会場風景
手元に1冊の本がある。『カプセル1972―20222 中銀カプセルタワービル全戸図録』(中銀カプセルタワービルA606 プロジェクト)。建築家の黒川紀章(1934~2007)のメタボリズム建築《中銀カプセルタワービル》(1972)の実測調査を行い、住居カプセル140戸の図面と写真を収めた記録集だ。ページをめくると、猛烈ビジネスマン向けに作られた当初の内装デザインが残るカプセルが幾つもあり、胸をつかれた。中銀カプセルタワービルは今春から取り壊されたが、メタボリズムのみならず経済成長を走った時代精神を象徴する建築だったとあらためて思う。
「新陳代謝」を意味し、1960年代から70年代にかけて日本の都市と建築の新しい姿を提唱した前衛建築運動「メタボリズム」。建築家の菊竹清訓(1928~2011)や黒川らが、成長する建築や空中、海上へ拡張していく未来都市像を提案し、社会に驚きと希望を与えた。強い科学技術信奉は批判も受け、奇抜なパビリオンを林立させた大阪万博(1970)をピークとして運動は終息したが、「メタボリスト」と呼ばれたメンバーはその後も日本の建築界を牽引した。
彼らメタボリストが、計画と施設設計に関わった子供の遊び場があるのをご存じだろうか。横浜市と東京都町田市の境に位置し1965年に開園した児童厚生施設「こどもの国」(横浜市青葉区)である。約100ヘクタールの広大な敷地に子供のための様々な施設や遊具が点在し、年間約80万人が訪れる。遠足のメッカでもあり、足を運んだ経験はなくても名称を知っている人は多いだろう。
その開園当初の姿を紹介する展覧会「『こどもの国』のデザイン━自然・未来・メタボリズム建築」が、東京・湯島の国立近現代建築資料館で8月28日(日)まで開催されている。菊竹や黒川らメタボリズムのメンバーのほか、世界的彫刻家のイサム・ノグチ(1904~1988)らが設計したこどもの国の施設の図面や青焼、当時の写真、構想スケッチを展示する所蔵品展だ。こどもの国の当初の全体像を詳しく紹介する展観は初めて。
筆者は1970年代に小学校の遠足でこどもの国を何度も訪れたが、コロリと存在を忘れていた。そこが建築史的にも貴重だとは本展までつゆ知らなかった。ここではザンゲする気持ちで取材した展覧会レポートをお届けしよう。
本題に入る前に、こどもの国の沿革を簡単に紹介しておきたい。
こどもの国の計画は、1959年の皇太子さま(現・上皇陛下)ご結婚に際し全国から寄せられた祝い金を「子供のための施設に」と皇太子さまが希望したのがきっかけで始まった。1961年に米軍から返還された旧日本陸軍の田奈弾薬庫跡地が敷地に選定され、厚生省主導のもと朝日新聞が協力する中で建設計画が本格化。全体のマスタープラン作成者は、丹下健三の右腕でメタボリズム・グループの生みの親とも言える建築家・都市計画家の浅田孝(1921~1990)が選ばれた。9件の施設設計は浅田、菊竹、黒川、大高正人(1923~2010)のメタボリスト4人のほか、グループと近い関係にあったノグチと建築家の大谷幸夫(1924~2013)らが担当し、1965年5月5日に開園した。
本展担当者の一人、小池周子・文化庁国立近現代建築資料館研究補佐員は「こどもの国はメタボリストが積極的に参画し、机上でない実践を進めた場だった」と位置付ける。世界デザイン会議の東京開催を機にメタボリズム・グループが結成されたのは1960年なので、運動の早い時期にメンバーが結集した国家的プロジェクトと言えそうだ。
本展会場の中央に、開園当時の案内図が大きく掲示されている。浅田孝のマスタープランに基づいた園内は、敷地全体をA~Dの4地区に分け、それぞれ広大な緑地や水辺空間、遊具がある遊び場など違う個性を持たせた。「自然環境をできるだけ残して、子供の自発的な遊びやレクリエーションを重視する」(図録より)という浅田の基本方針は、こどもの国の方向性を決定づけ、類似施設の先駆的モデルにもなったという。
展示冒頭は、浅田が設計した《皇太子記念館》(現・平成記念館)の図面やパースが並ぶ。当初は式典などに使うステージと座席を備えたホール施設で、写真を見ると赤い三角形4枚を組み合わせた大屋根が目を引く。開園7年後の1972年に完成したが、設計条件にかなり変遷があったらしく、科学館と一体化した案や5角形の建物案なども展示されている。
浅田は、この地に豊富な井戸水を利用した《自然プール》(1964)も手掛けた。隣の人造湖につながっていくような段状デザインは、近年のインフィニティ・プールを思わせる。
イサム・ノグチと大谷幸夫は、緑地が多いA地区の《児童遊園・児童館》(1966)を共作した。ノグチは、米国ニューヨーク州のIBM本社に庭園を完成させるなど造園家としても活躍し始めた時期で、物見台がある「原始部落」や「ピラミッド型遊具」を検討した図面も残っている。いずれも実現しなかったが、小山状の内部に滑り台を入れ込んだ《丸山》と8面体遊具の《オクテトラ》は遊園内に設置された。ノグチは、野外スケートリンクや入口のアーチ、公衆トイレのデザインも手掛けており、旺盛な創作意欲がうかがえる。
大谷設計の児童館は、名称は「館」でも、三角形に並べた柱に屋根を掛けたテント空間の集合体だ。作りは簡易だが、丸みを帯びた優美な屋根から後年の代表作《沖縄コンベンションセンター》(1987)を連想した。
最も数多く施設を手掛けたのは黒川紀章。人造湖を見渡す丘に建てられた《セントラルロッジ》(1965)、有名童話作家の顕彰施設《アンデルセン記念の家》(1965)、野外休憩所の《フラワーシェルター》(1964)の3施設を設計した。当時の黒川は丹下健三の下から独立して間もない設計者集団の中の最若手だった。
白い《セントラルロッジ》は、2階部分を空中へ持ち上げた未来的な外観。富士山の形をした大屋根は、浮遊感や周囲の自然環境への意識も感じさせる。食堂や集会室がある1階は子供たちの交流を促す目的で「道の空間」がつくられた。同様の手法は、屋外に細長い通路が伸び出た《アンデルセン記念の家》でも見て取れるが、こちらは平屋で三角型の屋根が親しみやすい雰囲気だ。小池さんは「後年に打ち出した『道の建築』『共生の思想』の実践をここで行った」と話す。
牧場近くに立つ1対の《フラワーシェルター》は、花が開花した姿と閉じた姿が表現されている。花の生態を伝える対比的な造形が伸びやかだ。高さ4mの鋼製の花びらが開花型は10枚、つぼみ型は8枚用いられ、材料の寿命に合わせて1枚ずつ交換できる。新陳代謝(交換)により持続させる論理は、あの中銀カプセルタワービルと同じ。ぐんとシンプルかつ小規模だが、歴とした「メタボリズム建築」と言える。黒川の代表作の中銀カプセルタワービルは解体されたが、より古いこちらは開園当初のまま現存しているという。
メタボリズムの代表的建築家、菊竹清訓は子供が宿泊する《林間学校》(1967)を担当した。斜面に宿泊用キャビンが建ち並ぶ光景は、巨大なキノコが地面からニョキニョキと生えているようだ。平面図を見ると、キャビンの形は上から見たテトラポットふうで、こんなに不思議な造形を公的施設に許容した組織の柔軟さに驚く。他にも多数の設計案が並び、菊竹が多彩な観点から検討を重ねたと分かる。
菊竹が描いた思われる初期のイメージスケッチも展示されている。「菊竹さんほどスケッチが上手な建築家は少ない」と小池さん。CG技術や3Dプリンターがまだない時代、自らの構想を紙上に再現できる表現力はメタボリズムの思想を伝えるうえで大きな武器になったのではないか。
イメージの鮮烈さでは、人工土地の実現などに取り組みメタボリズムの一翼を担った大高正人のドローイングも負けてない。谷をまたぐ形で彼が構想した修学旅行会館のドローイングは、滑走する宇宙船のようなカッコよさ。だが、施設自体は資金不足により建設が見送られた。ほかに子供たちが交通ルールを学び小型自動車を運転できる交通訓練センター(1965)も建設され、人気を集めたが、設計した鈴木彰の経歴はわかっていない。
皇太子ご成婚の祝い金から始まったこどもの国は、一般の寄付や企業の協力を募り、総事業費約20億円(現在の42億円相当)の大プロジェクトになった。しかし、開園から5年後の大阪万博で黒川が設計して評判になった東芝IHI館は、単体の建設費がそれとほぼ同額だったという。そうしたことを考え合わせると、当時のこどもの国の台所事情はかなり厳しかったようだ。
「施設の図面を見ていくと、設計のシンプル化や建設費の減額を目指したと思える計画案がある。地道な募金活動が続けられる中で、メタボリストたちも足を地に着けた現実的な落としどころを模索せざるを得なかったのではないか」と小池さんは指摘する。
会場を一巡して気づいたのは、当時のメタボリストたちの「若さ」。最年長の浅田でも40歳代前半、同じ頃に代表作の一つ《出雲大社庁の舎》(1963)を完成させた菊竹は30歳代後半で、いずれも若手と言える。黒川にいたっては30歳になるやならずで、駆け出しの資格十分だ。こどもの国は、現実に直面して試行錯誤したメタボリストたちの「ブルーピリオド」(若い時代)の記念碑のように思える。
では約60年前に彼らが作り上げたこどもの国は、いまどうなっているのだろうか。次回は現場レポートをお届けする。
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