公開日:2024年8月20日

山下麻衣+小林直人インタビュー。不確かさ・リアリティを見つめ、“なんのためでもない”アートに取り組み続ける理由

山下+小林の約20年にわたる活動を最初期の作品や国内未発表作を含め網羅的に紹介する展覧会が水戸芸術館 現代美術ギャラリーで10月6日まで開催中。本展にあわせてインタビューを行った

水戸芸術館 現代美術ギャラリーにて、左から山下麻衣、小林直人。芝生に見えるのは、新作《人が花に対して、また花と共に行う営み》の一部。会期終盤にかけて花が植えられていく

山下麻衣+小林直人は、2001年に公式に活動を開始したアートユニット。東京藝術大学を修了後ドイツに渡り、世界各地のレジデンスプログラムに参加。国内外で作品を発表してきた。

現在、ふたりの約20年にわたる活動を、最初期の作品や国内未発表作を含め網羅的に紹介する展覧会「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」水戸芸術館 現代美術ギャラリーで10月6日まで開催されている。

展覧会にあわせて行ったインタビューでは、ふたりのユニット結成のきっかけ、「リアリティのない時代」であった2000年代へのリアクション、海外での生活、東日本大震災やパンデミック以降に訪れた変化など、約20年の活動について聞いた。

なぜ、ふたりで活動するのか?

──2021年にたまたまおふたりの展覧会を黒部市美術館で見る機会があり、その作品に惹かれて、2023年には千葉県立美術館の個展も訪れました。おふたりの作品には、日本で買ったミネラルウォーターをドイツの源流までわざわざ放流しに行く《Release of mineral water》(2004)や、波の数をひたすら数える《1000WAVES》(2007)、蜃気楼の出現を待つ《infinity~mirage》(2021/2023〜)など、自分の外部にあるものを理解したり実感したりする「手つき」に対する一貫した関心があるように感じていて、興味を持っています。今日はこうした作品の背景にあるものも伺えればと思っています。

はじめに、今回の水戸芸術館の個展では、ユニット活動を本格化した2001年の作品も紹介されていますね。おふたりはどのように出会い、一緒に制作を始めたのですか?

小林直人:出会いは高校生のころです。僕が美術部の3年のとき、山下が1年で入ってきて。その頃からお互いの作品や制作に意見を言い合っていたんですね。

山下麻衣:私たちはふたりとも大学では油絵科にいたのですが、受験対策のために自分の絵のスタイルを作るうえでも意見のやりとりをかなりしていて。だから、むしろ自分ひとりで判断して制作したことがないかもしれないくらいなんです。大学に入った後も、ふたりともすぐに絵を描くことはやめちゃったしね。

小林:うん。いまはまた絵画が人気ですが、僕らの学生時代は絵画はもう終わりじゃないかというムードがあって。すぐに写真やヴィデオ、パフォーマンスで制作を始めました。

山下麻衣+小林直人 Release of mineral water 2004 ヴィデオ 5分33秒

山下:べつに絵画に不満があったわけではないのですが、私たちにとってはもっと直接的に何かを自分たちで経験する、体験することが重要だったんです。自分たちで何かしらの行為を行なって、それを写真や映像で記録する。そうするとさらにふたりで制作することが自然になっていって。

小林:直接的な行為を求めたのは、2000年前後のあの時代に「リアリティのなさ」が叫ばれていたこともあるよね。世紀末的で「何をしていても実感がない」みたいな時代の空気があって。あと個人的には、ふたりで組むことで中性的な表現ができるのではないかという思いもありました。当時、シンディ・シャーマンが「女性性」を批判的にとらえる作品を作ったりしていて、そうした性差によらない「人間」としての表現がしたかったんです。

──いまのお話を聞くと、今回も出品されているおふたりのユニットとしてのデビュー作が《Restart – as an Alien(やりなおしーALIENとしての)》(2001)だというのも面白いですね。これはエイリアンに扮した山下さんが身の回りにあるものとファーストコンタクトを図るという映像作品ですが、背景にはリアリティの欠如という時代感覚があった、と。

小林:全部いったんリセットしようというのがありましたね。僕らの世代って、良い大学に行き、就職して、お金を稼ぎなさいと言われて育ったけれど、それってどうなの? という疑問がスタートだったと思います。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」会場風景より、《Restart – as an Alien(やりなおしーALIENとしての)》(2001) 撮影:編集部

デッサンが育んだまなざし

──「自分の外部にあるものを理解すること」への関心は、言い換えると「観察」への関心とも言えますね。これは絵画のベースにあるものでもあると思うのですが、おふたりのなかで現在の作品と絵画制作の経験に地続き感はありますか?

小林:そこは完全に地続きですね。

山下:そうだね。主にデッサンだと思います。

小林:日本だけかもしれないけど、デッサン教育のなかでは、名称も意味もすべて忘れて、明るい/暗いとか、凸凹とかだけで見ることを教わります。そこで教わったことの衝撃がそのまま世界認識に影響したというか。まず疑って、真っさらから考えるよね。

山下:赤ちゃんになったつもりで、そのものを最初に見たように見ろというのが基本の教えでしたね。ペットボトル1本も見慣れたものとして描いたら大した絵はできない。それにいかに驚き感動するかが重要だという教えで、それは身に付いてしまっています。

ひとつのものをいろんな角度から一歩引いて見るという目線もその延長です。今回、水戸芸術館の広場に花壇を設置して、そこに会期中、観客に持参した花を植えてもらうという新作《人が花に対して、また花と共に行う営み》を作りましたが、この作品のテーマには「政治」があって。私たちの場合、ニュースを見ていて気になることがあっても、政治問題を直接扱うのではなく、「政治」そのものを考えてしまうところがあります。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」展示風景より、《人が花に対して、また花と共に行う営み》(2024)。水戸芸術館シンボルタワー展望室から眺めた様子 撮影:小林直人

小林:「政治」が気になって、広辞苑で調べてみたんです。そうしたら「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」という説明がされていて、こんなフラットな言葉なんだと。日本で「政治」というとネガティブな印象もあるけど、この説明には英語の「Politics」にも通じる、なんでも話し合いをすることを政治と呼ぶような語感がある。花壇をそうした場にできないかなと考えたんですね。実際に花壇のあり方や、お世話の当番決めも、誰かがリーダーシップを取るのではなく、地元の人たちからなる「花壇クラブ」のみなさんを含め、みんなで相談して決めています。

──そのプロセス自体が政治的ですね。

山下:そうなんですよ。私たちはできるだけ運営の中心から離れて、自走することを目指したいんですけど、そんなに上手くいかないかもしれない。それも含めての実験です。

小林:僕らはこれまで作品で、動物や自然という自分たちと比較的遠い他者と協働することが多かったですが、今回は花という他者のほかに、人間の他者も入ってきた。やってみると人間がいちばん面白いし、難しいですね。蜃気楼のほうがまだ制御可能なくらい(笑)。

山下:君は最近、そういう一連の体験を「思い出づくり」とよく呼んでいるよね。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」会場風景より 撮影:編集部

──「思い出づくり」ですか?

小林:この作品だけではないんですけど、僕らの作品は言ってしまえば、なるべく多くのことをしてみたいよね、ということで。人生を一個の経験で終わらせたくない。花壇を作るという自分の思い出づくりを、みんなと共有している感覚なんですね。

制作のためにパフォーマティブなことをしていて、苦しくても、それを別の自分が見ている感覚があるんです。自分はどう苦しむだろうということを、自分で見ている。

山下:それもデッサンに通じるね。デッサンではよく鳥瞰、虫瞰といって、物事を引きと寄りの両方で見ろと言うんです。いきなり現代美術から入った人はアイデアで勝負することも多いと思うのですが、私たちはやっぱり絵画から始まっているんだなと思います。

誰もやらないことを通して、人間の輪郭を探る

──少し戻りますが、さきほども挙げた《Release of mineral water》や、アフリカから来たキリンのためにセーターを編む《Present(for a Giraffe)》、ターザンの雄叫びで動物園の動物とコミュニケーションを図る《TARZAN》、願い事のために一瞬の流れ星の映像を2分間に引き延ばした《When I wish upon a star》など、2004年頃には立て続けに作品を作られていますね。当時はどんなことを考えられていましたか?

小林:2005年にふたりでドイツに留学するので、その少し前ですね。当時はふたりでやれることをいろいろやり、自分のなかのものをすべて出したいというのがあったかな。《When I wish upon a star》も、願い事って結構、人が一生心のなかに抱えていくものだったりしますけど、全部ぶちまけてみたらどうなるんだろうという思いがあったんです。当時、僕らは作家としてやっていけるかどうか、留学できるどうかもわからなかったから。

山下麻衣+小林直人 When I wish upon a star 2004 ヴィデオ・インスタレーション 2分22秒

山下:あとはやっぱり、さっきも言ったリアリティのない時代というのがあって。物質的には満たされているけど、社会全体にふわふわした手応えのなさがあったよね。

小林:バブルが弾けて、時代に翳りが出てきて、サラリーマンが死んだように電車に揺られている。そんな時代の始まりで、「大丈夫なのか?」と感じていた。だから、もう一度自分たちの行動を通して、「人間の輪郭線」を探ってみたいという思いがあったんです。

でも、エベレスト登頂とか、大体の偉業はすでにやられてしまっている。だったら、とくに誰もやらないこと、やりたいと思わないことをやってみようというのがあったんです。当時はみんな、より安く、より早くと、利益追求ばかりに興味を持っていたので、それとは違う脇道じゃないけど、誰も行ったことないルートを探してみたかったっていうか。

キリンにセーターを編むのも、ミネラルウォーターをわざわざドイツの源流まで戻しに行くのも、「だからなんなの?」と思われても仕方ない行為なんですけど、自分のなかの経験は残る。その経験を映像という記録を通して観客にも共有している。そういう感覚があったと思います。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」会場風景より、手前が《Present(for a Girrafe)》(2004) 撮影:編集部

──たしかに、当時は国内でいわゆる新自由主義の台頭があった時代ですよね。そんな経済や効率が重視される時代に、あえて「無駄」と思えることをやってみる、と。

小林:いまでこそベンチャー企業やYouTuberがあえて無駄なことをやってみて、アクセス数を稼いだりしますけど、当時はまだそうした文化はなくて。あ、でも一部のバラエティ番組にはあったかな。『電波少年』とかね。

──言われてみると、少し似た精神があるかもしれないですね。

小林:もちろん意識していたわけじゃないけど、シンクロ感はありますね。効率を重視したせいで見過ごしてきたものがあるかもしれないという。

山下:私たち自身は真面目なんだけど、結果的にコミカルになっちゃうね。

一見、「複雑」に感じさせないことの重要性

──実際、その後に手がける作品群もコミカルさやチャレンジ精神を感じさせるものが多いですね。5個のサイコロを振り続けてゾロ目を目指す《miracle》(2004)や、ボーリング球大の飴を舐め続ける《Candy》(2005)、芝生の上を5日間走り続けて「∞」マークを出現させる《infinity》(2006)など、制作にとんでもない忍耐を伴う一連の作品群です。また、この頃にドイツへ移られますが、海外に行かれて制作スタイルは変わりましたか?

山下:もともと言葉に頼ってはいなかったんですが、さらに頼らないようにしたよね。言葉で説明が必要なものはやらなくなった。

小林:前知識や背景込みではなく、子供でもすぐ分かる作品を心掛けていた。

山下麻衣+小林直人 infinity 2006 HDヴィデオ 4分38秒

──僕は黒部で初めて作品を見たとき、それがすごく印象的でした。別の用事で訪れたのでサラッと見て終わりそうなところ、おふたりの作品はパッと見ただけで何をしているのかがわかる。でも、そこに奥行きがあって、コンセプトの磨き上げを感じたんです。そこはふたりで活動していることも関係しますよね。まずは相手にも伝えないといけないという。

山下:そうなんです。それはすごくある。

小林:僕らの作り方は、大体僕がまずネタ帳にアイデアを書いているんです。僕はそこで満足しちゃうタイプなんだけど、山下がそれをつねに読んでいて、然るべきタイミングや展示場所が来たときに、ほかの要素も加えて出し方を提案してくることが多くて。

山下:今回の新作もそうです。花壇を使うアイデアは前からあったけど、水戸芸は建築的にも美術館のあり方としても、それをやるのに相応しい。そこで実行に移すんです。

──野菜の生産者と、素材をアレンジする料理人みたいですね。

山下:そんな感じですね。でも、提案がズレていることもあって、昔はよく喧嘩していました(笑)。そこでまた、ふたりのあいだで練り上げていくわけです。仰ったように、パッと見た瞬間、複雑に感じないというのはけっこう大事で。それは作品で何かを伝えたいわけではなくて、見る人の考えるきっかけになればいいという思いがあるからなんです。

山下麻衣+小林直人 Candy 2005 キャンディー、グラスボウル、DVD 19分22秒

海外での活動を通して見えてきたもの

──ヨーロッパに行かれたことを含め、おふたりには活動するなかで意識していたアーティストや好きだったアーティストはいらっしゃいましたか?

小林:プロセスの少し変わったコンセプチュアル・アートは好きでしたね。例えば、アンドレアス・スロミンスキー。スロミンスキーは動物の捕獲用の器具を展示する「罠」という作品が有名ですが、《Bucket of Water》(1998)というもっとパフォーマティブな作品があって。これは、美術館のミュージアムショップになぜかバケツ一つが置いてあり、そこに水が張ってあるという作品なのですが、じつはその水は、わざわざ配管工を呼び、トイレの壁の中にある水道管から15mものパイプを配管し、蛇口を設置して入れたものなんです。

山下:パイプ自体は水を入れたらサッと片付けてしまうんですよね。見た目にはすごくシンプルなんですけど、じつは背後には大工事がある。その過程が作品というものですね。

小林:あとは、サイモン・スターリングのターナー賞の受賞作《Shedboatshed (Mobile Architecture No 2)》(2005)も好きでした。これも、スイスのシュヴァイツァーハレという地域の川沿いにある小屋を解体して、それでボートを作り、余った廃材も載せてバーゼルの中心部まで川を下り、そこでまた小屋を建てるという変わったプロセスの作品です。この作品はちょうど渡欧した頃に見て、こんなアートもあるんだと印象に残りました。こういうかたちに残らないしなやかさや、日常から少し外れるアートのあり方には影響は受けましたね。

山下:でも、最近はまた少し違う作家を調べているよね。

小林:最近は、クレア・ビショップの『人工地獄』などでも言及されている旧ソ連の「集団行為」という集団に興味があって。これは当時のソビエトの厳しい統制下で、鑑賞者が指示に従って僻地に秘密裏に集まると、そこで何かが起こり、終わったらまた散っていくという秘密結社みたいな活動で、今回の花壇にはじつはそのイメージが少しあります。

山下麻衣+小林直人 miracle 2004 ヴィデオ 3分22秒

──なるほど。花を持った人たちがあちこちから集まってきて……と(笑)。

小林:花壇がいつの間にか埋まっていくという。

山下:だから、みなさんにはぜひ花を持ってきてほしいよね。「花植えステーション」といって植えるための道具やインストラクションも準備しているので、自宅から持ってきたり駅前で買ったりして、ぜひ植えて、水戸芸のタワーの上から見てみてほしいです。

もうひとつ、海外に出て意外だったのは、自分たちの作品が日本の美術史や日本文化の文脈と紐づけて見られることでした。たとえば、パフォーマンスの映像作品に、紙破りのアクションをした村上三郎とか、具体美術協会の影響を感じると言われたり。自分たちでは全然意識していなかったから、そこから自分たちの立ち位置は意識するようになりました。

小林:海外では《infinity》などの作品に仏教的なものを感じるとも言われました。当時は宗教にまるで興味がなかったので、「仏教?」という感じだったのですが、少し勉強しなくちゃと思い、帰国後に鈴木大拙など仏教哲学的なものにも触れるようになりました。

──千葉県立美術館の個展に、画面の角に赤い太陽だけが描いてある、子供のお絵かきのような《The Sun In The Corner》(2023)という作品が展示されていました。これもおふたりの、世界を理解するための術への関心を感じさせる作品ですが、同展のカタログではこの制作にあたり、人が「わからないこと」を恐れること、そしてその不確かさを避けるために仏教で言う「分別」を持つことなどを意識していたことが紹介されていました。

山下麻衣+小林直人 かどの太陽 2023 オイル・パステル サイズ可変

小林:人はわからないことを恐れる。恐れるから、あらゆるものに名前を付けることで認識しようとする。ただ、そのことが人に苦悩をもたらす、というのが「分別」の考え方だととらえています。いっぽう、鈴木大拙などを読むと、禅哲学では世界がまずわからないものであることを受け入れるという考え方があって、千葉の「もし太陽に名前がなかったら」という展覧会名はそんなところから付けました。

同時に《The Sun In The Corner》は、幼児の美術教育における、いわゆる象徴期の話を意識していました。子供が世界認識をしていくなかで、ただの殴り書きから、例えば太陽を丸で表すようになる時期がある。それが面白いなと思うんです。僕らじつはいまも絵画教室を開いているんですね。

──そうなのですね!

小林:小中学生限定の教室なんですけど、見ているとやっぱり、画用紙の角が空くといまの子も赤い太陽を描くんです。ただ、太陽を赤く描くのは日本の特徴で、西欧では黄色やオレンジで描くことが多いそうです。そうした当たり前に感じている世界認識のなかにも、一種の「型」がある。その存在は、海外で生活してより感じるようになりましたね。

抽象的な話や日常の気づきを、いかに実感するか

──いまのお話でも感じましたが、おふたりの作品を前にすると、自分が世界のなかにあるとはどういうことかという哲学的な次元に触れる感覚があります。内容はとてもシンプルなのに、よく考えると言葉にし難い深い奥行きがある。そこがユニークだなと感じます。

小林:高校時代に地学の先生に宇宙の果ての話をされたことがあって。あるときクラスで赤点がたくさん出てしまったのですが、そしたらその先生がおもむろに、「学校の外には地球があって、その周りには太陽系があって、その先には銀河があって……。だからそんな小さなことはどうでも良い」と語り出したんです。その話が当時すごく衝撃で。

無限の宇宙のなかで自分が小さなものに思えてきたし、そこから宇宙と自分の身近なところを行ったり来たりするようになったんです。流れ星の作品も、そのふたつをつないでみた作品で。

山下麻衣+小林直人 1000WAVES 2007 HDヴィデオ 50分15秒

──自分の等身大の身体感覚に、異なるスケールが入り込んできて、そのあいだを行ったり来たりする感じ……わかります。

小林:黒部市美術館の個展のときは、パスカルにハマっていたのですが、パスカルは無限大だけではなくて無限小も考えているんです。ダニの血液の話とか。無限大と無限小。それを考えると、人間はその中間のどちらでもない領域に存在することになって、「うわあ」とか思う。

──黒部で展示していた、蜃気楼で「∞」マークを出現させる作品の関連の絵画には、パスカルの「無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのだろう」という言葉も引用されていましたね。

小林:そうなんですよ。だから、作品というのは結構、たとえ話的なものなんです。

山下:うん。そうだね。

──たとえ話?

小林:たとえば、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』という本に、アリが集団で遺伝子を残すために、働きアリが自ら死んでいくのは、木の葉が枯れた葉っぱを落とすのに躊躇しないのと同じだ、といったことが書いてあるのですが、こういうたとえ話って面白いじゃないですか。そういう話が作品にならないかな、と考えていくんですね。

山下麻衣+小林直人 infinity~mirage 2021/2023– ライブ配信映像、生地海岸堤防に設置されたm型看板(230×1410㎝)、カンバスにアクリル(31.8×41㎝)、テキスト サイズ可変

山下:実際、昔、ニュートンの気持ちを知るために、リンゴが落ちてくるまで待つ作品というのも考えたことがあったね。アイデア止まりでしたが。

小林:なので、発想方法としては、日常的なものも含めて、ひとつの気付きをどうしたらビジュアライズして、実体験として得られるか、というところが大きいと思います。観念だけではなく、身体を通して実感することが大切なんです。

震災、コロナ……絶対的なものはないという体感のなかで

──2011年には、おふたりの作品にも協働相手としてたびたび登場する愛犬アンちゃんとの生活が始まりました。このアンちゃんとの暮らしは制作に変化をもたらしましたか?

山下:それは結構大きいですね。ふたりでずっとやってきたところに、もう1匹、完全なる他者が入ってきた。圧倒的他者なので、すごい観察するんですけど、犬を観察していると逆に人間が見えてくるところがあって。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」会場風景より、《積み石》(2018) 撮影:編集部

小林:ニューヨークにいた頃に飼い始めて、その後すぐベルリンに引っ越しました。ベルリンは街中でみんなが犬を放して散歩させている「犬天国」ですが、そこで大型犬に揉まれているアンを見ていると、犬にも社会があることが見えてくるんですね。犬って喋らないと思われていますが、カーミングシグナルという声ではないシグナルを使うんです。

山下:顔をそむけるとか、あくびをするとかね。

小林:かれらはすごい平和主義者なので、2匹が向かい合ったとき、戦闘状態を避けるためのテクニックをいろいろ使うんです。それがとても面白くて。そこではまず挨拶が非常に重要なのですが、考えてみると、西洋の人も挨拶でエアキスをしますよね。だから、人間の行動も犬と地続きなところがあり、思考が人間中心主義的ではないかたちで広がったりしましたね。

──他者というお話がありましたが、同じ2011年、それこそコントロールできない他者としての自然の存在を感じさせた東日本大震災も発生しました。

小林:僕らはベルリンでそのニュースを知ったのですが、津波の映像を見ながら最初は現実感が持てないでいました。映画で、自分が国を出てるうちに母国で戦争が始まり帰れなくなる話がありますけど、そういう感覚に近い、足元を掬われる感はありました。あの感覚は味わったことなかった。とくにナショナリズム的な意味ではなく、田んぼがあってカエルがいてみたいな日本の風土は、自分が育った環境として愛着があったので、そういう変わらないと思っていたものも変わっていくんだ、と。それで、以前スイスの山を対象に制作した、山をよく見て彫刻を作るシリーズを、今度は日本の山を対象に制作したんです(《How to make a mountain sculpture – Japanese Mountains》2012-2014)。

山下麻衣+小林直人 How to make a mountain sculpture – Japanese Mountains 2012-2014

山下:絶対的なものはないんだと実感しましたね。私たちは不確かさということを昔からよく言っていたのですが、本当に地盤が揺らぐというか、それを実際に体感した。

小林:こんなゆらゆらした上に住んでいるんだというね。

山下:しかも、その後のコロナ禍もあって、社会って一瞬で変わるんだ、と。活動を始めた頃はフワッとリアリティがないと言っていたけど、そうした経験を経てだいぶ心理的な変化はありました。以前は、『ファイトクラブ』じゃないですけど、作ることでリアルさを確かめたいという気持ちがあったんですが、いまはそれだけではなくて、やってみたいことをやってみるというふうに変わってきた。

小林:疑ったり壊すのではなくて、作っていこうというね。アーティストでもそうではない人でも、若い世代はこれまで大人たちが作ってきた社会に疑いを投げかけるものだと思うのですが、僕らもいい歳なので、自分なりに見せたいヴィジョン、世の中がこうあってほしいというヴィジョンをちゃんと立てていかないといけないな、と。

人間という他者と探る、まだかたちのないアート

──おふたりは活動の初期から、リアリティのなさや不確実性について関心を持ち、そのなかで世界の手応えを感じるための制作を続けてきたけれど、震災やコロナ禍という大きな出来事を経たことで、その行為の意味が少し変わってきているのかもしれませんね。

小林:そうですね。震災やコロナがあり、世界で戦争が起きてというなかで、アートに何がやれるんだろう、アートをやっている場合なのか、というふうにも思うし、そもそも僕自身は自分たち=アマチュアというイメージなので、これまでしてきた活動もアートなのかどうかもわからないですが、ただ、アートじゃないとやれないことはあるんだろうなとは思うんです。アートって許されたエリアというか、どこでもやれないことがアートのなかではやれますよね。利益も出ない、なんのためでもない例外的なことがやれる場所としてのアートは、やっぱり大事にしないとなと思っていて。

だから今回の展示では、僕らがいつもふたりだけで実行して、結果報告みたいにヴィデオ作品として見せてきたものを、みんなでシェアしたいなと思っているんです。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」会場風景より 撮影:編集部

──その花壇の作品のように、不特定多数の人たちと一緒に協働するというのは初めての試みですか?

山下:そう、今回が初めてですね。この作品は、そもそものアイデアの段階から人々が花を持ち寄ってくるという人間を介したアイデアでした。これ自体が私たちにとっては珍しいことで。そのアイデアを今回実現しようと思ったのは、水戸芸術館という場所も大事でした。水戸芸自体が、地域のなかのネットワークづくりや地域に開くプロジェクトを多く行っているイメージがあったから、ここならできるかもなというのもあったんです。

小林:すでに美術館に地域とのつながりあるだろうなという期待があったね。

山下:そう。実際蓋を開けてみたら、花壇クラブも1ケタくらいの想定だったのが、それを遥かに超えて、いまは50人ほどに参加していただいていて。みんな、それぞれいろんな興味関心を持っているけど、初めてのことだから不安になったり、運営の仕方がわからなくて微妙な空気になったり。結局、それは私たちがいつも作品を作っているときに感じていることと同じなんですよね。なんか行けそうと思ったり、いや、できないと思ったり。不安になりながらも作る。その感覚を、みんなと共有して体験しているんです。

──そしてまた、そこに生まれる集団の心理状態をおふたりが観察するわけですね。

山下・小林:観察していますね。

「山下麻衣+小林直人 他者に対して、また他者と共に」会場風景より 撮影:編集部

──以前は世の中を疑い、動物や植物といった人間以外の自然という他者に向き合っていたおふたりが、いま、人間という他者との協働に関心を持っていることが面白いです。

小林:他者という言葉は、たまたま政治を調べるなかで出てきたものでしたが、考えてみると自分たちのこれまでの活動、すべては他者との関わりだなと思ったり。だから、客観的にみるとすごく素直というか、ストレートな作品にはなっていると思います。自分が柔らかくなっているのか、あるいは、社会に対して疑いを持つ自分すらも疑い出しているのかわからないのですが、それがいまの気分には合っているんですよね。

これはアートへの考え方にも言えて。以前は「これはアート」「これはアートじゃない」ってすごくはっきり自分のなかにあったんですけど、いまは悪い意味じゃなく、そこがボンヤリしてきているんです。「これはアートだ」と見えているときって、おそらく、何かそうじゃないものを否定することによって、「アート」が見えているのだと思うのですが、そうしたかたちではないアートってどうやったら考えることができるのか。だから、まだかたちがないものだから、作って育てていかなきゃいけないんでしょうね。

山下:過去の美術史に対しても、若いときは唯一無二で、独立した存在でありたいと考えていたけど、最近は過去に同じようなことをしていたアーティストがいたと知ると、「その時代もいまの時代と似た部分があったのかな」とか、過去とつながっていることが面白く感じるようになってきて。大きな流れのなかに自分がいるという感覚が強くなってきた。

そうしたなかで、参加型の作品は珍しくはないですが、新作の花壇は見るだけでも、花植えイベントに参加するだけでも、お世話をするでもと、いろいろな関わり方ができるオープンな作品で、私たち的には人間の他者と関わるいままでにないチャレンジです。

ぜひ植えたい花苗を持って、これまでの作品も含めて見にきてもらえたら嬉しいです。

杉原環樹

杉原環樹

すぎはら・たまき ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、美術系雑誌や書籍で構成・インタビュー・執筆を行なう。主な媒体に美術手帖、Tokyo Art Beat、アーツカウンシル東京、地域創造など。artscapeで連載「もしもし、キュレーター?」の聞き手を担当中。関わった書籍に、平田オリザ+津田大介『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』(青幻社)、卯城竜太(Chim↑Pom)+松田修『公の時代』(朝日出版社)、森司監修『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』(アーツカウンシル東京)など。