イザナギ景気とは1965〜70年にかけて続いた高度経済成長時代の好景気の通称だが、その要因のひとつがベトナム戦争を背景とした「ベトナム特需」である。本連載は、この時代の「日本現代美術」をベトナム戦争を軸に辿ることで、これまであまり注目されてこなかった同時代の美術のありようを浮かび上がらせることを試みる。
第5回は、まず日本の植民地支配や原発問題を絵画と版画で追及した富山妙子の活動と、《原爆の図》の連作で知られる丸木俊と夫の丸木位里の芸術実践を取り上げる。ともに幻灯(スライド)を発表に用い、丸木夫妻は実用的な掛け軸形式を取り入れるなどして鑑賞する場を創出し、他の国や地域の人々とも作品を共有した。続いてアメリカ統治下の沖縄で発行された琉球切手の図柄に注目。切手という小さなメディアの中で繰り広げられた、沖縄の画家たちの抵抗を見つめる。【Tokyo Art Beat】
*これまでの連載は以下
1960年代頃まで「幻灯」と呼ばれていたそのメディアは、次第に「スライド」と名指され直す。日本映画史の研究者・鷲谷花が強調するように、幻灯は「二〇世紀中頃までの日本社会において、確実に存在感を発揮し続けてきたにもかかわらず、[...]「映画以前」のプリミティブな映像メディアとみな」されてきた(*1)。幻灯から映画へ、そしてVRへ──というような単線的進化を前提とする史観は多くの実践を見えなくさせてしまう。少なくない人々にとって、「幻灯/ スライド」は展覧会とは異なる重要な表現空間であった。
富山妙子(1921~2021)は70年代後半以降、スライドの自主上映会を重要な「発表の場」としてきた作家である(*2)。1970年や1971年の訪韓を機に韓国の民主化運動と連帯をしてきた富山は、政治犯として投獄された人々の釈放運動に身を投じていった。獄中の詩人・金芝河(キム・ジハ、1941〜2022)の詩との出会いもあり、彼女の表現は油彩よりも版画、さらにはスライドを上映することによる詩、音楽、版画の複合実践へと変化していく。そこでは魯迅の版画運動のように「油絵よりも、むしろ白黒の版画の世界の方がより民衆に近づけるように思われ」た(*3)。持ち運びが可能な手動回転式のスライド映写機が白黒のリトグラフを投影し、そこに詩の朗読と音楽を吹き込んだカセットテープを流す。「小さな集会を開いてスライドを上映し、そこに集まった人たちと韓国の状況や、金芝河のことや芸術のあり方について語りあう」(*4)──富山が「火種工房」を立ち上げて、作曲家・高橋悠治(1938〜)らと実践してきたのはこうした営みであった。
富山が「スライド」というメディアを採用するに至った直接のきっかけは、テレビ番組の「放送中止」であった(*5)。1976年3月に日本テレビで放送予定であった15分の番組『暗黒の中のキリスト者・金芝河』が「国際親善を損なう」という局側の理由で放送中止となったのである。しかしそのテレビの担当ディレクターたちが番組を「スライド」で再構成し、さらには英訳が付されることで、富山の表現は別の伝播ルートを切り拓くこととなる。テレビからスライド(幻灯)へ──これはノスタルジーでも何でもなく、抑圧を回避するプラクティカルな手段であった。1970年代は第三世界の獄中の作家たちの釈放運動が広く行われたが、富山のスライドもまた、アムネスティ・インターナショナルや草の根のグループまで様々な人々のもとで上映される。「獄中の声は壁の外へ、ちいさなメディアにのって伝わり、資本の論理とはちがう民衆の新しい対抗文化をつくるきっかけになっていった」(*6)。
1972年の銀座での個展「金芝河の詩によせるリトグラフ」では、画廊で政治犯釈放の署名を行ったり、ビラを配布したり、体制批判の討論を行ったりしたことによって画廊側と軋轢が生じる(*7)。富山は主要な美術雑誌から姿を消し、それまで活発に行っていた寄稿も「ちょうど韓国を主題とする作品を発表しはじめた一九七二年頃を最後に途絶えてしまう」(*8)。旧植民地である韓国に対する無理解はもとより、展覧会や絵画や純粋美術を当然視する国内の批評界は、富山の仕事を追う動体視力を持ち合わせていなかった。いっぽうの韓国では、富山の著書の海賊版(!)を手にした理論家の崔烈(チェ・ヨル)が、「漢字と図版だけを頼りに内容をたどりながら、自分たちの民衆美術運動が『孤立した私たちだけの何か』ではなく、『世界の美術史上に根を持つ何か』だと知らされ、励まされ」ていた(*9)。
「ギャラリーで展覧会を開いて、絵を壁にかけて客を待っているのではなく、同じ思いの人々の中へ絵を持って入ってゆこう。絵をかく側のつくり手のわたし、それを見てくださる受け手との出会いの場をつくり出そう。」(*10)
富山のこうした理念とまた異なるかたちで、作品の鑑賞の場を双方向的な空間であると強く自覚した作家に丸木俊(1912〜2000)が挙げられる(*11)。丸木俊と夫の位里は《原爆の図》の連作で知られるが、1950年代に制作された《原爆の図》は現在のような四曲一双の屏風型ではなく掛け軸状の形態をとっていた(*12)。この形態の利便性について俊は次のように振り返るが、ほとんどストリートアートの話を聞いているかのようである。
「いまでこそ屏風にしちゃったけど、当時巻き物にしたから、箱に四点ずつ二段で八点入る。一つの絵が八つの巻き物からでき上がっているでしょう。警察なんかがずいぶん追いかけて来ても、作品は私一人でも飾りつけできる。釘打って、ぶら下げればいい。そうすると、みんなが『なんだ、なんだ』と、ワーッと会場に入るよ。あとからおまわりが来ても、手がつけられない。(笑)」(*13)
掛け軸の形態であった事実に加えて強調したいのは、《原爆の図》が写真版の展覧会や幻灯・映画の上映会という形式でも鑑賞されていたことである。《原爆の図》「再制作版」も全国を巡回し「『本作』に迫るほど活用された」(*14)。俊(や展示担当者)が絵の前で鑑賞者に語り聞かせていたことを鑑みて、歴史家の小沢節子は《原爆の図》を「大きな絵本」とまで形容している(*15)。
複数の鑑賞条件、多様な国や地域のなかで《原爆の図》は共有されていき、夫妻は様々な反応を受け取っていった。見る者の反応が夫妻に影響を与え、その変化がまた絵画空間へと還っていく──こうした「運動」こそがふたりの仕事のあり方であった。たとえば1955年に制作された《原爆の図 第9部 焼津》《原爆の図 第10部 署名》は、一時期展示や図録への掲載が拒否されたうえ、俊らによる「加筆修正」がなされている(*16)。現在私たちが《焼津》を見た際に漁船「第五福竜丸」が浮かんでいる箇所には、当初「富士山」が描かれていた。俊は自分たちの制作のなかに一種のナショナリズムが潜んでいることに気づいたのである。
1970年、ついに夫妻は「にくらしいにくらしいアメリカ」(*17)で──原爆を落とし、ベトナム戦争を行っている国で──《原爆の図》の展覧会を開催する。当然のことながら、アメリカもまた、日本に良い感情を持っていない人々が多く生きていた(戦争の終結から25年、という時期である)。そのなかでも職をかけて展覧会を支えてくれる人々や、ベトナムに派兵されるかもしれない青年に出会い、俊はアメリカの複数性を発見する。こうして、夫妻は自分たちの考えを修正し、より広いパースペクティブのなかで自分たちの制作をとらえ直していく。アメリカの複数性は、そのまま日本の複数性へと跳ね返る。丸木夫妻はアメリカ(ベトナム戦争)を経由し、「原爆の被害」の奥で忘却されていた「朝鮮人への加害」に対峙するのである(*18)。
「日本人はアジアを知らないという痛覚。これが最も深く、鋭い。われわれはともすればアメリカ人はアジアを知らないという声をあげるのだが、そのわれわれは現場でアメリカ人やイギリス人やフランス人の記者に教えられてアジアを知らされるのである。」(*19)
小説家の開高健(1930〜1989)がベトナムを取材した経験を振り返った際の文章である。「イザナギと呼ばれた時代」には、様々なかたちで「痛覚からの出発」を試みた者たちがいた。帰国後の丸木夫妻によって着手された《原爆の図 第13部 米兵捕虜の死》(1971)や、朝鮮人の死者を描いた《原爆の図 第14部 からす》(1972)は、被爆という経験をナショナリズムで覆わないためのふたりの抵抗であり、日本の加害性へと向き合うための過程であった。
《米兵捕虜の死》を描くにあたり広島を訪れた俊は、そこで、朝鮮人、中国人、インドネシア人、ロシア人の死をなぜ描かないのかと迫られている(*21)。小沢が指摘するように、丸木夫妻はそもそも「8月6日」を経験していない。「彼らの広島での体験とは、実は被爆後数日後そして半月後の体験」であり(*22)、であるがゆえに、ふたりは書物を読み、現地を訪れ、当事者たちの声を聴き、学び続け、表象の不可能性を踏み越えて筆をとる必要があった。身もふたもない言い方になるが、時間が必要だった。
俊と位里は1980年代から沖縄と本土を往復する生活を送る。沖縄戦当事者や遺族の話を聞き、ときにはモデルとしてポーズをとってもらいながら、6年をかけて、ふたりは《沖縄戦の図》を手がけていく。
占領期の沖縄には「ニシムイ美術村」という作家たちのコロニーがあった。彼らは米軍の文化政策にも関わっており、一部の米兵はニシムイの画家たちから絵画制作を教わっている。医師として従軍していたスタンレー・スタインバーグは、ニシムイの画家たちから絵画を購入し、週末に絵画の手ほどきをうけ、ほとんど言葉が通じないなかでも芸術談義を行っていたひとりである(*26)。「お互いの立場について触れる事はできなかった。知らないふりをして語り合わない、美術にだけ目を向けることがお互いへの配慮だった」と後年彼が語るように、米兵とニシムイの画家たちは極めて危ういバランスのなかで関係を紡いでいた(*27)。
沖縄にもアメリカにも所属しきることができない特殊な空間となっていたニシムイ美術村──そこで活動をしていた作家たちは、米兵との交流があったにせよ(そして当時絵を描くことができる点において疲弊した沖縄の人々より恵まれていたにせよ)、アメリカの支配を許容していたわけではなかった。ニシムイ美術村の面々はその後「戦後沖縄の美術界を牽引し、工芸復興においても大きな功績を残」してくのだが、注目すべきは、そこが「琉球切手図柄が誕生する場」でもあったことである(*28)。
1956年にニシムイの画家・安谷屋正義(1921〜1967)の紹介で琉球切手のデザインを始めた伊差川新(1917〜1989)は、「オリオンビール」のラベルなどで知られるデザイナーであった(ただし彼自身はニシムイに拠点をおいていない)。1957年に伊差川が手掛けたのは「第7回新聞週間記念切手」である(*29)。納期は1週間という厳しい条件であり、夢にまで切手が出てきたほど苦悩したうえで彼が提出したデザインは、鉛筆をロケットに見立てるものであった。
「それまでの切手とは違ったいき方で、沖繩という地域性をどう強調するかを考えたあげく、新聞のニュース性という立場から現実の沖繩、基地の中の沖繩を表現することにした」(*30)。
「ペンは剣よりも強し」とは言論の力が軍事的・行政的権力を上回りうることを示した言葉であるが、ここでは鉛筆がロケット兵器となり沖縄の上空を際限なく飛び回っている(そしてこの時期すでに核弾頭が沖縄には配備されている)。『沖繩に基地があるのではなく基地の中に沖繩がある』と東松照明(1930〜2012)が写真集を発表したのは1969年──そのずっと前に、切手というメディアのなかで、沖縄の状況は示されていた。
琉球切手は伊差川にとって、たんなる切手の域を超えた表現の場であった。1970年に伊差川は「国政参加記念切手」を手がけるが、ここには沖縄の島々と、日本国旗が掲揚された国会議事堂と、琉球弧をなぞるようにはためく異様に大きな日本国旗が描かれている(*31)。この切手に日本国旗があることは、浅からぬ意味を持っていた。というのも、1967年に安谷屋が手がけた「日米琉植樹祭記念切手」は発行中止に追いこまれ、200万枚が廃棄処分となっていたからである。
USCAR(琉球列島米国民政府)は、発行中止の理由を「米国国旗に関する公報第829号」により「国際的な場合、一国の旗の上に他の国の旗をおいてはならない」「国旗についてはいかなるデザイン、文字その他のマークを施してはならない」と定められていることを理由としている」(*32)が、「日本国旗の方がアメリカの国旗よりも上に来ている」ことが発行中止の主要な理由であった。1970年の「国政参加記念切手」にもUSCARから難色が示されたが、琉球政府は押し切って発行を決めている(*33)。
1965年に伊差川が手掛けた「琉球ボーイスカウト創立10年記念」も、こうした監視体制のなかで生まれた切手である。当初この切手に描かれる人物はボーイスカウトひとりだけであった。しかしその少年の胸に「アメリカボーイスカウトのマーク」をつけるよう、アメリカボーイスカウト極東支部の主事から強制されたことで、事態は複雑化する。
切手図案審議会も「沖繩の施政権はアメリカにあるにせよ、沖繩は歴然として日本の領土であり、沖繩人は立派な日本国民である。沖繩ボーイスカウトはアメリカのボーイスカウトではないので、アメリカのマークをつけるのは不当である」と譲らない(*34)。
伊差川は、審議会やボーイスカウト極東支部との度重なる交渉の末、切手に描く人物を「ひとり増やす」という手段にでた。サブスカウトの少年が入ったことで、胸のマークは識別できないほど小さくなる。印刷されれば数ミリに満たない熾烈な抵抗が、切手の中で確かに繰り広げられていた。
(つづく)
*1──
鷲谷花「炭鉱労働運動と幻灯──闘争から犠牲へ」『現代思想 総特集=森崎和江』2022年11月臨時増刊号、青土社、p.95
なお、#4でも参照しているように、日本の幻灯史に関する筆者の理解の多くは鷲谷の研究に負っている。2016-2017年に筆者は「クロニクル、クロニクル!」という展覧会を企画しているのだが、その準備の際に鷲谷の幻灯研究に触れて以来、一方的に多くを学ばせていただいている。記して感謝したい。
*2──富山の作品や活動についてはウェブサイトも参照のこと。また、富山の実践については近年多くの研究が蓄積されつつあるが、とりわけ李美淑の研究が詳しい。
李美淑「境界を越える対抗的公共圏とメディア実践ーー画家・富山妙子の「草の根の新しい芸術運動」を中心に」大野光明・小杉亮子・松井隆志編『社会運動史研究3
メディアがひらく運動史』新曜社、2021年、pp.30-50
*3──
富山妙子『わたしの解放 辺境と底辺の旅』筑摩書房、1972年、p.332
*4 ──富山妙子『アジアを抱く 画家人生 記憶と夢』岩波書店、2009年、p.179
*5 ──富山妙子「金芝河のメッセージーー私の七〇年代の記」『新日本文学』35号、1980年、p.104
*6── 富山妙子「遠い風景から刺す影に」『Silenced by History – Tomiyama Taeko’s
Work』現代企画室、1995年、p.69
*7 ──富山妙子「金芝河のメッセージーー私の七〇年代の記」『新日本文学』35号、1980年、pp.105-106
*8── 徐潤雅「富山妙子の目に映った韓国」『対抗文化史 冷戦期日本の表現と運動』大阪大学出版会、2021年、p.253
*9──古川美佳『韓国の民衆美術(ミンジュン・アート) 抵抗の美学と思想』岩波書店、2018年、p.180
崔烈「朝鮮人の捧げるレクイエム」解放五〇年特別取材、『月刊美術』1995年8月号(※韓国語)に出典がある(同上、註18、p.251)。
*10──富山妙子『アジアを抱く 画家人生 記憶と夢』岩波書店、2009年、p.180
*11──もともと赤松俊子の名で活動をしていたが、1956年の義母・丸木スマの死をきっかけに「赤松」姓から「丸木」姓へと改めている。また「俊子」の名も1960年代後半には「俊」としている(なお、戸籍名はもともと「俊」である)。
*12──1967年の「原爆の図丸木美術館」設立後に屏風となる。
*13──平松利昭編『閃きの芸術・流々人生 丸木位里・俊の遺言』樹芸書房、2002年、p.168
*14──岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が観た!』新宿書房、2015年、p.230
なお、現在も丸木美術館では《原爆の図》の原寸大複製画やパネルを貸し出している。
https://marukigallery.jp/visit/rental/
*15 ──小沢節子『「原爆の図」 描かれた<記憶>、語られた<絵画>』岩波書店、2002年、p.106
*16──同上、pp.186-196
小沢の調査によれば、1959年に中国で刊行された画集には《焼津》の右半分は掲載されておらず、左側の人物が43名へと加筆された状態のものが掲載されているという。こうした資料から、ふたりは50年代末から60年代にかけて段階的に加筆修正を加えていったのではないか と考えられる(同上、註84、p.272)。
*17──丸木俊『女絵かきの誕生』朝日新聞社、2003年、p.208
*18──俊は1968年に《ベトナムの母子像》という油彩画を描いている。
*19──開高健「痛覚からの出発」日野啓三『ベトナム報道』講談社文芸文庫、2012年、p.3
*20──石牟礼道子「特集その1 ルポ 菊とナガサキ 被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま」『朝日ジャーナル』1968年8月11日号、p.6
*21──
丸木俊『幽霊ー原爆の図世界巡礼』朝日新聞社、1972年、pp.283-286
*22── 小沢節子『「原爆の図」 描かれた<記憶>、語られた<絵画>』岩波書店、2002年、p.62
*23──安谷屋節子「私の見た彼」『新沖縄文学』7号秋季号、沖縄タイムス社、1967年、p.189
*24──
略歴については『安谷屋正義ーモダニズムのゆくえ』沖縄県立博物館・美術館、2011年、p.193を参照。
*25 ──与儀達治「「望郷」の頃」『安谷屋正義回顧展』安谷屋正義回顧展実行委員会、1979年、p.49
*26──『特別企画展 ニシムイ 太陽のキャンバス』沖縄県立博物館・美術館、2016年
*27──土江真樹子「北森(ニシムイ、1948-1950)へ向かって」『移動と表現 変容する身体・言語・文化』沖縄県立博物館・美術館、2009年、pp.19-20
また、同様に絵画を習っていたエディス・ローズは、「米兵という顧客、そして〔男たちに代わって家事を行う〕古風な妻たちがいたからニシムイでは画家たちが画家でいられた」と述べている。
*28──与那原恵『琉球切手を旅する 米軍施政下沖縄の二十七年』中央公論新社、2022年、pp.50-51
なお、琉球切手については、与那原恵「「琉球切手」から解き明かす戦後沖縄の美術家たちの足跡」も参照
(https://www.okinawa-bank.co.jp/opf/list/2018.html )
*29──伊差川新「切手デザインについての思い出」(月刊青い海編『沖繩
切手のふるさと』高倉出版会、1973年、p.18)では後述する新聞週間記念切手が「わたしの切手デザイン第一号」だと振り返られているが、実際には1956年末に年賀切手を手掛けている。紅型をもとにデザインされた初めての「多色刷切手」である。
*30── 同上、p.18
*31──いわゆる「復帰」が無際限に歓迎されていたわけでは決してない。琉球処分以降、沖縄を搾取し続けた日本国家への「復帰」ではなく、沖縄の「解放」を訴える人々も多い。復帰運動もまた、それ自体が目的ではなく手段であった。1971年には、沖縄返還協定について審議中の国会で、沖縄青年同盟の3人が爆竹を鳴らしながらビラをまき、決起を促した(物理的に人を傷つけようとするテロ行為ではないことを強調する)。逮捕後の裁判で3人は「うちなーぐち(沖縄語)」を一貫して使用し、裁判官から「日本語」(!)を話すよう迫られている。差別の構造を顕在化させ、「沖縄のことは沖縄が決める」という意志を示すための行動であった。
*32──
『ビジュアル日本切手カタログ〈Vol.2〉ふるさと・公園・沖縄切手編』日本郵趣協会、2013年、p.334
*33 ──「『日の丸切手』予定通り発行 琉球政府」『朝日新聞』朝刊 1970年10月21日 3面
*34── 月刊青い海編『沖繩切手のふるさと』高倉出版会、1973年、p.21
長谷川新
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