長く続いたパンデミックを経て、ヨーロッパのアートシーンはどう変化しているだろうか? 分断、難民問題、戦争、経済格差、環境問題、公正性、急速に発達する情報技術の是非。複雑で多様な問題に同時多発的にさらされる2023年から2024年の欧州を演劇研究者・内野儀がレポートする。(全12回予定)
3年に一度行われる世界演劇祭は、ドイツ有数の舞台芸術祭として知られる。終了後には、高山明=PortBの新作が主催都市のディレクター陣からキャンセルされていたという証言が飛び出すなど、運営には様々な困難も伴ったようだ。いっぽう参加作には意欲的な作品も多くあった。海外作品を中心に、内野儀が論じる。【Tokyo Art Beat/外部編集:島貫泰介】
世界演劇祭は1981年以来、3年に一度、ドイツの都市持ち回りで開かれてきた演劇祭である(国際演劇協会ドイツセンター主催)。第16回にあたる今年は、6月29日~7月16日の日程で、フランクフルト市とオッフェンバッハ市の2都市で開かれた。
話題の中心は、史上初めてプログラム・ディレクターが公募されたこと。また、公募で選ばれたのがこれまた史上初の非西欧圏出身の相馬千秋だったことである。4大陸26都市から300名以上のアーティストが参加。36作品が2都市の10の会場で上演された。世界初演が6、ヨーロッパ初演が8、ドイツ初演が9作品だった。そのほか、アフタートークやインターヴェンション(介入型の学習活動)、国際シンポジウムなども同時に催された。
大規模な演劇祭で拡散しがちに思えるが、相馬はこれまで日本でキュレーションを行ってきた芸術祭同様、「孵化主義」というテーマを掲げて一貫性のあるプログラミングに果敢に挑戦した。
「孵化主義」とは、相馬によれば「不確実な時代を生きる上では、待機や遅延、不確実なものを、肯定的に受け入れる態度自体を『価値』と捉えられないか、考え」たものだという(*1)。コロナ禍にあって、ポジティヴにもネガティヴにもなりうる未来を想像する状態での発想だが、孵化という言葉は、現実化/可視化されていないものへの想像力とも言い換えられる。
このコンセプトは、会場のひとつ、フランクフルト応用美術館での「孵化用ポッド(Incubation Pod)」と称される多様な形式の展示によって体感可能なものになっていた。小泉明郎のVR/AR作品や百瀬文の映像作品と『鍼を打つ』あるいは、『エコーズ・チェンバー』(Boogaerdt/VanderSchoot (BVDS):アムステルダム)や『Zukhra』(サオダット・イスマイロヴァ:タシュケント/パリ)などが展示/上演されたのである。2週目週末には、朝6時まで無料で入館することもできた。すべての上演に立ち会えなくても、この美術館の空間に身を置くことで、全体のテーマ設定が感得できる卓抜な仕掛けである。
演劇祭全体としては、本連載で対立させてきた公共劇場vs.フリーシーンの構図で言えば、両者を横断する先鋭的な部分とアウトリーチ的部分が濃淡とともに配置されていた。テーマ的/形式的先進性と親近性/「わかりやすさ」が、連続体としてキュレートされていたのである。そこに美術の文脈が交錯させられ、演劇の概念そのものの拡張も目指された。
ヨーロッパ演劇の先端部分を担うスザンネ・ケネディ/マルクス・セルク(ベルリン)の『アンジェラ(奇妙なループ)(ANGELA [a strange loop])』 やティアゴ・ロドリゲス(リスボン)の『カタリーナとファシストどもを殺す美(Catarina and The Beauty of Killing Fascists)』に加え、オープンニングを飾った市原佐都子の『バッコスの信女―ホルスタインの雄』といった劇場演劇から、参加型として、9歳から参加可能なダンスコンテスト『きみの街を代表せよ(Rep. Your City)』(Cipher Dojo:フランクフルト)やオッフェンバッハの高校生と市内を散歩する『ティーンエイジャーとの夜の散策(Nightwalks with Teenagers)』(ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネル:トロント/オッフェンバッハ)から、サエボーグの『スーパー・ファーム』『ソウルトピア』まで。
体験型としての小泉明郎のVR/ARプロメテウス三部作(『縛られたプロメテウス』『解放されたプロメテウス』『火を運ぶプロメテウス』)やアピチャッポン・ウィーラセタクン(チェンマイ)『太陽との対話(VR)』から、非抑圧者の現在と歴史を主題化したソロ・パフォーマンスのナスタラン・ラザウィ・コラサーニ(ロッテルダム)『だれにも届かない歌(Songs for no one)』とコレカ・プトゥマ(ケープタウン)の『Hullo, Bu-Bye, Koko, Come in』まで。
レクチャー・パフォーマンスとVRを組み合わて動物保護の欺瞞を突きつける『究極のサファリ』(Flinn Works & Asedeva:ベルリン)や豊田市美術館での展示を回遊型の上演へと変奏したホー・ツーニェン(シンガポール)『百鬼夜行』、音楽劇ではチェルノブイリ原発事故を出発点としつつ東欧の宗教音楽史を壮大なスケールでたどる『CHORNOBYLDORF―考古学的オペラ』(Roman Grygoriv & Illia Razumeiko / Opera aperta:キーウ)、青少年向けでありながらショービジネスの悲惨と栄光を裏方の視点から描く『8時以降の楽しいお出かけ(A fun night out 8+)』(Jetse Batelaan:セントーヘンボス)もあった。
「いまだに現実化/可視化されていないもの」というコンセプトに沿って、観客は、アイデンティティーズとしか定義できないカテゴリーと関連づけられるマイノリティとしての〈女性〉たち、旧植民地の住民や移民や難民や外国人労働者や亡霊や妖怪や動物や剥製や着ぐるみや人形と出会う。それだけではない、恋愛についておしゃべりするオッフェンバッハの高校生や初恋について告白する初老の参加者、見事なダンスを披露する地元の子供たちとも出会う。
このうち、〈女性〉たちの表現の強度は圧倒的で、これまで触れなかった若手と見なせる参加アーティス作品としては、イランの女子校の監視状態を静かに告発するパルニア・シャムス(Parnia Shams:テヘラン)の『است (Is)』や、レクチャー・パフォーマンスとドキュメンタリー映像と伝統的な名演技を組み合わせつつ、自身と母親との複雑な関係を複雑なまま描くゴシア・ヴドヴィク(Gosia Wdowik:ワルシャワ)の『(Wstyd (shame)』もあった。
演劇祭のクロージングには、市原佐都子の新作『弱法師』とカロリナ・ビアンキ/カラ・デ・カヴァロ(Carolina Bianchi y Cara de Cavalo:サンパウロ/アムステルダム)の『カデラ・フォルサ第1章 花嫁と“グッドナイト・シンデレラ“』(以下、『シンデレラ』と表記)が上演され、ともに強烈な印象を残した。
能の「弱法師」の物語に緩やかに沿う前者は、人形、語り、音楽の3パートで構成される。乙女文楽に想を得た1名の人形遣いがラブドールやマネキン、交通誘導人形といった1体を操作するのが基本である。そこに、ハンブルク・ドイツ劇場所属の原サチコによるドイツ語の変幻自在な語りと、薩摩琵琶奏者の西原鶴真による音楽が加わる。
一見、ノイジーな上演を想像するが、基本的には深い悲しみの劇である。原作の父と息子の仏教的な赦しの可能性など想定不可能な現在、人間の極限的疎外状況がもたらす欲望過剰の状態にあって、圧倒的な弱者の立場に置かれた人形とその身体部位の物質性にこそ、市原のしなやかな視線が注がれるのだ。
『シンデレラ』はビアンキ自身のレクチャ-・パフォーマンスで始まる。始まるといっても、優に1時間を越える長時間の記録映像やスライドを使ったレクチャーである。2008年にアーティストのピッパ・バッカ(Pippa Bacca)が、花嫁衣装を着てヒッチハイクをしながらミラノからバルカン半島・トルコを通り、エルサレムを目指すパフォーマンスの途中、トルコ国内でレイプされ殺害された事件についてのレクチャーだ。
途中、ビアンキは、自らいわゆるレイプドラッグ(ブラジルで「グッドナイト・シンデレラ」として知られる)を飲用し、次第に意識が朦朧としてくるなか、アートにおける自傷の事例(マリーナ・アブラノヴィッチ)や、出身地ブラジルで、レイシズムと混じりながら多発しつづけるフェミサイド(女性だという理由だけで起きる殺人)を語り続ける。メキシコとアメリカ合衆国との国境地帯や、フェミサイドを犯しながらポップスターになって「社会復帰」したサッカー選手について語り続ける。世界から一向になくならない〈女性〉への圧倒的な暴力を語り続ける。
と同時に、アートがそうした蔓延する暴力にとって無力だという注釈も忘れない。この怪物的な悲惨にふさわしいアートの言語などあるのかと自問を続ける(本作品の幕開きはダンテの『神曲』の「地獄篇」からの引用で、レクチャーの途上、ボッティチェリによる〈女性〉が「狩られる」四枚の絵画もまたスクリーンに投射されるC。
意識がなくなっても、語りは字幕で延々と続けられる。舞台は転換し、背後に黒い自動車が出てくる。そのナンバープレートには、「カタルシスなどくそ食らえ(Fuck Catharsis)」とあり、アートによる〈救済〉の不可能性を可視化し続ける。そして、レモン汁とアルコールで自らを「洗礼」した8名のパフォーマーが、悪夢のような〈女性〉への暴力のイメージをダンス的身ぶりで舞台上に展開する。
いまは眠ってしまったビアンキ自身も、レイプ後の診察のように、内視鏡を性器に挿入されるに至るが、そこから上演は肯定的とは言わないまでも、落ち着きを見せて終演へと向かい、ビアンキも目を覚ますことになる。もちろん、上演の悪夢から醒めたとしても、現実という悪夢が待っていることをビアンキも、そしてまた観客も知っている。
上演前から鑑賞に相応しい年齢(18歳以上)の表示をはじめ、様々な警告がなされ、いつ退場しても一向にかまわないこと、また、フラッシュバックなどが起きたときのために、別室でカウンセラーが待機しているような十全なケアのもと、この上演は行われた。
ここまで概要を記してきたように、本上演は、クレア・ビショップ的「委任されたパフォーマンス」の「委任」された主体性を、いかに倫理性を毀損せずに取り戻せるか、という芸術史的問いに貫かれている。代理表象ではなくいかに当事者性を奪還できるのか、その不可能性に開き直ることなく。
レクチャー・パフォーマンスとは、端的に語る本人=アーティストに主体性を担保する形式である。そのことで、ビアンキが収集した多種多様な素材が、取捨選択作業を経て語りというアウトプットによって、いわばアート化される。ここまでは想定内である。
しかし、レイプドラッグを自ら飲用して意識を失うことで、アーティストの主体性は溶解し、自他の境界は失われ、その経験自体が悪夢との接続だったとしても、〈女性〉という巨大なカテゴリーに半ば包摂される。このような手続きを経れば、〈委任〉せずに当事者性を担保できるのではないか。〈女性〉という巨大なカテゴリーとの〈連帯〉をパフォーマティヴに言明できるのではないか。
今年のアヴィニヨン演劇祭でまず上演され、世界演劇祭をはじめヨーロッパ各地のツアーを実施中の本作は、若い世代(27歳とある記事に記載があった)(*2)のセンセーショナルなデビューとされた(*3)。しかし言うまでもなく、一過性のセンセーションとしてビアンキの登場を消費してしまっては元も子もない。ビアンキが試みる芸術史の書き換えをそのものは、より射程の長い問いを、わたしたちに差し向けているはずだからである。
*1──「ドイツ「世界演劇祭」 初の非西欧圏出身として率いる、相馬千秋さん」(『朝日新聞』、2023年6月3日)
*2──https://www.nachtkritik.de/?view=article&id=22698:die-cadela-forca-trilogie-kapitel-i-theater-der-welt-2023-carolina-bianchi-und-die-brasilianische-truppe-cara-de-cavalo-prangern-femizide-an-und-entfesseln-ein-inferno-kaempfender-koerper&catid=1893
*3──「アムステルダム在住の無名のアーティストであるビアンキを一躍センセーションに巻き込んだ。」Laura Cappelle「Review: To Revisit a Sexual Assault, She Drugs Herself Onstage」『ニューヨークタイムズ』、2023年7月12日(翻訳は引用者)。なお、タイトルにある「再訪」は、この記事によれば、ビアンキ自身が10年前にレイプドラッグを飲まされて暴行された事件を指す。ただし、上演そのものでは、そのことについての直接の言及はなかったように記憶している。
内野儀
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