ニューヨーク近代美術館(MoMA)でヴォルフガング・ティルマンスの回顧展「To look without fear(恐れずに見る)」が開幕した。ニューヨークの美術館がティルマンスの特別展を行うのは今回が初めてで、1980年代から現在までの417作品が紹介される本展は、ティルマンスにとって過去最大規模の展示となる。
ティルマンスは、インスタレーション自体を作品ととらえており、自ら緻密な設営作業を行うことで知られる。今回は、それぞれの作品に対し、本展にふさわしいサイズとプリント方法が検討され、ティルマンスのアーカイブから選ばれたものや新たにプリントされたもので構成されている。作品のサイズはハガキ大のものから、大人の身長をゆうに超えるものまで様々で、それらが一見縦横無尽に配置されている。なかには部屋の隅や非常口の扉など、普段展示に使われないスペースに侵出している作品もある。額やケースに入った作品は少数派で、大多数は、テープで直接壁に貼られているか、釘に掛けたダブルクリップで吊るされている。作品の表面がそのまま晒されることによって生まれる、「脆さと即時性」をティルマンスは重視している。
作品は大まかに年代順に紹介されている。新旧の作品を並列させることが多いティルマンスにとっては珍しい試みだという。序盤で目を引くのは、「i-D」誌などで発表された、1990年代の代表的作品群だ。ティルマンスのとらえる友人や、クラブシーン、デモやパレードのイメージは、当時のユースカルチャーをドキュメンタリー的に伝えるとともに、商業写真とファインアートの境目を曖昧にしていった。その功績を認められ、2000年にティルマンスはターナー賞を受賞する。イギリス人以外が受賞するのは初となる快挙だった。
1990年代は、ベルリンの壁の崩壊から、冷戦の終了、EUの発足へと動いたヨーロッパの地政的激変期であり、ボーダレス化が進み、それがジェンダーやセクシュアリティの解放にも影響を及ぼしていった。境界が取り払われ、自由が志向され、世界が前進しているというユーフォリアのようなものが、これらの作品からは感じられる。それは、ブレグジット、ウルトラ右翼の台頭、コロナ禍、ウクライナ戦争などを経た足場から振り返ることで生まれる感覚であり、揺るぎなく見えたもののはかなさが明らかにされる。
ティルマンスは作品を、主題によって「人物」、「静物」、「構造物」、「写真」の4つのカテゴリーに分けたあと、さらに細かくグループに分け管理している。本展を見ると、ティルマンスの関心というのは「移る」ものではなく、「広がり深まる」ものなのだというのがよくわかる。たとえば、カメラを使用せず印画紙に直接光を当てて制作される「フリースイマー」シリーズは、2003年から始まり現在も進行中だ。こうしたプロジェクトが長期にわたっていくつも並走しているのが、ティルマンスの制作スタイルとなっている。
本展では、窓枠の静物から、太陽の前を通過する金星まで、ティルマンスの射程範囲の広さを改めて感じるが、それを顕示することが主旨のようには見えない。むしろ、インスタレーションの妙により、卑近なものから宇宙の彼方、過去から未来と一瞬で飛び越えることができる、人間の意識の偏在性が喚起され、ティルマンスはその偏在性を写真を介して伝えようとしているアーティストなのだと思えてくる。
いっぽうで本展には、自伝的作品も含まれている。大きくプリントされた《Deer Hirsch》(1995)と《Jochen taking a bath》(1997)には、ティルマンスの最愛のパートナーだったヨッヘン・クラインの姿が見える。クラインは1997年にエイズによる肺炎で亡くなっており、《Forever Forts》(1997)には、クラインが亡くなる数時間前、病床でティルマンスとクラインが手をつなぐ様子が収められている。同じ頃、ティルマンスも自身がHIV陽性であることを知る。《17 years’ supply》(2017)には、ティルマンスがHIV治療のために17年間飲み続けてきた、大量の薬の容器が入った段ボール箱が写っている。現代医療技術礼賛の意味合いがあるとティルマンスは言うが、この作品は、彼にとっての「メメント・モリ」と見ることもできる。
1980年代にゲイとしてカミングアウトして以来、ティルマンスにとって生と死は常に表裏一体だった。罹患によって、自身の脆さを常に意識しながらも、「見ること」や「見ることができること」の楽しみやありがたみといった、生きることの肯定的側面のほうが、死に対する恐怖を上回っているように感じるという。
幼い頃から興味を持っていた宇宙も、ティルマンスにとっては謙虚な気持ちになる契機を与えてくれる存在だという。「ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がとらえた写真などを見ていると、宇宙のなかで自分がいかに取るに足らない存在か思い起こさせられる。限られた残りの人生をどのように心地よくできるかが大切で、自分や他人の人生を惨めにするのに時間や労力を注ぐのは不毛なことだと思えてくる」(*)と語る。
本展のタイトル「To look without fear」には、恐れや既存の価値体系から解放され、自分にとって価値のあるもの・美しいものを自分の目で見つけてほしいという思いが込められている。最後の展示室の出口の横に掲げられた《A Birch Seed》(2021)は、本展を総括するような作品だ。窓枠の静物シリーズだが、みかんの房、雪、小石などに混じって、宇宙から見た地球を模したビー玉がふたつ置いてある。意識を向けさえすれば、美しいものは身の回りに溢れており、些細なものにも世界を重ねて見ることができるという、ティルマンスのメッセージのようにも見えた。本展のあとは、サバティカルを取る予定だというティルマンス。彼のひとつの大きな区切りとするのにふさわしい展示であった。
*––––Emily Witt. "Wolfgang Tillmans's Beautiful Awareness", The New Yorker, 2002. https://www.newyorker.com/culture/the-new-yorker-interview/wolfgang-tillmanss-beautiful-awareness
【参考文献】
Roxana Marcoci, Phil Taylor. Wolfgang Tillmans : A Reader. The Museum of Modern Art, 2021.
Roxana Marcoci. Wolfgang Tillmans : To look without fear. The Museum of Modern Art, 2022.
Emily Witt. "Wolfgang Tillmans's Beautiful Awareness", The New Yorker, 2002. https://www.newyorker.com/culture/the-new-yorker-interview/wolfgang-tillmanss-beautiful-awareness
Arthur Lubow. "Wolfgang Tillmans' Ways of Seeing", W Magazine, 2022. https://www.wmagazine.com/life/wolfgang-tillmans-photography-moma-retrospective
「ヴォルフガング・ティルマンス:恐れずに見る」
“Wolfgang Tillmans: To look without Fear”
会場:Museum of Modern Art(ニューヨーク)
期間:9月12日〜2023年1月1日
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/5440