2022年6月24日、アメリカ合衆国最高裁判所は、これまで半世紀にわたり合憲とされてきた女性や妊娠する可能性のある人々の「中絶」の権利を、大きく覆す判断をした。妊娠15週以降の中絶を禁じるミシシッピ州の州法の合憲性を争う訴訟で、最高裁の判事9人のうち保守派6人が同州法を合憲と認めたのだ。これは中絶の合憲性を認めた1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆すもので、今後中絶の規制は各州に委ねられ、各州は独自の州法で中絶を禁止できるようになる。
13の州ではすでに、「ロー対ウェイド」判決が覆れば自動的に中絶を禁止する「トリガー法」が成立しており、ケンタッキー、ルイジアナ、アーカンソー、サウスダコタ、ミズーリ、オクラホマ、アラバマの各州では、今回の最高裁判決を受けて中絶禁止法が施行された(*1)。今後、何百万もの人々が人工妊娠中絶を受けられなくなると予想されている。
アメリカでは国家の憲法解釈として、「望まない妊娠を継続するか否かの判断は女性のプライバシー権」であると半世紀に渡り認められてきた。この解釈を根本的に変更した今回の判決は、時代と逆行する歴史的な大転換であり、アメリカ国内だけでなく同盟国からも失望と批難の声があがっている。
1973年に米最高裁で下された「ロー対ウェイド判決」は、それまで違法とされていた中絶を権利として認め、人工妊娠中絶を不当に規制する州法を違憲とするものだった。この判決が人工妊娠中絶合法化の契機となり、中絶手術を医療行為として行う医療機関が拡充され、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の重要性が広く認識されるようになっていった。
いっぽうで、「人工妊娠中絶の権利」は、アメリカ国内を二分する政治的争点であり続けてきた。プロチョイス(「チョイス」=女性の選択に賛成し、人工妊娠中絶の合法化を支持すること)とプロライフ(「ライフ」=胎児の生命を尊重し、人工妊娠中絶の合法化に反対すること)の両勢力は拮抗し、これまで中絶をめぐる権利は幾度となく危うい状況に立たされてきた。ロー対ウェイド判決を覆そうとするプロライフ派とそれに抗うプロチョイス派の長年にわたる政治運動については、Netflixのドキュメンタリー映画『彼女の権利、彼らの決断』(2018)に詳しく描き出されている。
今回の判決の大きな引き金となったのは、ドナルド・トランプが大統領時代に最高裁判事に3名の保守派(プロライフ派)を指名したことだ。これによって最高裁判事のなかでプロライフ派が優勢となり、中絶の権利が脅かされる可能性が高まっていた。今回の判決に先立って、今年5月2日には米政治専門サイト「ポリティコ」が、入手した判事の草案から米最高裁が「ロー対ウェイド判決」を覆す見通しであることをいち早く報じていた。
1960年代末〜70年代、「個人的なことは政治的なこと」をスローガンに掲げた第二波フェミニズムにおいて、性と生殖に関する問題は大きなテーマのひとつであった。「私の身体、私の選択(My Body My Choice)」という言葉とともに、中絶と避妊はなかでも大きな争点となり、同時代のアーティストたちもこの問題に取り組んだ。
なかでもよく知られるのは、バーバラ・クルーガー(1945〜)の《無題(あなたの身体は戦場だ)》(1989)だろう。中絶の権利を規制する動きが活発化していた1989年、ワシントンで行われた中絶の権利を守るためのウィメンズ・マーチを支持し、その宣伝のために作られた。作家は学生たちとともに、このポスターをニューヨーク中に貼って回ったという。「自分の作品は、意見を表現するひとつの方法だ」(*2)と作家が語る通り、強烈なヴィジュアルイメージを武器に、個人の身体が政治的問題によって危機にさらされている状況をあぶり出す。
今回の米最高裁判決を受け、現代アートのギャラリーやアーティストたちが即座に「中絶の権利」を求める姿勢を表明している。
ニューヨーク等を拠点とする大手ギャラリー、デイヴィッド・ツヴィルナーはInstagramにて、バーバラ・クルーガーの作品とともにこの判決への反対の意を表明した。本作は、5月の「ポリティコ」による草案リークを受け、作家が「ニューヨーク・タイムズ」のために制作したもの。この投稿にはクルーガーによる以下のコメントが付されている。
「ロー対ウェイド判決の終焉は、リプロダクティブ・ライツを制限し、女性の身体をコントロールしようとする共和党の執拗なキャンペーンの結果である。民主党議員の多くは力強く反論することができず、近年になってようやく、左派がジェンダー、人種、階級をめぐる論争が厳格な懸念のヒエラルキーの中に閉じ込められるのではなく、同時に繰り広げるべきであることを理解し始めたのである。このような切実なレトリックの欠如、投票や戦略的思考がうまく機能しないことが、現在の最高裁判所の構成に悲劇的な影響を及ぼしてしまったのだ」。
老舗ギャラリーのマリアン・グッドマンも、Instagramにて声明を発表。フランスのアーティスト、アネット・メサジェ(1943〜)の作品とともに、コメントした。
「私たちマリアン・グッドマンは、ロー対ウェイド裁判が覆され、全米で約50年にわたり女性のリプロダクティブ・ライツを守ってきた判決が終了したことに憤りを感じています。これは、私たちの存在、身体、そして未来に対する侮辱です。私たちは、政府が私たちの生殖の自由を制限する権限を持つべきではないと信じています」。
アーティストのライアン・マッギンレー(1977〜)は、Instagramで動画とコメントを投稿。「中絶の権利のために立ち上がろう。約50年にわたる保護と生殖の自由を覆す今日の最高裁の判決は破壊的だ」と綴り、25日夜にニューヨークのワシントン・スクエア公園に集う抗議デモで会おう呼びかけた。
ニューヨークを代表する現代アートの美術館であるニューミュージアムも、同様の呼びかけを行なっていた。
アーティストのジェニー・ホルツァー(1950〜)は、NFTのマーケットプレイス「Foundation」上で、女性の身体の自己決定権をめぐる作品のオークションを開催。売上はリプロダクティブ・ライツに関わる団体への寄付金となる。
フェミニスト・アクティビストでアーティストのマリリン・ミンター(1948〜)は、「ポリティコ」のリーク後の5月に「ARTnews」に寄稿する(*3)など、中絶をめぐる問題について積極的に発信してきた。判決後、Twitterで「My body, MY VOTE(私の体、私の投票)」と「Abortion is HEALTHCARE!(中絶はヘルスケアだ!)」と投稿。またInstagramでは映像と、以下のコメントを公開している。
「この最高裁の決定が私たちを止められるとでも思っているのだろうか。何世代にもわたって中絶の権利のために戦ってきた。私たちで終わりにはしない」
著名な美術評論家のジェリー・サルツは、米最高裁判事たちにドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』(原作:マーガレット・アトウッド)を彷彿とさせる帽子を被せた画像をアップ。「ロー対ウェイド判決の暴力的な打倒は、中間選挙の流れを簡単に変えることができる。もし私たち全員が、そして若者が投票すれば勝てる」との趣旨をコメント。続くツイートでは共和党を白人史上主義として痛烈に批判している。
アクティヴィスト・グループでフェミニスト・パンクロックバンドのプッシー・ライオットも、米最高裁判事の写真に加工したものを投稿。
また26日には、自身らが関わる「LegalAbortion.eth」の設立をアナウンス。「中絶のためのWeb3」であり、イーサリアムかUSDCで、リプロダクティブ・ライツのための非営利団体に寄付ができる仕組みだ。
ニューヨークを拠点に、女性やクィアのための様々なプログラムを行う「Project For Empty Space」の共同ディレクターで、キュレーターのジャスミン・ワヒも、Instagramを通して精力的に発信を行なっている。ワヒは2020年に「Abortion is Normal(中絶は正常なこと)」という展覧会を企画しており、本展にはバーバラ・クルーガー、ナン・ゴールディン、シンディ・シャーマン、キャサリン・オピー、シリン・ネシャットら大勢のアーティストが参加した。作品は販売され、収益はリプロダクティブ・ヘルス/ライツのための活動への支援に充てられた(*4)。
ワヒの6月25日の投稿に記された「リプロダクティブ・ジャスティス(性と生殖の公正)はすべての人のためのもの(シス女性のためだけではない)/Reminder: REPRODUCTIVE JUSTICE IS FOR EVERYONE (not just cis women)」というメッセージも重要だ。「Project For Empty Space」のウェブサイトでは、「ABORTION IS NORMAL」「ABORTION IS FOR EVERY(BODY)」と書かれたポスターをダウンロードすることができる。
また今回の判決以前に、5月2日の「ポリティコ」による草案のリークを受け、すでに多くのアーティストがアクションを起こしている。
ゴリラのお面を被った匿名のフェミニスト・アクティビストのアートグループとして知られる、ゲリラ・ガールズもそのうちの1組だ。5月、Instagramに1992年に行われた中絶の権利のためのマーチに参加した際の写真を投稿し、ロー対ウェイドが覆されることを阻止するために声を挙げようと訴えていた。
アーティスト、アリーシャ・エガート(1981〜)は5月にInstagramで「中絶へのアクセスなしに、私たちは自分の体や未来をコントロールすることはできない。この3つは切っても切り離せないもの」とコメントした。
このとき投稿されたのは《OURs》(2022)という作品の写真だ。本作はピンク色のネオンサインが「私たちの体」「私たちの未来」「私たちの中絶」という言葉を繰り返し点滅させるもの。ロー対ウェイド判決の49周年にあたる2022年1月22日に、ワシントンDCの米最高裁判所の前で初めて披露され、その後いくつかの州を巡回する(*5)。
いっぽう、人工妊娠中絶が一般的に行われているように見える日本はどうか。
日本には明治時代から現在に至るまで「堕胎罪」があり、堕胎は禁止されている。実際には母体保護法で定められた条件を満たすことで、人工妊娠中絶が認められている状況だ。しかし母体保護法には「本人及び配偶者の同意を得」ることが定められている。このような「配偶者同意」が必要なのは、世界203か国のうち現在はわずか11か国・地域のみ。また医療機関によっては未婚であってもパートナーの同意を求められる場合があり、妊娠した本人だけで中絶を決められないということが大きな問題となっている。
また日本では、中絶方法の選択肢が限られている。WHO(世界保健機関)が「Safe abortion」(「安全な中絶・流産」、*6)で安全な方法として推奨しているのは「薬剤」による中絶と、「手動真空吸引法(MVA)」の2つだが、日本では前者は認められておらず、後者は実施している医療機関はわずかなうえコスト面でのハードルも高い。日本で一般的に行われている「掻爬術(そうはじゅつ)」は、金属棒で子宮から掻き出す手術だが、WHOはこれを様々なリスクがある「時代遅れの外科的中絶方法」であるとし、推奨しているほかの方法への切り替を勧告している。
そして中絶費用は一般的に妊娠初期で9万円~15万円など高額であり、必要とするすべての人に対してアクセスしやすいように開かれているとは言えない状況だ。
フェミニスト・アクティビストによるアートグループの明日少女隊は、中絶をめぐる権利について発信を行なっている。
今回の米最高裁の判決は、アメリカ国内にとどまらず国際的に大きな影響を与えることになる。これを機に、改めて中絶をめぐる権利をはじめ、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの在り方に目を向けたい。
*1──「BBC NEWS JAPAN」「アメリカの一部で中絶クリニックの閉鎖始まる 中絶権の合憲性覆す最高裁判断受け」https://www.bbc.com/japanese/61934070
*2──「The New York Times Style Magazine」「バーバラ・クルーガー 記憶に残り続ける作品を生み出す希代のアーティストの軌跡<前編>」 https://www.tjapan.jp/art/17416271/p3?page=2
*3──「ARTnews」「Artist and Activist Marilyn Minter on Roe Leak: This Is ‘What Minority Rule Looks Like’」 https://www.artnews.com/art-news/news/artist-and-activist-marilyn-minter-on-roe-wade-supreme-court-leak-1234627748/
*4──「The Guardian」「Abortion is Normal: the emergency exhibition about reproductive rights」https://www.theguardian.com/artanddesign/2020/jan/13/abortion-is-normal-exhibition-reproductive-rights
*5──「The Art Newspaper」「Neon art installation begins tour of US states where abortion rights are threatened」https://www.theartnewspaper.com/2022/02/04/abortion-rights-planned-parenthood-neon-art-alicia-eggert
*6──参考:WHO 「Safe abortion: technical and policy guidance for health systems Second edition」https://www.who.int/reproductivehealth/publications/unsafe_abortion/9789241548434/en/、Safe Abortion Japan Project https://safeabortion.jp/about-us/#safeabortion03
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)