2月下旬の京都で、ポール・ヴァーホーベンの映画『ベネデッタ』、岡田利規を演出に招いた木ノ下歌舞伎の演劇『桜姫東文章』を続けて見た。後者が3時間を超える長編とは露知らず前者鑑賞後の余韻に浸っていた筆者は、曖昧に記憶していた開演時間をチェックして、慌てて映画館から劇場へと走った。そのためか、この2つの作品の印象は私のなかで奇妙に混ざり合っている。
両作はともに女性を主役とし、激烈な生/性のありようを描いている。17世紀イタリアの修道院を舞台に、実際にあった女性同士の同性愛裁判記録のルポルタージュに基づいた『ベネデッタ』では、敬虔な修道女であるベネデッタが、キリストへの過剰な信仰心と修道院に逃げ込んできた女性バルトロメアとの肉体関係を通して、教会での権力闘争に積極的に関与していく。そのプロセスは強烈で、キリストを目撃したという幻視や両手足に聖痕があらわれる奇跡を政治的に利用することで修道院長の座を奪い取り、大衆を煽動して彼女に不信を抱く教皇大使を殺してしまう。
いっぽう、江戸時代後期の戯作者・四代目鶴屋南北の作品をほぼ忠実に現代化した『桜姫東文章』の主役となるのは、左の掌を開くことのできない障がいを持って生まれた桜姫だ。彼女が前生である稚児・白菊であった頃からの宿縁を持つ高僧・清玄、その弟で非道の限りを尽くす釣鐘権助との因縁と欲望にまみれた人間関係を軸にして物語は進むが、その過程で桜姫の家は没落。流離した桜姫は遊女に身をやつし、最後には家の没落と自身の流離の原因を作った清玄と権助を殺して終わる。
コミュニティ内での階級上昇を描く『ベネデッタ』に対して、『桜姫東文章』は、南北が好んだ下降していく物語と言えるが、主人公2人の行動とその理念の理解しがたさが、両作の印象を近いものとして結びつけている。
もちろん、それらの行動をある程度説明できるヒントを、作品そのものとその前提となる歴史的・文化的背景から探ることも可能だ。
ベネデッタは足の小さな発疹から教皇大使がペストに罹っていることを悟るが、村上陽一郎『ペスト大流行』(岩波新書、1983年)によると、14世紀頃にはロックダウン的な隔離措置が感染拡大の抑止に効果があると知られており(イスパニア在住のアラビア人医家イブン・ハーティマーの報告書が紹介されている)、ペストに対する科学的な知識が一部には共有されていた。また、10世紀頃にはヴェネツィアを筆頭とする北イタリアの諸都市が商業都市としての存在感を強め、12〜13世紀にかけてはイスラム圏のアラビア語を経由してギリシア学問の文献が数多くラテン語に翻訳され、イタリア・ボローニャでは大学までも誕生していた。
映画では頼りなげな人物として描かれるベネデッタの父親だが、貴族でも農民でもないブルジョワジーの階級にある彼もまた中世ヨーロッパで展開した大きな社会の改革を知る者であり、ベネデッタ自身もその教養や習慣を素地としていたはずだ。付け加えると、死者の増加による慢性的な人手不足は貴族階級の生活にも影響を及ぼし、貴族夫人の身の回りの世話や看病を下男に任せざるをえない状況が、女性たちの性的な放埒を推し進める一因になったとも考えられる。
ベネデッタという人物の理解しがたさは、彼女の内面描写がキリストとのエキセントリックな幻視以外にほとんど描かれず、どのような理念で彼女が行動しているのかが判別しないこと、またその過程で的確に選ばれる科学的・政治的な振る舞いを閉塞的な修道院のなかでどのように習得したか不明であることに依拠している。しかし、これまで述べてきたようにベネデッタの政治的駆け引きの洞察力も性的なものへの強い関心も、天啓のように突如与えられたものではないはずだ。
ヴァーホーベンは、『ベネデッタ』に限らず『ショーガール』や『氷の微笑』といった作品のなかで、自身が信じる女性の有能さを劇的に描くために、逆に女性たちを不遇な環境に配置する傾向があるが(『ロボコップ』や『スターシップ・トゥルーパーズ』にも顕著な彼の戯画化志向を、批判的に捉える必要もある)、伏線は様々なかたちで張り巡らされている。
いっぽう『桜姫東文章』の理解しがたさは、同時代のゴシップや既存の「古典」の内容を自在に引用する歌舞伎のメタフィジックでコラージュ的な性質、まったく別の物語と説明なしに設定がリンクする拡張性などに外因している。それらは本作が前提としている、個人を抑圧する「家」の論理、あるいは前生からの因縁に行動を拘束されることの外からの不条理の隠喩として理解することもできるが、廣末保が編著した『桜姫東文章』(白水社、1990年)の台本からは、それらに抗おうとする桜姫の自由意志との衝突にこそ起因するようにも読める。
桜姫を拘束する前生と現在の象徴としての清玄と権助を殺し、自身の再生と家の再興を遂げたとする廣末によるクライマックスの解説を受け入れるならば、鐘と桜のタトゥーを腕に彫ったり、「風鈴お姫」という遊女としての名前と世俗の言語感覚を得て奇抜な変身を遂げたりする、それまでの桜姫の闊達さが色褪せてしまうだろう。そもそも南北の書いた言葉のなかには、外因性に身を委ねながらも、遊戯性をともなう抵抗のプロセスの渦中において、自分自身で自らの人生の決定を獲得しようとする桜姫のラディカルさがある。
郡司正勝は、自著『鶴屋南北 かぶきが生んだ無教養の表現主義』(中公新書、1994年)の「『桜姫東文章』とその時代」のなかで、文化14年=1817年の大火によって「また貧民が街に溢れるにちがいない。また多くの飯盛女が出現するのであろう。南北は、この機会を狙っていたのではあるまいか。」と本作が書かれた時代背景と作家の意図を推測している。この一節をふまえれば、流離の渦中にあっても勢いを減じることのない桜姫の破天荒な行動が、困窮する大衆へのエンパワーメント、あるいは大衆がそもそも持つ自力の顕現・共有として機能した可能性も浮上してくる。
木ノ下歌舞伎は、主宰する木ノ下裕一が補綴という役職を務め、彼が指名した演出家とともに作品ごとの方向性を定めていくユニークな手法を採るのが特徴だが、『桜姫東文章』においては岡田利規に脚本と演出の裁量を大きく委ねており、その点で本作はこれまでの木ノ下歌舞伎作品と一線を画す。木ノ下は、『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10』(河出書房、2016年)で岡田が訳を手がけた能『松風』、狂言『木六駄』もふまえて『桜姫東文章』の座組みを構想しており、そこでの岡田の古典の言葉の扱いに信を置いたのだろう。
その期待に対して、岡田は言葉だけでなく空間的・時間的な演出や劇全体を包摂する枠組みまでを用いて応えた。『桜姫東文章』では、『プラータナー:憑依のポートレート』(2018年初演)で全面的に展開した劇中劇の仕掛けや、歌劇『夕鶴』(2021年)での二部構成による転換を利用した原作への「註釈を加えるような読み替え」、あるいは『地面と床』(2013年初演)での、字幕をもう一人の俳優のように扱う手法などが結集している。
それらのなかでももっとも効果的に機能していると思われたのが、字幕の活用である。基本的に字幕が担うのは、進行する物語の複雑さを整理して観客に届ける役割だが、しばしばこれから起こることを断片的に伝える予言者の声のようにも振る舞う。舞台上に常に投影され続ける字幕をつどつど確認しながら、観客はパフォーマンスを追うことになるが、「清玄、桜姫にセックスを迫るも 振りほどかれ川に落ちる。」といった予告される展開の唐突さや、たしかに示された決着に至りはするものの、そこに至るまでのプロセスの不条理さを際立たせる効果を字幕は発揮して、『桜姫東文章』という古典の物語と現在の観客のあいだに広がる埋めがたい距離を印象づける。
はじめて見た観客たちからは「棒読み」や「くねくねした動き」とSNS上で評された岡田の演出は、総じて迂遠さや緩慢さの余白を志向するが、それによって生じる多孔的な性質は、物語への安易な没入を遠ざけ、この劇場空間で遂行されている物事があくまでも演劇であるという醒めた意識を観客に植え付ける。それは言い換えれば、観客に批評の視野を獲得させることであり、最初に筆者が述べた「理解しがたさ」を造形し、桜姫のラディカルさを特異な方法で際立たせる。
その意味で、ヴァーホーベンの過剰性と戯画化への志向と、岡田の多孔性への志向は、「理解しがたさ」を造形するための同じ軸線上の、遠い2つの場所にポイントされた極として理解することができるだろう。そこに潜んでいるのは、知られざる歴史の断片や古典の物語を慎重に現代化させるための、映画監督/演劇作家の批評・手さばきである。
ベネデッタ
全国公開中
監督:ポール・ヴァーホーベン 脚本:デヴィッド・バーク、ポール・ヴァーホーベン
原案:ジュディス・C・ブラウン『ルネサンス修道⼥物語―聖と性のミクロストリア』
出演:ヴィルジニー・エフィラ、シャーロット・ランプリング、ダフネ・パタキア、ランベール・ウィルソン
[2021/フランス・オランダ/DCP5.1ch/スコープサイズ/仏語・ラテン語131 分/R18+/原題:BENEDETTA]
配給:クロックワークス
©︎ 2020 SBS PRODUCTIONS - PATHÉ FILMS - FRANCE 2 CINÉMA - FRANCE 3 CINÉMA
公式サイト:https://klockworx-v.com/benedetta/
桜姫東文章
全国ツアーは2023年2月から3月初旬まで実施
作:鶴屋南北
監修・補綴:木ノ下裕一
脚本・演出:岡田利規
出演:成河、石橋静河、武谷公雄、足立智充、谷山知宏、森田真和、板橋優里、安部萌、石倉来輝
https://kinoshita-kabuki.org/sakurahime