公開日:2023年8月26日

報道写真家・嬉野京子と沖縄。【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #6(文:長谷川新)

インディペンデントキュレーター、長谷川新による連載第6回。本連載は、1960〜70年代の「日本戦後美術」を、これまであまり光が当てられてこなかった「ベトナム戦争」を軸に辿り直すもの。ベトナム戦争を背景にした「イザナギ景気」に日本列島が沸いた時代の、新たな戦後美術史を立ち上げる。(不定期連載)

米軍による土地の強制接収と闘う沖縄・伊江島の島民。「団結道場」起工式の様子。 1967年(以下、断りのないものはすべて撮影:嬉野京子)嬉野蔵ネガよりデジタル化:山本渉

イザナギ景気とは1965〜70年にかけて続いた高度経済成長時代の好景気の通称だが、その要因のひとつがベトナム戦争を背景とした「ベトナム特需」である。本連載「イザナギと呼ばれた時代の美術」は、この時代の「日本現代美術」をベトナム戦争を軸に辿ることで、これまであまり注目されてこなかった同時代の美術のありようを浮かび上がらせることを試みる。

第6回は、報道写真家・嬉野京子(うれしの・きょうこ、1940〜)を取り上げる。本土出身の嬉野は、あることをきっかけに戦後、米軍統治下にあった沖縄に関心を持つようになる。そこで米軍が少女を轢き殺した現場に居合わせ、密かに撮影した1枚は、「沖縄の現実をあらわにした」と世間を大きく揺るがした。本稿では嬉野の写真を読み解きながら、イザナギの時代における写真の「使われ方」を検討する。【Tokyo Art Beat】

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「古いタイプのリアリズム」中平卓馬らによる批判

1969年の写真雑誌『アサヒカメラ』に、「コンポラかリアリズムか」という座談会が掲載されている(*1)。「現代芸術(非政治的写真)」か「報道(政治的写真)」かという二項対立を前提とした論争であるが、実際に撮影されている当時の写真群はそうした形式的な対立には収まらない(*2)。

むしろこの座談会では、「コンポラかリアリズムか」とは別の論点や対立が見逃されがちだ。たとえば、高梨豊(1935〜)、中平卓馬(1938〜2015)、新倉孝雄(1939〜)、桑原史成(1936〜)といった男性写真家に混じって、ただひとり女性で出席しているのは、報道写真家・嬉野京子(1940〜)である。

廃品となった机を持ち帰る子供たち。沖縄・読谷村。1967年

桑原史成は水俣病やベトナムに派遣される韓国軍の撮影を行っていた報道写真家であるが、彼にも、「嬉野さんはどっちかというと古いタイプの、説明的報道写真の道を歩んできたと思う」と紹介されている(*3)。「コンポラかリアリズムか」とは別に、「新しい / 古い」リアリズムの対立が想定されているのである。

中平卓馬も、嬉野が所属する「日本リアリズム写真集団」(*4)は安易な政治性に支配されているとして、次のような批判を差し向ける。

「嬉野さんをひどい目にあわそうと思っていうんじゃないけれども(笑)、日本リアリズム写真集団の写真には二つしかないんですよね。中小企業の倒産か、それともハチマキして、手をあげてる写真か、それしかない。」(*5)

嬉野京子『沖縄 100万の叫び』新日本出版社 題字は那覇市長などを務めた瀬長亀次郎。1965年と1967年、二度の沖縄での撮影の記録である。

これに対して、嬉野は被写体の多様性を根拠に──つまり中平はちゃんと写真を見ていないと──反論する。

「そんなことないですよ。たまたま日本リアリズム写真集団の写真で知られているのが、ハチマキをしめてる写真とか、倒産の写真なんで、そういう誤解が生じているんじゃないかと思う。〔...〕[最近の展覧会においても]家族とか子どもとか、教育問題、民族芸能など、ずいぶん多面的なものが出たんですよ。けっしておっしゃるようなものではないということを強調しておきたい。」(*6)

嬉野によれば、中平との議論はほとんど平行線を辿ったという(*7)。「日本リアリズム写真集団」は、李範根などの研究をのぞいて、言及されることは現在もきわめて少ない(*8)。たとえば飯沢耕太郎による『増補 戦後写真史ノート』でも、「五〇年代のリアリズム写真運動を受け継いだ左翼系写真家団体」とわずかに触れられるのみである(*9)。

川崎。「日本リアリズム写真集団」の発行誌『写真リアリズム』22号、1969年、p.5

今回は報道写真家・嬉野京子について書きたいと思う。だがその前にひとつ強調しておきたいことがある。

この連載は、「日本戦後美術」──特に1960年代から1970年代初めにかけてを、ベトナム戦争を軸に辿りなおすものだ。そこでは、「日本」も「戦後」も既存のカテゴリーを堅持し得ない。すべての人たちが「一斉に」戦後を迎えたわけではないし、「日本」とそれ以外の境界線も冷戦下において刻々と変化してきた(*10)。「美術」もまた同様に批判的に問うべき概念ではあるのだが、ここで嬉野の写真について書くことは、嬉野を、ひいては「報道写真」を、美術(史)に登録したいと考えるからでは決してない。嬉野の仕事を美術作品として価値づけるのではなくて、「イザナギと呼ばれた時代」における「写真」というメディアの「使用法」を別の角度から確認したいのである。

「復帰」に際し、琉球政府行政府ビルの銅板を外す様子か。1972年5月7日。 嬉野蔵ネガよりデジタル化:山本渉
『写真集 女たちの昭和史』大月書店、1986年、pp.162-163 レイアウトは嬉野が代表を務める「みらい舎」による。嬉野は編集委員にも入っている
練馬保健所。 1972年 『写真集 女たちの昭和史』大月書店、1986年、p.117

嬉野京子と沖縄の出会い

嬉野京子は東京の高校を卒業後、桑沢デザイン研究所でスタッフとして働きつつ夜学部に通った(*11)。そこで、シベリア抑留から生還した彫刻家・佐藤忠良(1912〜2011)(*12)や、画家の朝倉摂(1922〜2014)ら講師陣と出会い、親交を深めている。朝倉は嬉野ら学生と60年安保デモに参加しているし、佐藤は嬉野をモデルにデッサンや彫刻を制作してもいる。

左:佐藤忠良 《うれ》 1959 ブロンズ 宮城県美術館蔵 右:佐藤忠良 《うれ》 1963 紙にコンテ 宮城県美術館蔵

卒業前後からグラフィックデザイナーとして活動を始めた嬉野は、KAK(*13)の金子至が製作したミノルタのカメラを購入し、自分でも写真を撮り始める(*14)。転機となったのは、「海上交歓会」(その後「沖縄解放海上大会」と呼ばれる)の新聞記事を読んだときだった。

海の上で沖縄と本土の人々が出会い、その後、沖縄の解放を訴える行進団が、鹿児島から東京まで100日以上かけて歩いているという。東海道新幹線開通の1年前のことである。嬉野は焼津で行進団と合流し、最後の15日間、行動をともにした。

メディアが「欲しい画」を狙ったり、社会運動の「結果部分」ばかりを求めることに疑問を抱いていた嬉野にとって、この経験は大きかったようだ。

「百日間歩きつづけた沖繩側の代表二人と本土側の代表二人に、計四百枚の写真をプレゼントするため、その処理をどうしても自分でしなければ、金と気がおさまらなかった。赤と黒の布で自室に『暗室』を作り、手製の写真集まで作って配布した。」(*15)

読書をする嬉野。1964年。撮影者不明。嬉野蔵 ネガよりデジタル化:山本渉

写真集を自費かつ個人的なプレゼントとして製作した嬉野は、翌年には行進団の中心メンバーとなっていた。「日本海コース」と呼ばれるルートをたどり、農村の人々と交流や勉強会を開催するなどしながら100日間歩き通し、鹿児島からは船で奄美大島、徳之島、与論島と渡って、8月15日の「海上大会」を撮影している。

『民族のさけび : 1964年沖繩県解放行動月間の記録』(1965) より
「列島を歩く」というパフォーマンスは米兵も行っており、石原裕次郎製作総指揮のもと、映画化もされている。映画『ある兵士の賭け』【予告編】 1970年、監督:キース・エリック・バード、共同監督:千野皓司、白井伸明、製作:石原プロモーション

沖縄解放海上大会:見えない「北緯27度」をこえて

1964年8月15日 沖縄解放海上大会  

洋上に大小の船が向かい合っており、それぞれに定員を超過した人々が乗り込んでいる。嬉野が撮影した、1964年8月15日「海上大会」の記録である。奥の大きな船は日本「本土」の人々であり、何艘かの小さな漁船に乗っているのは沖縄の人々だ。当時、この船の間には目に見えない「境界線」が引かれていた(*16)。「北緯27度」──1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約によってアメリカの施政権下に置かれた「沖縄」は、この線を境として「日本」と互いに「外国」だったのである。

1964年8月15日 沖縄解放海上大会  

しかも、現在のような「海外渡航」よりもはるかに複雑な手続きが必要だった。沖縄の人々が「本土」へ渡航する際は「日本渡航証明書」が必要であり、「本土」の人々が沖縄に行く際には、総理府発行の「身分証明書」が求められた(これらは厳密にはパスポートとは異なる)。出入国には米国民政府(USCAR)の許可が必要であり、極めて恣意的に運用がなされた。つまり、アメリカに対して批判的と思われる人物は、渡航許可が降りなかったり、無期限の保留がなされたりしていたのである。渡航の許可・不許可の明確な基準は明示されておらず、1957年から62年までの間に至っては、「思想調査、日常行動の調査を目的とした『補助申請書』を提出させる」場合さえあった(*17)。

渡航制限に抗議し、沖縄の解放を呼びかけるために、「本土」との境界線上・北緯27度の洋上で「沖縄」と「本土」の人々が握手するというアイデアは凄まじい。もとは、1963年にフランスのド=ゴール大統領が南太平洋ムルロア環礁を核実験場にすると発表したことを受けて、知識人たちが船に乗って行った海上抗議活動に着想を得たものであったそうだが(*18)、「海上大会」実現に際しての労力、リスクははるかにそれをしのぐだろう。

『民族のさけび : 1964年沖繩県解放行動月間の記録』(1965) より

嬉野が撮影した船には、「アメリカのベトナム侵略反対/沖縄をアジア侵略の基地にするな」と書かれた横断幕がある。「海上大会」の2週間ほど前にトンキン湾事件が起きたばかりのタイミングであるが、沖縄はそのはるか前からアメリカ軍によってベトナム戦争のために使用されてきた。

1962年の時点で、沖縄の高江にはベトナムを模した北部訓練場──通称「ベトナム村」がつくられ、住民たちが「ベトナム人」の役をさせられ、ゲリラ戦の訓練が行われていた。沖縄の土地は米軍に強制的に接収され、住民たちは土地の返還を求めて抵抗し続けていた。

岡本太郎(1911〜1996)は1959年と1966年に沖縄を訪れている(*19)

沖縄の理不尽な現実を写した1枚の写真


嬉野は、「海上大会」撮影の翌年、初めて沖縄を訪れる。周囲の報道カメラマンの渡航許可がおりづらいなか、当時まだ無名であった嬉野は、観光ポスターを制作する「グラフィックデザイナー」として申請することで渡航許可を獲得したのだ。1965年4月。アメリカによる北ベトナムへの空爆(北爆)はもう始まっていた。空爆を行うB-52爆撃機は沖縄の米軍基地から離着陸している。

少女轢殺直後の光景。宜野座村。1965年

沖縄では、嬉野は「復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)」が主催する「祖国復帰行進」に参加していた。この行進は、さまざまな利害関係や意見の相違をこえて、切迫した状況のなかで実現したものであった。

行進団が宜野座村の小学校で休んでいたところ、ひとりの少女が米兵の車両に轢き殺される事件が起こる。知らせを受けた嬉野はすぐさま現場に駆けつける。6歳の少女が、血を流して横たわっていた。タイヤの引きずった跡がある。彼女のそばには、運転手と思われる米兵とその仲間たちが立っている。警察はまだ来ていなかった。

嬉野はこの状況を撮影したいと主張するが、行進団の面々は強硬に反対した。嬉野の身に危険が及んだり、行進団が弾圧を受ける可能性があるからだ。それでも引かない嬉野に、行進団の責任者のひとりが、自分の肩越しに隠れて撮影するよう言ってきた。撮影したフィルムを預けることと、1枚だけしか撮らないことを条件に、である(*20)。また、嬉野自身も後から気づいたそうだが、撮影のタイミングを見計らって行進団のひとりが米兵に話しかけていた。カメラから気を逸らすためだ。

こうして撮影された写真は、写真右端にカメラを隠す「肩」が映りこみ、少女の遺体の左側には米兵がカメラを見ないように注意をひく「男性」が映りこむこととなった。

「この写真をみたある写真評論家が、『女性カメラマンでなければ、米軍の報道管制下で撮影することはできなかっただろう』と評してくださったが、そんなものかとさしてありがたく思わなかった」と嬉野は別の場所で振り返っているが、撮影に際しての経緯を鑑みれば、その評論家は二重三重に事態を矮小化している(*21)。嬉野にとって「この写真は、沖縄の人たちが撮ったものであり」、自分は「シャッターを押しただけ」だった(*22)。沖縄の理不尽な現実の現れとしてその後広く知られることになるこの写真は、「余分な映りこみ」によって存在が可能となっている。

米兵の制服をクリーニングする女性。米兵との体格の違いを示してくれている。1967年
米軍基地内のいわゆる「黙認工作地」に入るため、警備員にIDカードを示す女性。嘉手納村。1967
ベトナム戦争で破壊された米軍の車両や武器が積まれている。北谷村、1967年
阿波根昌鴻は当時伊江島で唯一カメラを持っており膨大な写真を撮影した。その一部は阿波根昌鴻著『写真記録 人間の住んでいる島 伊江島土地闘争の記録』(1982)に収録されている(「阿波根昌鴻「写真」を語る」が収録された別冊が2005年に出ている)。しかしすぐさま強調しなければならないが、『人間の住んでいる島』は「写真記録」であって「写真集」ではない。阿波根も職業写真家ではない。表紙がそうであるように、阿波根自身が写っている(別の人が撮影した)ものもある。美術批評家の土屋誠一は、阿波根の写真を「記念写真」の一種だと論じているが(*23)、重要なのはこれらの写真がどのような意志のもとで撮影され、使われ、そしてまた保管されてきたのかという点である。阿波根の遺したとんでもない量の資料群のなかには、写真の他に「地域の催しの開催通知、各種料金の請求書や領収書、阿波根氏が記したと思われる日常的なメモなど」があり(*24)、これらを長年にわたって保管、整理してきた「一般財団法人 わびあいの里」の人々の営みもまた「写真の使用」に含まれている。こうした総体のなかで写真を考えなければ、重要なことを見落としてしまいかねない

沖縄滞在中、嬉野は伊江島という島を訪れている。現在は「沖縄美ら海水族館」のある本部(もとぶ)半島から北西9kmに位置する島である。伊江島は、敗戦直後から米軍に土地の6割を強制接収されていた。嬉野は、伊江島で継続的に土地返還闘争・反基地運動を行っている阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう、1901〜2002)に出会い、翌1966年、阿波根が東京の中央労働学院に入学した際も身辺の世話をかってでることになる(*25)。

さらにその翌1967年、嬉野はもう一度沖縄を、そして伊江島を訪れる。島民の抵抗運動の拠点となる「団結道場」の起工式に立ち会うためである。

団結道場起工式の様子。前に立つのは阿波根昌鴻。1967年。嬉野蔵 ネガよりデジタル化:山本渉 なお、米軍による妨害により工事は遅延し続けたため、道場が完成したのは3年後の1970年である

米軍による基礎工事の妨害を撮影していた嬉野は、自身もカメラを没収され、さらには米軍基地内で憲兵大佐に尋問を受ける。阿波根たちの助力により漁船をチャーターし那覇まで脱出した嬉野は、米軍が自分を探していることを夕刊新聞や人伝手に知る。弁護士や人民党、復帰協の協力を得て、嬉野は空港に向かうことになった。

「その同行してくれた人々は、いわば当時の沖縄では誰もが知っている人々である。那覇空港の出入国管理の窓口係官は、沖縄の人だから、私に同行している人たちを見て、「この人は逃さなくちゃいけない人なんだな」と理解でき、もし後日その係官が責任を追及されたとしたら、彼をそこにいる人たちが守ってくれると理解できる、そんな面々だったのだ。はたして、出入国管理の人は、窓口にきた私と十数人の人々を見て、私を通してくれた。それ一つとってもすごいことである。当時の沖縄の人々の状況を表している。」(*26)

嬉野は空の上で「北緯27度」を強く感じた。それを越えるまでは、制空権を握る米軍の指示でいつでも連れ戻されうるからである。

宮城島。1967年
那覇。1967年

「沖縄に行けなくても、胸を張って沖縄の問題と取り組む」


帰還後のある座談会において、嬉野は合唱曲『返せ沖縄』を作詞した詩人・赤木三郎と言い争いになっている。沖縄解放をめぐる文化闘争は、沖縄に住む人があくまで中心となるべきだとする赤木に対して、嬉野は次のように違和感を表明する。

「そこで生活しなければ、作品にならないというのわね、わたし、ちょっと問題じゃないかと思うんだけどね。」(*27)

「沖縄のことをとおして、いろいろと創作活動をやっていく人間としてね、やっぱりわたしなんかの場合、こんど沖縄が復帰するまで絶対行けない〔=渡航許可が降りない〕んじゃないかと思うわけよね。だから、沖縄に行けないから、沖縄の問題をやらないというじゃなくてね、[...]これから本土のなかで、沖縄の問題をつねに考えながら、創作活動を続けていきたいと思うんだけど、さっき、ちょっと中途半端な論争になったけど、沖縄に行けなくてもね、わたしは胸を張って、沖縄の問題と取り組んでいるんだということがいえるようになりたいと思うんです。」(*28)

「コンポラかリアリズムか」座談会は、この翌年に収録されている。議論がすれ違うはずである。

パイナップル缶詰工場で働く女性たち。羽根地村。1967年

1972年の沖縄「復帰」後、嬉野は自身の職歴を振り返っている。

「写真と沖縄のことだけで頭がいっぱいで、いわゆる写真界のことなど考えもしなかったし、ましてや自分を女性カメラマンとして、このさきどうするかなど考えてもみなかった」(*29)

「自分に年なのだ、女なのだといいきかせ、このことにさからわずに仕事をしていくより方法がないじゃないかと居直っているだけ」(*30)

──こうした言葉を吐きながら、嬉野は「写真工房76」(*31)や「みらい舎」(後に「株式会社みらい」)を立ち上げ、精力的に仕事を続ける。グラフィックデザインも手がけることができた嬉野のもとには、様々な仕事が舞い込んでいた。たとえばミラノ近代美術館で開催された柳宗理展(1980)においても写真の掲示物を手がけているし、『柳宗悦蒐集 民藝大鑑』(1982)のレイアウトも柳宗理の依頼で手伝っている(*32)。

前回、「幻灯/スライド」が、展覧会とは異なる重要な表現空間であったことに触れたが、写真を生業とする者たちの間でも、「展覧会」や「写真集」以外に多くの仕事の領域があった(*33)。「記録の時代」と呼ばれた1950年代から離れていくにつれ、アクティビスムと圧着したとされるような「リアリズム写真」は忌避されていったし、十把一絡げに処理されてきた。判で押したように同じだとされる写真たちは、それこそ判で押したように同じ「批評」にさらされてきた。だがそのようなこととは無縁に、写真はもっと広い「使われ方」をしていたのであり、現実の見方を、人の認識を変えてきたのである(*34)。

『美術手帖』1970年9月号 p.133

嬉野京子が撮影した写真が『美術手帖』に載っている(*35)。1970年9月号。小さなカットだが、よく見ると屋外にパネルが並び、半袖の人々とともに陽射しを受けている。7月26日の銀座数寄屋橋公園。田島征三(1940〜)をはじめとする絵本作家、イラストレーターたちで構成された「ベトナムの子供を支援する会」による、20回目の「反戦野外展」であった。

(つづく)

*1──「座談会 コンポラかリアリズムか 新しい表現の可能性をさぐる」『アサヒカメラ』1969年4月号
*2──写真研究者の冨山由紀子が指摘するように、「コンポラ写真に対しては、自分の世界にとじこもった内閉的な表現であるという批判が常に存在していたが、あらためてそれらの写真を見てみると、極めて時事性の高い被写体を、さりげなく写し込んだものが多い」。「とくに、返還に揺れる沖縄や、在日米軍に関するもの、反ベトナム戦争活動に関するものなど」がそこには見られる。(冨山由紀子「曖昧さの射程──コンポラ写真と『カメラ毎日』の時代」『日本写真の1968 1966〜1974 沸騰する写真の群れ』東京都写真美術館、2013年、p.173)
あるいはまた、「全日本学生写真連盟」による写真集『10・21とはなにか』(1969)に収録された「オフセット印刷による「アレ、ブレ、ボケ」を見せる写真は、奇妙な臨場感さえ漂わせるとともに、撮影された人物を「絶対に特定できないように」、つまり警察の証拠写真にならないように加工された。」(竹葉丈「「運動」としての写真ーー〈全日本学生写真連盟〉と「集団撮影行動」『美術フォーラム21』第47号、2023年、p.95)
*3──「座談会 コンポラかリアリズムか 新しい表現の可能性をさぐる」『アサヒカメラ』1969年4月号、p.229
*4──創設者の田村茂は、「日本リアリズム写真集団」と命名する背景を次のように述懐している。
「名前を写真にすると編集者や評論家をはずさなきゃならん。アマチュアの問題も出てくる。写真は撮っているが「家」ではないって。しかしこのジャンルの人たちが加わるというのが、他のグループにはないぼくらの考えた組織の特徴なんだから、それは出来ない相談なんだ。そういう議論をやったうえで、「日本リアリズム写真集団」ということに落ち着いた」(田村茂『田村茂の写真人生』新日本出版社、1986年、p.290)
*5──「座談会 コンポラかリアリズムか 新しい表現の可能性をさぐる」『アサヒカメラ』1969年4月号、p.235
*6──同上
*7──筆者のインタビューによる。
*8──李範根は、「日本リアリズム写真集団」には概ね3つの系統があったと整理している。ひとつには、戦時協力も含め戦前から活動していた報道写真家(田村茂、土門拳、木村伊兵衛)であり、もうひとつは1950年代のリアリズム写真運動の影響下で仕事を本格化させた写真家(目島計一、伊藤昭一、河又松次郎)である。これらとは異なり、「50年代のリアリズム写真運動の当事者ではないものの、「写真集団」の活動趣旨に賛同し、会員になることを決めた写真家」がおり、この第3の系統の例として、李は嬉野京子を挙げている。(李範根「『日本リアリズム写真集団』序説 : その歴史的実態と方法論的再定義」『学習院女子大学紀要 24号』2022年、p.38)
*9──飯沢耕太郎『増補 戦後写真史ノート 写真は何を表現してきたか』岩波現代文庫、2008年、p.46
*10──1952年4月28日は、敗戦からGHQの占領下であった「日本」の「主権回復の日」となっている。しかしこの日は、沖縄にとっては「屈辱の日」であり、奄美大島では「痛恨の日」と呼ばれる。GHQが定めた「日本」の定義に、沖縄や奄美大島、小笠原諸島は含まれていなかったからである。奄美大島の「復帰」は1953年、小笠原諸島は1968年、沖縄は1972年となる。行政分離され、アメリカの軍政下に置かれたこれらの地域の人々は、「日本」と別の「戦後」を歩んでいた。逆に、伊豆諸島、トカラ列島は1952年4月28日以前に「復帰」をしている。
*11──桑沢デザイン研究所に問い合わせたところ勤務の記録は確認できなかったが、嬉野自身は「教務局長秘書」として勤務していたと証言している。
*12──1958年、佐藤は東宝争議の指導者だった宮森繁や、報道写真家の田村茂と北朝鮮を訪れている。この際彼らは北朝鮮を評して「近くて遠い国」という言葉を生み出すのだが(田村茂「近くて遠い国―朝鮮民主主義人民共和国」はその嚆矢である)、このクリシェは現在でもしばしば用いられている。(田村茂『田村茂の写真人生』新日本出版社、1986年、p.187)
*13──プロダクトデザイナーの河潤之介、秋岡芳夫、金子至によって1953年に開設されたデザイン事務所。名前は3人のイニシャルから。カメラをはじめとして光学機器をデザインする。NHKの「家庭の工作」に出演し「日曜大工」の概念を提案した。
*14──筆者のインタビューによる。
*15──嬉野京子「筑豊と沖縄行進をとる」『女性の適職:仕事とわたし』啓隆閣、1973年、p.195
*16──実際には厳密に「27度線」が引かれている訳ではなく、互いの島に「上陸」することが禁止されていたのだが、それは実現させた後にわかることであって、当時の人々は、逮捕や銃殺のリスクも抱えながら実行していたという点は強調したい(逮捕を恐れて、船を貸すことさえも拒否されたりしている状況である)。
なお、海上大会はその後、4.28と8.15の二つに分裂してしまっており、その経緯については、新崎盛暉『戦後沖縄史』(日本評論社、1976年、pp.258-266)を参照。
*17──岸本弘人「戦後アメリカ統治下の沖縄における出入域管理について-渡航制限を中心に-」『沖縄県立博物館・美術館 博物館紀要 no.5』2012年、pp.53-54
*18──琉球新報社編『世替わり裏面史 : 証言に見る沖縄復帰の記録』琉球新報社、1983年、pp.441-442
*19──黒瀬陽平は「転位の美術史」という論考で、岡本太郎が韓国を訪れた際、沖縄での経験を結びつけていたのではないかと指摘している(『ゲンロン3 脱戦後日本美術』株式会社ゲンロン、2016)。そこでは「基地問題は、新安保騒動のように「日本人だけが嚙みしめる特殊な現実」としてではなく、韓国との奇妙な「転位」の風景として再記述される可能性を持っていた」。ここでいう「転位」とは、その時代・その場所に強く拘束されているテーマや表現が、別の時間・場所においても見出される事態──「同一の構造」や「共通の条件」の発見を指している。さしあたって「転位の美術史」は、「悪い場所」──「ナルシスティックに自閉する美術史」の圏外へと向かうための黒瀬の方法論的マニフェストであるように思われる。
ただ、岡本のふたつのエッセイ(「韓国発見」「韓国再訪」)を読む限り、「ここでは明らかに、テキストの描写のレベルにおいてまで、沖縄の基地風景との類似が示されている。太郎にとっての韓国とは、どこよりも沖縄と通じており、その風景の類似は、沖縄の基地問題の見え方をも変化させるものだったにちがいない」(p.132)とまで書くのはミスリードなように思われる。岡本の文章を読んで韓国と沖縄の類似性を「発見」したのは黒瀬自身にほかならない。
*20──実際には別のカメラも合わせて10数枚撮影している。
*21──嬉野京子「筑豊と沖縄行進をとる」『女性の適職:仕事とわたし』啓隆閣、1973年、p.200
*22──『沖縄100万の叫び』では、嬉野は周囲の制止の声を振り切って泣きながらシャッターをきったとある(「沖繩と私」『嬉野京子写真集 沖縄100万の叫び』新日本出版社、1968年、p.99)。この説明の「変化」もまた重要である。
*23──土屋誠一「土地としての写真 阿波根昌鴻の写真について」『photographers' gallery press』10号、2011年、p.125
*24──鳥山淳「常識をゆさぶる資料群 阿波根昌鴻とたたかいの記録」『世界』2021年2月号、p.217
*25──筆者のインタビューによる。
*26──嬉野京子『戦場が見える島 沖縄 50年の取材から』新日本出版社、2015年、pp.69-70
*27──「座談会 沖繩問題とわたしたちの創造活動」『詩人会議』1968年4月号、p.39
*28──同上、p.42
*29──嬉野京子「筑豊と沖縄行進をとる」『女性の適職:仕事とわたし』啓隆閣、1973年、p.199
*30──同上、p.202
*31──コダック社のフィルム現像液「D-76」に由来する。
*32──筆者のインタビューによる。
*33──現在は沖縄・那覇に居を移し、デモや集会に積極的に参加しながら、撮影の仕事も続けている。なお、筆者は沖縄に滞在する際いつも嬉野さんのアパートの一室に泊めていただいている。
*34──これは別途どこかで論じたいし実践したいのだが、写真は「少し特別なもの」ではありつつも「手で触っていいもの」であったはずだし、写真を手元において/前にして、たくさんの言葉が交わされていたはずなのである。「展示会」においてさえも、そうである。
*35──研究者の高橋沙也葉さんにご教示いただいた。記して感謝する。


長谷川新

長谷川新

はせがわ・あらた 1988年生まれ。インディペンデントキュレーター。京都大学総合人間学部卒業。専攻は文化人類学。主な企画に「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」展(2013-14)、「無人島にて―「80年代」の彫刻 / 立体 / インスタレーション」(2014)、「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」(2015)、「クロニクル、クロニクル!」(2016-17)、「不純物と免疫」(2017-18)、「グランリバース」(メキシコシティ、2019-)、「αM Project 2020-2021 約束の凝集」(2020-21)、「熟睡、札幌編 / 東京編」(2021-22)、「Gert Robijns: RESET MOBILE- Crash Landing on Akita」(2022)など。共同モデレーターを務めた大阪中之島美術館の開館記念ラウンドテーブル「美術館学芸員がいま相談したいこと」がYouTubeで公開中。https://www.youtube.com/watch?v=hmYr9t9VVsI&feature=youtu.be