「絵ごころでつながる – 多磨全生園絵画の100年」が、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で、3月2日~9月1日まで開催されている。
国立ハンセン病資料館は、ハンセン病療養所で暮らさざるを得なかった患者・元患者とその家族の名誉回復を図り、ハンセン病問題に関する正しい知識を普及啓発することで、偏見・差別を解消するために設立された資料館。ハンセン病とその歴史について、下記のレポートに詳しく書かれているので、ぜひチェックしてほしい。
本展は、同館に隣接するハンセン病の療養施設である多磨全生園の100年間の絵画活動のあゆみをたどる展覧会。記録に残る最初の絵画活動が始まった1923年を起点に、絵画活動の現在までを一望する。入所者にとって、絵画活動はどんな意味を持っていたのだろうか。「強制隔離という苦難の中での絵画活動は、言葉にならない思いが表出されるものであると同時に、描き手同士、職員、社会をつなぐ役割を担うものでもあった」と担当学芸員の吉國元。この言葉をかみしめながら、レポートしていきたい。
展示は、多磨全生園の絵画活動の先駆け「第壱回絵画会」の紹介から始まる。園内行事や講演・演奏が行われていた礼拝堂で、1923年10月31日から天長節を祝う催しとして行われた。展示作品や描き手など記録はないが、絵画会を見た入所者の言葉が園内誌に残る。
戦時中の1943年、絵画サークル「絵の会」が結成。特徴的なのは、結成を提案したのが自らも絵を描いていた医師の義江義雄であること。入所者だけでなく職員も在籍し、文化祭に出展していたことから、入所者と職員をつなぐ役割も果たしていた。
戦後1950年には、外部の美術団体「旺玄会」の近藤せい子、近藤良悦が絵の指導に入り、「絵の会」の活動が本格化。「旺玄会展」に入選し、東京都美術館で作品が展示された会員も。「療養所の描き手たちが自分たちを社会から隔離する場所を絵を通して見せていった事に大きな意味がある」と吉國。入選作で唯一現存する長洲政雄《武蔵野の森》は、国木田独歩「武蔵野」を思わせる当時の多磨全生園周辺の風景が描かれている。
絵画展の記録や文芸作品や評論が掲載された園内誌「山桜」「多磨」の表紙は、園内の描き手の発表の舞台。「絵を描くことが、私と社会とを継ぐ唯一の行動であつた」という言葉を残した氷上恵介。社会復帰する入所者も出てくるなかで、偏見や差別が原因で家族が離散し帰る場所を失い療養所にとどまった氷上は、療養所の様々な場所をスケッチし、それらは「多磨」の表紙に数多く掲載された。
描くことと社会とつながる取り組みとして、多磨全生園内の全生学園・全生分教室で美術の補助教師を担った様子や、国立近代美術館所蔵絵画が礼拝堂で展示された様子、三越デパートなどで開催された「貞明皇后のお徳をしのぶ療養作品展」も紹介。
展示の後半は、個人で活動した描き手に光が当たる。社会復帰する入所者も増えて「絵の会」の活動が衰退してゆくなか、様々な理由で園にとどまらざるを得なかった描き手が文化を担っていく。「ここに残る多くの描き手たちは、故郷に帰れず亡くなった。そんな状況下で彼らがつながりを求めたのはどういったことか、隔離政策の被害も含めて、絵画活動には様々なものが表れている」と、吉國。
「太平洋画展」「一水会展」「示現展」などの美術団体展に入選した国吉信。《桜》は、療養所が外に開かれる流れのなかで、地域の人で花見ができたらいいと入所者が植樹した桜並木を描いた。園内にある看護学校の戴帽式に着想をえた《キャンドルサービス》など、療養所の職員を描いた作品も多く残されている。
静岡の漁船の乗組員であり、かつて「地上に住む人間のうちで/なにが不幸かというならば/ふるさとを失つた人ほど/不幸な人はないだろう……」と残した望月章。帰れないふるさとを思いながら、富士山などの風景画を描いた。3冊のスクラップブックには、絵を描くために参考にした名画、新聞や雑誌から切り抜いた富士山の写真が残る。展示は「風景画」「スクラップブック」「職員とのやりとりを思わせる透析の自己管理表のドローイング」「絵筆」などが台の上に水平に置かれる。
作品が残る唯一の女性の描き手である鈴村洋子は、巻物状の障子紙、はがき、カレンダーの裏、Tシャツなど、身の回りの素材に絵と言葉を綴った。作家が「歴史の証」と伝えた《現代絵巻》は、16巻、18mを超える大作。色とりどりの地蔵をモチーフに、日々の出来事や、訪問客、健康状態が書き込まれている。落ち込んでいるときに絵を描いていたという鈴村の祈りの言葉も。
鈴村が園内のひとりの友人に郵便で送っていた絵葉書も展示されている。自らを「山茶花ようこ」「どでかぼちゃ」「スズムラドングリコ」等と表記した絵手紙からは、うつりゆく季節や小さな生き物への眼差しを持ちながら暮らした鈴村の息づかいが聞こえてくるようだ。
展示の最後には、長浜清遺作詩集「過ぎたる幻影」の「喪失」が置かれている。岡山県長島愛生園で詩と絵を発表していた長浜清。1969年に絵を学ぶ目的で多磨全生園に転園したが、健康状態の悪化により絵を一枚も描くことがないまま亡くなってしまったという。
長浜の言葉を展示した理由について、吉國は語る。
「どうしても残された作品だけを見てしまうのですが、描き手の多くは作品を作るに至らなかったり、絵を描いてもモノが残らずに記録にも残らなかった人が多い。残されたモノだけではなく、詩や友人たちの証言をも手掛かりに歴史を見直していく必要がある」
「絵を描くことが ぼくのすべてだ。」という長浜の言葉は、「ぼく」を複数形に変化させて「絵を描くことが ぼくらのすべてだ」と、本展覧会のキャッチコピーにもなっている。多磨全生園の入所者にとって、描くことはどんな営みだったのか。作品から、そして形に残らなかったものから聞こえてくる声に耳を澄ませてほしい。