海の恵み

1. 首里城:琉球王国の栄華を伝える居城

1429年に沖縄本島が統一され琉球王国ができた。それ以前は「グスク時代」と言われ、各地の豪族が石積みの城(グスク)を築き、勢力争いが続いた。勢力が拮抗した三山時代を経て誕生した琉球王国は、450年間続いた。

統一前後の約150年間は「大交易時代」と呼ばれ、中国皇帝の冊封体制の下で栄え、琉球伝統文化の基礎ができた。琉球王家の居城である首里城は、薩摩侵攻・琉球処分など政争の歴史の場になり、第二次世界大戦末期の沖縄戦により本殿や城壁などは完全に破壊された。

戦後は一時期琉球大学の敷地となるが、1992年に首里城本殿や城壁が琉球文化の「正の遺産」として復元された。また2000年には、今帰仁・勝連・中城城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産となった(首里城は復元された本殿でなく、地下の基礎の石積みが対象)。しかし2019年10月に焼失し、現在2026年を目指して再建中である。

また首里城の地下には、沖縄戦当時は旧日本軍の第32軍司令部壕があり、「負の遺産」としての保存・公開に向けての運動がなされている。

首里城の正殿正面(2016年1月) 出典:Wikimedia Commons(Photo by CEphoto, Uwe Aranas or alternatively © CEphoto, Uwe Aranas, CC)
首里城に展示されていた戦前の首里城全域の模型写真

首里城
概要:最初の築城は推定14世紀半ば~後半。戦乱や失火のため複数回焼失し、そのつど再建された。1945年に米軍の攻撃により全焼。1972年の日本復帰後に本格的な再建が始まり、1992年に国営公園として開園した。2000年、首里城跡を含む「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録。2019年10月、火災のため正殿、北殿、南殿が全焼し、22年11月に正殿再建の起工式が行なわれた。
住所:那覇市首里金城町1-2(首里城公園)
開園時間:無料、有料エリアにより異なる。詳細は首里城公園ウェブサイト

【関連の世界遺産】

琉球王国に抵抗した豪族が築いた勝連城跡(うるま市)。首里城跡とともに世界遺産に指定されている。ウェブサイトhttps://www.katsuren-jo.jp/
首里城近くにある琉球王家の墓、玉陵(たまうどぅん)。那覇市のウェブサイトhttps://www.city.naha.okinawa.jp/kankou/bunkazai/tamaudun.html
琉球王国の中国と琉球の折衷様式の迎賓館がある識名園

2. 中村家住宅:貴重な伝統的木造民家

民家は地域の気候風土の中で長年暮らした先人の知恵の結晶で、地域の街・建築の基本を知ることができる。しかし、沖縄戦のために古い街も建物もほとんど残っていない沖縄では、中村家住宅は極めて貴重な民家である。

18世紀半ばに建った豪農の住宅で、国の重要文化財に指定されている。屋敷は南向きの傾斜地にあって、フクギの防風林・石垣・ヒンプンで囲われた屋敷構えがあり、中庭に開いた深い雨端(あまはじ、縁側)と諸室が並ぶ。

住宅は伝統的な間取りである一番座・二番座・裏座などがある母屋、アシャギ(離れ)、高倉、畜舎、フールーからなる。そしてチャーギ(イヌマキ)や琉球石灰岩、赤瓦などの地元産素材で作られている。

沖縄特有の強い日差しや雨から室内を守りながら通風の良い造りの住宅となっている。雨端こそが沖縄の気候風土を生かした最も大切な建築空間である。

中村家住宅全景
中村家住宅内部

中村家住宅(国指定重要文化財)
建設年:18世紀中頃
概要:木造・寄棟造・瓦葺、敷地面積1560㎡、延床面積174㎡
住所:中頭郡北中城村字大城106
開館日:月・火・金・土・日
開館時間:9:00 ~ 17:00 (最終入場16:40)
ウェブサイトはこちら

伊是名村に残る伝統的木造住宅の銘苅(めかる)家も国の重要文化財に指定されている。https://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48664&menuid=10398&funcid=3

3. 米軍基地施設:いまも存在する異国

1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸。米軍は3ヶ月間の地上戦後に沖縄を占領支配し、数多くの米軍基地を作った。現在、国土面積の0.6%の沖縄県内に全国の70%に当たる米軍基地が集中している。そしていまなお米軍基地は沖縄本島面積の約15%を占める。しかも本島中南部の基地は、地盤がよい高台で平坦な良好な土地にあって沖縄の都市機能の大きな支障になっている。また、軍関係者の事件・事故も多い。

嘉手納飛行場は約2000ヘクタールで成田空港のほぼ倍の面積があり3800mの滑走路2本、約100機の軍用機が常駐する極東最大の基地である。そして嘉手納飛行場に隣接して2600ヘクタールの嘉手納弾薬庫のほか、キャンプ瑞慶覧・普天間飛行場・牧港補給基地なども存在し、遅々として基地返還は進んでいない。毎日、住民の頭上を戦闘機やオスプレイが爆音を轟かせて飛び交っている。しかし、フェンスに囲まれた広大な米軍基地内は維持管理もよく、シンプルな建物が並び、電柱がない緑の多い美しい景観?が保たれている。

出典:沖縄県の報告書『沖縄の米軍基地』より
普天間飛行場 出典:沖縄県の報告書『沖縄の米軍基地』より
西普天間 出典:『ふるさと飛行 沖縄県航空写真集』(琉球新報社)より
基地内の住宅地

米軍基地施設
概要:沖縄には31の米軍専用施設(基地)があり、総面積は1万8483ヘクタール。米軍専用施設は、日米地位協定(1960年締結)のもと在日米軍のみにより管理・運営され、基本的に国内法は適用されない。県内では米軍基地に起因する事件・事故が頻発し、これまでに起きた米軍関係の航空機関連事故(墜落、不時着など)は800件超。また、米軍人・軍属による殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪が、本土復帰の1972年から2019年末までの間に580件発生している。
見学:米軍基地には、週末のフリーマーケットや各キャンプが開催するイベントの折に入ることができる。開催情報は、在日米海兵隊のウェブサイトで公開されている。

海軍病院(1956竣工)。設計S.O.M。完成時は東洋一の米軍の病院で軍関係者のみが利用でき、ベトナム戦争時には多くの負傷兵が運び込まれた。現在は病院は移転して、この建物は使用されていない

4. 聖クララ カトリック与那原教会:信者が自力で作った信仰拠点

沖縄本島南部国道329号線の焦点、与那原交差点の丘の上にこの教会はある。地域のどこからも見え、与那原のシンボルとなっている。

戦後すぐ焦土と化したこの地を訪れたフェリックス・レイ神父は、数人の信者とともに復興と布教が始め、なにもない中で教会建設を始めた。当時、沖縄の米軍基地建設の設計に携わっていたアメリカの大手設計事務所S.O.Mの創立者の一人オーイングスクがこの教会の敷地や設計などに関わっていたことが著書『環境としての空間』に書かれている。設計は基地建物の設計に携わっていた片岡献やS.O.Mのメンバーなどがボランティアで手伝い、資金はカトリック慈善団体や米軍やアメリカ全土から集め、教会関係者が「自力」で5年かけて建設した。

建物はバタフライ屋根とステンドガラスのある礼拝堂と中庭を囲む修道院の構成になっている。フランスのル・コルビジェやアメリカの現代建築の影響を受けてはいるが、そのスケール感は心地よい小さいものだ。また、信者さんたちの丁寧な手作りとメンテナンスの良さのおかげでいまでも老朽化もせず、素晴らしい。2003年には「日本における近代建築 DOCOMOMO百選」に選ばれた。

聖クララ カトリック与那原教会の全景
聖クララ カトリック与那原教会の礼拝堂。一面のステンドグラスから光が入り込む

聖クララ与那原カトリック教会
建設年:1858年
住所:与那原町与那原3090-5
メモ:一般公開していないが、見学会が行われることがある
カトリック那覇教区のウェブサイトはこちら

5. 那覇市民会館:沖縄現代建築の原点

那覇市民会館は、それまで公会堂や市民ホールのなかった沖縄において地元の建築家を対象とする指名コンペティション(審査委員は建築家大江宏と山本学治)を経て建設された。選ばれた建築家の金城信吉の案は、骨太のRC打放し躯体に赤瓦の深い庇や琉球石灰岩の石塀を組み合わせたもの。ここで様々な講演会や音楽会、成人式が行なわれ、米軍占領施政下では抗議集会が開催された。多くの市民にとって思い出深い公共建築だろう。

1972年の日本復帰記念式典では沖縄側の会場になった。当時の屋良朝苗知事が「抑圧された米軍施政下からの解放を喜ぶ」と表明しつつ、「基地のある間は沖縄の復帰は完了していない」と訴えた歴史的な場所でもある。

2006年「日本における近代建築DOCOMOMO 100選」に選ばれたが、老朽化のため現在休館し、近々取り壊されることになっている。沖縄では塩害による建物の老朽化のために、あらゆる建物が30年ほどで建て替えるのが普通で、復帰前の抑圧された時代の歴史を伝える建物はほとんど残っていない。

那覇市民会館の外観

那覇市民会館
設計:金城信吉
竣工年:1970年
住所:那覇市寄宮1-2-2
概要:鉄筋コンクリート造、地下1階地上3階、敷地面積8552㎡、延床面積7334㎡
メモ:2016年10月より休館

【既に取り壊された米国民政府下の建築】

復帰前に日本全国から資金を集め、沖縄の子供達のために建てられた沖縄少年会館。1966年竣工、2012年解体。設計は宮里栄一。写真は沖縄県公文書館蔵
米国民政府下での琉球政府の立法府として建設された琉球政府立法院。1952年竣工、99年解体。設計は大城龍太郎。写真は沖縄県公文書館蔵
米国民政府下の中央銀行だった琉球銀行本店ビル。1966年竣工、2022年解体。設計はライアン設計事務所

6. ホテルムーンビーチ(現ザ・ムーンビーチ ミュージアムリゾート):気候風土を体感する空間

沖縄は年中温暖で心地よい海風が吹き、碧(あお)い海と白い砂浜、青い空と白い雲、原色の草花と濃い緑など、本土とは異なる素晴らしい自然がある。

さらに琉球独特の伝統文化や来訪者を快く受け入れるホスピタリティ精神もある。そうした特色を、もっとも鮮明に建築空間にしたのがこのホテル建築である。

1972年の復帰後、沖縄国際海洋博覧会(1975~76)の開催時に将来の観光客増大を見込んで建設された。景観に考慮した4階建ての低層建築で、建物は三日月型の海浜を囲み、自然の地形に合わせて配置されている。1階部分の大きなピロティは、まさに木陰のある沖縄らしい空間。4層吹き抜けのトップライトから日が差し、各階の外廊下から植物が垂れ下がる光景は圧巻だ。

現在のホテルムーンビーチ全景 ムーンホテルズ&リゾーツ提供
ホテルムーンビーチの吹き抜け空間

ホテルムーンビーチ(現ザ・ムーンビーチ ミュージアムリゾート)
設計:国場幸房
開設:1975年
概要:鉄筋コンクリート造、地下1階地上4階塔屋2階、敷地面積73920㎡、延床面積40435㎡
住所:国頭郡恩納村前兼久1203
ホテルのウェブサイトはこちら

国頭村にある米軍保養施設の奥間レスト・センター(面積0.55k㎡)。ふたつの美しいビーチや軽飛行機用の滑走路がある。隣地は日本に返還され、民間のホテルとなっている 出典:沖縄県の報告書『沖縄の米軍基地』より

7. 竹富島の集落:時間が止まったような景観

沖縄戦や戦後の開発によって琉球時代の集落はほとんど残っていない。

かつて沖縄を訪れた岡本太郎は著書『沖縄文化論―忘れられた日本』(1972)のなかで「沖縄には旧跡も芸術もなく、ただ自然が美しかった。そして、その自然の中で沖縄の人が生きる姿の中に、天地の初源的なものを見つけ、その生命の持続にひどく感動した」と書いている。小さな離島の竹富島は肥沃な農地がなく、高度経済成長からも取り残されたような場所だったがゆえに自然も景観も伝統文化も残った。

美しいバリヤリーフとイノー(サンゴ礁に囲まれた浅い海)、砂浜、農地、そして集落がある。集落内にはサンゴ敷の道、石垣、フクギの防風林がある。屋敷は主屋(フーヤ)と炊事棟(トーラ)の2棟造りで、出入り口にはヒンプンがあり、シーサーのある赤瓦屋根とイヌマキ(チャーギ)の柱に支えられた雨端がある。時間が止まったような、かつての貴重な琉球・沖縄空間がその島には存在する。

1986年に竹富島の住民は自分たちの島を守るために「竹富憲章」を作った。87年には国の重要伝統的建造物群保存地域に選ばれ、景観の保存・再生が行われている。

伝統的な赤瓦屋根が目を引く竹富島の集落

竹富島の集落
概要:竹富島は、八重山列島の中心地・石垣島の南約6kmに位置し、面積5.42k㎡。人口は約350人。木造赤瓦の民家と道に白砂が撒かれた集落は1987年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
交通:石垣港から高速船で10〜15分。島内バス運行あり
竹富島観光協会のウェブサイトはこちら

那覇・泊港から船で約2時間の渡名喜島にも伝統的な集落が残っている

8. 名護市庁舎:地方における建築の在り方を問う 

「沖縄の建築はどうあるべきか」、「市民のための庁舎はどうあるべきか」を問うた全国的なコンペティションから生まれた建築だ。300を超える応募作品の中から選ばれ、完成後は建築学会賞を受賞した。それから40数年、いまや市民と建築関係者だけでなく、観光客も訪れる名所となった。

市街地側に芝生の市民広場があり、それを囲むように緑とパーゴラの「アサギテラス」と呼ばれる半戸外テラスがある。庁舎への出入り口、作業や休憩場所、広場の観覧席など市民に開かれた多目的な空間だ。

内部はオープンな執務室や議場があり、屋上緑化やアサギテラスによる断熱や遮熱、また当初は「風の道」による「クーラーなし」が試みられた。赤瓦やコンクリートブロック、焼物などの地元産資材が使われ、市民の手作りの細工やシーサーなどが親しみを感じさせる。現在課題になっている屋上緑化や省エネ、開かれた公共施設や街の景観問題に取り組み、中央志向でない地方における建築の在り方を問うた傑作である。

名護市庁舎全景
地元産資材が使われた名護市庁舎の外観 撮影:編集部
テラスに並んでいる植木鉢 撮影:編集部

名護市庁舎
設計:象設計集団+アトリエ・モビル
竣工年:1981年
住所:名護市港1-1-1
概要:鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階、敷地面積12201㎡ 延床面積7351㎡
名護市役所のウェブサイトはこちら

象設計集団とアトリエ・モビルの設計による今帰仁(なきじん)公民館(1975竣工)

9. 那覇市立城西小学校:地域の風景を再生する

首里城の一角、守礼門の横にこの小学校は建つ。設計が始まった1980年代初頭は、まだ首里城敷地に琉球大学の四角い校舎が建ち並び、周囲はフラットルーフのコンクリート住宅ばかりであった。首里城の再建を見込み、沖縄戦で失われたかつての首里の集落を思わせる赤瓦屋根の外観の校舎が構想された。ヒントになったのは、昭和初期に写真家の坂本万七が撮影した1枚の写真だった。

「村としての風景をもつ小学校」は、首里城や守礼門を引き立たせ、地域の景観を形成すると同時に教育面からも大切な役割を果たすことになった。当時の学校校舎は、文部省の標準設計に基づく片廊下タイプの画一的な設計が多かった。だが、この小学校は平家と2階建てで、各教室は家のようにそれぞれの屋根と形が異なる天井を持ち、教室が取り囲む中庭やホールには植栽や吹き抜けが設けられている。子供たちは、多様な空間と豊かな風景を持つ校舎の中でいきいきと育っている。

城西小学校全景
城西小学校のホール

那覇市立城西小学校
設計:原広司+アトリエ・ファイ建築研究所
竣工年:1987年
住所:那覇市首里真和志町1-5
概要:鉄筋コンクリート造、地上2階

10. 平和の礎と沖縄県平和祈念資料館:沖縄戦の実相を継承する

住民を巻き込み悲惨を極めた78年前の沖縄戦により、沖縄はわずか3ケ月のうちに20万余の人々の命と先人が長年かけて築き上げた形あるものをすべて失った。

1995年、糸満市に敵味方や軍人民間人の区別なく沖縄戦で亡くなった人々の名前を刻銘した「平和の礎(いしじ)」が建設された。中央に「平和の火」を設け、その周囲に名前が刻銘された碑を配置し、沖縄から世界に向けて「平和の波 永遠なれ」と願いを形にしてある。

筆者が設計した沖縄県平和祈念資料館は、沖縄戦の実相を後世に継承する場だ。平和の礎を取り囲むように、平和の火を中心として同心円状に建物を配置した。小さな赤瓦屋根を数多く載せて失われた沖縄の集落を想起させる外観を構成し、建物前の長い柱廊や玄関前のピロティには木陰を設けた。中庭の石敷きやヒンプンや植栽に沖縄建築の要素を取り入れ、平和の礎や平和祈念公園と一体となって平和を願う空間を目指した。いっぽう内部はモノトーンの吹き抜けや列柱を持つ、湾曲したダイナミックな大空間にした。

平和の礎と資料館の空撮全景 
平和の礎(手前)と沖縄県平和祈念資料館
沖縄県平和祈念資料館の内観

沖縄県平和祈念資料館
設計:福村俊治+team DREAM
竣工年:1999年
住所:糸満市摩文仁614-1
概要:鉄筋コンクリート造、地上2階地下1階+展望階、敷地面積12808㎡、延床面積10180㎡
休館日:年末年始(12月29日~1月3日)、臨時休館日あり
開館時間:9:00~17:00 (最終入室16:30)
ウェブサイトはこちら

沖縄戦に看護要員として動員され、多くの女学生が亡くなったひめゆり学徒隊を慰霊するひめゆりの塔(糸満市)。隣接するひめゆり平和祈念資料館(https://www.himeyuri.or.jp/)では、学徒の遺品や写真、生存者の証言などが展示されている

おわりに

私は首里の城西小学校の設計(原広司+アトリエファイ建築研究所)に携わった縁で、沖縄に事務所をつくり30数年間、建築活動を続けている。

一般的に設計者の仕事は、与えられた敷地の中で機能性や経済性、美しさを勘案して建築にまとめてゆくのだが、時間や雑務に追われるばかりで地域の気候風土や歴史文化を真剣に考える機会は少ない。ましてや、街づくりや都市の将来像を模索することはほぼない。

沖縄に事務所を開設した1990年代は、県内の重要な施設建築のコンペや米軍基地跡地利用の国際コンペが行なわれ、不慣れな私たちも参加した。滋賀県出身の私は、それまでの自分の常識をいったん白紙に戻し、沖縄について学びながら新しい建築や都市にチャレンジした。そして、ふたつのコンペに勝利し、広大な基地跡地計画にも興味を持つことになった。

2025年以降に返還されるキャンプギンザ(浦添市)の跡地利用計画案。美しい海岸の環境を生かした住宅群やリゾートホテルを提案している 作成:福村俊治+team DREAM

ふだんの沖縄は自然が美しいが、台風の暴風雨や島国特有の塩害、強い陽差しなど、建物には厳しい環境だ。あの赤瓦でさえ錆びることがある。手入れしないと鉄筋コンクリート造でも20~30年で劣化し、そのため建物のスクラップ&ビルドが続く。そのうえ、米軍基地があるので街づくりにも支障が出ている。

日本復帰から半世紀が経つ。しかし、いまなお都市環境や景観、交通問題が山積みで、国の補助金行政に翻弄される状況は改善されていない。美しい海は埋め立てられ、山の緑地は削られて、都市圏のスプロール(無秩序な拡大)が続いている。

かつてヨーロッパに行った時、自治体の副首長は建築・都市計画家が多く、「政治の最終目的は、住民が安心して暮らせる美しい建物や街をつくること」だと実感した。また、私の恩師の建築家・原広司は「建築に何が可能か」「才能とは努力(を継続する力)だ」と語っていた。私も長年沖縄を見つめ、この地に適した建築の実現や米軍基地の跡地計画にチャレンジを続けている。

最近、この地で起きている様々な問題の根本は、すべてを破壊し尽くした大戦末期の沖縄戦に起因するのではないかと考えるようになった。現在は、首里城の地下にあった旧日本軍の司令部壕の模型を作り、その実相を調べている。これからは、沖縄ならではの新しい建築と街づくりの思想を作りあげていきたいと思う。

沖縄は興味が尽きない場所である。

福村俊治+team DREAM設計による沖縄県総合福祉センター(那覇市、2003竣工)。沖縄の「ゆいまーる」(助け合い)精神が生きるように地域に開かれた半戸外空間を多く取り入れた
首里城周辺の模型と首里城地下にある旧日本軍第32軍司令部壕の図 出典:第32軍司令部壕の保存・公開を求める会のパンフレットより

福村俊治

福村俊治

ふくむら・しゅんじ 建築家。1953年滋賀県生まれ。1977年関西大学工学部建築学科卒業。79年同大学修士課程修了。東京の原広司+アトリエ・ファイ建築研究所勤務(82~89)を経て、独立し沖縄に移住。90年空間計画VOYAGER、97年team DREAM設立。公共建築から商業施設、個人住宅、都市計画まで幅広く手掛ける。