毛利悠子が個展を開催した、2024年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館のプレビューの様子。世界各地からキュレーターをはじめアート関係者が集まった 撮影:編集部
2024年10月15日、世界的なアートフェア「アートバーゼル・パリ」のプレビューを翌日に控えたパリの某レストランに、日本の学芸員やアートコレクター、ギャラリスト、アーティストら30名以上が集まった。アート関係者を招いたこの懇親会を開催した中心人物が、anonymous art projectの牧寛之(株式会社バッファロー 代表/株式会社メルコホールディングス 代表取締役社長)だ。
anonymous art projectは2023年1月に設立され、アート作品の収集、展示、そして国公立美術館などへの寄贈を中心に活動している。また東京・表参道の交差点に位置するOMOTESANDO CROSSING PARKなどで入場無料の展示を開催。「東京の原宿・表参道を拠点に、日本の現代美術アーティストを応援するプロジェクト」として、「現代美術のアーティストだけでなく、クリエイターやキュレーターと協働し、垣根のないコレクティブとしての展開」(公式サイトより)を目指しているという。
2024年夏にはOMOTESANDO CROSSING PARKで滋賀県ゆかりのアーティストの作品を紹介する「Made in Shiga」展を主催し、1万人の来場者を集めるなど大きな反響を得た。第2弾となる、青森ゆかりのアーティストを紹介する展覧会「Made in 青森―自然と歴史の交差点」も2月24日まで開催されている。
冒頭のパリで行われた懇親会は、anonymous art projectが主催する日本の学芸員を対象とした「ヴェネチア・ビエンナーレ研究派遣事業」の一環でもある。第60回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展において、anonymous art projectは代表作家の毛利悠子と日本館を支援しているが、同展の会期に合わせて美術館等に勤務経験がある学芸員およびキュレーターを調査・研究を目的に海外へ派遣した。ヴェネチア・ビエンナーレ研究派遣は、2024年4月の第1回(21名)、6月の第2回(33名)に続き、今回が第3回(33名)となる。このほかに香港派遣やシンガポールレジデンス派遣、メディア向けヴェニスビエンナーレ特別取材派遣なども2024年に行っており、派遣した人数は計105名に及ぶ。
ヴェネチア・ビエンナーレ研究派遣では、美術館の館長や館長経験者などが”団長”を務めるグループにわかれ、参加者を引率した。筆者が取材した第3回は、グループごとにヴェネチア・ビエンナーレやリヨン・ビエンナーレ、パリやロンドンでのアートフェアや展覧会を回った。派遣に採択されたのは、anonymous art projectとつながりがある館長クラスの推薦を受けた人や、24年8〜9月に行われた公募を通じて選ばれた人たちなどが中心となって構成されていた。
今後も、第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(2025)で同様に派遣を行う予定であるほか、より長期のキュレーターレジデンスも行う予定だという。
この取り組みの背景には、日本の美術館における予算の不十分さがある。現代アートを専門とする学芸員は海外のビエンナーレや展覧会、フェアなどを見て最新の動向をリサーチすることが不可欠だが、現状は日本の学芸員が海外に渡航する機会は予算の都合等で限られている。近年は円安が続いていることもあり、なかには出張をしても館の規程に宿泊費が収まらず、学芸員が差額を自己負担しなければならないこともあるという。海外渡航の経験の少なさは、国際的な現代アートの世界における競争力やプレゼンスの低下につながるため、そこに手を差し伸べようというのがこの研究派遣事業だ。調査研究のための渡航費支援を通して、日本の現代アートの振興につなげる。そんな本事業の意義について、牧はこのようにコメントする。
「キュレーターと連携し支援することで文化芸術振興に資する、という目的の入口として大きな意義がありました。普段は交流の少ない全国公立美術館の学芸員が相互に親交を深める機会をつくられたことに特に海外の芸術関係者からご評価いただきました」(牧)
第3回派遣には、学芸員に加えて若干名のアーティストが派遣されたほか、会社経営者のアートコレクターが懇親会等に一部合流し、親睦を深めた。また、文化庁 文化戦略官・芸術文化支援室長である林保太も同行。林は日本におけるアート振興の推進に向けた様々な取り組みを牽引しているが、この派遣事業をどう見たのだろうか。コメントを求めたところ、以下の回答を得た。
「やはり“百聞は一見に如かず”。日本の若手学芸員が大挙して世界の現実を体験したことは非常に大きなことだと思います。これまでは、海外の状況に意識のある人が個人的に行っても、帰国後に体験を共有できる仲間がいない、ということが往々にしてあったと思いますが、今回の大量派遣により、日本国内に同じ体験を持つ学芸員のネットワークができ始めたと思います。この“つながり”が日本の状況を好転させるトリガーになってくれること期待しています」(林)
また牧は、anonymous art projectを通じて作品を続々と国公立美術館に寄贈している。こうした活動のうえで、各地の美術館に在籍する学芸員について知り、必要に応じて関係構築することも欠かせないという理由もあるだろう。豊田市美術館、愛知県美術館、滋賀県立美術館、高松市美術館、弘前れんが倉庫美術館、京都国立近代美術館、森美術館、岐阜県美術館、アーツ前橋、群馬県立近代美術館、京都市京セラ美術館などにこれまで作品を寄贈している。
anonymous art projectが実施する事業は、これからの美術館や現代アートを取り巻くエコシステムにどのような影響を与えるだろうか。
文化庁の林は、以下のように期待を寄せる。
「anonymous art projectの取り組みは、これまでの日本における公的な美術館とコレクターあるいは事業家との新たな関係性を拓くものと感じています。とくに、これまで、アーティスト支援の影に隠れてその重要性の認識が浸透していなかった美術館学芸員(中でもキュレーターとしての側面)を主たるサポート対象として設定している点は画期的なことと思います。
anonymous art projectと関わることで、学芸員の意識にも良い変化が生じてきていると思われ、コロナ後の日本のアート界の脱皮・トランスフォーメーションを促してくれることを期待しています」(林)
これまで派遣事業のグループの団長を務めてきた滋賀県立美術館ディレクター・保坂健二朗は、学芸員同士のコミュニティの形成という観点から、さらにこう付け加える。
「派遣中には必ず1回懇親会が開催されますし、帰国後も、様々な機会に応じて、懇親会の場をanonymous art projectが設けてくれています。東京で開催される際、地方から来なければならない人に対しては、交通費も支援されます。この、コミュニティの形成というのが、じつは渡航中のリサーチに勝るとも劣らないほどに有意義なのではないかと思っています。
というのも、振り返ってみれば、現代美術に強い関心を持つ美術館学芸員が集まって意見交換をしたり情報共有をしたりする場が、日本では、展覧会のオープニング以外にあまりないからです。全国美術館会議の中に研究部会が設けられていますが、その内容は「保存」「教育普及」「情報・資料」「小規模館」「美術館運営」「地域美術」となっています。
一方、世界的な組織としては、近現代美術館の関係者が集まるCIMAM(International Committee for Museums and Collections of Modern Art)があります。これはもともと、ICOM傘下の国際委員会のひとつでしたが、10年くらい前に独立して、ICOMの提携組織となりました。大所帯ゆえに独立できたという事実はあるものの、問題意識を共有し、独立して議論する場が大事だと思えばこその、この歴史的経緯でしょう。CIMAMの事例が示すように、近現代美術には、リサーチ、キュレーション、コレクション、コンサベーション、ラーニングと様々なレベルで、変化や問題を共有しながら深めていくべき案件があります。日本の美術館の現状は、資質向上のための制度改革や状況の改善が喫緊の課題であるわけですが、anonymous art projectによる派遣事業を経験した人たちの中から、CIMAMのような組織の必要性を議論しようという声が高まってくるのではないかと期待しています」(保坂)
もちろん現状では、すべての国公立美術館がanonymous art projecから支援を受けているわけではない。美術館運営の公共性や自立性の観点から、距離を保つ美術館もある。各館のコレクション方針やプロセスなどの違いもあるだろう。
しかし日本における現代アートの持続的発展に向け、文化行政を含め様々な変化が求められるいま、美術館の課題や可能性にアプローチするanonymous art projectの事業は、民間と行政の双方に今後様々なかたちで影響を広げていきそうだ。
*Tokyo Art Beatは「anonymous art project10月取材派遣」に採択され、今回の取材を行った。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)