公開日:2023年4月15日

ノーマ京都、コース全皿レビュー(後編)。コース後半解説と、ペルーのセントラルとの対比で明らかになった驚嘆すべき構築性の考察(評:藤田周)

世界最高と謳われるデンマークのレストラン、ノーマ。京都でのポップアップレストラン「ノーマ京都」を文化人類学者として現代料理を研究する藤田周がレビュー。全皿解説でコースの全体像、そしてノーマの哲学に迫る。(撮影:永田康祐)

ノーマ京都 撮影:永田康祐

現代料理においてもっとも有名なレストランといえる「ノーマ」。デンマーク・コペンハーゲンに構える店舗が2024年に閉店し、その後は「専門のフードラボ」として新しい道を歩むというニュースが今年1月に世界を賑わせたばかりだ。

そのノーマが現在、2ヶ月間限定で京都にポップアップレストラン「ノーマ京都」(エースホテル京都)をオープンさせている。ノーマが日本でポップアップを開催するのは今回が2度目。日本全国の食材を用いた独創的なコース料理が楽しめることへの期待、また料理と飲み物のパッケージが€ 775という価格も話題を呼びながら、予約は即満席となった。

今回は、文化人類学者として現代料理を研究し、Tokyo Art Beatに「現代料理」と「現代美術」のあいだにある思考の類似を論じたテキストを寄稿したこともある藤田周が、「ノーマ京都」を徹底レビュー。コースの全皿をくまなく解説しながら、各皿の対比や連続性のなかで感じ取れるノーマの姿勢までを徹底的に論じる。ノーマの概要とコース前半をレビューした前編に続き、後編はコース後半のレビューに加え、藤田がかつてフィールドワークを行なったペルーのレストラン「セントラル」との対比を論じる。【Tokyo Art Beat】

前編はこちら

全皿レビュー(後半)

キンキ

キンキの切り身に、ニワトコや卵黄、塩漬けの桜から作ったペーストを塗ったものを、西京焼きのように炭で焼いた料理。石でデコレーションしてあることを除いてしまえば、見た目は日本料理かと見紛うほどシンプルな料理である。

特徴的なのは、キンキをパリッと焼いていないということである。キンキの身は脂がたっぷり乗っているが、そうした食材が提供される際には脂身をカリカリに焼くことでその香ばしさを強調することが多い。しかしここでは、キンキが柔らかな火入れによって仕上げられている。その効果として考えられるのは、まず、キンキの脂身のまろやかさを強調することである。カリカリに火を入れたときのじゅわっと広がるような感触ではなく、むしろまろやかに溶けるようなその脂の感じが愛でられているように思われる。脂身のおいしさの再提案を行っているとさえ言っても良いのかもしれない。また、そのようなまろやかな脂の味が、同じようにとろっとした油分のあるソースと境目なくつながるようになっている。

先のタケノコの料理が穏やかであったのに対して、こちらは油脂のおいしさを基調とする力強い料理である。この緩急の付け方には、一旦落ち着いた食べ手の気持ちを再び高揚させようという意図が感じられる。

蓮根ステーキ

蓮根に細かく切れ目を入れたものを、ポルチーニやトリュフから作った醤油のようなタレを塗りながら、2時間かけて焼いたもの。スパイスとしてジュニパーベリーが使われている。それにしじみの出汁を濃縮したものと、卵黄、溶かしバター、ビネガーから作ったまろやかなソースを添えてある。

一見、照り焼きの香りが強くて、蓮根的な性質を感じにくい料理である。だが蓮根の持つ、芋のホクホク感でもなく、野菜的なシャキシャキした食感でもないねちっとした食感が活かされているようでもある。また、ベジタリアンには、肉の代わりにカリフラワーや蕪、根セロリなどの白っぽい野菜を長時間ローストするものがしばしば提供されるが、その新しいレパートリーともなるような満足感がある。細かい切れ込みが入れられているのは、鴨などをローストするときに入れる手法から着想を得ているのであろう。そしてこうした野菜のローストが持つ物足りなさを補うために、じっくりとタレを塗りながら焼いたり、油脂感の強いソースを添えたりしたのだろうと思われる。これらのこってりした風味に対して、ジュニパーベリーの粉が軽さを付与している。山椒やキハダなど柑橘系の実を使ったスパイスではなく、ジュニパーベリーを添えているのは、鴨などのローストにベリー系のソースを合わせることが多いことの連想が効いている可能性もある。

前の料理であるキンキからこの料理にかけてこってりと甘く、バター的なソースが添えられたものが続いているのと同時に、前者では焼き目が弱く、後者では焼き目が強くつけられていることで、テンションに違いがもたらされている。

山菜

うるいやウド、こごみ、菜の花、行者ニンニク、タラの芽、スイバといった山菜をそれぞれに炭火で焼いたりバターソースで加熱したりしたものに、伊勢海老の味噌を使ったソースを合わせた料理。

おそらく、シンプルに山菜を味わってほしい料理である。このように、数種類の季節の野菜や魚介をシンプルに調理し、一皿に盛り合わせるような料理はノーマでこれまで提供されてきたし、ノーマ以外のレストランにもしばしば見られる。とはいえ、野草に焼き目をつけたり油脂を塗ったりするのは、日本料理のように、野菜を茹でて、油脂のないソースで提供するやり方とははっきりと異なる。またここに苦味のある野菜が含まれていないことには慎重な選択が感じられる。春のはっきりとした味で舌を驚かせるというよりも、穏やかさが選ばれているようでもある。繰り返しになるが、ノーマを特徴づけるとされるのが酢系の酸味の使用であることを踏まえるならば、ここで酢をもとにしたソースが使われないのは一見不思議であるが、次の料理につながるように伊勢海老の味噌を使いたかったことがその理由のひとつであるかもしれない。

キンキと蓮根ステーキとコクやうま味の強く、また見た目の構成要素が少ない料理が続いていたのに対して、これはやや気持ちを落ち着かせるような料理である。

伊勢海老

伊勢海老を、バラのオイルとかんずりのオイルを塗って炭火で焼いたもの。その下には、先に使われたとうもろこし節と「かぼちゃ節」のフレークが忍ばせてある。木の芽が添えられ、柚子の皮が散らされており、すだちを絞って食べる。

伊勢海老の甘みとうま味は感じられるが、際立っているのはとうもろこし節とかぼちゃ節の風味である。栗やナッツを彷彿とさせるようなそれらの香りが濃縮され、燻製香とうま味がそれを支える。どちらかといえば、このペーストの味わいがこの料理の中心であり、海老は伊勢海老のようにこっくりとした味を持つことが重要であっても別の海老でもよかったのかもしれない。伊勢海老に焼き目がつけられずその香りが制御されていることや、ここに海老味噌を添えて海老の風味を増してもよかったはずがそうはしていないことが、その印象に寄与しているように思われる。そのように伊勢海老の印象を抑えることによって、伊勢海老ととうもろこし節、かぼちゃ節の相性の良さが際立っている。

緑米と薔薇

緑米という古代米を炊いたものに、石垣島のバラの花びら、ローズオイルを合わせた料理。

華美な見た目に反して、緑米の風味をシンプルに味わうような構成になっていた。一般的な玄米よりも、どこかよもぎ的でくぐもった香りとが感じられ、甘さはわずかだった。バラの香りはわずかであり、心なしか膨らみ持たせるような効果を持つのみである。ぷちぷちとするほどではないが、穀物としての食感がある。対比が弱く、味わいのレンジも狭く、タケノコや豆腐と同じようなタイプの味つけがしてあるように思われた。これは甘みやコクというより独特の穏やかな風味が特徴的な緑米を活かすためには意義のある選択だと言える。いくらでも漬物などを添えられたにもかかわらずそうはしなかったところには、ある意味で日本料理より抑制的な美学を感じられる。これまで多用してきたうま味さえ使わないのは、やや意表を突いてきたとさえ思わされる。

しじみ

生クリームの中にゆずのソルベを閉じ込め、冷やしてしじみのかたちに固めたものをイカスミで着色してある。貴醸酒(水の代わりに酒で仕込んだ酒)のゼリーを添えてある。

口当たりが極めて軽いクリームに、柑橘の風味がさらに軽やかな印象を与えている。おそらくこれがベリー系のフルーツを合わせるとこっくりとした感じがもたらされていただろう。またはまぐりほどの大きさではなくしじみくらい小さなサイズであることで、一瞬で口の中に消えるような香りを演出している。貴醸酒のゼリーもそうした風味の甘さを延長するように機能している。ガストロノミーレストランで提供されるデザートは、レストランでこそ提供できるような複雑な構成であることが多いが、この見た目のシンプルさは日本料理における甘味を意識したようでもある。

とはいえ、なぜこのクリームとゆずのデザートが、その味とは縁のないしじみのかたちを取っていたのかについては私たちのテーブルではわからずじまいだった。だが翌日、ノーマの料理人である芳賀龍氏に話を聞くと、彼自身直接この料理の開発者からは聞いていないものの、「浜土産(はまづと)」という京都の和菓子を意識したのではないかと言うことだった。浜土産とは、貝殻の中に琥珀色の寒天を閉じ込め、そこに味噌風味の浜納豆を浮かべたものである。そうした参照元を想定すれば、寒天という日本的な素材をクリームというデンマーク的な素材に置換しつつ、浜土産の色味を柑橘の味と貴醸酒に替えたものかのように想像することができる。

苺の餅、スイートポテト、カニステル

「苺の餅」は、あまおうをそのまま乾燥させたものを縦に半分に開いて、その間にサフランとカルダモンで作ったキャラメル、求肥を挟んだものである。

あまおうの香りや酸味より甘みの立った味はキャラメルと求肥とよいバランスをなし、サフランとカルダモンの香りが楽しげな雰囲気をもたらす。

「スイートポテト」はさつまいもを蒸してピュレにしたものをさつまいも状に成形し、ホワイトチョコレートとさつまいもパウダーでくるんだお菓子である。これはマダガスカルペッパーとアニスのクリームにつけるように言われる。さつまいものこっくりとした風味がホワイトチョコレートによって広げられ、マダガスカルペッパーとアニスのパリッとした風味によってゆるやかに輪郭づけられる。

「カニステル」とは、英語でEgg fruitと呼ばれる(ペルーではルクマと呼ばれるものに近い)沖縄のフルーツであり、もともと蒸したかぼちゃのような風味と甘いクリーム感のある実をペーストにして、その上にエルダーフラワーのオイルとビネガーが垂らしてある。さつまいもの次に置かれることで、一見似ていても異なる香りが明確にされつつ、おそらくそれがさらにわずかな酸味と白い花の香りによって強調されている。

考察——セントラルとの対比におけるノーマの構築性

以上がノーマ京都の料理の一次的な記述と分析であるが、本レビューの最後にノーマ京都の料理をペルーの現代料理レストラン、セントラルの料理と比較することによって、ノーマ京都の輪郭を明確化したい。

セントラルとは、別稿でも紹介したレストランであり、その特徴は海から砂漠、アンデス、アマゾンまでを含むペルーの多様な生態系に応じて、コース料理において同時に提供される数皿の料理を、それぞれある特定の生態系で育つ食材のみから作っていることである。

たとえば、2019年の中頃に提供されていた「極限の高地」名の料理が客のもとに提供される際には、以下のような説明がなされていた。

これはアンデスのクスコ県の一地域、ピサックで私たちが感じたことを解釈した料理です。そこでは色とりどりのとうもろこしの在来種が栽培されていますが、そのうち、4種類を、様々な形と食感にしてお出しします。白いとうもろこしで団子を、紫のとうもろこしで泡を、赤いとうもろこしでチップスを作り、とうもろこしの伝統的な発酵飲料、チチャ・デ・ホラを使ったソースを添えています。それらの上には、キヌアのような穀物であるキウィチャをとうもろこしの染料で紫に染めたものを載せました。アンデスの山に囲まれた、色とりどりのトウモロコシやキウィチャが実った畑を想像しながら召し上がってください。

この料理の基調をなすのは、白いとうもろこしの団子(ニョッキ)の濃厚な甘さと、濃縮されたチチャ・デ・ホラを使ったソースの、甘さと発酵由来のまろやかな酸味が織りなす調和である。また、4種類のとうもろこしを様々なかたちに調理することで、とうもろこしがもたらしうる風味の幅を最大限に引き出している。食感について言えば、団子のねっとり感、泡(エスプーマ)の滑らかな舌触り、チップスの硬さ、キウィチャのつぶつぶした感じのもたらす差異によって、料理のどこを食べても同じにならない。

筆者は2018年から2020年にかけて、セントラルを中心にペルーで長期の文化人類学的フィールドワークを実施した。すなわちひとりの料理人としてキッチンで働くことを通して、料理人の考え方や感じ方を学んできた。簡単にセントラル的な思考を紹介しよう。

先に述べたようにノーマは土地をモダニスト料理的な発想と技法で新たな仕方で解釈したレストランであり、その点でセントラルはそれと似た方向性を持つと言える。しかし、セントラルは、料理的なものより食材をはっきりと優位に位置づける。セントラルのキッチンで重要な位置にある料理人は以下のように述べる。

「現在のセントラルにおいて、料理は世界を見るための窓のようなものになった。だから簡単で、きれいで、透明であればいい。以前はチップスや粉末をもっと使っていたけれど、最近はあまり多くの要素を置かない。私たちは誰もが何を食べているかわかるような料理であるべきだと思っている。以前はセントラルも、もっと技術や完璧を追い求めていたけれど、いまの料理は田舎風に近づいてきている。完璧なかたちのパイがほしいなら数万ドルの機械が必要かもしれないけれど、私たちには必要ない。むしろ、(セントラルのシェフの)ヴィルヒリオは完璧でないものが自然なものだ、と言っていた。完璧じゃないのがいい。」(2019年12月17日のフィールドノートより)

ここでセントラルは、自らの料理を、チップスや粉末といったモダニスト料理に由来する技法を使った料理や、完璧さを目指す料理と対比している。この背景にあるのが、食材を直接的に示すことへの強い欲求である。セントラルのシェフは、セントラルのチームによるアンデスにおける店舗、ミルの料理について、以下のように言った。

「いまのミルは、アンデスの食材を現代的に解釈している。でもこれは現代アート的で、世界の流行に乗ったもので、その流行りが廃れれば忘れられてしまうかもしれないものだ。だから、もう数年したら本当の料理を提供したい。オカ[アンデスの塊根]やそら豆をただ茹でただけ、みたいな。そのあたりで農民が食べているみたいな。必ずしもおいしい必要はなくて、それよりも本当のものを。」(2019年4月27日のフィールドノートより)

このように単純に食材を示すことへの傾向性は、一皿で使われる食材の数がノーマ京都に比べれば限られていることに現れている。前回言及したように、ノーマ京都では比較的シンプルに見える料理でも30種類ほどの食材が使われているという。おそらく、微量の醤油や味噌、オイル、パウダーなどが多様に使われているのであろう。

対してセントラルでは、一皿あたりの食材が10種類を超えることはほぼなかった。それはセントラルが、食材の味を示そうとするうえで、どの食材に由来するのかわからないほど微量な味を料理に使う必要性を感じていないことによる。むしろ求められているのは、食材とはっきり結びつけられるようなかたちで味を示すことである。料理として、要素を増やすことで稠密に味や香りを構成するより、食材の味を感じられるように、余白を持たせた分散的な構成にしてあると言える。

そうした観点から考えれば、ノーマ京都が味覚による構築性に注力していることが浮かび上がってくる。日本という土地の食材を使いながらも、それを直接的に示すこと以上に、このポップアップはノーマの特徴のひとつであった酸味の使用を抑えるといった、日本料理的な組み立てで料理を作ることに向かっていたように見える。食材はここで、土地に根ざしたものというより味のレベルにおいてとらえられているのであり、それはモダニスト料理のように厳密に食材を解析することで料理を構成しようとする発想にも近いとさえ言えるかもしれない。その傾向は、八寸の品々などの、味や香りを幅広く網羅し、内部に対立を持たせた組み立ての料理に如実に表れている。タケノコや豆腐の料理もまた、味覚の帯域は狭く対比は弱いけれど、その緩やかな味の遷移を実現すべく、少量多種の調味料の組み合わせにより稠密に構成されているように思われる。

このような食材への取り組みが、紋甲イカや伊勢海老のような、その食材であれば十分意義はあっても、ほかのイカやほかの海老を使ってもよかったかもしれない、という印象につながっているのかだろう。紋甲イカのいちばんいいところ、伊勢海老のもっともおいしい味を引き出そうとしたならばノーマの料理人ほど深い実践知を持つ人々は今回の料理法で満足しなかったはずである。それは、そもそもそうした目的と違うところにノーマ京都の目指すことがあった証と考えられよう。

もちろん、ノーマ京都の料理が、その構成によってもたらす味覚自体によって、日本という土地を指しているのは確かである。鬼海老が示した、きりっとした昆布塩由来のしょっぱさは、黒々とした日本の海に対応するようでもあるし、豆腐の穏やかなまとまりは春にかけての湿って温んだ空気を想起させるようでもある。そのような意味で、これらの料理は日本の自然に対応している。

しかしセントラルと対比することで明らかになったのは、ノーマ京都が食材それ自体を示唆するような緩やかにつながり滲みあう味覚のつながりというより、高密度で構築的な料理を追及していたという事態である。本論が長大なレビューとなったのも、ノーマ京都がセントラル的に食材の可能性に賭けるのではなく、寿司的に握り方や温度の微妙な度合いを求めるのでもなく、食材や調理法の様々な選択肢を緻密に組み立てた料理だったことによる。ノーマ京都はセントラルや寿司とは目指すところが異なり、それは思考による記述が長くなりやすいような厳密さの種類だったと言える。料理の価値は決してこうした厳密性だけではない。

だがやはり、目指すものの差異はあるにせよ、ノーマ京都の料理がそれ自体驚嘆すべき細密さで構築されていたことに疑いはない。ノーマ京都の思考の強度は、やはり世界一と称されるレストランのそれにふさわしいものであったように思われる。

前半はこちら

ノーマ京都
https://noma.dk/ja/kyoto-jp-2/
3月15日から5月20日、水曜日から土曜日のランチ・ディナーのサービス
エースホテル京都(京都市中京区車屋町245−2)3階メインダイニング

藤田周

ふじた・しゅう 文化人類学者。1991年静岡県生まれ。東京外国語大学特任研究員・東京大学総合文化研究科博士課程。2000年代から各国の高級レストランの一部で見られるようになった「現代料理」を研究する。日本のレストラン、およびペルーのレストラン「セントラル」へのフィールドワークによって、現代料理レストランで人々がどのように料理に取り組んでいるのか調査。その結果と食の文化人類学、芸術人類学、科学技術人類学などの研究を交錯させることで、料理とはどのような行為か、創造とは何かといった問いについて考える。また、映像作品を通した人類学的な思考法の深化にも取り組む。