東京の国立新美術館で個展「荒川ナッシュ医 ペインティングス・アー・ポップスターズ」を開催している荒川ナッシュ医(1977年福島県いわき市生まれ)。1998年からニューヨーク、2019年よりロサンゼルスに居住し米国籍を取得した作家にとって、今回はアジア地域で初めての美術館での個展となる。様々なアーティストとのコラボレーションからなる本展には、具体美術協会の田中敦子のような戦後活躍した日本の画家や海外のアーティストの作品が並び、荒川ナッシュがファンだという松任谷由実も参加。会期中にはパフォーマンスもたびたび行われるなど、ユニークな内容になっている。
本展を機に、横浜美術館館長・蔵屋美香によるインタビューをお届けする。【Tokyo Art Beat】
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荒川ナッシュ医に最後に会ったのは、2017年、ミュンスター彫刻プロジェクトのときだ。7年ぶりの再会になるし、インタビューにあたってはいろいろと事前に質問を考えた。しかしその目論見は、突如始まった質問攻めと、縦横無尽な話題の切り替えの前に、あっさり崩れた。
じつはこうした話の行き来こそが、今回の展覧会にも明らかな、荒川ナッシュの思考の広がり方そのものなのだ。
荒川ナッシュ(以下、荒ナ) 作品借りてたような気が。
蔵屋 え?
荒ナ (蔵屋の前職の)東京国立近代美術館から。
蔵屋 あ、国吉康雄の《秋のたそがれ》(1929)ですね。なつかしかったです。私は近代美術館時代の2004年、大きな回顧展を担当したので(「国吉康雄展:アメリカと日本、ふたつの世界のあいだで」)。
荒ナ 2004年って、すごく早いですね。いま、アメリカでもディアスポラ(故郷を離れて暮らす人びと)はホットなトピックです。でも2000年代初頭だと、移民の作家に焦点を当てるのは珍しかったんじゃないですか。
蔵屋 あの頃はディアスポラの問題に強い興味がありました。国吉は、移民先のアメリカで画家として大きな成功を収めた。しかし戦時中は敵性外国人として排除された。でも同じ頃に大きな賞をもらったりもしている。故郷ではない社会に根を下ろすとはどういうことなんだろうと考えました。
荒ナ 僕は2019年にアメリカ国籍を取りました。もうすぐ子供も授かります。住むだけでなく、国籍を取って子供を育てることになって、「移民」という文脈が自分に関わり出したと感じます。厳しく、お箸はこう持つ、みたいな一世としてのフォビアを捨てなくちゃとか、ちょっとナーバスになっています。
蔵屋 国吉はアメリカ女性と結婚しましたが、子供はいませんでした。最後までアメリカ国籍をほしがっていたけれど、アジア系移民一世は長く法的に申請ができませんでした。その意味では医さんのような問題に直面するチャンスはなかった人ですね。
荒ナ 僕はちょうど国吉展があった2004年あたりから活動しだしたんです。まだ学生ビザで、2004年に河原温を題材に、海外に移住することについてパフォーマンスをしました。
それが今回の展覧会のモチーフにもつながっているんですけれど。
アメリカではその少し前の1999年に「Global Conceptualism:Points of Origin, 1950s-1980s」(クイーンズ美術館)という展覧会があって、世界各国のコンセプチュアル・アートの動向が紹介されました。でも、国別なんですよね。移民のように国境をまたぐ活動というのはなかなか表に見えてこない。たとえば国吉は戦時中アメリカに戦争協力をしたことで、アイデンティティ・クライシスを起こしている。こうした点はまだまだ検証されていません。
蔵屋 このまま行くとずっと国吉の話で終わりますね(笑)。立て直しましょう。
まずは医さんがどうやってアートの方向に進んだのか、少し聞かせていただけませんか。いま日本のアート界では、盛んに多様性ということが言われています。性別とか出身地とか障がいの有無とか、これまで見えなかった問題に光を当てる取り組み自体はすばらしいと思っています。でも意外な抜けがあって、多様性を扱うアーティストたちが、ひとつの点で意外に均質なんですよね。
荒ナ 均質というと?
蔵屋 一定以上の知的、経済的レベルを持つ親がいて、学費の高い美術大学に進学させてくれる。いわゆる文化資本を多く持つ家庭の子ばかりが、似たような大学教育を受けてアーティストになるきらいがあります。
荒ナ なるほど。僕の場合は、12歳のときに父親が亡くなって、保険金が出たんです。そのお金でアメリカの大学に4年行きました。学費は年間180万円ぐらいだったと思います。その後、夏だけの大学院に3年がかりで行きましたが、これはひと夏6000ドルぐらいでした。
でも、もともとニューヨークに行ったのは、(ファンである)ユーミンのコンサートの影響もあって、ステージのライティングを勉強したいと考えたからでした。しかし、そういうプログラムは当時なかった。じゃあデザインをやろうと、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツという学校に入ったら、ブラック・マウンテン・カレッジ出身のピーター・ハイネマンという先生に出会って、その人の勧めでファイン・アーツに関心を持ちました。
今回展示しているユタ・クータは、私の先生だった人です。新表現主義とコンセプチュアル・アートのはざまにいるみたいな作家です。絵画もやるし、パフォーマンスもやる。フェミニストの第2世代にあたります。2003年ごろから彼女に機会をもらってギャラリーなどでパフォーマンスを始めて、じゃあアートをやってみよう、というふうになりました。
蔵屋 クータは、《ラックス・インテリア》(2009)などの作品で知られる作家さんですね。プッサンに基づいた絵画作品が空間に自立している。これがひとつの物体として周囲のもの、たとえばエイズ危機のあおりで閉店したゲイ・クラブから拾ってきた照明器具などと関係を結ぶ。またクータのパフォーマンスのなかで、登場人物のようにふるまいもする。絵画は、物理的な空間、美術の歴史、社会的な出来事など、複数の文脈が交差する場所に現在進行形で存在しているのです。
医さんにも、クータから受け継いだ、絵画をいろいろな関係性のなかに開くという精神を感じます。それも、相当徹底した開きっぷりです。これは、先ほどいった日本の教育システムが生む均一性のなかからは生まれにくいものに思えます。
荒ナ やっぱり父親が12歳からいないという家庭のモデルが、まずマジョリティとは違うかもしれないですね。
あと、じつはアメリカに行く前に、現代美術なんて何も知らないまま東京藝術大学を受験して落ちました。どうせ浪人するならと、19歳でピースボートのボランティアに2年ちかく参加しました。そこで、在日韓国人の中田統一さんというクィアの映画監督を呼んで、一緒に企画をやったりしました。LGBT、クィア・アイデンティティについては、その頃からかなり意識していましたね。
蔵屋 とはいえ、お話を聞く限り、医さんがいまこの状態にあることについては、偶然の力も相当大きいですね。
荒ナ そうですね。2004年頃のニューヨークには、加速化、グローバル化するアートビジネスに対してアーティストが抵抗する、という雰囲気がありました。ドイツのマルティン・キッペンベルガーと世界初のアートフェア、アート・ケルンの文脈なんかとつながっていましたね。そこにニューヨークの土壌が混じりあって。今回の展示にも、いまから15年から20年くらい前のニューヨークの画家たちが共有したそんな精神が盛り込まれています。
あと、2002年に、大学でドクメンタ11の脱植民地主義を題材にしたセミナーを受講したんです。そのとき、ドイツやニューヨークの流れにコミットするのはいいけれど、じゃあ私は何をコントリビューションすればいいんだろうと考えました。
その頃、白川昌生さんの『日本のダダ』(1988年)や、ニューヨーク在住の研究者、富井玲子さんに教えてもらったのが、日本のコレクティヴの存在です。たとえば具体美術協会などです。じゃあ、この個性の外側にある集団性を、逆説的に個性にしてみようと考えました。これはアメリカやドイツにはあまりない文脈ですし、僕のなかにある日本の前衛の歴史への憧れがそうさせる部分もあります。
利点は、個人のプレッシャーが分散されることです。だから今回のようにいきなり2000㎡の展示空間でも、そんなにプレッシャーを感じない。
蔵屋 確かに!
荒ナ だから、僕個人の問題は、LGBTでも移民でももちろん出てくるんだけど、それは相対的なものなんです。僕は当事者だけれど、自分の内面をさらけ出すわけではない。たとえば、コミュニティのためにLGBTの表象を国立美術館のステージに上げちゃう、みたいな感じですね。
社会資本、ソーシャル・キャピタルということを考えます。パーソナルなことで言うと、もうすぐ卵子提供と代理出産で新しい家族ができます。だけど、この情報を日本の文脈で活かすという視点を持つとき、それはパーソナルなことというより、もっとプロデューサー的な視点になります。日本は台湾やタイに比べてまだ同性婚もない。(メディアで表象される)男性同士のキスも、最近は増えてきたようだけど、もうちょっとあってもいいんじゃない、というような。
あとは、たとえば、僕はユーミンのファンですが、ユーミンが表象するメジャーなものと、移民やマイノリティのことを組み合わせたら、ちょっと違ったオーディエンスも受け止めてくれるんじゃないか、ならばそんなアクシデントを起こしてみよう、と考えたりとか。
蔵屋 個人としてユーミン好きということと、ユーミンを媒体にして伝わる層を作るという社会的な行為と、ユーミンを扱うことにもやはり複数の面があるということですね。
荒ナ ガチファンなだけ、ではないのです(笑)。
荒ナ 国立美術館という場所は、蔵屋さんがキュレーターとして見たとき、興味深いな、みたいなことはないですか。
蔵屋 え、興味深い?
荒ナ はい。僕は、日本でこの規模の展覧会をしたのは初めてです。どの美術館も、日本に限らず規制はありますけど……。
蔵屋 ああ、お話できる範囲でぜひ。
荒ナ 走ってはいけないとか食べ物はダメとか、今回はいろいろな制約のなかで、美術館と駆け引きをしながら作品を作りました。それ自体がやりがいで、そこが作品になる部分もありました。でも、こうしたことは、日本の観客にはあまり見えないものなんでしょうか。
蔵屋 クータの《ラックス・インテリア》のように、絵画がその身に引き受けている様々な文脈のうち、医さんが苦心して向き合った美術館という制度の規制が、観客には感じ取れていないのではないか、ということですか。
荒ナ そうですね。たとえば施工や輸送の業者さんの入札、あとほかの美術館からの作品借用などです。何か月も前に内容を決めて、事務的なことを進めてもらわなければいけない。そこがパフォーマンスの即興性と相反するので、それを調整して、パフォーマンス・アーティストに必要な鮮度を保つのが大変でした。
蔵屋 なるほど。入札も作品借用も、美術館としてはわりと普通の手順ですが、今回は医さんが経験したことのないややこしさでしたか?
荒ナ ヨーロッパで若いキュレーターと組むときは、自由にやらせてもらえることが多いです。海外では、美術館でパフォーマンス・アートの個展が結構行われるようになってきている。美術館も、パフォーマンスをどう個展として扱えばいいか、20年ぐらいかけてようやくシステムを整えつつあるんです。
しかし、それが逆に、パフォーマンス・アートの展覧会にうまく規制をかけることにもなっていますね。僕が活動を始めた2004年頃は、システムがないだけに、美術館もよくわからないうちにとんでもないことを受け入れちゃってたのかな、と思ったりはします。
蔵屋 日本では、まだ美術館がパフォーマンスのスピードの速さにいかに対応するか、というところまで議論が行っていないと思います。その先には、じゃあパフォーマンスをコレクションに加えるとしたらどうすればいいか、という問題もありますし。だから医さんのこの展覧会がよい突破口になればいいなと思います。
荒ナ それに、新美の館長の逢坂恵理子さんとも話したんですが、この個展に関わる学芸員は全部で4人です。国立だけど、MoMAやテートに比べるととても少ないし、多くのお仕事を同時にジャグリングされている。だからみなさんほぼ休みなしになりますよね。
蔵屋 日本の美術館は人的な制度設計に無理がある。だからとくに今回のような、ツアーやイベントが頻発する、日々変化する、みたいな企画をやると、まあすぐにそうなりますよね。
荒ナ この展覧会では、9つの部屋に20人くらいのアーティストを招いている。それぞれがいろんなリクエストをしてきてすごく大変だったんです。美術館の制度批判ではないんですが、こうしたパフォーマンス・アーティストの労働という問題が見えるようなコンテンツを、少しでも来年春の展覧会カタログに組み込みたいと思っています。
蔵屋 アーティストにとっても、そして美術館の職員にとっても、労働の問題はとても重要です。とりわけアーティストが美術館の制度批判をするとき、しばしば、美術館で働いているのも普通の人間で、その人にはその人の生活があるという点が抜けてしまいます。アーティストがやりたいことをかなえるために他人を24時間働かせるのは、決して正しいことではない。美術館とアーティスト、双方の労働環境を整えないと、結局どちらかにしわ寄せが行くだけになります。
荒ナ 新美のいろんな方面に感謝してもしきれません。あと、今回僕はいろんな部署に根回ししたんですが、そのなかで、学芸員と教育普及にはあまり交流がないことに気づきました。第一室にある《メガご自由にお描きください》は、もとはテートで実施した作品で、テートで初めて学芸員とエデュケーターが一緒にやったプロジェクトでした。だから今回も、学芸員の人手や予算がないなら教育普及を巻き込んで、彼らが持っているリソースで補う、ということをやらせてもらいました。
蔵屋 学芸員の常識からすると、「床に絵を描かせてください」って言われたら「いや、とんでもない」になる。でも、教育普及の人だと、わりとすんなり受け入れられそうですね。たくさん巻き込むことで、別のロジックが通る可能性が生まれます。
荒ナ 逆に学芸員を説得するときは、吉原治良なんかを引き合いに出して、たとえば美術史的な意義を共有できるように持っていきます。
蔵屋 わたしも横浜美術館で、うまくつながっていない部署同士を結びつけることで、眠っている可能性を引き出せないか、とよく考えます。だから、医さんはまるで館長みたいなことを言っているなと思って聞いていました(笑)。20人の作品を集めてある枠組みの中に入れ、これまで見えなかった意味に光を当てるという行為だって、ほとんどキュレーターの仕事ですしね。
あと、新美術館では、美術館の企画展と団体展の貸会場のあいだもあまりつながっていません。窓口も別だし、お客さんも異なる。医さんは今回、65歳以上の人たちと団体展の会場に入り込むことで、そこにも手を伸ばしました。
荒ナ 貸会場は美術館の総務課というところが仕切っています。ひとつの団体だけを特別扱いするようなことはできないとか、いろいろ難しい理由があるみたいで。でも今回は毎日書道展に直接あたって会場をお借りすることができました。今回、教育普及、情報企画、広報など、国立新美術館の仕事をよく知る機会をいただけましたが、本当はこの総務課とももっとお知り合いになりたかったです。オフィスに出没しすぎてやりづらかったでしょうけど(笑)。
ニューヨークの2000年代初頭には、ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」の影響がありました。その前だと、アンドレア・フレイザーの制度批判とかですね。こういう流れが画家にも大きな影響を与えている。アーティストが主体性(sense of agency)について再考していた。僕が当時知っていたニューヨークの画家たちは、だからこそ絵画を壁に掛けるだけに止まらないことをしていたと思います。
蔵屋 制度批判はとても重要です。でも、アーティストが美術館を批判するというだけだと、アート界の内輪もめみたいになり、観客がそこでどんな経験を得るか、というゴールが置き去りになります。
荒ナ 内輪的な輪を抜け出すというのは、確かに重要なテーマですね。しかし、美術館の制度批判と、多様性の追求は、テーマとしてどちらかしか選べないということではないですよね。
蔵屋 本当にそうですね。だから荒川ナッシュさんのように、パーソナルなことや社会的なことの絡まり合いの中に、プレイヤーのひとつとして、制度が生み出す限界の可視化というテーマが組み込まれている、このやり方には、新しい可能性を感じます。
Information
会期中は会場にて様々なパフォーマンスを開催。スケジュールは以下をご覧ください。
https://nact.jp/exhibition_special/media/PerformanceCalendar_JP.pdf
荒川ナッシュ医(あらかわなっしゅ・えい)
1977年福島県いわき市生まれ。1998年からニューヨーク、2019年よりロサンゼルスに居住する米国籍のクィア・パフォーマンス・アーティスト。様々なアーティストと共同作業を続ける荒川ナッシュは、「私」という主体を再定義しながら、アートの不確かさをグループ・パフォーマンスとして表現している。現在、ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザイン、大学院アートプログラム教授。近年の主な個展に次の会場でのものがある。クンストハレ・フリアール・フリブール(フリブール、2023年)、テート・モダン(ロンドン、2021年)、アーティスツ・スペース(ニューヨーク、2021年)等。グループ展に次の会場でのものがある。センター・フォー・ヘリテージ・アーツ&テキスタイル(CHAT)(香港、2024年)、ジャン大公近代美術館(ルクセンブルク、2021年)、ホノルル・ビエンナーレ(2019年)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017年)、ベルリン・ビエンナーレ(2016年)、光州ビエンナーレ(2014年)、ホイットニー・ビエンナーレ(ニューヨーク、2014年)等。パブリックコレクションに、ハマー美術館(ロサンゼルス)、ニューヨーク近代美術館、ルートヴィヒ美術館(ケルン)、セラルヴェス現代美術館(ポルト)、ワルシャワ近代美術館等。
蔵屋美香
蔵屋美香