映画監督・深田晃司が見た「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館)。表現とは世界への「私」のフィードバック

『LOVE LIFE』『淵に立つ』などで世界的に高く評価される映画監督・深田晃司が、映像作品6点を展示する本展を鑑賞。映画とアートにおける映像表現の違いや、作り手の当事者性などについて語る。(構成:新原なりか)

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館)にて 撮影:編集部

東京都現代美術館で2月19日まで開催中の「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展。

2017年ヴェネチア・ビエンナーレのオランダ館代表を務めるなど、オランダを代表する現代美術家であるウェンデリン・ファン・オルデンボルフは、出演者と協働する映像作品を中心に発表してきた。シナリオを作らずに撮影されるその作品は、あるテーマについて対話する人々の姿を収めており、その過程で露わになる主観性や視座、関係性を映し出している。本展では、代表作から新作まで6点が公開されている。

今回は、昨年公開された『LOVE LIFE』(2022)が大きな注目を集め、インドネシアでも『海を駆ける』(2018)を制作した経験を持つ映画監督・深田晃司さんに本展を見てもらい、インタビューを行った。深田さんは表現に関する活動の場におけるハラスメントやジェンダーバランスの調査・啓蒙を行う「表現の現場調査団」のメンバーとしても活動している。

本展にはオランダによるインドネシアやブラジルへの植民地支配の歴史にふれる作品や、ポーランドの映画界における女性たちの本音をとらえた《オブサダ》という作品もある。ウェンデリン・ファン・オルデンボルフによるこうした作品を、深田さんはどう見たのか?  現代アートと映画、それぞれの形式における「映像」の違いから、話が始まった。


「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展示風景 撮影:森田兼次

物語に奉仕しない映像

──「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展を、深田さんに見ていただきました。まず、全体のご感想をお伺いできますか。

深田:アートの分野で映像が使われている作品を見るときに、まず刺激的なのは、普段自分が関わっている映画というものが、いかに映像表現のごく一部でしかないかということを思い知らされることです。映画が伝統的に積み重ねてきた文法や、括弧付きの「映画的快楽」と呼ばれるような感覚がありますが、そういったものと一旦距離を置いて映像を扱うことが非常に刺激的であることを、今回の展示は感じさせてくれました。

映画と言っても、フィクションやドキュメンタリーなど様々なものがありますが、私自身が表現としてやっているのは、脚本があって監督がいて俳優が演じる、物語のあるいわゆる劇映画です。それに対して、オルデンボルフさんが作る映像のおもしろさというのは、映像あるいはその編集のひとつひとつが、物語を語るために使われていないことにあります。映像が物語のために奉仕する以前に、映像そのものが何かしらの価値を持っている。何が撮られているか、誰が撮っているかというその文脈も含めて、物語に奉仕しない映像をじっと見続けることのおもしろさ。これは、映画という表現手法のなかで映像を取り扱っていると、そうありたいともがきつつも、なかなかできないことです。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展より、手前が《マウリッツ・スクリプト》(2006)の展示風景 撮影:森田兼次

──とくに印象的だった作品はありましたか?

深田:旧オランダ領ブラジルの歴史をテーマにした公開イベントを撮影した《マウリッツ・スクリプト》は、展示会場での見せ方も含めて、まさにアート作品ならではのおもしろさがありました。壁を隔てて2つのスクリーンがあり、片方ではイベントの参加者が個々に文献を読んでいる様子が、もう片方では他の参加者がテーブルを囲んで議論を交わす様子が映し出されています。

劇映画の本編とメイキングの関係とは違って、両面の映像が独立して影響を与え合うものになっているというのが興味深かったです。

また、この作品には、仕立屋、現代美術理論家、物理学者、在宅ケアラーなど、職業もテーマに対する立場もバラバラの多くの人々が当事者として参加しています。これだけ多様な人々がひとつの作品作りに参画するということは、既存の映画の文法の中ではなかなか達成し得ないことで、映画の方もこういった創作から影響を受けていかないといけないなと思いました。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ マウリッツ・スクリプト 2006 映像スチル

参加者の当事者性とともに、作り手の当事者性も重要な点です。これは、アーティストでも映画監督でも表現手法にかかわらず、作り手なら誰もが強く意識しなくてはならない点だと思っています。オルデンボルフさんの場合は、自身がオランダ人であるということが、ブラジルやインドネシアといったオランダが過去に植民地支配していた国とどう向き合うかということと切り離せない問題となっています。

作り手が当事者性を持つなんてことは当然じゃないかと思われるかもしれませんが、じつは多くの表現で、作品と作り手の当事者性は切り離されがちになっています。ちょっと違う文脈ですが、作り手によるハラスメントなどの問題が明るみにでた際に、よく「作品に罪はない」という言葉が聞かれますが、「本当にそうかな?」と思います。私はそこは簡単に切り離すことができないものであると思っています。そういった部分にきちんと向き合っている作品というのは、やっぱりそのぶん、見ていて刺激的に感じますね。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館)にて 撮影:編集部

当事者性から逃げることはできない

──当事者性というのは重要なキーワードだと思います。深田さんは、ご自身の当事者性についてどのように意識されていますか?

深田:当事者性については、意識するというよりも、本来逃げられないものであり、知らないふりなんてできないものだと思っています。そういった思いを持つようになったきっかけは、大学生のときに読んだ、E.H.カーの『歴史とは何か』という本です。この本に書かれているのは、大雑把に要約すると、客観的な歴史なんていうものは存在しなくて、あらゆる歴史は歴史家の主観のフィルターを通して叙述されたものでしかないということです。その歴史家自身がどんなに客観的になろうと努めたとしても、自分自身の生きてきた歴史や、ジェンダーや国籍や民族などの属性、そういったものからはどうしたって逃げることはできないのだというようなことが書いてあって、私はそれがすごく腑に落ちたんです。日本人として日本の文化圏で教育を受けてきて、日本語で考え、シスジェンダー男性で、ヘテロセクシャルで、思想哲学宗教も含め、そういった私自身の属性の影響下に私の表現は常にあります。

その後、映画を作るようになって世界に対してカメラを向けることになると、そういった思いはより強まっていきました。たとえば、家族にカメラを向ければそこに自分自身の家族観が顕れてくるし、家父長制とどう向き合っていくかというようなことがどうしても問われてくる。表現と自分とのあいだにそういった緊張感を持たないまま世界にカメラを向けてしまうと、自分自身が生活習慣のなかで蓄積してきた無意識のステレオタイプ、たとえば男性優位な家父長制のイメージを安易に拡散してしまうこともあり得る。イメージは映像に乗ると簡単に社会に流布してしまいそれがまたステレオタイプの固定化に意図せずとも貢献していくことになる、その危険性はつねに意識しています。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展示風景 撮影:森田兼次

──深田さんの『海を駆ける』という作品は、日本とフランス、インドネシアの合作で、全編インドネシアで撮影が行われ、異なるルーツを持つ俳優たちがインドネシア語で演じました。作中ではさりげないかたちで、オランダによる統治やその後に植民地化した日本の兵士たちの存在についても言及されていますね。

このような多様な人々が関わる作品を制作するなかで、深田さんはご自身の当事者性をどのように扱われましたか?

深田:『海を駆ける』を制作するよりも前に、インドネシアで自分の映画を上映したことがありました。そのときとても印象的だったのは、インドネシアの映画館がない地域で映画を上映する活動をしている大学生との出会いでした。彼女は映画の上映後の懇談会で、私にはっきりとこう尋ねたんです。「日本では戦争中のインドネシアに対する加害について、ちゃんと教育をしているのか」と。日本では戦争中の加害についての教育は十分にされておらず、インドネシアは親日国であるというイメージだけが拡散しているのが現状です。実際に日本が好きなインドネシアの方は多いですが、そのいっぽうで、現地にはいまだに当時の同化政策の名残や強制労働のトラウマが残っています。

インドネシアで映画を撮るのであれば、自分自身が日本人であることや、インドネシアの歴史と向き合うことは避けて通れません。その歴史は私にとって客観的な第三者として向き合えるものではなく、かつて侵略した側である日本人としてどう向き合うかが問われてくる。『海を駆ける』では、映画という表現技法のなかで当時の自分なりにできる限りのことをやったと思っています。しかし、今回の展示を見ると、劇映画というかたちではなかなか届かないようなところまで到達しているなという羨ましさも感じました。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館)にて 撮影:編集部

──本展における当事者性の到達というのは、具体的にどういったところで感じられましたか?

深田:たとえば、旧オランダ領東インド(現在のインドネシア)において植民地政策の一環として放送されていたラジオをテーマにした《偽りなき響き》という作品の撮影の舞台は、実際に当時放送を行っていたラジオ局の建物です。この作品を見ると、当事者性というものが人間だけに限らず場所や建物にもあるのだということが感じられます。劇映画の中では、映っている建物が実際にどのような歴史を経てきたものか、本当に史実の舞台になった場所で撮影しているかということは、優先順位として必ずしも高くありません。劇映画はそれらしく見せること、「いかに上手く嘘をつくか」の表現でもあって、よくも悪くもそこに躊躇はないんです。スタジオでのセット撮影などはまさにそうですね。

それに対して、オルデンボルフさんの作品では、歴史を抱えた建物そのものが当事者として映っていることが重要になってくる。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 偽りなき響き 2008 映像スチル

映画界のジェンダーギャップ

深田:ポーランドの映画業界で働く女性たちが互いを撮影した《オブサダ》も、まさに女性たちの当事者性が重要な意味を持つ作品でした。私は「表現の現場調査団」という活動に関わっているのですが、その統計調査からも日本の映画業界のジェンダーギャップの大きさは明らかになっています。表現の各分野はどれも男性中心なのが現状ですが、映画や演劇など、集団性が強い分野はとくにその傾向が強いと思います。映画の場合はとくに、制作予算が非常に大きいがゆえに資本主義の制限を受けやすく、それが保守性につながっているという背景があります。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ obsada/オブサダ 2021 撮影風景 Photo by Jakub Danilewicz

《オブサダ》という作品を見て、まず感じるのは映画業界における女性の働きづらさや男性社会からの抑圧の大きさですが、それとともに、この作品が完成形を提示するだけのものではなく、制作のプロセスそのものが作品になっていることも注目すべき点です。つまり、この映像の撮影にあたっているスタッフには意識的に女性が選ばれていて、私たち観客はその女性たちが働いている姿を作品を通じて見ることになる。それ自体がジェンダー役割のひとつの表象として記録されていく、その過程そのものが作品であるということです。その成果物としての射程の広さや、観客が受け取るものの分厚さがすごく魅力的だと思いました。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展示風景 撮影:森田兼次

映像は世界を知るための窓

──日本で撮影された新作の《彼女たちの》はいかがでしたか?

深田:最初の方で映画的な快楽のことに少し触れましたが、この作品にはとくにそのことについて考えさせられました。文学の分野で私がいちばん影響を受けている作家である富岡多惠子さんが、「新しい表現をしようとする時には、かつて私たちが享受していた快楽から距離を置かなければいけない」というようなことをおっしゃっているのですが、アート分野の映像作品を見ていると、本当にそれを痛感させられます。

《彼女たちの》の、画面を二分割してグラデーション状に交わらせる見せ方は、劇映画をやっているとそうはでてこない、思いついても実際にやるには勇気のいる発想でおもしろかったです。飯岡幸子さんの撮影も素晴らしかった。この作品では、林芙美子と宮本百合子という2人の作家がモチーフになっています。先ほども言ったように、表現のあらゆる分野が男性社会である中で、日本で早い時期から活躍した女性の作家、しかもこの二人にフォーカスが当てられていることそれ自体が重要だなと思いました。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展より、《彼女たちの》(2022)の展示風景 撮影:森田兼次 

──《彼女たちの》は日本で撮影された作品であり、また《偽りなき響き》は戦時中において日本と複雑な支配・被支配関係にあったオランダとインドネシアの問題が題材になっています。このような作品を日本の観客が見るのと、ほかの場所の観客が見るのとでは受け取られ方も違ってくると思います。そういった、作品を見せる場所や見る人と、作品が扱うテーマ、そして作家のルーツの関係についてはどう考えられますか?

深田:表現とは世界への「私」のフィードバックで、どこか別の「誰か」の世界に投げ入れる行為であって、だから、ひとつの作品は作り手と受け手の双方向のコンテクストを常に持っているものだと思っています。日本では、日本がオランダの植民地支配からインドネシアを救ったというような言説も一定数見られます。私自身は、それはたんに支配者が変わっただけであって、日本によるインドネシアの支配をおいそれと正当化することはできないという立場です。そういった歴史を踏まえて、私は日本に住んでいてインドネシアで映画を撮ったこともある者として、今回の展示には自分との接点を見つけることができました。しかし、そうでなくても、この展示でテーマになっている植民地支配や家父長制の問題、ジェンダーバランスの不均衡などは、世界中どこの国にいても直面することで、誰しもが接点を見つけられる部分があると思います。

「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展示風景 撮影:森田兼次

ただ、いま言ったことと逆のことを言うようですが、鑑賞者に接点や共感を差し出すことだけがアート作品の役割ではありません。映像は、自分が知らない、わからないものに触れることができる本当に重要な媒体だと思っています。リュミエールが映画を発明した19世紀末からずっと世界を知るための窓としての役割を映像表現は持ち続けていて、それはYouTubeになってもTikTokになっても、じつは変わっていないのだと思います。私も、今回の展示でこれまで知らなかったことにたくさん触れることができました。展示を見てもし理解できないところがあったとしても、そこにこそ探求すべき点があると思うので、ぜひ多くの人に見に来てほしいなと思います。なんか広報係みたいになってしまいましたが(笑)。私も会期中にまた見に来たいなと思っています。


*本展のレポートや、演劇モデル・長井短によるレビューはこちら

深田晃司
ふかだ・こうじ 映画監督。1980年東京都生まれ。1999年、映画美学校フィクションコース入学。2005年、平田オリザ主宰の劇団・青年団に演出部として入団。10年、『歓待』が東京国際映画祭日本映画「ある視点」作品賞、プチョン国際映画祭最優秀アジア映画賞受賞。13年、『ほとりの朔子』がナント三大陸 映画祭グランプリ&若い審査員賞をダブル受賞。16年、『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。18年、『海を駆ける』を公開し、フランス芸術文化勲章「シュバリエ」受勲。19年、『よこがお』公開。ドラマ『本気のしるし』(19年メ〜テレ)を再編集した『本気のしるしTVドラマ再編集 劇場版》』が、第73回カンヌ国際映画祭「Official Selection 2020」に選出。22年、矢野顕子の名曲「LOVE LIFE」から着想を得た新作『LOVE LIFE』が公開。第35回東京国際映画祭で「黒澤明賞」受賞。
著書に小説『淵に立つ』(2016)、小説『海を駆ける』(2018)。表現の現場調査団メンバー、また21年5月まで特定非営利活動法人独立映画鍋の共同代表理事を務める。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集長。『ROCKIN'ON JAPAN』や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より「Tokyo Art Beat」編集部で勤務。2024年5月より現職。