演劇モデル・長井短が見た『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』(東京都現代美術館)。宙ぶらりんのまま世界を肯定する

モデル・女優としての活動と並行して、エッセイの執筆も行っている長井短が寄稿。オランダの現代美術を代表するアーティストの個展から考えたこととは。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」(東京都現代美術館)にて 撮影:南阿沙美

東京都現代美術館「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」が2022年11月12日〜2月19日に開催中だ。1962年生まれのウェンデリン・ファン・オルデンボルフは、オランダの現代美術を代表するアーティストのひとり。その代表作から日本で制作した最新作まで映像作品6点を展示する本展を、モデル・女優の長井短(ながい・みじか)さんが訪れた。

長井さんはエッセイ集『内緒にしといて』を刊行するなど、平成生まれの自身の経験にもとづく率直な言葉で、ジェンダーの問題や、俳優の視点からとらえたハラスメントとケア、ライフスタイルやカルチャーについて綴ってきた。そんな長井さんは、人種、ジェンダー、歴史といったテーマについて人々が対話する姿を収めたファン・オルデンボルフ作品群をどう見たのだろうか。会場での撮り下ろし写真とともに、 エッセイをお届け。【Tokyo Art Beat】

*展覧会の詳細レポートや、深田晃司が本展を語るインタビューはこちら。


「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」(東京都現代美術館)にて。会場では作品と関連する本や資料を閲覧できる 撮影:南阿沙美

あちらとこちらの間に止まる

世界がもっと良くなればいいなーって、ぼんやりだけど確かに思う。超思う。だから、マイボトルを買ってみたりする。家に何本もあるけど。それにサステナブルな服も買う。コートは去年も買ったけど。フェアトレードじゃないコーヒー豆は買わないし、労働環境に問題がある工場で作られた大量生産品ももちろん買わないよ。とか言ってみたい。「世界が」〜「超思う。」までは本当だけど、以降は夢ですすいません。そりゃ私だって、環境問題とか違法な労働とか、関心があるし、改善していきたいと心から思うけど、私自身が今、大きな問題に対して実際に頑張れる状況にいないのだ。リアルってマジで厳しい。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ ふたつの石 2019 映像スチル 1930年代初期にソビエト連邦で活動し、戦後オランダで活躍したドイツ人建築家ロッテ・スタム=ベーゼと、ロッテルダムの差別的な住宅政策に異を唱えた南米・ガイアナ出身の活動家ヘルミナ・ハウスヴァウトというふたりの人物の軌跡を取り上げた作品。スタム=ベーゼが計画に携わったハルキウ・トラクター工場(KhTZ)の集合住宅地とロッテルダムで撮影され、それぞれの地で現在活動する建築家や住民らが、ふたりの理想とそれらの間の不協和音について語り合う

《ふたつの石》に登場するキッチンのない住宅は、現代美術館の近くにあるクールなコーヒーショップを思い出させた。思想の宿った優しいコーヒー。それを飲む人々の、口座残高はいくらだろう。私は今、300円のブレンドを飲みながらこれを書いています。安くて、美味しくて、私は間違っていますか? 上流から流れてくる名水が、下流ではただの水になっているように、物事も受け取る場所でかたちを変える。「もっと良い世界に」そのムーブメントは絶対的に正しいけれど、最果てに立つ誰かにとっては、現実がよりハードになるだけかもしれない。キッチンがなくても、ご飯を作る。「家事から解放されましょう、それが正しいことですよ」と言われても、作るしかない。とりあえず生きないと、正しいことも出来なくて、思想を持つのはその後になる。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 彼女たちの 2022 展示風景 主に1920〜40年代にかけて活躍した女性の文筆家である林芙美子と宮本百合子について扱った、日本で制作された新作。それぞれの作家が女性の社会的地位や性愛、戦争といった問題に切り込んだテキストを取りあげ、それらが今日の社会のどのような側面を映し出すかを探る

生き方を選ぶには視野が必要で、どんな道があるのかを確認するには高いところに登るのがいい。どれだけ目が良くたって、山に登らなきゃ山の向こうは見えないから、できるだけいろんな道が見えるように、私たちは知識を積み上げる。それは一見平等な努力のようだけど、実家に本が1万冊ある人と、10冊しかない人とでは、努力へのアクセスが違ってくる。《彼女たちの》で取り上げられる林芙美子と宮本百合子は、その時間にかなりの違いがあったんじゃないかと思った。恵まれた家庭で育った宮本と、貧困家庭に生まれた林。戦争と治安維持法で真っ暗な世界のなか、投獄されながらも自らの思想を貫いて書き続けた宮本に対し、従軍して戦線に向かい「ペン部隊」として活動した林。どちらの道もあるのだと私が今想像できるのは、宮本と林、二人の作家が存在したから、そして二人の存在を知ることができたからだ。その高さに、私は今いる。そのことを、とても恵まれていることだと感じている。「恵まれている」が何を指すのかは人によって違うけれど、私はそれを「受動的でいられるか」だと思っていて、それは「何もしなくてもここにいていい」とどのくらい思えるかとも言える。能動的にいなければ知識にアクセスできなかったであろう林と、受動的でもある程度の知識を得られたであろう宮本の、執筆の違いが、私にはとても残酷に見えた。戦後、林は多くの批判を受けたようだけど、私はとても、林を責める気持ちにはなれない。私にもちょっとだけ、似たような経験があるから。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」(東京都現代美術館)にて 撮影:南阿沙美

これは間違っているんじゃないかと感じる仕事のオファーを受けたことがある。俳優という仕事は、他者が書いた言葉をさも自分が思っているかのように言う仕事なので、当然これまでも自分自身とは違う思想の言葉を口にしたことはあるけれど、それらはあくまで「間違った人間の役」だった。でも、そのオファーは違ったのだ。その役は、あまりにも物分かりが良く、慈愛に満ちた懐の深い女の役で、別に理由はない。極々当たり前の、“普通の女”の役。「やりたくない」って気持ちがすぐに湧いて、次に現実がやってくる。仕事を断れるほど売れていないこと。私が断ったところで制作は進むこと。何より、働かないと食べていけない。だから私はその仕事を受ける。衣装合わせの場で言葉を尽くしたけれど、たぶん本当に伝えたいことは全然伝わらなくて、ほとんど何も変わらなかった。はぁ。断れたら気高かった。でも断れなかったことで「こいつなんでこんな突っかかってくんだよ」っていう違和感は、お偉い方々に感じていただけたはずですので。思想を貫くことには、やっぱりお金がかかる。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ obsada/オブサダ 2021  撮影風景 Photo by Jakub Danilewicz ポーランドの映画産業に関わる女性たちと制作された作品。20世紀の前衛芸術においても見落とされ、今日の芸術生産の場でも解消されないジェンダー不平等の問題と、これからの変化に対する希望について、女性たちが共に撮影を進めながら率直な言葉を交わす

「お金が少ないほど平等」という字幕に大きく頷かされたのは《オブサダ》という作品だ。ほんとそれ。結局、気の合う奴らと到底食っていけないギャラで作った芝居の方が平等で、楽しい。全然生活できないけど。もうこうなってくるとお金って、我慢に対して支払われてるのか? 《オブサダ》に登場するのは、ポーランドの女性撮影クルーたちだ。お互いを撮影し合いながらお喋りしている様子を見る行為は、ファミレスで聞き耳を立てることと似ていて面白い。私は、ポーランドのことを何も知らない。でもそこで起きる会話は、私がサイゼでマグナムワインを飲みながら話してることとほとんど同じで……あぁ。ここで愚痴っても仕方ないので文句は割愛しますが、この世に溢れる様々な「ラベル」が、どれだけ「私」という存在を覆い隠してしまっているのかを改めて感じた。

映像業界、なかでもスタッフに関して言えば「男」というラベルはあまり存在しない。「女」というラベルは名札どころか湿布くらいのサイズで貼られるのに。撮影クルーの現場には、各セクションに所謂「師匠」と呼ばれるような人がいる。新人のスタッフは、その人のアシスタントとして現場を経験し、一人前になっていくのが王道のやり方のようで、その師匠の大半が未だ男性だ。となると「あの人みたいにできるようになりたい」とモデルにするのは基本的に男性で、男性のように働くことが一人前のようになってしまう。

そのことに気がついたのは《オブサダ》に登場する録音技師を見ているときだった。彼女は、ひと目見ただけで「こいつはデキる」っていうオーラがあって、実際彼女の言うことにハッとさせられることも多かった。私がなぜそう感じたかって、それは、彼女の佇まいが、これまでに出会ってきた男性チーフ録音技師と似ていたからだ。この人凄いな、と記憶に残っている撮影クルーはほとんどが男性だった。だから、私の頭のなかには「できる」ということは「(あの男性のように)できる」という式ができてしまっている。消せ!と思うけれど、女性の潜在意識のなかは結構この式で埋まっちゃってんじゃないかと思うのだ。背中が基本男性だから。追うべき女性を探すのは、まだまだ難しいことなのだ。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」(東京都現代美術館)にて 撮影:南阿沙美

一人前になるために、否応なしに男性の背中を追っていく。そのなかで、当事者にそんなつもりがなくっても、スキルのなかに混ざった男性性ごと継承することもある。作中に出てくる「怒鳴れるようになって一人前」という言葉は、日本でも少し前まで言われていた言葉だ。まぁもちろん、男性=怒鳴る人間ではないんだけど、男男男の職場で、怒号が飛び交いやすかった歴史があるのは確かだろう。そこは引き継がなくていい。でも引き継がれてしまう。師弟関係にはその危険がある。それに「怒鳴ったりしないとマジで舐められるんだよ」という女性の悲鳴も知っている。「女性」よりも大きいサイズの「鬼」のラベルを貼らないとやっていけなかった女性たちもいるのだ。私は、どんな理由があれ、ハラスメントは間違っていると思う。絶対無くしたい。でも同時に、その意志を貫ける人間と、そうでない人間がいること。つまり、鬼にならないと、ここにいることすら認めてもらえない人がいることも知っている。

「私たちがいなくならないと変わらない?」

作中でのこの発言は、私も口にしたことがある。でも、それは違う。違うと思いたいし、違うということにしていきたい。背中は多けりゃ多いほど良いはずなのだ。男性の背中の中から、目を凝らして女性の背中を探すなんてこと、子供たちにはさせたくない。「こんな背中もあんのかよ」って、どの人に声をかけようか迷っちゃうような世界を作りたい。それなら、私にもできるはずだ。なんかいろんな奴がいるんだよってことを示すくらいはできる。そうやって、あちらを立てればこちらが立たぬの世界を肯定したい。

「柔らかな舞台」は、鑑賞者を思想とリアルの狭間に連れていく。あちらに寄ろうと思うと後ろ髪を引かれ、こちらに行こうすると呼び止められる。こんなふうに書くと、あちらとこちらは対極のようだけどそんなことはなくて、何より、あっちもこっちも対話している。だからその真ん中に立たされると、同極が向き合った磁石たちのように、声と声の間で宙ぶらりーん。身動きが取れない。今思ったことを、次の瞬間否定したくなって、その後否定は違うかって気持ちになる。これを書いてる今もそう。私が、今、思ったことはなんだろう。わかるのは「?」がここにあることだけ。「こう思う!」とか「間違ってる!」とか、言えたらたぶん気持ちぃけれど、そうは言えない。できない。宙に浮いたまま、さっきの自分と今の自分が対話する。だんだん、私はここで悩んでても良いんだと感じる。あーやっぱ書き直そうかなと思うけど、何回書いても校了できない。できなくていい。たぶん、対話ってそういうものだ。


メイク:Akane Lova Nakamura スタイリスト:TAKASHI
衣装協力:itimi/eeee/ten one eye eight/HELLO MOE/iberte 原宿店

長井短

ながい・みじか モデル、女優。1993年東京生まれ。「演劇モデル」と称し、舞台、テレビ、映画と幅広く活躍する。読者と同じ目線で感情を丁寧に綴りながらもパンチが効いた文章も人気があり様々な媒体に寄稿するなか、『内緒にしといて』を晶文社より出版。現在テレビ朝日『星降る夜に』、テレビ東京『来世ではちゃんとします3』に出演中。