こどもの国の丘陵にたつ黒川紀章《フラワーシェルター》(開花型、1964)
日本発の前衛建築運動メタボリズムのメンバー(メタボリスト)を中心に彫刻家のイサム・ノグチも参画し、1965年に開園した子供のための遊び場「こどもの国」(横浜市青葉区)。前編では、国立近現代建築資料館で開催中の収蔵品展「『こどもの国』のデザインー自然・未来・メタボリズム建築」(8月28日まで)を紹介し、知られざる開園当初の姿をたどった。後編では、黒川紀章らメタボリストが若き日に施設設計に取り組んだこどもの国の現場レポートをお届けしよう。
▶メタボリストたちのブルーピリオド~「こどもの国」ってなんだ?【前編:国立近現代建築資料館収蔵品展レポート】はこちら。菊竹清訓、黒川紀章、イサム・ノグチらが設計した休憩所や児童遊園の図面や写真を紹介。
小学校の遠足以来、40数年ぶりに訪れる「こどもの国」。猛暑のせいか、人影はまばら。入口を入ると、見覚えがある陸橋の向こうに中央広場の芝生が広がっている。「コロナ禍で来場者数は一時落ち込んだが、外遊びが中心の施設なので、今はコロナ前の年間約85万人の9割ほどまで人出は回復してきた」と運営する社会福祉法人こどもの国協会の大須賀浩一総務部長は話す。なお「こどもの国」は、児童福祉と教育を目的とするの児童厚生施設の位置づけ。「こどもの国」の名称が付く施設は各地に20カ所以上あるが、地名が付かないこちらは草分けの存在だ。
最初に種明かしをすると、メタボリストらが設計した開園当初の9施設は多くが現存していない。主に1980年代に建物の老朽化や維持費がかさむ等の理由で解体されたようだ。
開園当初の施設の設計者と施設名、現状を一覧にすると以下になる(〇は現存、△は一部現存、無印は解体)。
浅田孝 〇皇太子記念館/自然プール
イサム・ノグチ、大谷幸夫 △児童遊園/児童館
黒川紀章 〇フラワーシェルター/△アンデルセン記念の家/セントラルロッジ
菊竹清訓 林間学校
鈴木彰 交通訓練センター
残る建築があまりないのは残念だが、こどもの国全体のマスタープランはメタボリズムの建築家で都市計画家でもあった浅田孝(1921~1990)が手掛けている。気を取り直して、園内を巡ってみよう。
広さ約100ヘクタールの敷地は、様々な遊び場や施設がある中央部を取り巻く内周道路(約2.4km)と外縁部の外周道路(約4km)があり、縦横に散歩道も伸びている。中央広場の近くから内周道路を時計回りに歩いて数分、赤い大屋根の建物が見えてきた。浅田が設計した皇太子記念館(現・平成記念館)。1972年の完成時はステージ等を備えたホールだったが、昨年に客席と壁を取り除く大改修が行われ、屋根だけの多目的スペースに様変わりした。
「おお」と中に入るなり声が出た。むき出しの構造が迫力をみせる大屋根の下、がらんとした大空間が広がっている。幼稚園の運動会くらいできそうな広さで、すっぽりと覆われているためか暑さも少しマシに感じる。見上げると鋼管を三角形に組み上げたトラス構造が目に入った。幾何学的な線の集積が生む軽やかなリズムが心地良い。
設計した浅田は謎めいたところがある建築、都市計画家だ。丹下健三の右腕として広島平和記念公園や香川県庁舎の設計監理を担当。1960年の世界デザイン会議の東京開催に際しては、若手を集めて「新陳代謝」を意味する前衛建築運動メタボリズムの結成を主導した。日本のプレハブ住宅の礎になった南極大陸昭和基地の設計、横浜市の都市計画、香川の坂出市人工土地計画など多方面で活躍したが、「つく(造)らない建築家」と言われ、建築作品はあまりない。本作は数少ない実作のひとつになる。
次いでノグチ・イサム(1904~1988)が手掛けた旧児童遊園エリアへ。かつて同じ場所に建築家の大谷幸夫(1924~2013)が設計した児童館もあったが、現存していない。
内周道路から伸びた散歩道の途中に児童遊園への通路があり、進むと左側にふたつの緑色の扉、奥にどっしりとしたアーチ型エントランスが現れた。緑の扉の奥は、ノグチが設計したトイレだったが、現在は倉庫に利用されている。やはりノグチによるコンクリート製のアーチは絶妙な曲線にうがたれた向こうに階段が見え、子供たちを遊びに誘うようだ。
「遊び」はノグチの芸術の根幹をなす要素だ。エリアには彼の「遊べる彫刻」が2種類残っている。
一つは巨大な亀の甲のような《丸山》。直径約7mの小山状を直径約80cmの穴が貫通し、子供は中にもぐりこんだり、滑って反対側に出たりできる。コンクリート製の表面は手のひらに優しい小石が埋め込まれ、表面にステップも刻まれて、よじのぼって遊ぶことも想定されている。もう一つは、彼の代表的な遊具《オクテトラ》。コンクリート製の赤い8面体で、単体と3個を組み上げたものがあり、穴をくぐったり、登ったりして遊ぶ。3個のものは砦かロボットのようにも見える。
体を伸ばす、曲げる、ひねる、反らす。どちらの遊具も遊び方に決まりはなく、身体を活性化する動きが誘発されるようにデザインされている。子供たちにのびのびと体と想像力を使って遊んでほしいというノグチの願いを感じた。
こどもの国の記録によると、児童遊園の設計に当たりノグチは4か月間毎日のようにここを訪れ、構想を練った。工事が進む1966年に再来日し、現場でセンチ単位の指示を出したという。ノグチは日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれ、こどもの国と同じ神奈川県の茅ヶ崎市で14歳まで育った。他の女性と家庭を持っていた父に拒絶され、差別に遭い、日本での子供時代は厳しいものだったという。彼が惜しみなくこどもの国に注いだエネルギーを思うと、胸がつまる。
メタボリズム・グループ最若手の黒川紀章(1934~2007)は、3施設を手掛けた。1960年のグループ結成時に彼が提案したキノコ型の家は、ここの白鳥湖を見渡す丘の上に《セントラルロッジ》(1967)として実際に建てられたが、1985年に解体された。同じく設計した《アンデルセン記念の家》(1965)も同年に取り壊されたが、コンクリート造の基壇は再利用されて別施設「赤ちゃんの家」になっている。
内周道路に面した「赤ちゃんの家」は、塔屋が付いた東屋(あずまや)ふう。《アンデルセン記念の家》の特徴だった左右に伸び出る通路をそのまま活かした造りになっている。内部には童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの代表作「親指姫」を表現した木製の絵が飾られ、アンデルセンの顕彰施設だった前の建物をしのばせた。
開園当初から残る黒川作品が、野外休憩所《フラワーシェルター》(1964)だ。内周道路から道を入った「こどもどうぶつえん」内にあると聞き、園内の羊やウサギに挨拶しながら探した。まごまごするうち、急に視界が開けて丘陵に立つ黄色い構造物が目に飛び込んできた。
花が開いた開花型と閉じたつぼみ型の2つの休憩所《フラワーシェルター》。鋼板製の花びらは、植物の生命力を表すように、それぞれ異なる曲がり具合に加工されている。地面には子供たちが座るドーナツ型シート、つぼみ型休憩所の内部には花のめしべをかたどった突起があって、ほっこりした。
シンプルかつ対比的な造形は、明るい躍動感にあふれ、詩情も感じさせる。メタボリズムを体現したような黒川の代表作《中銀カプセルタワービル》(1972、2022年解体)とはまるで似ていないが、やさしい姿に「造形の詩人」とも評された建築家の原点に触れる思いがした。
本作を含む一連の園内施設の設計により黒川は1965年の高村光太郎賞を受賞。高く評価されたこどもの国での仕事を一つの出発点として、マスコミに頻繁に登場し「メディア型建築家」とも呼ばれた華麗なキャリアを築いていった。
こどもの国の開園当初の姿を探る本レポートもそろそろ終盤。園内では、開園当初から残る施設のほかに、似通ってみえる遊具や設備を幾つか見つけた。かつてここで奮闘した建築家や彫刻家へのオマージュかもしれない。
こどもの国を回りながら、多摩丘陵の自然が園内にたっぷりと残されていることに気づいた。雑木林が続き、里山や丘があり、いたるところで鳥の鳴き声がする。プールやスケート場等のスポーツ施設、牧場、長いローラー滑り台や変わり自転車などの大型遊具もあるが、どれも基本的に子供が自分の体を使って楽しむもの。人工的に制御された受け身の遊園地やテーマパークとは違う。そう、ここは自然の中で、子供たちがあくまでも自発的に遊び、楽しむ場所なのだ。
こどもの国のマスタープランを作成した浅田孝は、「環境」の概念を日本の都市計画に導入した先駆的存在だとされる。マスタープラン作成に当たり、最初は「何でもない空き地、変哲もない原っぱは、子供の遊び場の最高のものである」として“何も造らない”ことを提案したという。施設建設を伴った最終案でも、自然環境はできるだけ残すように努めた。現在では、開園当初に比べて遊具や施設は増えたものの、浅田の基本方針は大枠として引き継がれているように感じる。
旧日本陸軍の田奈弾薬庫跡を敷地とする園内は、その遺構や平和のモニュメントも目を引く。数が多いのは弾薬を保管していた弾薬庫跡で、その緑色の扉を内周道路沿いに幾つも見ることができる。当時のトンネルや陸橋、高射砲の台座跡も残っている。田奈弾薬庫では最多時約3000人の軍属が戦地に送る地雷や手りゅう弾、砲弾の製造に従事したとされ、学徒動員された神奈川高等女学校の元生徒一同が建立した「平和の碑」も正面入口の近くにあった。
この敷地がやはり弾薬庫に使っていた米軍から返還され、こどもの国の建設計画が始まったのは1960年代初頭。当時ここは、まだ硝煙の匂いが残っているような場所だったのではないだろうか。
こどもの国の建設に携わった人々も、様々な戦争体験を抱えていた。東京帝国大学建築学科を繰り上げ卒業後、海軍に配属された浅田は、駐屯先で広島に投下された原爆のキノコ雲を目撃し、爆心地に駆け付けて被害者の救助活動に当たった。彫刻家として活躍していたノグチは、戦争が始まると志願して米国アリゾナ州の日系人強制収容所に入所した。小学生だった黒川は、生まれ育った名古屋の街が空襲のため見渡す限りの焼け野原になったのを目の当たりにしている。
終戦から十数年後の平和のなかで、この地に立った彼らは何を思ったのだろうか。そして、どのような理想を「戦争」の記憶が刻まれたこの地に託したのだろうか。
開園から今年57年を迎えたこどもの国。今日も子供たちの歓声が響くこの場所は、豊かな自然、土地の歴史と記憶、設計者の理念と創造が折り重なって醸成された「遊び場」だ。子供づれでない大人にもぜひ足をはこんでほしい。
〈参考文献〉
国立近現代建築資料館収蔵品展『「こどもの国」のデザインー自然・未来・メタボリズム建築』図録(発行・監修:文化庁、編集:国立近現代建築資料館、2022)
八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』(オーム社、2011)
レム・コールハース、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…』(平凡社、2012)
笹原克『浅田孝 つくらない建築家、日本初の都市プランナー』(オーム社、2014)
ドウス昌代『イサム・ノグチー宿命の越境者』(講談社、2000)
曲沼美恵『メディア・モンスター:誰が「黒川紀章」を殺したのか?』(草思社、2015)
こどもの国
開園時間:9:30~16:30(7、8月は17:00まで)
休園日:水曜日(水曜日が祝日の場合は開園)、12月31日、1月1日
神奈川県横浜市青葉区奈良町700
https://www.kodomonokuni.org/