公開日:2024年8月24日

藪前知子(東京都現代美術館)× 松江李穂(埼玉県立近代美術館)対談:日本の現代アートとキュレーション、美術館の20年【Tokyo Art Beat 20周年特集】

Tokyo Art Beat設立20周年を記念する特集シリーズ。東京都現代美術館学芸員・藪前知子と、埼玉県立近代美術館学芸員・松江李穂、ふたりのキュレーターが、美術館とキュレーションの20年、そして未来への展望を語る。(聞き手:福島夏子[編集部]、構成:後藤美波[編集部]+進藤美波)

左から、藪前知子(東京都現代美術館)、松江李穂(埼玉県立近代美術館) 撮影:雨宮章

Tokyo Art Beat設立20周年を記念する特集シリーズ。「これまでの20年 これからの20年」と題して、6つのテーマで日本のアートシーンの過去・現在・未来を語る。

第1弾となる本稿では、東京都現代美術館学芸員の藪前知子と、埼玉県立近代美術館学芸員の松江李穂という世代の異なる2人のキュレーター対談をお届け。日本の現代アートシーンの20年をそれぞれの仕事や経験を通して振り返りながら、近現代美術館のあり方やキュレーションの変化について語り合う。またともにBTSのファン=ARMYであるという共通点から、ファンカルチャーとアートという切り口で盛り上がる一幕も。
Tokyo Art BeatのYouTubeにて後日動画も公開予定。

*特集「TABの20年、アートシーンの20年」ほかの記事はこちらから

転換点となった2000年代の現代アートシーン


——藪前さんが東京都現代美術館(以下、現美)で学芸員として勤務し始めたのが、20年前の2004年ですね。Tokyo Art Beatが設立されたのも同年ということで、まずは当時の現代アートシーンや美術館がどんな雰囲気だったのか、振り返ることから始めたいと思います。藪前さんは当時のシーンをどのように記憶していらっしゃいますか?

藪前:私は学芸員として現美に着任する前からここ(現美)でアルバイトとして働いていました。記憶に残っているのは、1983年から2000年までこの近くにあった佐賀町エキジビット・スペース小池一子が開設した非営利のオルタナティブ・スペース)のことです。

アルバイトの帰りに佐賀町を覗いてみようと立ち寄ったところ、ちょうど展示が終わったあとで入れなかったんです。じつはそれが佐賀町で開催された最後の展覧会で、このスペースが築いたひとつの時代が終わって、ここから自分の仕事が始まるんだな、ということをなんとなく思ったのを覚えています。

それがちょうど2000年。入れ替わるように小柳敦子さんギャラリー小柳)や小山登美夫さん小山登美夫ギャラリー)、石井孝之さんタカ・イシイギャラリー)といった新しい世代の現代アートのギャラリストが清澄白河に集まり、自分たちのスペースを持ち始めた時期だった。当時はまだ銀座に現代美術をやってる画廊がたくさんあって、そこを巡りつつ新しくできた画廊も巡る感じでした。あの頃は『美術手帖』が新人にレビューを書かせるという連載をやっていて、私も2007年にそのレビュー欄に寄稿しました。本当にたくさんの展示を回る、批評家育成みたいな連載で、老舗から新進気鋭のギャラリーまでとにかく東京中をよく巡ったな、という思い出があります。

時代としては、現代美術シーンがものすごい勢いで変化していく時期でした。1995年頃から新たなギャラリーがたくさんでき、海外にもマーケットを作っていく人々やプライマリーギャラリーが増えました。その人たちの活動が5年、10年経って軌道に乗り始め、今度は新しい作家たちをデビューさせていくような転換機だったかなと思います。

——清澄白河に登場したギャラリーコンプレックスは話題のスポットで、1995年開館の東京都現代美術館とともに現代アートの中心地として広く知られるようになりました。

藪前:現美において私は7年ぶりに採用された学芸員でした。私たちの世代は就職氷河期で、非正規雇用が始まった第一世代でした。指定管理者に切り替わった時期でもあり、日本の公立美術館の仕組みが切り替わったタイミングだと言えます。

新人時代に担当した「大竹伸朗 全景 1955-2006」

——学芸員になった2年後には「大竹伸朗 全景 1955-2006」展を担当されています。展示に至る経緯や当時について聞かせてください。

「大竹伸朗 全景 1955-2006」展(東京都現代美術館、2006)展示風景 撮影:平野晋子

藪前:いま思うと新人である私に企画展示室3フロア全館を使った展示を任せようと思った上司がすごいな、と思います。大竹さんは当時、公立美術館での回顧展のご経験がなかったんです。どちらかというと文学やサブカルチャーの分野でヒーローでしたが、現代美術の分野では、活動が多岐にわたっていたため、イラストレーションとか広告の人などのイメージを持っている人が多く、不当に評価されていない状況だったと思います。

そもそも美術というジャンルがあらかじめ存在していたわけではなく、多種多様な表現活動の中から形作られていったもので、その間を埋めるような存在の人たちは歴史の中でも無視されがちでした。大竹さんは、彼を紹介することでいろいろな文化的文脈が繋がって見える存在。そして誰も彼の仕事の全貌を見たことがなかったんです。

いま思うと、個展開催にあたってこんな新人に大竹さんにはすごく真摯にお付き合いくださいました。宇和島にお住まいの大竹さんのもとを10回以上は通って打ち合わせを重ねました。思い出すのは、最初のプランを700点くらいの、それでも大規模な展覧会としてまとめて、ご提案して東京に帰ってきたら大竹さんから色々と質問の電話があって。これはまずいと思って翌朝また舞い戻ったところ、そのときの話し合いで3000点で美術館を埋め尽くすというプランが決まっていったのですが、大竹さんのおっしゃていることが、その時はえっ!!と思っても、最終的にはいつも正しかったなと思います。 

「大竹伸朗 全景 1955-2006」展(東京都現代美術館、2006)展示風景 撮影:平野晋子

——展覧会は大きな反響を呼びましたが、お客さんの反応はいかがでしたか?

藪前:それまでの展覧会と全然違う印象でした。展示の最後に感想を書き残すノートを置いておいたら、いろいろな人がコメントしてくれて。「感激しました。絶対画家になります」と書かれていたり。最近は、高校生や中学生の時にこの展示を見て、アーティストを志したといわれることも度々あります。

65日間の会期中、大竹さんはほぼ毎日会場に来ていて、「ダブ平」を演奏していました。ライブが60数日間続いたようなかたちでした。大竹さんとは「50年後のパンクに向けて展覧会をやろう」とお話したことがありましたが、まさにいま生きている大竹伸朗を見せるような展覧会でした。

「大竹伸朗 全景 1955-2006」展(東京都現代美術館、2006)展示風景 撮影:平野晋子

ファンダムとミュージアム

松江:大竹展の経験が、その後の展覧会作りにも影響したと思うことはありますか?

藪前:そうですね。そのときから変わらず、歴史の中で異なる文化的な文脈のハブになっているような、そんな特異点になる人を紹介していきたい、という思いがあります。

松江:藪前さんは大竹展以降も、異なるジャンルを越境する表現にキュレーションを通して注目してきたと思います。「山口小夜子 未来を着る人」展、「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展などにもそうした姿勢がありますよね。こうした視点は今後さらに重要になっていくと思いますが、それぞれの領域にいるファン層を展示を通して近付けていくことは意識されてますか?

「山口小夜子 未来を着る人」展(東京都現代美術館、2015)展示風景 撮影:重本隆

藪前:そうですね。私は大学院でも美術史の上での音楽と美術の関わりについて研究対象にしていたり、異なる表現分野が干渉する領域に興味が元々ありました。

大竹さんはマルセル・デュシャンやポップアートを参照し、現代美術の文脈でその表現手段を磨きつつ、ノイズバンドJUKE/19. のような活動も並行してこられたところに興味がありました。大竹展の最終日にはアトリウムがライブ会場のように人で埋め尽くされて、ついに閉館時間になったとき、観客からスタンディングオベーションが起こった。そのなかで大竹さんに一言お願いします、と言ったら「全景展2で会いましょう」と。そんな瞬間があったんです。

そのとき、美術館というもののこれまでとは違う可能性を感じました。展覧会に30回以上来て下った人もいましたし、ファンダム(ファンの世界)のような、コミュニティがそこに生み出されていたというか。

「大竹伸朗 全景 1955-2006」展(東京都現代美術館、2006)展示風景 撮影:平野晋子

「山口小夜子」展では「小夜コス」という言葉が生まれ、彼女のコスプレをして展示を見に来る人が展覧会後半に行くにつれて増えていきました。「石岡瑛子」展では、それまで私には見えていなかった、石岡瑛子のダークな世界に反応するようなアンダーグラウンドな表現のファンダムからSNSで爆発的な反応がありました。そんな見えなかった文化のコミュニティが出会う空間に、これからの美術館の可能性があればいいなと思っています。

ゼロ年代、日本の現代アートの“ガラパゴス化”

——松江さんは1994年生まれですが、2000年代の日本のアートについてどんなイメージや興味を持たれていますか?

松江:2000年代、私は小学生から中学生で、しかも出身が青森ということもあり、東京のアートのシーンをリアルタイムでは知らずに過ごしていました。金沢にある大学に入ってからキュレーションや美術史を研究するなかでゼロ年代のシーンを知って、日本というローカリティに関心を持ちました。それまでの欧米中心的なアートシーンだけでなく、自らのシーンや美術史を作り上げていこうという意識が強く出てきた時代だと思います。

2010年代になり、私自身が大学で本格的に美術を学んだ頃には、むしろゼロ年代を批判的、反省的に見るという意識が高まっていました。個人的にはその時代に何を核として人々が動いていたのか、その熱量のようなものに関心があります。

藪前:確かに、私が「全景展」を企画したときも、大竹さんをこれまで評価してこなかったアートシーンに対して批判したいという意図も少しありました。2000年代は国内にグローバルなネットワークを持つマーケットができて、作家が活動できる基盤が整っていくいっぽうで、海外とのネットワークがなくても国作家同士がつながることで自立的な活動をし始めたと思います。大竹さんはそういう繋がりを持って活動した先駆的な存在でもあって。

松江:私が大学に入学したのは2014年で、金沢21世紀美術館が近かったこともあり、そこから現代アートに関する主な情報を得ていました。その頃アートマーケットは少し下火になって、作家は芸術祭などに活躍の場を移していました。そこから一歩また進んで批判的に地域芸術祭を見る流れがありました。

藪前:なるほど。大きな変化の分岐点は東日本大震災だったような気がしますね。震災後、作家たちはそれまでの表現が社会に対してどのように存在しうるかを問われていました。地域芸術祭は、震災からの復興と絡めて広がっていくという面もあった。それとは別にアートマーケットも広がっていて、マーケット先導で活動の場を広げる作家たちも多くいます。そうしたアーティストと、社会での実装を重視するアーティストとの乖離が広がったと言えるかもしれません。

1994年生まれ、ゼーマンに触れキュレーターを志す

——松江さんがキュレーターになられた経緯について教えてください。

松江:私は美大の学部生時代に、1991〜99年にかけて石川県で開催された「鶴来現代美術祭」(「ヤン・フートIN鶴来」[1991年、94年]と「アートフェスティバルIN鶴来」[1995〜99年]の総称)の資料のアーカイブやリサーチに携わり、本展に関わった国際的なキュレーターであるヤン・フートを通して、キュレーションというものを意識するようになりました。

最初はヤン・フートって誰だ?という感じだったんですが、調べていくうちにインディペンデント・キュレーターという存在や、キュレーターが現代美術における重要なプレイヤーだということを知りました。そしてその源流を辿るうちに、インディペンデント・キュレーターの先駆けであるハラルド・ゼーマンに行きつき、東京藝術大学大学院でゼーマンを研究しました。私にとって大きな関心はキュレーションという形式、技術そのものです。キュレーションというものから、現代アートに興味を持つようになりました。

ゼーマンは表向きには現代美術におけるキュレーションの基礎を作った人物として知られていますが、実はローカルなもの、特に母国・スイスについて強迫観念的に研究し続ける人でもあって、そのキュレーター像が面白いなと思ったんです。

藪前:ゼーマンはコンセプチュアル・アーティストでもあり、その延長でキュレーターとしてのキャリアをはじめていますよね。

松江:そうですね。もちろんあの時代で彼にしかできなかったこともあると思いますが、ゼーマンが体現するような、キュレーションのコアにキュレーター本人のアイデンティティや強い興味関心があるという姿勢には、私も影響を受けています。

藪前:松江さんの世代には美術館などに属さずインディペンデントでキュレーションをやっている方もたくさんいるし、作家との距離がすごく近い印象があります。私の世代は、アカデミックに美術史を勉強するというところからスタートして学芸員になっているので、キュレーターと名乗ることにも抵抗があったし、世代の違いを感じますね。松江さんたちの世代では、アーティストやキュレーターみんなが共同して場を作っていこうという感じがあって、すごくいいと思います。

世代で異なる「キュレーション」への姿勢

——松江さんが企画された展示についても伺えますか?

松江:富山の田園に佇むギャラリー無量で「キュレーション公募」なるものがあり、そこで採用された展覧会「一歩離れて /​ A STEP AWAY FROM THEM」をキュレーションしました。同じく90年代生まれの作家と一緒に作った展示で、キュレーターを内省的に考察し作家と協力して作ることを意識的に行いました。きっかけとなったのは、MoMAで働きながら詩人としても活動していたフランク・オハラで、彼が昼食を買いに行く道すがらの風景を詩にした作品があって、それがキュレーターと詩人……つまり作家としての視点が一緒くたになっていて面白いと思い、その意識に影響を受けました。

三枝愛 禹歩 2021 「一歩離れて / A STEP AWAY FROM THEM」(ギャラリー無量、2021)会場風景 撮影:中川暁文 
松本悠 展示風景 「一歩離れて / A STEP AWAY FROM THEM」(ギャラリー無量、2021)会場風景 撮影:中川暁文 

藪前:作家さんたちとはどういうつながりがあって企画になったんですか?

松江:もともと知っている人もいたんですが、展示のために選んだというよりも、いつか展覧会をやるならこの人たちとやりたいと考えていたアーティストに声をかけました。

髙橋銑 Feels Like We only Go Backwords 2021 「一歩離れて / A STEP AWAY FROM THEM」(ギャラリー無量、2021)会場風景 撮影:中川暁文 
渋谷剛史 聞こえない音を鳴らす 2021 「一歩離れて / A STEP AWAY FROM THEM」(ギャラリー無量、2021)会場風景 撮影:中川暁文 

また、埼玉県立近代美術館に勤めてからは、コレクション展を担当したり、現在、愛知県美術館に巡回中の「アブソリュート・チェアーズ 現代美術のなかの椅子なるもの」という現代美術における椅子の表象をテーマした展覧会では、レジデンスを担当しました。いずれにせよ現代美術で一緒に協働しながら展覧会を作り上げていくことに関心があります。 

「アブソリュート・チェアーズ」(埼玉県立近代美術館、2024)レジデンス風景  カナダからの招聘作家ミシェル・ドゥ・ブロワン《樹状細胞》の制作風景

藪前:そうした姿勢を伺って興味深く感じつつ、私自身はどうかといえば、やはり公的な美術館のキュレーターとしての自分の役割に興味があるかもしれません。文化の語られ方が公平であるために、そうした公共性を担う者として何をすべきかということが自分の中で優先事項としてまずあります。ある表現として展覧会を作るというのとはまた少し違うので、スタンスの違いが興味深いですね。

松江:もちろん私も美術館の学芸員として、ある地域性をどう残していくかという意識はあるんですが、もう少しキュレーターという仕事をメタ的に見ていますね。

藪前:私のキャリアの初めには、時代的にも美術館の学芸員がキュレーターと名乗ることに抵抗があったと思います。キュレーターという華やかな響きの仕事ではなくて、作家の表現を社会につなぐ翻訳者というか、あくまでも黒子という意識です。時代的にも、2000年代初めには、キュレーションという行為の非民主主義的なあり方について、ヴェネツィア・ビエンナーレ光州ビエンナーレでもそのこと自体の批判がテーマとして取り上げられたりもしました。

松江:まず第一に作家がいて、その後ろにキュレーターという存在がいるというのは本当に忘れてはいけないことだと思います。

藪前:私は作家さんというか表現する人に対して、冒せない尊敬や神聖さのようなものが絶対的にありますが、松江さんの世代は、作家主導の展覧会も増えましたし、作家とキュレーターが相互に影響を受け合いながら展覧会を作るような関係を築いているように見えて、すごく希望を感じています。

 松江:今年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館での、毛利悠子さんとイ・スッキョンさんのコンビが象徴的でした。今回初めてアーティストがキュレーターを選ぶということが行われましたね。

また最近は「ケア」というテーマが展覧会に取り込まれるようになり、仕事や労働、作家に対する関わり方も内部から変わりつつあるという印象も抱きます。それはキュレーションの仕事を再考することにもつながります。

藪前:「curation」が「cure」から来ていることを思い出させますね。

近現代美術館の役割

——おふたりが美術館をどのようにとらえているかお聞きできますか。

松江:私は地方にいた時間が長く、いまも東京の郊外である埼玉にいるので、美術館と地方の関係性を考えながら仕事をしています。たとえば埼玉は関東大震災以降に「浦和画家」と呼ばれる作家たちのコミュニティの歴史があったり、武者小路実篤「新しき村」というユートピアコミュニティを埼玉に作ったりしていました。東京に対する郊外化とユートピア化が結びついた面白い例で、こうした側面から地域や日本をとらえ直すことができる。

「浦和画家」である林倭衛《別所沼風景》(1941-44、埼玉県立近代美術館蔵)

アートシーンはやはり東京を中心に考えられがちなのですが、様々な土地に美術を考える人がいます。そのアイデンティティのもとにある文化や風土、精神性を残していくうえで、美術館がひとつのハブになっている。美術館が意識的に自分たちの土地にある精神性について考え、結果としてそれが日本の文化や精神を考えることにつながる。それは東京だけではできないことなので可能性を感じています。

藪前さんは逆に中心的な場所から、美術館にどのような期待を持っているのでしょうか。

藪前:「開かれた美術館」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、子供向けとかこれまで美術館に興味がなかった人たちにもわかりやすい内容を、というような誤解をされているように思います。もちろんそれも重要なんですが、美術館の可能性は別のところにあると思うんです。

東京都現代美術館はコロナ禍以降、すごく人が入るようになり、オーディエンスが変わった感覚があります。会場で熱心に文章を読んだり、話したりしている人も多く、たんにライトユーザーが増えたというよりは、現代美術を通じて社会や自分たちの時代について何かを考えたい、知りたいという人が増えたという印象なんです。これはSNSの影響もあると思いますが、主体的な思考を開く役割を果たしている実感があり、美術館はそうした人の行動様式や文化の広がりに影響を与えることができるのではないかという意識があります。

松江:美術館ってすごく特殊な場所ですよね。パブリックな室内でありながら、好きなように歩いたり喋ったりもできて。身体の自由な動きがある程度許されている。

藪前:そうですね。東京都現代美術館のリニューアルオープン(2019)のプロジェクトを担当したのですが、その際のチームに入ってもらったスキーマ建築計画の長坂常さんが、デザインのコンセプトについて、「普段使いの美術館」というテーマをあげてくださって。隣接する公園からもその延長のように入って来られて、図書室やフリースペースやカフェで自由に過ごせるし、気になったら展覧会を見てもいい。コロナ以降は、そういうかたちで美術館を使ってくれている実感があります。

インターネット環境の変化もあり、表現もオーディエンスも多様なジャンルを行き来していて、美術館の形態自体もより広いジャンルを受け入れる器へときっと変わっていく。この先20年のあいだに大きな変革が起こるのではないかと個人的には思っているので、それに向けて何かしら寄与していきたいです。

東京都現代美術館 外観 右はアンソニー・カロ《発見の塔》(1991) Photo:Kenta Hasegawa

2010年代、震災以降の変化

——先ほど、東日本大震災がアートシーンにとって転換点となったという話がありました。2010年代から現在へと続く変化について、もう少しお聞きできますか。

藪前:やはり震災が起きたことで、アートのアクチュアリティがすごく強まったと思います。いま、この表現をすることの意味が問われる。時宜性、現在性が強まっていったのがこの10年の流れではないでしょうか。

いっぽうで、美術館という仕組みがこうした時宜性に耐えられるのかという問題も大きくなりました。アクチュアルな政治的・社会的問題を美術館が扱うことができるのかという問題ですね。私も担当した「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展で展示した作品にもそうした問題が起こりましたし、「あいちトリエンナーレ2019」でもSNSを発端に展覧会を継続できないほどの批判が巻き起こりました。公的なインスティテューションとアーティストの活動の摩擦が大きくなっていた時期でもあると思います。インターネットやSNSが普及した時代に、美術館という閉じた空間だったものが拡散して、パブリックの意味も変わりました。

松江:社会的な問題に対する実践的な作品が本当に増えましたね。美術館もそこに追随していくなかで亀裂が生じてきたというのはおっしゃる通りだと感じます。

ただ、難しさだけじゃなくて、たとえば女性作家をはじめ歴史のなかでないがしろにされてきたような作家を再考する動きや、労働環境、ケアの問題をもう一回考えようという、これまでへの反省の意識も同時に生まれてきたと思います。顕著になったのはここ数年ですが、文化を生成する人間的な環境を再考しようということが、ミュージアムとアーティストの共同作業としてあったのかなと。

藪前:震災によって、現代美術が政治性を持ち得ることや、社会に対するメッセージの鋭利さが一般的に知られるようになったということでもあると思うので、そこは表裏一体ですね。あとは、歴史や土地の文脈についてのリサーチベースの作家も増えました。

松江:作品の見せ方や展覧会の作り方の意識も変わっていますよね。たとえば「ドクメンタ」は顕著ですが、見るほうのエネルギーやリテラシーもすごく求められるようになりました。キュレーターや、作品とオーディエンスをつなぐ人がどんなテクニックで見せていくかは、だんだんと難しくなっている気はします。政治的な事柄を扱っているときのバランスもさらに複雑になってきていますね。

藪前: SNSの影響は本当に大きいですね。現代美術は、やはり既存の概念をどのようにときほぐすかという、社会に対する批評性が根本にあるものですよね。キャンセルカルチャーが世界的にも表現を殺すという点で問題になっていますが、ポリティカルコレクトネスが支配する世の中で、現代美術の役割をどう守っていけるのかは、本当に大きな課題だと思います。

松江:そうですね。それは今後の2020年代に続く大きな課題ですね。

左から、藪前知子(東京都現代美術館)、松江李穂(埼玉県立近代美術館) 撮影:雨宮章

これからの20年に向けて

——おふたりは、これからの20年でどんな展覧会やキュレーションをしていきたいですか? 

松江:現在関心を持っているのは、オカルティズム神秘主義といった非合理的なものの精神性です。いまは陰謀論や過剰なナショナリズム、排他主義などが、オカルトな感覚から生まれてきているとように思えるんです思うんです。そこでもう一度、オカルティズムや非合理的な精神が人間社会のなかでどんな文化圏に属し、どんな側面を持っているのかを展覧会を通して示してみたいです。精神的なものを考えるうえで、展覧会というフォーマット、すなわち空間的な次元で何か成立できないかと思いながら日々研究しています。

藪前:私はそろそろキャリアの行く末も見据えていかなきゃいけないと思っているので(笑)、これまで考えてきたことの延長線上にたくさんやりたいテーマはありますが、いずれにしても、自分がつながりを作ってきたいくつかの文化圏について、何か貢献したいなと思っています。この人がいることでいろんな文脈がつながる、という文化のハブのような存在。そういう人こそ重要なのに、なかなかそのことは見えにくいですから。

いまは「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」(8月3日〜11月10日)を企画しているんですけど、高橋先生はカタログに寄せていただいた文章のなかで、芸術を蹴鞠にたとえているんです。それを時代を越えて落とさないように蹴っている感覚。使命というと大袈裟ですが、そのような公共の何かに奉仕している感覚ですね。

「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」(東京都現代美術館) キーヴィジュアル

——高橋龍太郎コレクションはまさに日本の現代アートの歩みを振り返るうえで必見の展覧会になりそうですね。

藪前:はい。高橋龍太郎コレクションは1990年代以降の日本現代美術のもっとも重要なコレクションです。東京都現代美術館は1995年にオープンしたしたのですが、先生は1997年頃から本格的にコレクションを開始されていて。バブル崩壊後、美術館に収集予算がつかない時期に、先生はコレクションを大きくされていったので、ふたつのコレクションは補完関係にあると言えます。高橋コレクションといえば、という教科書に出てくるような作品のハイライトももちろんお見せしますが、今回はそれだけでなく、コレクションの方針が、作家たちに影響されて変化していく、最新の若手作家の動向まで含めた、その過程も辿る内容になっています。戦後の1946年、日本国憲法ができた年に生まれた戦後世代を代表するひとりのコレクターの「私観」として、日本の現代美術史を辿る内容になっています。

「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」(東京都現代美術館)会場風景 左:小谷元彦《サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)》(2022)、右:鴻池朋子《皮緞帳》(2015-16) 撮影:井嶋 遼

アートメディアに望むことは?

——では、おふたりがこれからのアートメディアやTABに望むことはなんでしょうか。

藪前:美術は基本的に直接体験が重視されますが、世界中、日本中でいろいろな活動が行われているので、全部を経験できない時代にどんどんなっていきますよね。見ている人が少ない活動でも、いま何が起きているのかを報じていただけるメディアであるといいなと思います。

あともうひとつ、アカデミックなメディアとは違う、書き手にも新しいジャンルとの出会いや刺激を与えるようなメディアであっていただけたらいいですね。たとえば私は去年、デヴィッド・ボウイの伝記映画のレビューの依頼を受けて、音楽や映画にとどまらない現在のメディアの状況をよく示している作品だったので喜んで書いたのですが、TABが射程にしている表現ジャンルの幅はとても広いですよね。たまたま明け方に書いていて、BTSジョングクがモッパン(食事の様子を撮影、配信する動画)が始まったのでそれを画面の隅っこに流していたら、彼が食べながらファンと直接交流している様子を見て、大衆やメディアと個人の関係や、そこにおけるパーソナリティについて、デヴィッド・ボウイが生涯通してやりたかったことをすごく理解した瞬間があったんです。書きながら自分がアップデートされた感じがありました。

松江:私も、やはり地方やあまり注目されていない面白そうなところにアンテナを鋭く持っていただけたらいいなと思います。周縁的なものに光を当て続けることはとても重要ですし、そこから逆にいま中心と言われているものが見えてくることも多分にあると思うので、そのコネクションは持ち続けてほしいです。

藪前さんがおっしゃったことも確かにそうで、学芸員が美術館や自分の領域を超えたところで何かを訴えかけたり考えたりできる場って結構限られていますよね。メディアが積極的に別分野の人たちをつなぎ合わせて、ひとつのプラットフォームになってくれると良いですね。

BTSの現代性

——ありがとうございます。頑張ります。さきほどBTSのお話しが出ましたが、おふたりはARMY(BTSのファンダム名)という共通点があるんですよね。

松江:私はそれこそコロナの時期は本当にBTSに救われて、魂を救済してもらったので(笑)。

藪前:やっぱりそうなんですね。私はアンダーグラウンドを自認している人間だったのですが……ボストン美術館の修復家の方と仕事をしたのがきっかけでした。その方は日系アメリカ人でしたが強火のARMYで、彼らの存在がアメリカのマイノリティの方々にとって大きな救いなのだなと理解しましたし、その後、ファンダムが社会に多様性を目指すコンセプトに応じて政治的・社会的な動きを自立して行っていることなども知り、そのダイナミズムに感動しました。

松江:私は最初は、ビジュアルやパフォーマンスから入ったのですが、どんどんはまっていくうちに、彼らのやっていることが他者や自分自身を労ることなど、ケアの部分に向かってることに共感するようになりました。(社会的なテーマを扱うような)アートはかえって限られた領域に閉じがちなところがありますが、彼らの存在はすごく開かれているのに、入っていくと社会問題などの広い世界にたどり着く。すごいことをやっているなと思いました。

藪前:私も彼らの活動を見て、メジャーとマイナーの二分された状態では測れない事が起きているのだなというのがショックでした。いちばん刺さったのは、彼らが自作だったり作りかけの曲をSoundCloudやSNSにアップしてファンとやり取りをしているところでした。そこには驚くほど細かい感情のやり取りがあって、オーバーグラウンドとアンダーグラウントの二分法がもう成立しない、ネット時代のリアリティを感じました。

——ファンダムも一枚岩でないとは思うのですが、K-POPのスターがマイノリティに関わる政治的問題やセルフケアの重要さを様々な方法でファンに向けて発信し共有する姿には、いまの若いアートプレイヤーとの同時代的な共通性を感じます。

松江:そうですね。私も大学院のとき、周囲には人種や出身、セクシュアリティなど様々なアイデンティティを持つ人がいましたが、K-POPと韓国ドラマの話は共通の話題として盛り上がるということが面白かったです。以前だったら西洋やアメリカ的なカルチャーが中心だったのが、韓国という、世界のパワーバランスで言えば長らく周縁化されていた国の人たちが、世界に向けて重要なメッセージを発信している構図自体に勇気をもらえる。だから実際にプレイヤーとしての親近感を感じるのではないでしょうか。

——今日はありがとうございました!


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藪前知子(やぶまえ・ともこ)
東京都現代美術館学芸員。担当した主な展覧会は、2006年「大竹伸朗 全景 1955-2006」、15年「山口小夜子 未来を着る人」、15年「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」、20年「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」、21年「クリスチャン・マークレー 翻訳する[トランスレーティング]」、24年「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」(いずれも東京都現代美術館)。

松江李穂(まつえ・りほ)
埼玉県立近代美術館学芸員(臨時的任用)。東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻キューレーション領域修了。主な展覧会に2021年「一歩離れて / A Step Away From Them」(ギャラリー無量)、22年「アーティスト・プロジェクト#2.06 髙橋銑 いき、またいきるまで」、23年「アブソリュート・チェアーズ」(どちらも埼玉県立近代美術館)など。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集長。『ROCKIN'ON JAPAN』や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より「Tokyo Art Beat」編集部で勤務。2024年5月より現職。