ロフォーテン国際芸術祭(Lofoten International Art Festival [LIAF])は、ノルウェー北部に位置する北極圏内のロフォーテン諸島で2年に1度開催される現代アートの展覧会である。30年超の歴史を持つスカンジナビア最古のビエンナーレとして知られる。険しく聳え立つ山々と広大な海に囲まれたロフォーテンの玄関口であるスボルベルという小さな町を会場に、今年も9月20日から1ヶ月間に渡って開催された。キュレーターのシャスティ・ソルバッケンは、漁業の無線通信がこの地域で早くから発展したという歴史に着目し、1906年に確立された通信システムの名からLIAF2024を「SPARKS」と題した。魚釣りと遠隔地を結ぶ見えない技術の絡み合いが引き起こす無数の煌めきをテーマにしたのだ。
それらの煌めきたる約20のプロジェクトがスボルベル内の9ヶ所の会場に分散され、来訪者はこの「魚の町」を地元の名物であるタラのように彷徨った。不安定な天候を踏まえてほとんどの作品が屋内に展示されていたが、ひとつだけ屋外で実施され、風光明媚な自然をそのまま取り込んだプロジェクトがあった。スボルベルの中心部から歩いて20分ほどかかるスヴィノヤ島の一画で、オープニング週末の2日間だけ上演された《Island Eye Island Ear(SVINØYA version)》である。
《Island Eye Island Ear(IEIE)》とは、1974年にアメリカの実験音楽家デーヴィッド・チュードアによって発案され、スウェーデンのクナーヴェルシェア島をはじめとする世界各地の島で実現を10年に渡って試みたが、数々の困難によって未完に終わっていたコンサートプロジェクトだ。中心に置かれたのは、「島を丸ごと楽器化する」という奇妙なアイデアである。具体的には、チュードア自身が音のビームを作り出す特殊スピーカー、マーガレータ・アズベルイが鏡、ジャッキー・マティス・モニエが凧、そして中谷芙二子が霧を担当し、それら4つの構成要素を島内に張り巡らせる。スピーカーからは島の様々な場所で様々な季節に録音された音がビームとして再生され、樹木や岩に散り散りに設置された鏡はあたりの様子を反射し、凧と霧は風に吹かれるがままにたなびく。そのように持ち込まれた部品が島にもとからある固有の環境によって変形・変調される様を来訪者が思い思いに体験することで、その島の自然を露わにすることが思い描かれた。
技術チーム「E.A.T.」の一員として《IEIE》に関わったジュリー・マーティンが2019年にチュードア研究者の中井悠と協力してこの眠っていたプロジェクトを揺さぶり起こし、霧を担当していた中谷芙二子を交えたイベントを石川県加賀市で2020年に開催、2022年以降は北海道を舞台に中井が札幌国際芸術祭(SIAF)の技術チーム「SIAF LAB.」とキュレーターの明貫紘子と協働しながら実現に向けて諸々の努力を繰り広げてきた。その成果として2023年11月に北海道江差町の鴎島で「テストラン」が行なわれ、構想からちょうど50年となる今年のSIAFで鴎島で起こった(ような)ことを擬似体験するVR作品が発表されたのち、LIAFで霧を除くすべての構成要素を織り込んだ一般来訪者向けのコンサートが初めて実現したのだ。
スヴィノヤ島の会場に辿り着くと、北海道でのプロジェクトの展開を間近で見てきた私には既知と未知がない混ぜになった、時空を超えた諸要素のネットワークが、その場に溶け込むように張り巡らせられていた。ありえないが溶け込んでいる、溶け込んでいるがありえない、という奇妙な感覚を抱かされるが、全体の「自然さ」に、そんな判断はどうでも良くなってくる。それよりもあちこちを動き回りたくなる。
SIAF LAB.が開発した超音波スピーカーから出る音のビームは、聴き手が数十センチ動くだけで聴こえ方が大きく変化する。すぐ隣の人でもまったく違う音が聴こえるだろう。そのためにこれは自分だけの経験だという感覚が強まる。音を聴きながら動きまわるうちに、その体験が濃淡を帯びた立体物として幾重にも立ち上がってくる。
そのとき海で鳴っている実際の汽笛、スピーカーから再生される現地で録音された汽笛と彼方の日本で録音された汽笛。異なる時空間に由来する個別の特色を持つ汽笛の音と、自分が抱く一般的な「汽笛の音というイメージ」が混ざり合い、境界線が滲み、ほどけてくる。 そうした状況にしばらくいると次第に「なぜ汽笛が?」という疑問は消え去り、「ああ汽笛が鳴ってるわ」というシンプルな感覚に落ち着いてくる。スピーカーの存在は、汽笛の音と反比例するごとく、意識からほぼ消え去っている。そして何かを思い出すような感覚に移行していく。
そういえば、そうしたいわば「消える技術」の設営と並行して、SIAF LAB.の面々は、ノルウェーでの気忙しい設営の後先、日の出前と日没後の僅かな合間、釣糸のように細い時間に魚釣りを挟み込んでいた。その釣りをする心の余裕が、特殊な技術が抱えがちな未知の緊張感を緩和しているようだった。そして釣りも気づかれては成立しない技術だ。島の自然に溶け込み、もはや技術とは感じられない超絶技巧として、それは島が丸ごと楽器化すると消滅するコンポジションに似ているかもしれない。LIAF2024のテーマがふと脳裏に浮かぶ。
半年前のスヴィノヤ島で録音されたタラを干す作業時の音、1年前の鴎島で録音されたカモメの鳴き声。そこに半世紀前のクナーヴェルシェア島でチュードアが録音した水の音と声も加わる。あちこちで鏡の乱反射がきらめき、風に恵まれなかった凧が岩肌でスタンバイし続ける、島の彼方には大型のフェリー、沖合いで数艘のカヌーを漕ぐ人々。
只今現在の島のあらゆる環境がオーバーラップする。
島へやって来た人々が思い思いに歩いている。
島の開けた場所に、バゲットサンドとコーヒーポット等を抱えて10人あまりの取材陣がやってきた、ピクニックのような雰囲気の彼らも島の自然として違和感なく馴染み、それを見てあのバゲットサンドは美味しそうだと言い出す者さえあらわれた、ジュリー・マーティンは自作の《IEIE》特製ピンバッジを来訪者にニコニコしながら配っている、その賑やかさに私は昨年7月に《IEIE》のために江差町を訪れた時の「鴎島祭り」を思い出した、その日はちょうど同じ町で第60回江差追分全国大会が開催されていた、その江差追分を私の父は40年間唄っていた、作家の内田百閒は言葉のない音楽を聴いて出る涙は本物の涙の気がする、それは意味の無さによる、というようなことを『百閒座談』に書いたが、私もそんな状態に陥っていた、そんな私を見てか日本から制作チームに同行した映像作家の越田乃梨子も目に涙を浮かべ、彼女の肩をLIAFディレクターのマリアンヌ・ハルトマンが優しく叩く、こちらの自然が露わになったのも、島の自然が露わになったからだろう、露わになる、というのは何かを超えてくることかもしれない、何かが溢れ出る、自然と溢れ出る、自然が溢れ出る、持参した水が空になっていた私は、コーヒーでも飲もうと3つあるコーヒーポットのそばに行った、近くにいた男性が、空だよと言った、ひとつひとつ確かめたが3つとも空だった、紅茶用のお湯でさえ空だった、水分はつねにどこかへ移動する、それも水の自然だろう、そんなことを思った。