公開日:2023年6月16日

ガウディを知る6つのトリビア:サグラダ・ファミリア聖堂建設の裏側にある知られざるストーリー

信仰心がもたらした瀕死の危機や、警察との揉め事も。東京国立近代美術館で開催されている「ガウディとサグラダ・ファミリア展」を機に、聖堂建設のバックストーリーにつながる驚きのエピソードを紹介。

左:サグラダ・ファミリア聖堂、2023年1月撮影 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família 右:ガウディ肖像写真 1878 レウス市博物館

「ガウディとサグラダ・ファミリア展」が開催

建築家アントニ・ガウディ(1852〜1926)の代表作であり“未完の聖堂”と呼ばれるバルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂に焦点を絞り、その建築思想と造形原理に迫る展覧会「ガウディとサグラダ・ファミリア展」東京国立近代美術館で開催されている。会期は6月13日~9月10日(会期中一部展示替えあり)。また滋賀の佐川美術館(9月30日~12月3日)と名古屋市美術館(12月19日~2024年3月10日)にも巡回する。

*展覧会レポートはこちら

スペイン、カタルーニャ地方に生まれ、バルセロナを中心に活動したガウディが、この驚異的な聖堂建設に人生を注ぎ込んだのはいったいなぜなのだろうか? その歴史的・社会的背景に迫るエピソードについて、本展を担当する東京国立近代美術館 企画課長、鈴木勝雄さんに解説してもらった。

鈴木勝雄企画課長

1:サグラダ・ファミリア聖堂の建築家、ガウディは2代目

——今回の展覧会は、サグラダ・ファミリア聖堂を中心に据えたものですね。2026年にはガウディ他界から100年となり、いよいよ完成の目処がついてきたとも言われています。途方もない時間や人手、お金等がかけられてきた一大プロジェクトですが、当初は貧しい人々のための聖堂として始まったそうですね。建築資金は貧困層の人々から小額献金をコツコツと集めていたとか。それがいったいなぜ、こんな大規模な建築へと発展したのでしょうか。

鈴木 バルセロナで宗教関連の出版と書店を経営していたジュゼップ・マリア・ブカベーリャという人が、「聖ヨセフ信心会」という民間団体を1866年に創設したことが始まりです。

会場風景より、ジュゼップ・マリア・ブカベーリャの肖像 写真パネル 

産業革命当時、バルセロナはスペイン第一の都市で近代化が進みました。そこではガウディのパトロンになるような大富豪が誕生したいっぽうで、無数の貧しい人々をも生み出していった。そんな貧富の差が拡大する状況を前に、貧困層の人々が自分たちの救いを求められるような教会制度をつくろうではないか、と考えたのがブカベーリャです。聖ヨセフ信心会の本堂の建設を提案しましたが、当然資金集めは生優しいものではない。しかし彼は出版業に長けていて、機関誌『聖ヨセフ帰依の布教』を媒体としながら会員を集めたんです。中南米諸国やフィリピンなどスペイン語圏で機関誌が届くところなら誰でも会員になれて、その会員からの献金システムを作ったんです。サグラダ・ファミリア贖罪聖堂というのが正式名称なんですが、「贖罪」の意味するところは、貧しき人々がさらに犠牲を払って献金することで、自分の罪が洗われるということです。

こうして細々と始まった献金システムがまとまり、聖堂が建てられる可能性ができてきたところで、ブカベーリャはフランシスコ・デ・パウラ・ビリャールという建築家に依頼しサグラダ・ファミリア聖堂を作ろうとしました。初代建築家となるビリャールはガウディよりもひとつ上の世代で、ゴシック的な様式のもっと小さな教会を設計し、1882年に工事が始まりました。ところがまもなく方向性をめぐってブカベーリャと対立が起き、ビリャールは降りることになったんです。そこで白羽の矢がたったのがガウディでした。

1883年に当時31歳のガウディが引き継いだとき、もう工事は始まっているわけですから、「自分のアイデアで作り直せ」と言うこともできず、ビリャール案を少しずつ修正しながら徐々に自分のテイストを出していくわけですね。でも最初に予定されていたビリャール案は本当にいまのサグラダ・ファミリア聖堂からは想像がつかないコンパクトなものなので、これだったらとっくに完成していたと思います。

転機は1891年に巨額献金が入ってきたことです。このお金をどう使うか。貧しい人のための教会だったら、質素なかたちでなるべく早く完成させた方がいいという考え方もあるけれど、ここでガウディはある夢を描く。ガウディはこの恵みのような巨額の献金を使って、聖堂のスケールを拡大しようとしたんです。より壮大で崇高な、カタルーニャやバルセロナのシンボルとなる新たなヴィジョン。それが本当にガウディらしいと思います。そうすることでサグラダ・ファミリア聖堂は自分の死後も誰かが完成へと導くだろうという確信があったようにも思えます。いままでにないものをつくりたいという、建築家としての欲望も出てきたのかもしれないですね。

会場風景より、サグラダ・ファミリア聖堂の建設の推移を説明するパネル
会場風景より、サグラダ・ファミリア聖堂の建設の推移を説明するパネル

具体的には、彼は「降誕の正面」と呼ばれるファサードだけを、上へ上へと立ち上げていったわけです。もし建築をバランス良く作ろうと思ったら全体に手を入れていくはずですが、そうしなかった。なぜかというと、鐘塔の高さを上へと引き上げ、その上に鐘塔頂華(ちょうか)というシンボルを作りたかった。これを見れば、街の人々にも建築の進展をわかりやすく示すことができるし、自分たちの街のモニュメントになるぞ、と認めてもらえるかもしれない。こうしたガウディの戦略が功を奏して、「降誕の正面」はサグラダ・ファミリア聖堂のヴィジュアルイメージとして評価を獲得しました。

サグラダ・ファミリア聖堂(降誕の正面側)、2019年11月撮影 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família

その結果、建設はそこから百数十年続くことになったんです。ここ20〜30年では、観光収入の増加や新しいコンピュータ技術の活用などによって、工期が短縮していますが、全体計画自体はガウディ時代にでき上がっていた。ガウディはおそらく、「自分はここを完成させる。あとは誰かが引き継いでくれるに違いない。だからこそ、贖罪聖堂としてより高い理念のもとに崇高なものを作ろう、建築的にもかつてのゴシック大聖堂を超えるようなものを作ろう」と考えたのではないでしょうか。

会場風景より、「降誕の正面」に関する展示。左手前がガウディによる塑像断片、右奥がサグラダ・ファミリア聖堂の彫刻家、外尾悦郎による《サグラダ・ファミリア聖堂、降誕の正面:歌う天使たち》(降誕の正面に1990-2000年設置、作家蔵)。戦禍を被った「降誕の正面」のために外尾が復元制作した

——ブカベーリャさんもよく許しましたよね。普通、建築家が全体を作ろうとしないで巨大かつ複雑・豪華なファサードだけをひたすら作っていたら「ちょっと、何してるの?」となる気がします。

鈴木 そうなんですよ。誰も止めなかったのか、止められなかったのかはわからない。ブカベーリャとガウディのやりとりに関する記録が残されているのか私は知りません。でもきっと、ブカベーリャもガウディの計画に乗ったんでしょうね。

サグラダ・ファミリア聖堂、受難の正面、鐘塔頂華 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família

2:ガウディは図面を描かなかった?

——次の質問です。ガウディは図面を描かず即興で建築したという説があるそうですが、本当でしょうか?

鈴木 サグラダ・ファミリア聖堂の設計を練り上げる過程では、図面に頼らず模型を作り、それを更新しながら計画を練り上げていきました。ただガウディが設計図を描かない建築家であるというのは大きな間違いです。当時のアカデミックな教育を受けた人なので、しっかりした図面はもちろん描けました。

会場風景より、バルセロナ建築学校時代のガウディが作成した県庁パティオや桟橋などの図面

ところがサグラダ・ファミリア聖堂に関しては図面がなく、外観のシルエットだけを描いたスケッチだけを残しています。その印象的な描きぶりには、サグラダ・ファミリア聖堂の雰囲気が十分に出ています。このスケッチの実物はすでに失われ、写真でしか残っていないのですが。

サグラダ・ファミリア聖堂は巨大ですし、関わる職人の数も多い。具体的に建物のディテールを共有するうえで、二次元の図面だけでは表現しきれないという思いがあったのかもしれません。あるいは実際にスタディをするうえで、模型で構造と美的なかたちを探っていくことを選択したのかもしれません。今回の展示では、ガウディの制作のプロセスを辿ることを心がけました。ガウディの息遣いを感じながら会場の中を見てほしいです。

——それは楽しみですね。

サグラダ・ファミリア聖堂、 身廊部模型 2001-02 制作:サグラダ・ファミリア聖堂模型室、西武文理大学 撮影:後藤真樹

3:断食で死にかけたことがある

——ガウディは断食で死にそうになったことがあるそうですね。カトリック信仰が関係しているようですが、こうした信仰心はサグラダ・ファミリア聖堂にどう影響したのでしょうか。

鈴木 若い頃のガウディは、それほど熱心なカトリック信者ではなかったみたいです。お洒落でダンディな人だったようです。しかしサグラダ・ファミリア聖堂の建築に関わるなかで、彼もカトリック信仰を深く理解していったのでしょう。

1894年の春、42歳のガウディは四旬節の伝統に従い断食に入りました。しかしその断食を解こうとせず、家族や周囲が死を恐れるほど衰弱したそうです。その理由はよくわかりませんが、本展学術監修者である鳥居徳敏さんの評伝『アントニオ・ガウディ』(鹿島出版会)によれば、いくつかの仕事の危機があったと言及されています。たとえばモロッコに宗教施設を建てようとした「タンジール計画」は、サグラダ・ファミリア聖堂の前身になるようなプランを立てていて、自分にとって重要な仕事として取り組んでいた。しかしそれが着工せずに終わってしまったことから、ガウディは精神的な危機に陥ったと言われています。このときちょうど、キリスト教の復活祭の40日前から前日までを指す四旬節があり、伝統的な修行として断食に入ったのですが、精神の危機は解消されるどころか、歯止めの効かない状態になってしまった。鳥居さんはそう推測しています。

会場風景より 鳥居徳敏 復元 アントニ・ガウディ:アフリカ・カトリック・ミッション、タンジール計画案 1892-93、復元設計縦断面図 1981-82 復元者(鳥居徳敏氏)蔵

この危機からガウディを救ったのもまた、カトリックの神父でした。「人間は自らの意思でなく、神の意思によって命をたたなければならない。特に、あなたの場合そうしなければならない理由がある。 この聖堂は、神の望みにより、またキリスト教徒たちを精神的に養う目的で着工されたものであり、あなたは、この聖堂を完成させるという現世での使命を受けているからだ」(*1)。つまり、お前は何のために生を受けたかというと、サグラダ・ファミリア聖堂を作るためだろうと諭されたのですね。この説得を受けて、ガウディはもう一回頑張ろうと奮い立ったのかもしれません。

このとき、サグラダ・ファミリア聖堂の建設は始まってすでに10年ほど経っているんです。91年に巨額献金が入り、「降誕の正面」やスケールアップしたサグラダ・ファミリア聖堂の構想が膨らんでくる頃。タイミング的にはこの危機を抜けて、サグラダ・ファミリア聖堂のイメージが開花していったと推測できます。

4:警察官と揉めて4時間勾留された

——1924年、72歳のガウディはすでにサグラダ・ファミリア聖堂の建設で名声を得ていたはずですが、4時間勾留されるという事件が起きました。警察官の質問に公用語のスペイン語で答えず、カタルーニャ語で押し通したため、4時間勾留された、と。カタルーニャは現在も独立運動がありますが、ガウディにとってカタルーニャ(バルセロナがあるスペインの北東部の地中海岸地方)というアイデンティティは重要なものだったのでしょうか。

会場風景より ガウディは当時バルセロナに次ぐ第2の都市レウスに生まれ、その後バルセロナに拠点を移して活躍した

鈴木 私自身はとても重要なポイントだと思います。スペインのなかでカタルーニャの位置付けとはどういうものだったのか、ということですね。まず19世紀後半から20世紀にかけて、かつて栄華を誇ったスペインはヨーロッパにおいて周縁化していきました。フランスやイギリスが植民地を広げていくなか、逆にスペインはキューバやフィリピンなどの植民地を失った。それは誰の目にも明らかに、スペインの没落として映るんですね。でも、カタルーニャの人々にとって、それはカスティーリャ(スペインの中央部にある地方)の没落なわけです。カタルーニャにとってカスティーリャは対抗的な存在で、カスティーリャの没落は反対にカタルーニャのナショナリズムを高揚させました。

ガウディもバルセロナを中心に活動しましたが、例えばカタルーニャの石を用いるなど、地元の自然の恵みを使いながら建築を作りました。伝統的な技術を持っている職人の力も最大限活用した。1889年にはエッフェル塔ができ、1920年代にはアメリカで鉄とコンクリートの高層ビルが作られている。そんな時代にあって、ガウディは昔ながらの組積造りに最後までこだわった。それはカタルーニャにそうした技術と伝統があったからです。

ガウディは政治的な発言をする人ではなかったので推測になりますが、やはりガウディにとってカタルーニャのアイデンティティは大きなものだったと思います。

カタルーニャの詩人ジュアン・マラガイはサグラダ・ファミリア聖堂とガウディの仕事について繰り返しエッセイを書くことで、その重要性を市民に知らしめるという役割を担いました。もともとは聖ヨセフ信心会の本堂として出発したサグラダ・ファミリア聖堂でしたが、マラガイはそれを「カタルーニャの理想の記念碑」と位置付け、ガウディを神が使わせたカタルーニャの天才だと規定しました。こうした訴えが、この時代のカタルーニャやバルセロナの政治的、社会的状況に響いたのでしょう。サグラダ・ファミリア聖堂の長期的な建設を継続させるためには、地元の人々の理解や共感を得ることが不可欠で、そうした意識の醸成に一役買ったマラガイの援護射撃を、ガウディもありがたいと受け止めていたようです。そしていつしかサグラダ・ファミリア聖堂は、バルセロナのシンボルになっていった。

——マラガイは人々のカタルーニャ魂を奮い立たせるようなテキストを書いたわけですが、ガウディ自身のそうした発言は残っていないのでしょうか。

鈴木 ガウディの語録があって、そこには言葉として「地中海」という地域への言及があります。北ヨーロッパに対して、地中海地域が持っている場所の力。太陽光が降り注ぎ色彩豊かで、さらにアフリカやイスラム圏とも近い。スペインにはイスラムの伝統もあるので、こうした異文化の交差点としての地中海のイメージを持っていたのではないか。彼の建築は、地中海の多文化性や多様性を味方につけているのではないかと思います。

サグラダ・ファミリア聖堂内観 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família

5:ガウディの時代は空前の「洞窟ブーム」

——ガウディはカタルーニャの自然から学び、それを建築にも取り入れました。ガウディは「個別テーマ」として「歴史」「自然」「幾何学」の3つを重視したそうですね。当時の自然観を考えるうえで興味深いのは、19世紀末から「洞窟ブーム」が起きていたということです。これはいったいどんな流行だったのでしょうか? ガウディの建築には、確かに洞窟っぽいところがたくさんありますよね。19世紀後半にはジュール・ヴェルヌの小説が人気を博していたこともあり、人々が未知の世界への探究に心を躍らせていた頃でもあります。

会場風景より 当時の「洞窟ブーム」がガウディにも影響を与えたことを説明するパネル。左上は雑誌に掲載されたカッパドキア(トルコ)の風景画、右上はガウディの代表作のひとつ「カサ・ミラ」外観

鈴木 18〜19世紀にかけて、ヨーロッパの人々の自然観は大きく変わっていきました。たとえば山はかつて人間を脅かす存在、恐怖の対象でしたが、それが崇高な風景として新たに発見されていくプロセスがありました。それは地球の成り立ちを科学的に探求できるようになったためです。鍾乳洞や地下の洞窟は、創造主である神が作り出した驚異の世界であり、そうした人間を超える造形の面白さが地質学によって続々と発見されました。しかも19世紀ですから、そのイメージは写真や図版といったメディアを通して世界中に広まり、洞窟観光ブームがおこります。

19世紀末には地質学のなかに洞窟学が誕生し、カタルーニャでは1897年に知られていた洞窟数は333か所だったのが、10年後には467か所に増えています。監修者の鳥居さんはガウディの洞窟への関心を追いかけていますが、確かにガウディ建築には洞窟っぽい造形があります。またキリスト教美術を見ると、それこそレオナルド・ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》にも描かれているように、洞窟、岩窟は聖なる場所でもあります。

ガウディの真骨頂のひとつに、純幾何学のパラボラ(放物線)・アーチを初期作品から使い続けたことがあります。このパラボラ・アーチも洞窟を思わせるかたちです。自然の中の空間は柱とか梁で支えられているわけではないですから。放物線が持つ合理性を応用し、ガウディはゴシック建築を批判的に乗り越えようとしたのでしょう。

会場風景より、手前は《ニューヨーク大ホテル計画案(ジュアン・マタマラのドローイングに基づく)》(群馬県左官組合制作、1985、伊豆の長八美術館蔵)。展覧会ではパラボラ(放物線)・アーチの探求に関する展示もある
会場風景より、ガウディの幾何学研究に関する展示 制作:東京工芸大学山村健研究室

6:サグラダ・ファミリア聖堂は誕生時から「廃墟」

——本展図録の鈴木さんによる論考では、サグラダ・ファミリア聖堂が誕生のときから「廃墟」とみなされていた、と書かれていました。未完でありながら廃墟でもある、この興味深い語られ方について教えてください。

鈴木 前述の詩人マラガイによる言葉ですね。「そこに近づく人は、何世紀も前から存在する巨大な廃墟の一部だと思い驚くことであろう。だが、あの明らかに廃墟と思えるものが実はそうではなく、生まれつつあるものの壮大さだと知るなら、久遠なるものの喜びでその胸は満たされよう」(*2)。

廃墟っていうのは崩れていくものでしょう。でも建築というのは縦に伸び上がっていくものです。この相反するイメージを同時に見せてしまうサグラダ・ファミリア聖堂の初期の姿って、いったいなんなのだろうと興味深く思いました。

洞窟ブームの話をしましたが、当時はまた廃墟ブームでもありました。18〜19世紀の美術では、時間や自然に対して抗う術がない人間の無力さや儚さをロマンチックに表現するアイテムとして、廃墟が頻繁に描かれました。マラガイはそういうイメージを投影しながら、建設途上の聖堂に廃墟を見たのだと思うんです。荒地のなかに廃墟のファサードの一部だけがぎりぎり残っているような光景、それはガウディが「降誕の正面」に集中していたこととも関係がありそうです。

参考図版 廃墟のある風景を数多く描いた画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《楡の木のある僧院》(1810)

降誕の正面には、植物や動物をかたどった浮彫彫刻が過剰なまでに設置されていて、冷ややかな石から生命が生み出されるような力を感じさせます。人間の創造物を自然が侵食した廃墟のなかから、新たな生命が誕生するようなイメージが、当時のファサードにすでにあったのではないでしょうか。そこに成長していく生命体をマラガイは読み取り、ガウディもそういう自然観を建物に刻み込もうとしていた。廃墟という言葉は、このような建築を語る手がかりになったのではないでしょうか。

会場風景より、ガウディがサグラダ・ファミリア聖堂のために手がけた鳥や植物の彫刻

彼自身、この聖堂は数百年かけて作られるというイメージを持っていたし、長ければ長いほどいいと思っていたようです。自分のあとにいろんな人が引き継いで、時代とともに変化していくことを受け入れるというスタンスです。

ガウディはつねに未完という時制のなかでサグラダ・ファミリア聖堂の将来をイメージしていたような気がするし、何をもって完成と言えるのか。展覧会はそんな問いを投げかけながら、ガウディと向き合う機会になったらいいなと思っています。

降誕の正門、門扉 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família
サグラダ・ファミリア聖堂、 2023 年1月撮影 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família

——面白いですね。日本ではほかの建築家と比べて、ガウディは格別の人気があると思います。それは、いまお聞きした廃墟的なイメージ、人間の創造物と自然とが渾然一体となりながら立ち上がっていくようなイメージが、多くの人の琴線に触れるものがあるのかなと思ったりしました。ジブリ映画の『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』のクライマックスのような自然観、文明観というか。

鈴木 宮崎駿さんのなかにも廃墟のイメージがあると思いますし、それを遡るとひょっとするとガウディともつながるのかもしれませんね。

ガウディがとりわけ日本で愛されているのはなぜでしょうね。磯崎新さんや粟津潔さんの著書からガウディを知った世代もあるでしょうし、私の世代だとサントリーローヤルのCM(1984)がガウディを発見する契機となりました。いまの10〜20代の人がガウディにどんなイメージを持っているのか興味があります。本展が幅広い観客層に届き、ガウディの見方を更新しつつ、さらに豊かにすることを期待しています。

サグラダ・ファミリア聖堂、 2022年12月撮影 © Fundació Junta Constructora del Temple Expiatori de la Sagrada Família

*1——鳥居徳敏『アントニオ・ガウディ』、鹿島出版界、1985年、P139
*2——鳥居徳敏「ガウディ研究マラガイのサグラダ・ファミリア聖堂聖堂賛歌」『麒麟』第21号、2012年3月、P6

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集長。『ROCKIN'ON JAPAN』や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より「Tokyo Art Beat」編集部で勤務。2024年5月より現職。