公開日:2022年3月25日

ひとりの踊りに織りこまれたドラマ。映画『ウエスト・サイド・ストーリー』レビュー(評:辻󠄀佐保子)

ミュージカル研究者である筆者が、スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』を踊りに着目して論じる。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』より 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©︎ 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

スティーブン・スピルバーグ監督による『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021)は、瓦礫で埋まる地面を這いつくばるような距離でなめる映像から始まる。鳥の高さからニューヨークの街並みを撮影した1961年のロバート・ワイズ(とジェローム・ロビンス)監督版から鮮やかに転換している。この転換は、映画全体の姿勢にも通じる。ABC製作で現在Disney+で配信中のドキュメンタリーによると、スピルバーグ版の製作陣は、ワイズ版(そして大元の1957年の舞台版)が当時としては画期的なまでにニューヨークの一断面を描いたと評価しつつ、取りこぼされ、見落とされ、おざなりにされた部分があることもまた認めている。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』より 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©︎ 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

瓦礫の重なりを、素材のキメを、破壊の威力がどれほどかをとらえようと近寄るカメラよろしく、舞台版とワイズ版を這うような距離で検分し、背景の重なりを、感情のキメを、権力関係とそこから喚起される暴力がどれほどかをとらえようとしたのがスピルバーグ版であった。この点は、ジェッツに入ろうとするトランスジェンダーの少年エニボディズに対する処遇や、性暴力からアニータをなんとか逃がそうとするリフの恋人グラツィエラの緊張した面差しと叫びにおいて明白である。

ただしここで言い添えたいのは、スピルバーグ版は先行版の粗を補うことに終始していたわけではないということだ。差異を楽しませ驚かせつつも、ミュージカルとして『ウエスト・サイド・ストーリー』を再創造するという立脚点から、スピルバーグ版は徹頭徹尾ブレていなかった。本レビューでは、地を這い細かな機微をとらえる姿勢がミュージカル表現に及んでいることを、リフとチノがひとり踊る場面に着目したい。

リフがひとり踊るとき

スピルバーグ版でマイク・ファイストが演じたリフは、ワイズ版でのラス・タンブリンのリフとはまったく異なる個性を有していた。タンブリンのリフは、攻撃性と荒っぽさが楽天的な余裕と人なつっこさに包まれていた。他方ファイストのリフには、未来が見えないことへの絶望と怯えが張りついている。そして何より、孤独だ。リフはジェッツを鼓舞し率いる存在ではあるが、ともにジェッツを作り上げたトニーとの結びつきを慈しむあまり、ひとり異なる行動を見せる場面がいくつもある。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』より 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©︎ 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

印象的なのは、楽曲「クール」である。この曲は舞台版からもワイズ版からも文脈が変更されている。舞台版では第1幕(つまり決闘より前)で逸るジェッツを落ち着かせて士気を高めるためにリフがメインに歌う。ワイズ版ではリフの死に動揺するジェッツを落ち着かせるために後継者アイスが歌う楽曲へ変更された。そしてスピルバーグ版では決闘前に「クール」は戻されたが、争いを食い止めようとするトニーが口火を切る歌へ変わっている。決闘に備えて入手した銃をリフから奪ったトニーが、 “Boy, boy, crazy boy. Get cool, boy” と挑発しながら諭すのだ。

この曲ではトニーとリフによる銃の取りあいが展開されるのだが、トニー優位の様式化されたチェイスから息がぴったりにシンクロする振付が短く挟まり、その後リフの手に銃が戻るとジェッツのメンバーがトニーの妨害に加わるというように、トニーとリフの関係の推移がダンスで繊細に描かれる。そしてハイライトは、終盤、トニーの歌った詞をリフが反復した後、 “Go, man, go. But not like a yo-yo schoolboy” の部分を歌わず手足を振り回すように踊る瞬間だ。この部分が歌われないのは先行版と同様であるものの、トニーやジェッツ・メンバーとごく近い距離にいながら、近寄られることを拒絶するように振りはらうようにリフがひとり踊ることがポイントである。ほかのメンバーのようにトニーを引退した腰抜け扱いはできず、とはいえトニーの行動の真意と意義も掴めずにいるリフの煩悶を表す優れた演出と感じた。

スピルバーグ版では、先行版以上にリフからトニーへの愛情が強調されている。このことは、ギャングの誇りを歌い上げる「ジェット・ソング」の締めくくりにリフが投げた礫がドラッグストアで在庫整理するトニーへ投げた缶詰へとつながれる演出や、収監を機に別れたトニーの元恋人グラツィエラがリフの恋人となっているというホモソーシャルな関係性からも明らかである。ならば、新版「クール」でリフがひとり踊るときに、そこにはトニーとの物別れによる失望の痛みが書き加えられているのではないか。そしてこのダンスを経ることによって、決闘でトニーを突き放すことができず、ナイフを手にジェッツ、トニー、ベルナルド&シャークスで錯綜する敵意の狭間に立つリフの痛ましさ、その末路のやるせなさが増す。「クール」からは、リフというキャラクターを織り上げる糸のテンションを強め、織り目を細やかにする効果を見出せるのだ。

チノがひとり踊るとき

今回の『ウエスト・サイド・ストーリー』再創造で白眉なのは、ホセ・アンドレス・リヴェラ演じるチノだ。先行版のチノは、シャークスの一員として映画冒頭のケンカや「アメリカ」に加わって歌い踊るものの、影が薄く書き割り的で、トニーとマリアの恋愛の阻害要因としてトニーを撃つ役割が果たされれば十分であるかのような描かれ方だった。一転、スピルバーグ版ではチノの登場時間が格段に増え、ミュージカルのキャラクターとして作り込まれていた。

スピルバーグ版において、マリアとトニーがギャングの論理から見れば異質な存在であるように、チノもまた別の意味で異質な存在である。シャークスに入りたいと願ってもベルナルドからやんわり断られる。決闘の舞台に足を運ぶものの闘いに加わらず、身をかがめてベルナルドの遺体を守り続けるという集団から浮いた行動をとる。その行動の結果、リフの銃を手に入れたチノは、支柱を失って呆然とするシャークスをよそにトニーに銃弾を撃ち込むに至る。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』より 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©︎ 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

こういったチノの異質さを表す描写でとくに感銘を受けたのが、ダンスパーティの場面である。腕前を見せつけるように踊るジェッツやシャークスの面々に対し、チノとマリアが踊りの輪に加わらないのは先行版と変わらない。ただしスピルバーグ版の場合、夜学に通って貧困からの脱却を目指す朴訥としたチノには、ベルナルドやアニータから励まされてもなおダンスに気後れしているという新たな背景が付加された。それだけに終わらず、「ダンス・アット・ザ・ジム」の中盤で、激しく踊るジェッツとシャークスに触発されたチノがフロアで踊る。これには驚いて映画館の椅子から転げ落ちるかと思った。しかも、この踊りが劇の展開で重要な働きを担うのだ。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』より 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©︎ 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

チノが踊り始めるのは、相手を煽るようなフォーメーションで踊っていたジェッツとシャークスが、一旦自グループで円を作りまとまった後である。2つできた輪のあいだに、眼鏡を取り上着を脱ぎ捨てたチノがマリアを誘おうとステップを踏む。足さばきは重たくとも堂々と踊るチノの姿にベルナルドとアニータが歓声を送り、マリアはチノと向かいあって踊りはじめる。シャークスが加わるのはもちろん、ジェッツまでも同じ振付で踊る様子が後景にうかがえる。ギャング団の抗争の前段のように展開する「ダンス・アット・ザ・ジム」で、当初は輪に加われないチノが一歩踏みだしてダンスを披露し、フロア内で振付が共有される。この共同的な時間は、しかし、ひとときのことでしかないことも、ここまでの流れを見れば明らかだ。音楽が別の展開を見せれば、ダンスもまた変わる。チノの踊りから始まった、ポジティブな高揚感が伝播していくような時間のあらかじめの儚さに胸が掴まれる。

また、チノの踊りはマリアとトニーの恋愛の契機としての意義も有している。チノの踊りにマリアは加わるものの、熟達した踊り手であるシャークスやジェッツと異なり、身のこなしがたどたどしい。笑顔であるものの動きは遅れており、ふたりのあいだに瞬間的に通じあうケミストリーは見られない。他方、チノについていく一方だったマリアは、トニーの前では自ら踊り出す。その踊りをトニーが素早く飲みこみ、ふたりのデュエットダンスへ発展する。マリアにとってはチノではなくトニーなのだ、ということが一連のダンスで鮮やかに表現されているのである。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』より 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©︎ 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

リフのダンスもチノのダンスも、ささやかな付加にしか見えないかもしれない。けれど、そのささやかなダンスからキャラクターの描写や関係性、物語がつながる点で秀逸なのだ。もちろん、スピルバーグ版にも表現として届かない点や取りこぼしがあることは、レビューのなかですでに述べられている(*1)。また、撮影終了から約9ヶ月後に起こったアンセル・エルゴートの性加害に対する告発をめぐり、宣伝活動中にエルゴート本人と意思決定層が一貫して沈黙し、他方で共演者が米国での公開後にコメントを寄せるという一連の展開が、敵意を乗りこえ愛と労りが叶う “Somewhere”の希求とそれを困難にさせる状況の提示という、作品の核となる部分を虚しく響かせるものであったことは否定できない(*2)。ある部分では透明性と説明責任の重要性が共有された作品に見えたからこそ、なおのこと虚しさは募る。だが、それでもなお、ミュージカルという表現形式に対して真摯な再創造を目撃したことへの喜びも抑えがたい。

*1──映画全体を肯定的にとらえていたレビューが多いものの、たとえば、先行版と比較してプエルトリコ系俳優の配役が増えたとは言え、コロンビア系であるレイチェル・ゼグラーをマリアに配役する製作陣の判断を問題視するレヴューがThe Daily Beastから発表されている(ちなみに評者のマンディ・ヴェレスはプエルトリコ系である)。また、The New Yorkerのリチャード・ブロディによる批評では、先行版にあった警察から移民への差別が減じていることが欠点として指摘されている。

*2──『ウエスト・サイド・ストーリー』製作とエルゴートへの告発とその後の対応に関するタイムラインは、Vultureの記事に詳しい。また、The Hollywood Reporterのインタビューで、ゼグラーとデボーズ、リタ・モレノのインタビューがエルゴートに対する告発に関するコメントを述べている。

辻󠄀佐保子

辻󠄀佐保子

つじ・さほこ ミュージカル研究。静岡大学専任講師。舞台、映画、ラジオで上演されるアメリカン・ミュージカルの劇作法について主に研究を進める。